「今井町散策と満開のお花見」



◎ 「今井町散策と満開のお花見」(2016.04.02.)

毎年、春秋に実施している「スイス・ドイツ旅行」 メンバーの今春のイベントは、幹事役の河内長野のAさんのお世話で、奈良県橿原市今井町の街並み散策と飛鳥川のお花見となった。 この「スイス・ドイツ会」も、11年目を迎える貴重な集まりだ。
前日の雨が晴れ上がり、気温も20℃を越える「スイス・ドイツ会」日和となったのは毎度のことだ。
10時・近鉄大和八木駅集合に合わせ、少し早目の8時前に家を出て、大阪・鶴橋経由で向かう。鶴橋駅での近鉄への乗り換えは、満員で手間取り、 ホームは満杯の状態だ。急行に乗ると長瀬駅に臨時停車すると。 長瀬駅のホームも満杯で、降りられない状態だ。何事だと考えると、今日は近畿大学の入学式で7000人が集まったと。凄い人出は、 駅から学校までの道も満杯で、ホームからも出られないようだ。そのため、列車の出発も遅れる始末だ。
定刻前には、幹事のAさん、神戸のMさん、高槻のSさん夫妻、大津のIさん、塚口のTさん、堺のAさん、川西のKさん夫妻が集まり、皆さんと半年ぶりの ご挨拶。皆さん、元気だ。
幹事さんが手配いただいたボランティアガイドのAさんが来られ、パンフレットをもらい出発する。パンフレットを基に、今井町の基本的な知識をまとめてみる。
今井町マップ・環濠部分が道路となっている
奈良県橿原市の今井町に残る古い町並みは、中世の環濠集落を発祥とする、称念寺を中心とした寺内町で、江戸時代も自治が行われてきた日本でも極めて 珍しい歴史を持つ町です。
戦国時代に高い軍事力を誇った今井町は、環濠で囲まれており、あたかも城塞都市の雰囲気。織田信長に対しては、本願寺とともに抗戦の構えも 見せましたが、降伏。今井町ゆかりの茶人、今井宗久らのとりなしもあって町はそのまま残され、現在もその広大な領域に戦国時代、江戸時代からの町並みと 道路がそのまま残っています。
江戸時代には、商工業都市として発展し、俗に「今井千軒」「海の堺 陸の今井」と呼ばれるほどになっていきました。
肥料・木綿・味噌・酒などの取引も 盛んなうえ、大名相手の金融業者も活躍しました。藩札と同じ価値のある独自の紙幣「今井札」も流通し、「大和の金は今井に七分」「金の虫干し玄関まで」 と言われるほどに繁栄していました。
当時の東西約600m、南北約310m、面積にして17.4haの地区内には、全建物数約1500棟弱のうち、約500棟の伝統的建造物があり、 全国で最も多い地区となっています。(かしはら探訪ナビ他HPより)

ガイドさんの先導で、静かな橿原の商店街を進む。電柱もなく、街並みが広く感じるのは嬉しい。
少し先の広い道の交叉点の角に「太神宮灯籠」が立っている。案内板によると、この道は旧街道の「横大路(伊勢街道)」と「下ツ道」の交叉する場所で、 交通の要衝だったと。
近鉄の踏切を渡って、今井町に向かうと飛鳥川堤の満開の桜が迎えてくれる。青空の下、今が盛りと咲いているのは美しい。蘇武橋を渡って、今井町に入ると 樹齢420年の「大きなエノキ」が植わり、その横に「今井町マップ」と案内板が立ち、ここで概略の説明を受ける。
太神宮灯籠
飛鳥川堤の満開の桜
蘇武橋のエノキ 案内板

画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

江戸時代の環濠で囲まれていた今井町は、現在では、その環濠が広い道路なり、今井町を囲んいるのだ。道路には、電柱もなく景観が良く、 反対側には、井戸の跡も残されている。
少し先から右に折れ、今井町の細い道に入って行く。白壁と格子窓の昔懐かしい街並みが広がっている。タイムスリップした感じだ。景観を楽しみながら進むと 右に重要文化財「高木家住宅」が建っている。酒造業を営んでいた幕末期に発達した二階建て住宅だと。
環濠跡の道路 井戸跡
今井町の街並み
高木家住宅

