「奈良・大宇陀街巡り」



◎ 「奈良・大宇陀街巡り」(2017.11.25.)

毎年、春秋に実施している「スイス・ドイツ旅行」 メンバーの今秋のイベントは、堺のAさん・河内長野のAさんが幹事で、「奈良・大宇陀街巡り」だ。
今年の夏は猛暑続きだったが、秋には台風の連続襲来等、短く感じられ、あっと云う間に冬到来の様相となった。例年より寒い日が続き、 紅葉には最高だと思いながら、天気予報を見ると晴れ模様なのは嬉しい。
10時・榛原駅集合なので、少し早目の7時過ぎに家を出る。奈良・榛原に行くのは 「伊勢本街道」紀行以来だ。
交通の便が上手く行き、榛原駅に9時過ぎに着くと、高槻のSさん夫妻・堺のAさんも同じ電車だった。久し振りの再会のご挨拶をしていると川西のKさん、 大津のIさん、河内長野のAさんも到着し、皆さんの元気な様子に再会の握手交わす。定刻前に、神戸のMさん、塚口のTさんも来られ、総勢9名が 勢ぞろいする。妻は、息子が明日の「大阪マラソン」参加のため帰省するので、欠席のため、皆さんによろしくと云っていたことを伝える。
近鉄・榛原駅
大宇陀道の駅
10時10分発のバスで大宇陀道の駅に向かう。
昨日までの寒さを忘れる位の太陽の光を浴びながら、バスは宇陀川沿い快調に進む。宇陀川は、木津川・淀川を経由して大阪湾にそそぐ一級河川なのだ。
道の駅に着くとボランティア・ガイドの女性が出迎えてくれ、案内板の前で、今回のルートを教えていただく。
この大宇陀地区に来たのも初めてで、歴史的な出来事も知らなかったので、こんな所に、古い街並みが残っているのに驚く。これからの行程の見学が 楽しみだ。
ガイドさんの丁寧な説明を聞きながら、「松山伝統的建造物保存地区」に向かう。
保存地区の入口には、観光案内所にもなっている「千軒舎」の古い建物が迎えてくれる。明治前期に建てられた町屋だと。 屋内に入り、ガイドさんから町屋の歴史等の説明を受ける。
松山伝統的建造物保存地区の露地
宇陀市松山地区は戦国時代に「宇陀三将」と称された秋山氏の本拠地、秋山城の城下町として始まる。
天正13年(1585)に秋山氏が追放された後 豊臣家配下の大名によって城の大改修と城下町の拡大整備が行われ、現在の町割りを骨格としている。
元和元年(1615)に城が波却され、 宇陀松山藩となってから緒田家の支配となりますが、元禄7年(1694)に国替えとなり松山町は天領となります。
交通の要衝であった松山町「宇陀千軒」「松山千軒」と呼ばれ、江戸時代より活況を呈していたが、近代に入ってからは政治・経済の中心地として 栄えた。
地区内の伝統的景観を構成する要素として、町家・洋館・社寺建築・土蔵・石碑・門・塀などがあり、 これらが広範囲に渡って分布している。(宇陀市観光協会HPより)

保存地区の後ろには「松山城」の城山もそびえているが、破城となったため木々に囲まれている。しかし、平成になってから、城の復元作業が進んで いるようだ。また、破城の指揮をしたのが、庭園造りで有名な小堀遠州だったとの話は面白く拝聴した。
「千軒舎」は、薬屋を営んでいた広い屋敷で見学できるようになっている。立派な屋敷だ。
千軒舎
松山城の城山
ボランティア・ガイド 屋敷内

画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

ガイドが先導して「松山伝統的建造物保存地区」の街並みを見学しながら進む。
古い街並みが立ち並ぶ道路は、旧街道のようで趣があるのは嬉しい。少し先右に「森野旧薬園」の古い看板が掲げられた家屋が建っている。 ここは、後程見学するので、簡単な説明で通り過ぎる。
その先、左の「黒川本家」も立派な建屋で、代々葛の製造販売をしていると。ここで、「座敷門」の説明を受ける。「座敷門」との言葉も初めて 聞いたが、玄関と別に座敷に門が造られているのには驚く。「吉野葛」の看板もあり、この大宇陀は吉野にも近いことを知った次第だ。
森野旧薬園
黒川本家 座敷門
吉野葛の看板

少し進んだ右に広場があり、「神楽岡神社」の道標の石塔が立っている。右の山沿いに神社が鎮座しているようで、城山に続いてるそうだ。 その前には、「郡司邸」の古い建屋が残っている。座敷門もある明治元年頃の建物だと。
街並みを進むと庭から紅葉がのぞいている風情のある光景を眺めながら左の道を進むと明治0年代に造られた「好岡邸」が建っている。ここにも座敷門があり、 2階には虫籠窓・袖うだつを備える昔の日本建屋だ。落着きを感じられるのは嬉しい。
神楽岡神社の道標
郡司邸 紅葉の街並み
好岡邸

