「初秋の高野山散策」


○ 2006.09.23.(金剛峰寺→根本大塔→大門→奥の院)、晴れ

スイス・ドイツ旅行の仲間との第5回目の会合は堺のAさんが幹事で初秋の「高野山散策」となった。
1週間前の天気予報では雨の予報もあったが、最高の好天で初秋の涼しい高野山を堪能できた。
高野山行の電車に集合することになっていたので、石山のIさんと新快速で待ち合わせ、大阪駅で 神戸のMさんとお会いして新今宮へ。

高野山割引切符を購入して指定の電車を待つ。定刻通りの電車に名古屋へ単身赴任され帰宅されたTさん とお嬢さんの親娘と幹事のAさんが乗っておられ、久し振りの再会に話が弾む。

満員のケーブルカー

Aさんの「オーロラ見物」、Tさん親子の「トルコ旅行」の話を聞きながら河内長野へ。ここから富田林の Aさんが乗って来られ、全員集合し、橋本で乗り換え満員電車は高野山へ進む。

「高野街道」や「町石道」を歩いた所を説明しながら、急な勾配のケーブルカーに乗る。今日はお彼岸なので 参拝者やハイキング客で満員状態だ。今までの歩行時は平日で早朝だったので、ガラガラだったが・・・・。

大門行のバスの連絡が悪いため、奥の院行のバスに乗り、女人堂を眺めながら千手院橋まで乗車する。 バスを降りた時に嬉しいハプニングが起きた。旅行仲間で昨年秋の「宇治散策」にも参加された御坊のSさん 夫妻がおられたのだ。
車で高野山まで来られ、時間が分かっているので待っていただいていたようだ。再会の握手・握手。

大門に向かって歩き始める。
高野山山上はやはり下界と比べて涼しい。陽射しはきついが暑さは感じず心地良い散策日和だ。
まず、真言宗の総本山「金剛峰寺」に参拝する。金剛峰寺は816年に建てられた真言密教の根本道場で 標高1000mの高野山山上に展開する宗教都市のシンボルと云える。

山門の前に「悠仁親王ご誕生記念樹」の「高野槙」が植えられている。親王のお印が高野槙になった ので、その記念樹だ。
境内に入り、三々五々参拝するが、本堂にお参りする時間はない。境内の片隅には高野槙の大木が 堂々と茂っている。今まで余り注目されなかった木が一躍スポットライトを浴びたようだ。青々と伸びる高野槙 は気持良い。親王もスクスクと大きく育っていただきたいものだ。

悠仁親王ご誕生記念樹の高野槙

金剛峰寺

高野槙の大木


金剛峰寺を出た所に「六時の鐘」の鐘楼がが立つ。1615年に福島正則が建立した鐘楼で、朝6時から夜 10時まで2時間毎に時を告げるらしいが、今までそのタイミングに出会っていない。

「蛇腹道」に進む。昨年冬の「奥の院町石道」紀行は雪を狙って歩いたので、雪が積もり植え込みが 蛇行しているのはよく分からなかったが、今日は植え込みが出入りし「蛇腹道」と呼ばれている理由 が理解できた。道脇の紅葉が少し色付き始めている。
落ち着いた色調の「東塔」の前を進み、青空に映える朱色の「根本大塔」に向かう。

六時の鐘

蛇腹道と紅葉

東塔


広い伽藍は、高野山開創当時、この地に諸堂が建立された地で、奥の院と共に高野山の二大聖地で 、根本大塔、金堂等が建立されいる。
朱塗りの「根本大塔」は弘法大師が高野山開創後、この大塔を真言密教の象徴として建立された ので、根本大塔と云うと。落雷等の火災にあい現在の大塔は、昭和12年に完成し、高さ48.5m、 23.5m四面の偉容を誇って堂々と建つ。
青空に朱色の屋根が鮮やかに映え、荘厳さと美しさに心安らぐ。外人観光客に全員写真をお願いしパチリ。

根本大塔

青空と朱色の屋根

記念撮影


伽藍の境内にある「金堂」に参拝し、道路に出る。車の往来が適度にある道を「大門」に向かう。
途中、伽藍の林の中に「高野山町石道」の「1町石」が立つ。一昨年の秋、「慈尊院」の「180町石」 から上り、この「1町石」まで歩いた記念の町石だ。あの時の疲れと達成感が思い出される。

次々と町石を辿って進むと「大門」の姿が見えて来る。ハイキング姿のシニアの姿が多く居られ、大門の日陰で 弁当を食べておられる。
「大門」は高野山の総門であり正門で、現在の建物は1705年に再建され、両脇の仁王像は江戸時代の の作で、建物の高さが25.1mあると。
正面に廻って壮大な「大門」を見上げる。全体の写真を写そうとすると随分後ろまで下がらないと 写せない。丁度「高野山町石道」で登り切った所で最後の急な坂を思い出す。

金堂

高野山町石道・1町石

大門


昼前になったので、大門の影にシートを敷き、車座になって昼食タイムとする。春の神戸散策以来の 集まりで、9名が集まったのだ。「スイス・ドイツ旅行」の思い出、「オーロラ見物」「トルコ旅行」の感想、近況 等々楽しく話す。皆さん元気で何よりだ。