次の筋の角にも、重要文化財「河合家住宅」が建っている。中をのぞくと「嫁入り駕籠」も残っている。ここも酒造業で、18世紀中頃の二階建て町屋で、 豪商らしい建屋だと。
その先には、宿場町と同じような小さな枡形もあり、城塞都市の面影も感じられる。枡形の先にも、白壁の家が連なり、美しい街並みが残っている。 造り酒屋に立ち寄り、試飲をさせてもらい「出世男」を買い求め、預けておく。
河合家住宅
白壁の街並み
静かな街並み

御堂筋と云われる通りの左に、今井町の原点となる「称念寺」が建っている。この「称念寺」の境内地として発達した「寺内町」が、今井町となったと。本堂は改修中で、 拝観できなかったが、境内の桜は満開で、楽しませてくれた。
お寺の前に、街並みに合わせた「床屋」が建っている。景観を乱さない建て方に拍手する。
称念寺山門
称念寺の満開の桜
趣のある床屋

その先右に、重要文化財「豊田家住宅」が建っている。立派な家の中に入り、お婆さんの説明を受けるが、その堂々とした話しぶり、滑舌には お年が幾つなのか疑うほど達者だ。
豊田家住宅
この建物は、寛文2年(1662)の建築だと。
御堂筋の称念寺の向かいやや西寄りに位置しています。
屋根は入母屋造、本瓦葺で軒は高く、2階軒は出桁造りとなり、旧は木材商らしく、 2階正面の壁に丸に木の字の紋をつけた豪壮な外観です。
内部は、東側が土間としもみせで、居間部は整った六間取りです。建築年代も古く、納戸構など各所に古式の手法が残っています。 納戸の敷居は一段高くなっており、「敷居が高い」の語源になった高い敷居があります。 (かしはら探訪ナビHPより)

歴史を追った説明と住居の構造について、今まで知らなかったことが分かった。主人が住む奥の間は、三方壁で「納戸」と呼ばれると。我々が知る 納戸は物置的な意味なので驚く。
その納戸の敷居が高くなっているのが「敷居が高い」の語源だと。また一説によれば、納戸の中に敷いていた藁が、 外に出ないためだとも云うらしい。
土間から見上げる天井は高く、材木屋さんらしく立派な煤で黒くなった梁が通っている。土間の上の二階には、10歳位の丁稚の住む部屋があり、夜は梯子を外して 外に出られないようになっているそうだ。
敷居の溝にも工夫があり、三枚戸毎に、溝の長さが違い、溝の端に当たると自動的に「猿落し」と云われる留め木が、トンと下の穴に落ちる仕組みになって いる。江戸時代の自動ロックなのだと。
奥の納戸
天井
敷居の猿落し穴

座敷には、年代物の屏風や備前焼の壺も飾られており、調度品も立派なものだ。
外に出ると格子戸の下には「馬つなぎ輪」と呼ばれる輪が設けられ、馬は下の「かいば」を食べる姿勢だと大人しくなり、牛は下を向けると角を立てて 闘争するため、格子戸の上に「牛つなきぎ輪」を設けていると。
また、格子の桟の真ん中が凹んでいるのは、丁稚が毎日の掃除で、格子を拭いていた跡だと。江戸時代からの痕跡が残っているのだ。 お婆さんの楽しく・有意義な話にお礼を云って次に進む。
屏風と備前焼の壺
格子戸の工夫 馬つなぎ輪
丁稚さんの拭き掃除跡

長い白壁が続く旧家を通って進むと、立派な門構えの家の桜が満開で、古い街並みとマッチして美しい。
昔ながらの堀が復元されている。当時は、今井町を囲む環濠が設けられていたが、道路に変わり、この部分だけが当時の趣を残しているのだと。 戦国時代の要塞の名残りを示す史跡だ。
白壁が続く街並み
立派な門構えと桜
復元さた環濠

堀を曲がった所に、今井町で一番古い重要文化財「今西家住宅」が建っている。
今西家住宅
今西家は棟札銘により、慶安3年(1650)の建立であったと。
今西家は、惣年寄の筆頭で、領主、代官の町方支配の一翼を担い、自治権が委ねられていました。
当初は川井氏を名乗っていましたが、郡山城主松平忠明から薦められて五代目から今西氏を名乗るようになりました。
建物は、外観を白漆喰塗籠(しろしっくいぬりこめ)で、大棟の両端に段違いに小棟を設け、入母屋造りの破風を前後喰違いに見せ、本瓦葺で、堂々とした 城郭風の外観になっています。
内部は広い土間と六間取りの部屋および別棟の角座敷きが付属しています。 (かしはら探訪ナビHPより)