少し先の建物の上に塔のように突き出た建屋は「万法寺」で、永和3年建造で目に付いたのは「太鼓楼」なのだ。珍しい建物を眺めて進むと 右の露地が観光協会のパンフレットの表紙になっている景観だ。街の趣きを表している景観だ。
この辺りの家々には「うだつ」があり、文様が記されている。今まで気が付かなかった文様だ。
その先角に建つ石造りの建物は「旧福田医院」で、大正14年に建てられた洋風建築で、この街並みの中では珍しい。江戸・明治・大正と時代の流れを 残している街並みは珍しいのではと。
万法寺 露地の光景
うだつ
旧福田医院

次の筋を左折する道角に、古い「伊勢辻の道標」が立っている。
伊勢辻の道標
「東 すぐ京大阪 はせ はい原」「西 右 大峰山山上 すぐ伊勢道」と記されている。 やはりここは旧街道「松山街道」なのだと納得する。
「松山街道」は、南進すると「南路伊勢街道」を経由して「熊野街道」へ。東進すると高見越えで「和歌山街道」へ。北進すると榛原を経由する 「伊勢本街道」へ通じるなど交通の要衝だったと。これらの道は伊勢参宮のほか、伊勢や熊野から魚や塩、また宇陀松山からは宇陀紙や葛・油・薬など を運ぶ重要な役割を担っていたと。
西口関門
その先正面には、「宇陀戎神社」が鎮座し、枡形を廻るように「西口関門」に至る。
小さな公園の前に、立派な「西口関門」が迎えてくれる。城門でもあり、街の肝門でもある「西口関門」は、宇陀川を外堀とし、街の出入りを司って いたようだ。
福島総部頭孝治が宇陀松山城を居城としたところ建築されね往時をしのぶ唯一の建物として国の史跡に指定されている。
壁以外は全て黒く塗られているところから地元では、もともと「黒門」とも呼ばれている。(宇陀市観光協会HPより)

ガイドから松山城・松山の町の成立と発展の歴史を改めて説明してもらい、戦国時代・江戸時代からの街が繁栄しているのは、物流の拠点として、 米・塩、木材・薪の流通、特産品の吉野葛・宇陀紙等の商業で栄えため、立派な町屋が残っているのだと理解する。
「西口関門」をバックに全員の記念撮影をし、外堀として流れる宇陀川を確認する。宇陀川は、先日の台風により、方々で補修しているのは痛々しい。
宇陀戎神社
記念写真
宇陀川

概略の「松山伝統的建造物保存地区」の街並みを見学したので、「森野旧薬園」に戻る。
途中、江戸・明治・大正時代の建屋が順番に増築されたお屋敷の説明を受けたりと街並みを眺めながら進むと街道の両側にきれいな水路が設けられている。
宇陀川からの取り水で、昔は道の真ん中を流れていたのを両側に移設したそうだ。 水路と屋敷の間には「犬矢来」と云われる竹造りの垣が設けられている。「馬矢来」もあるそうだが、見付けられなかった。京都の祇園の風情を 感じながら進むと 洋館建ての建物があり、元は郵便局だったと。玄関の上に「〒」マークが記されているので分かった次第だ。
その先の屋敷の壁には、昔よく見た「薬の看板」がたくさん掲げられている。薬問屋の街だったのだと。
三世代の建屋
水路と犬矢来
旧郵便局 薬の看板

街並みを眺めながら、細川家の「森野旧薬園」に戻る。古い建屋の上に立つ櫓型の看板が歴史を感じさせる。
森野旧薬園 櫓型の看板
「森野旧薬園」のはじまりは、江戸時代中期。当時の森野家当主・森野通貞によって開園された。
通貞は若い頃より薬草木を愛好し、自宅の敷地内で栽培・研究をしていた。そのことが、漢方薬の自給自足と農事振興の施策をとる当時の幕府の目に 止まり、通貞は幕府の採薬使であった植平左平次とともに近畿一円、美濃、北陸地方の山野からも薬草を採取、幕府に献上した。 その報賞として幕府より得た貴重な薬草を自家の薬園に植えたのが、「森野薬園」のおこりである。
明治以降は海外からの新薬が日本に 入るようになり、国内の薬園は次々と廃園となったが、「森野薬園」は江戸時代の面影をそのまま残す希少な薬園であることから、 大正15年(1926年)に国の文化財史跡に指定された。現在も「森野旧薬園」では、250種類以上の薬草木を見ることができる。 (歩く・ならHPより)

