◎ 「大阪城と生野コリアタウン&鶴橋DeepZone探索」(2019.05.19.) 毎年、春秋に実施している「スイス・ドイツ旅行」 メンバーの今春のイベントは、塚口のTさんの幹事で、「大阪城と生野コリアタウン&鶴橋DeepZone探索」となっていた。 2005年5月に「スイス・ドイツ旅行」に行ったツァーメンバーの交流も丸14年と長きに渡っての交流が続いているのは嬉しいことだ。 昨年までは、土曜日開催にしていたが、メンバーの方が起業し、土曜日も仕事になったために、全員の賛同を得て、日曜日開催に変更することに なった。やはり、長年の交流がお互いの理解を生む土壌となったのだ。 9時30分、大阪地下鉄・谷町四丁目駅集合に合わせて、8時過ぎに家を出る。 谷町四丁目駅は久し振りの訪問で、出口を探しながら集合場所へ。やがて、幹事のTさん、堺のAさん、神戸のMさん、高槻のSさん夫妻、 川西のKさん、河内長野のAさんが来られ、大津のIさんは後程合流するとのことで、8名でスタートする。 ボランティアガイドとの待ち合わせ場所・大手門に向かう。 新緑が美しい大阪城公園には、日曜日なので、見物客も多く、外国人が多数を占めている。さすが、大阪のインバウンドウンドだ。 大手門への道の手前にボランティアガイドの男性が待っておられ、ご挨拶の後、早速説明が始まる。 今までは、個人的に大阪城の散策や見学をしていたので、歴史的な史実は、教科書で習う程度しか知らなかったが、ガイドさんの説明でその奥にある 史実等も勉強になり、眼の鱗が取れた感じになったのは有難い。 大手門への道の前に大きなパネルが展示されている。「幕末の大阪城」の城郭と「炎上する大阪城」の絵が並べられている。大阪城の炎上は、 「大阪夏の陣」と思っていたが、戊辰戦争の時、新政府と旧幕府軍が対立し、大阪城で火災が発生して炎上したと。明治維新前後に、 大阪城が炎上したのは知らなかった。 石垣についての説明も興味あるものだった。今の石垣は、徳川時代に造られたもので、大手門左の石垣は、徳川時代初期の石垣で、小さな石が ランダムに積まれているが、右の石垣は、築城から7~8年経ってから造られたもので、技術の進歩、幕府の統制等により、大きさの揃った石が 整然と積まれているのだ。見比べて、なるほどと納得する。 大手門の左近くに千貫櫓が建てられ、大手門の防御の拠点だったと。堀の幅は、鉄砲の弾が届かない距離を保っていたのだ。 大手門に向かう通路からは、見事な堀が観られる。堀側に敷かれている石には、造った藩の紋が刻まれていたり等、藩の貢献度を示している。 その時代から忖度の土壌はあったのだ。 大手門に入ると大手口は枡形になっており、多聞櫓があり、城壁から鉄砲を打つ銃穴が設けられている。今まで、あそこから銃を撃つのだとしか思って みなかったが、ガイドさん曰く、一般的には白壁を開けての銃穴だが、大阪城は石垣を開けての銃穴となっている。これの方が費用が掛るので 幕府は大名に命じたと。なるほどと。 大手口枡形の正面には巨大な石の城壁が造られている。この大手見付石は、場内で4番目に大きな石で29畳あるだそうだ。その横には23畳で6位、 22畳で8位の小豆島産出の石が並んでいる。ガイドさんの話では、これらの石は、表面を削っていないので、凸凹があるのだがそうは見えない。 横から見ると確かに凸凹しているのが分かる。これも知らなかった。 場内を中に進んで行くと空堀がある。本丸近くなのに何故水を入れないのかは疑問だと。空堀にそびえる石垣の説明を受ける。石垣の石は、 長方形で、それを交互に組み立てていくのだ。それによって、縦・横への振動・揺れに対して強固になるとの土木建築学を実践していると。 なるほど、美しい曲線を描きながらも、強固な造りは、この時代にも確立していたのだ。 本丸に入る桜門に進む途中右奥に「石山本願寺推定地」の碑が立っている。大阪城の基となる石山本願寺が建っていた場所のようだ。ここから 織田信長との戦いが始まったのだろう。 空堀沿いに進むと桜門への石垣の道が見える。段々と観光客も多くなり、ガイドさんの話では、8-9割は外国人だそうだ。 桜門の先には、豊臣秀吉を祀る豊国神社が鎮座するのを観て、桜門への道を進む。 桜門をくぐる時、人混みの中、天守閣が見える。初めて見る天守閣だ。 桜門を抜けて本丸に入ると左に銀明水井戸の井筒が残っている。城の中の井戸は貴重で、五つあるうちの一つだ。銀と名付けられていることから、 金に次ぐ、貴重な井戸なのだろう。(金明水井戸は埋まっているようだ) その先、枡形の正面に巨大な石が迎えてくれる。