「猿落し」の付いた大扉を開け、屋敷内に案内され、若奥さんのメリハリの効いた説明を受ける。この屋敷内に住んで居られ、織田信長が攻めるのに難航し、 その功績で自治権を認められたとの話しを伺う。 入口を入ると広い土間があり、ここは白洲で裁判を行っており、土間の横の二階に囚人が捕えられていたと。自治権があったので、ここ今西家で裁判も 行っていたと。
また、広い土間を支える柱は無く、太い三本の梁が空間を支えていたが、二本は建築当時の煤で黒ずんでいるが、一本は立て替えたと。阪神大震災の時、 家は大きく揺れたが、家屋には問題なかった。しかし、古い日本の梁はびくともしていないが、新しく立て替えた梁には亀裂が生じたと。昔の梁は、川を 下って水の中で長く保存されていたがためかとも。新しい梁の亀裂は、はっきりと確認でき、その偉大さを改めて知る。
今西家の正面
広い土間と囚人部屋
太い梁 手前の梁に亀裂

今西家にも、豊田家と同じように「納戸」「猿落し」があり、当時の建築方法が同じだと知る。また、土間と部屋の間にも雨戸があり、夜間は閉じていたのは、 囚人がいるからだろう。その雨戸の外側には、煤で見えなくなっているが、木や花が描かれているのが、薄っすらと見える。
座敷の片隅には、織田信長から賜ったと太刀も飾られている。信長の攻めを防いだ防御力に感心し、賜ったと。
納戸
座敷と土間の間の雨戸
信長から賜った太刀

丁寧で自信に満ちた説明に礼を云って、今西家を退出する。
外に出た所の道筋は、交叉して美しい景観となっている。上手く写せないが、今井町の名所となっている道筋だと。その路地は白壁と板壁に囲まれ、 街灯が設けられたレトロの風景だ。
再び、落ち着いた街並みを楽しみながら歩む。旧家を改造したレストランや甘味処のあるが、景観を乱さない心配りの店構えに、今井町全体で、景観を保存しようと する気持ちが現われているのは嬉しい。
交叉した道筋
趣のある路地
街並みに合ったレストラン

その先に「旧西町生活広場」があり、ガイドの説明では、木造建てが多い今井町の防火用水が埋まっており、年に一度、他の防火用水も含め、 町中で防火訓練をするとのことだ。歴史的史跡保存への対応も重要事項だと認識する。
「今井まちや館」の邸内も見学し、左折して重要文化財「音村住宅」の外観を見学する。二階の白壁も含め、落ち着いた家屋だ。
旧西町生活広場
今井まちや館
音村住宅

その先には、重要文化財「旧米谷家」が建ち、邸内を見学する。
ここの土間には面白い史跡が残っていた。「勾玉型の竈」が置かれている。勾玉のように少し曲線に竈が5個並べられ、作業性を良くしている。現在の システムキッチンの原点だと。面白い。
中庭に出ると立派な蔵が建ち、その前に「蔵前座敷」と云われる帳場座敷が建っている。珍しい形式だと。
旧米谷家
勾玉型の竈
蔵前座敷

主要な旧家を見学して、今井町の路地に面する所で、全員の記念撮影をする。この路地も、シャッターポイントらしいが、後が見えないのは仕方ない。 それぞれの路地にも趣があるのが今井町だと思う次第だ。
交叉した路地に面した家屋が珍しい。変形に交叉した路地に面して、蔵が建っているのをパチリと。
今井町の環濠跡の道路に出て、復元された「南口門跡」を見学する。今井町の環濠には、八か所の門が設けられ、要塞都市の防御を図っていたのだと。 復元された「南口門跡」の周辺には、堀の石垣や土豪も復元されている。濠の幅も広く、要塞都市の様子が偲ばれる。
記念撮影
路地に面した蔵
南口門跡 土豪と濠

環濠跡の道路を戻り、昼食処の「今井まちなみ交流センター」に向かう。
華甍 満開の桜
「今井まちなみ交流センター」は「華甍(はないから)」と呼ばれる今井町観光拠点で、道横には、満開の桜が迎えてくれる。
今井町の旧家に比べると和風を取り入れた洋館風の立派な建物だ。
明治36年(1903)高市郡教育博物館として建設され、昭和4年より今井町役場にも使用されていました。
当時、奈良県の社会教育施設としては、奈良市所在の重要文化財「旧帝国博物館」に次ぐものでした。 現在は、は「井町の歴史を詳しく、分かりやすく解説する資料を一堂に集めた資料館として、展示コーナー、映像シアター、図書閲覧室などがあり、 今井町の歴史をさまざまな角度から知ることができます。 (かしはら探訪ナビHPより)