お屋敷の中に入り、座敷・蔵等を見学する。
当時のままの姿が残っており、薬問屋風の帳場や日常生活の一端を眺めることができる。
広い座敷に上がると帳場があり、色々の薬の効能書や薬袋が置かれており、土間には竈が並べられている。商家の台所を見ることができたようだ。
小さな中庭には、石が4個置かれており、ガイドが何と思うと尋ねられる。日本地図の北海道・本州・四国・九州を表しているのだ。森野家は 全国規模で薬草を栽培していることを表しているのだろう。
座敷の帳場 薬の袋
台所と竈
日本列島の石

藤沢樟脳の像
建屋の奥には、立派な蔵が建ち、中には、細川家と藤沢家(藤沢薬品)との出会いとなった樟脳開発・増産から、海外進出・社会貢献の歴史が 綴られており、藤沢薬品との関係の深さを表している。
樟脳がその中を取り持ったのは知らなかったし、その宣伝方法も見事だ。
立派な蔵
樟脳宣伝の原画














外に出ると吉野葛の生産設備が揃っている。
手作業の桶
歯車の付いた攪拌機と槽
数年前まで、ここで生産していたそうだが、今は別の工場で生産していると。
吉野葛の原料から 生産方法の説明もあり、昔の桶での手作業に加えて、最近までの撹拌のための歯車の付いた設備もあり、各槽の上に動き、撹拌する様子が理解できる。
撹拌していなければ固まる特性を持つ吉野葛なので、常に撹拌を止められないため、吉野葛が高価なのが分かる作業現場だ。
建屋の見学、吉野葛生産現場の見学を終え、いよいよ、薬草が植わっている裏の小高い山に向かう。
案内文によると「森野旧薬園」には、主要な薬草154種類を含め、約250種類の薬草及び鑑賞用植物が生育しているとのことだ。この時期は、端境期で 花は観られなかったが、春から秋には、種々の花々が咲き乱れるそうだ。
花は咲いていないが、薬園の山の紅葉は美しく、春には美しい花が咲くカタクリが植わっている山肌を観ながら上って行く。 高台に上ると大宇陀の街並みが望まれ、紅葉も間近に観られるのはなかなかのものだ。
森野旧薬園の紅葉
カタクリの植わる山肌
紅葉 大宇陀の街並み

急な坂道を上って行くと「花の木」の標識が立ち、太い木が伸びている。今は枯木のようだが、周囲2.5m・高さ25mの大木で、春には、紅葉のような 赤い花を咲かすそうで、大宇陀の街の中からも望める名物の木だと。
ガイドの説明で、いろいろの薬草の話を聞くが、なるほどと思う程度で記憶に残っていないのは仕方がない。
急な坂道
花の木
薬草の説明

薬園の中には、当主が息子に家督を譲り、薬草の研究をしていた庵が数か所あり、なかなかの趣きだ。
赤や黄色の紅葉を楽しんで、自然一杯の薬園の見学を終える。
赤い紅葉
黄色い紅葉

素敵なガイドさんの説明で「松山伝統的建造物保存地区」の散策を終え、「道の駅」に向かう所で、感謝の拍手でお別れする。知らない場所を 詳しく知るためには、地元のガイドさんの説明は必須だと思った次第だ。
手作業の桶
歯車の付いた攪拌機と槽
少し進んだ造り酒屋「久保本家」を尋ねる。杉玉も掛っており、新酒ができたのを知らせているようだ。
試飲をお願いし、珍しい「にごり酒・どぶろく」をいただく。生のどぶろくは、風味もあり美味しく、これを買い求めようとするが、2-3日が 賞味期限だと。明日は、息子が「大阪マラソン」に出場するので、完走祝いに良いと思い決心する。
「道の駅」に向かい昼食とする。昼時なので、纏まって食べられないので、分散して「にゅう麺」をいただく。
三輪素麺の産地が近いので、美味しい。久し振りの「にゅう麺」に満足する。
帰りのバスの中で、次回の打合せをする。桜の季節は、今年のように開花状況が遅れたりと不安定なので、5月に入ってから行うことにし、 今人気のある「琵琶湖テラス」とし、近鉄電車に乗り、三々五々お別れする。
早く分かれたので、息子に電話するが捕まらず、早々に帰宅する。今日の歩行歩数は、9500歩だった。

大宇陀にこのような古い文化が存在していることも知らなかったので、有意義な紀行だった。やはり、奈良には知らない史跡が、 まだまだ残っていることを再認識できたのも有難いことだ。
来春、元気に皆さんにお会いできることを!!





    
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