楽しい食事タイムを終え、「奥の院」に向かう。バスの時間が合わないので、下車した千手院橋まで戻る。 道端にはお彼岸でもあるので、高野槙を売る店がたくさんある。
もう一度、伽藍に戻り「奥の院町石道」の「1町石」を確認する。ここから「奥の院」までは36の町石が 設置されている。雪の町石巡りのスタートだったのだ。36町X109m=約4kmあるのだ。

千手院橋まで戻ってバスで「奥の院」に行く予定だったが、待ち時間が長いのと皆さんの健脚振りに 自信を持ち歩くことにする。
門前町のお店に覗いたり、お土産用の「胡麻豆腐」や「焼餅」を買ったりと楽しみながら、少し上りの 平坦な道を進む。
途中、石童丸物語で知られる「苅萱堂」に参拝する。物語を知らない方も堂内に苅萱親子一代記の物語が 描かれているので、熱心にご覧になっておられる。

昼食風景

奥の院町石道・1町石

苅萱堂


しばらく進むと「奥の院」の入口である「一の橋」に到着する。この辺りからは参拝者が多くなり、 少し色付いた紅葉の下の橋を渡り、静かな参道に進む。

参道の石畳は「一の橋」から「御廟」までの約2kmを何百年も経た老杉の間を縫って続いている。 杉木立からの木漏れ日を浴びながら、深々とした身が引き締まる参道を進むと20万基の墓石の間に 「奥の院町石道・町石」が立ち、道しるべの役を担っている。前回の雪の紀行時は墓石にも町石にも 雪に覆われていて判別が付き難かったことを思い出す。

一の橋

奥の院・参道

奥の院町石道・町石


杉の大木の参道を御廟に進む。参道の周りには墓石と共に「五輪塔」が立ち並ぶ。多くの五輪搭には 梵字で「キャ」空・「カ」風・「ラ」火・「パ」水・「ア」地が描かれており、この五つのシンボル は「五大」と呼ばれ、古代インドより信じられている宇宙を構成する五つの要素を表わしているとか。

奥の院には戦国武将のお墓もたくさん祀られている。「武田信玄」「伊達政宗」「石田三成」 「明智光秀」の墓が立ち、「弘法大師・腰掛石」の史跡を眺めながら「中の橋」に進む。

武田信玄の墓

弘法大師・腰掛石

中の橋


「中の橋」を渡ると「汗かき地蔵堂」が祀られ、横には「姿見井戸」がある。覗き込んで顔が映ると 長寿の証とかで順番に覗き込み、全員ホッとする。
杉の大木の間を心静かに進む。本当に立派な杉だ。一つの根っ子から幹が3本に分かれてそびえている 大杉に驚き、見上げるがてっぺんは見えない。
皆で記念撮影をパチリ。

汗かき地蔵堂

大杉の参道

スナップ写真


「豊臣秀吉」「織田信長」のお墓に参拝し、「御廟」に向かう「御廟橋」を渡る。ここからは撮影禁止 となっており、観光バスで来られた方も含め混雑が凄い。
「灯篭堂」に参拝する。「四国八十八ケ所」を巡礼された方がお礼参りとして来られている方も居られ、 静かに頭を垂れている。裏に廻り弘法大師が眠る「御廟」に参拝する。
「御廟」は弘法大師信仰の中心聖地で、転軸、楊柳、摩尼の三山に囲まれた台地にあり、その山裾を 清流玉川が流れている。大師御入定前、この地を入定留身の地として自ら定められ、御入定後弟子たち は、この地の定窟に、生身と全く変わらない定身を収め、その上に三間四面の廟宇を建て、日々の お給仕をたやさなかったと記録されていると。
しばらく椅子に座り荘厳な雰囲気を味わう。

御廟橋を渡り参道に戻る。お彼岸でもあるので、参拝者が多く「水向地蔵」に水を注いでいる。
バス停への参道に「無縁塚」が高く積まれ、赤い山のようになっているのは今までの雰囲気とは違った 新たな美しさを感じた。

豊臣秀吉の墓

水向地蔵

無縁塚


往路とは違う参道でバス停に向かう。駐車場は観光客・参拝者のバスや車で一杯だ。臨時のバスがあり 全員乗り込む。千手院橋で御坊のSさん夫妻が下車されるので、再会を願って握手でお別れ。
ケーブル駅まで行き、満員のケーブルで下り、南海電車で帰途に付く。

電車の中で次回の集まりについて話し合う。4月の始めに「天王山」からサントリーの工場巡りを楽しむ ことに決まり、近所に住む小生が幹事となる。
河内長野でAさんと新今宮でAさん、Tさん親子と大阪駅でMさん、Iさんとお別れし今回の楽しい 「初秋の高野山散策」を終える。今日の歩行は15000歩だった。
幹事のAさん、ご苦労様でした。皆さん、来春、お会いしましょう!!


昨年冬に歩いた「奥の院・町石道」紀行記ここで。

 






    
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