これが大阪城で一番大きな石で、表面積36畳・重量108トンだと。この石は、備前岡山藩主池田氏が 築いたそうだ。その下で、記念撮影をすると石の大きさが良く分かる。 この石のことは知っていたが、この石の左下に蛸の模様が見えることは知らなかった。ガイドさんの指摘で、初めて知った次第だ。別名・蛸石と 云われているとか。 本丸に入ると観光客で溢れている。やはり外国人が多いが、西欧人が結構居るのは意外だ。 青空をバックに凛としてそびえ立つ大阪城天守閣。大坂城は天下統一をめざす豊臣秀吉によって天正11年(1583)、大坂(石山)本願寺跡で 築造が開始された。 城の本丸のなかで最も中心の建物である天守閣はその2年後に完成したが、元和元年(1615)の大坂夏の陣で豊臣氏の滅亡と ともに天守閣も焼失。 徳川時代になって再建されたものの寛文5年(1665)、落雷によって再び焼失。以来、大坂城は天守閣のないままだった。 現在の天守閣は昭和6年(1931)、当時の関市長の呼びかけで市民らの寄付により、約150万円(現在の約750億円に相当)が集められ建造されたもの。 266年ぶりに甦った天守閣は、地上55m、5層8階、屋根の鯱、勾欄下の伏虎など、いたるところに施された黄金の装飾が燦然と輝いている (国の登録有形文化財)。 平成7~9年(1995-97)にかけて大改修が行われた。8階の展望台からは大阪を一望でき、年間100~130万人が訪れている。 (大阪観光案内公式サイトより) 平成9年の大改修後に訪れた時、以前の風格のある天守閣が、黄金に飾られ、金ピカになり違和感を感じたが、約20年経ち、落ち着いた色調になった ので、昔の姿に戻ったと思うのは小生だけか。? ガイドさんの説明で、大阪人の心意気が寄付の金額に反映しているのに驚くとともに当時の人たちの熱意に感謝する次第だ。 本丸には、真田丸に因んだ赤揃いの鎧・兜も飾られ、向こう側では合戦のショーも行われている。真田氏の影響は大きい。 ガイドさんの説明は、 本丸で終わり、お礼を云ってお別れする。大阪城のことを詳しく知ることができ、本当にありがたかった。時には、プロの説明を聞く必要性を 感じた次第だ。 本丸の右には、昔の第四師団司令部庁舎が観光スポット(MIRAIZA・OSAKAJO)として改装され、食堂や売店が設けられているのを見学し、大阪城の見学を終える。 有意義な時間を過ごせたこと、幹事さんに大感謝だ。 今回の「スイス・ドイツ会」は二部構成となっており、第一部の「大阪城見学」を終え、玉造門から森ノ宮に向かう。 新緑が美しい大阪城公園を抜け、野外音楽場のイベントに集まる若者を見ながら、地下鉄・森ノ宮駅で待っておられる大津のIさんと合流すべく 人混みが多い噴水横を進む。足を痛めておられるIさんは、「大阪城見学」はパスされ、第二部の「生野コリアタウン&鶴橋DeepZone探索」から参加されるのだ。 テーブルには、キムチをはじめ漬物類が並べられており、各人の好みの品を注文する。 ビールで乾杯した後、この半年間の特記事項を報告し合うが、手術をされた方もおられ、各人ご苦労されていることが分かる。しかし、元気に この会に参加されていることが健康のバロメーターなのだと。次回の行先等についても話し合う。 美味しい韓国料理の昼食を済ませて、「生野コリアタウン」に向かう。ここは初めての訪問で、桃谷・鶴橋とは違った趣きがあるとのことで楽しみだ。 韓国風の門を入ると人混みは大阪城以上なのに驚く。若い女性が多く、食堂・雑貨店・プロマイド店・立ち食い店等々に人だかりだ。 コリアタウン商店街には、ボンボリが飾られ、異国情緒も感じられ、人波に揺られるように進んで行く。韓国の方もおられるが、大半は日本の若い女性 なのには驚きだ。人気の店は長い行列が続き、店頭でホルモン等の炒め物を売る店もあり、興味深いコリアタウンの情緒を満喫する。 「生野コリアタウン」の街並みを楽しみ、次は「鶴橋コリアタウン」に向かう。 「鶴橋コリアタウン」は何度か訪れたことがあるが、反対側から入るのは初めてで、方向を確認しながら細い路地を縫うように進む。韓国食品の店や 衣料品の店が多いが、年齢層は生野より高いように感じる。 適当にキムチや韓国食材の土産を買って、JR鶴橋駅に向かう。 本日の計画行程は全て終了したので、JR鶴橋駅でお開きとなる。 今回は大阪の名所と隠れた穴場の探索で、楽しく有意義な行程に大満足だ。幹事さんの企画に感謝し、秋の「百舌鳥古墳群見学+α」に 元気で再会しようと約束し、お別れする。
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