立派な「華甍」の中には、今井町の模型が展示され、その街並みを見ながら、通って来た道筋をトレースする。 別の部屋には、「豊田家」の模型も展示され、その構造がよく理解でき、ビデオや図書も充実している資料館だ。
見学を終え、裏の広場にある東屋の下で昼食とする。近くの自動販売機でビールを買い、乾杯!!
アメリカとの国交回復前にキューバに行かれた堺のAさんの土産話に聞き入る。アメリカナイズされる前のキューバは素晴らしかったようだ。この半年間の 話題が飛び交い、楽しい昼食タイムを過ごす。
今井町の模型
豊田家の模型
楽しい昼食

楽しい昼食を終え、ガイドさんの案内で、予約していた酒屋さんで日本酒を受け取り、飛鳥川堤の桜並木に向かう。
飛鳥川の堤防まで送ってもらい、ガイドさんにお礼を云ってお別れする。
堤防の上の遊歩道は、お花見の人が行き交い、いっぱいだ。堤防を進むと満開の桜のトンネルが迎えてくれる。堤防の両側からの枝ぶりが、見事にトンネルになっているのだ。 満開の桜の前の真っ赤なチューリップとのコントラストが美しい。青空なので、青・桜色・赤の対比に見惚れる。
飛鳥川の桜並木
満開の桜とチューリップ

満開の桜並木のトンネルを楽しみながら進む。グループや家族連れで訪れる人が多く、狭い遊歩道は人でいっぱいだ。一昨年の「スイス・ドイツ会」は 「夙川の桜」を鑑賞したが、 今日ほどの満開ではなかった。堤の桜並木の良さを堪能する。
満開の桜をバックに記念写真を写したり、色々なアングルでの桜の魅力を楽しむ。満開だ!!
満開の桜並木
青空・飛行雲・桜一枝
満開の桜をバックに

適当な所まで進み、「入鹿神社」に向かうべく、遊歩道を戻り、下流(?)に向かう。
この堤防の桜も見事で、お花見の宴をしている方もあり、春爛漫の風情だ。桜のトンネルにはなっていないが、川面まで伸びた枝ぶりが美しく、対岸の桜の影が 川面に映る姿を堪能する。
満開の桜と枯れすすき
川面に映る桜
両側の堤の桜

飛鳥川の堤防を降りて「入鹿神社」に向かう。
入鹿神社
街並みを縫って進むと「入鹿神社」が鎮座し、その境内の横に「正連寺大日堂」が建っている。 神社とお寺が並んでいるのだ。
この辺りは、蘇我氏ゆかりの地で、蘇我・曽我の地名もあり、蘇我氏の始祖を祀っていたと。しかし、「入鹿神社」の名称については、明治12年に申請 したが、蘇我氏と天皇家との関連で、地元の要請は聞き入れられなかったと。何時から、正式に「入鹿神社」になったのか・・・・??  小生には、読み解けない。
2007年に「スイス・ドイツ会」の「飛鳥散策」で、「飛鳥寺」を訪れた時、 蘇我入鹿の首が飛んできた「蘇我入鹿首塚」が祀られていたことを想い出し、その時のことを話し合う。
この地にも、同じ伝説があるらしい。 この時代の史跡・史実は、説き難い所があるようだ。
「正連寺大日堂」には、重要文化財「大日如来座像」が祀られているが、拝観はできず、礼拝して帰路に向かう。
再び、飛鳥川の堤防に戻り、橋を渡る時の両側の桜並木も見事だった。満開の飛鳥川の桜に別れを告げ、大和八木駅に向かう。 途中の踏切に、警官が数人集まっていたので、事故かと思ったが、翌日、天皇陛下が橿原に来られるとのことで、その警護のためだろうと話しながら 商店街に向かう。
明治時代創業の「だんご庄」の前には行列ができていたので、お土産に買い求める。有名な店らしい。
近鉄大和八木駅の構内にある喫茶店で、次回の計画について話し合う。武田尾の廃線跡の散策等、次回幹事さんが決定することにし、来春の 再会を約束し、大阪・京都方面に別れ解散となる。今日の歩行歩数は、15200歩だった。
正連寺大日堂
満開の飛鳥川の桜
だんご庄

今回は、古の「今井町」散策と飛鳥川の桜見物を好天の下、大いに楽しみ、旧交を温めることができた。10年が経過した旅行仲間との 交流が続けられるのは「宝」だとして、これからも継続したいものだ。





    
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