「大阪市・渡し船探索紀行」



◎ 「大阪市・渡し船探索紀行」(2022.10.12. 15.0km.)

以前から水の都・大阪に現存する渡し船を探索することに興味を持っていたが、なかなか実現できなかった。
季節も秋、長年の懸案を実現すべく、先達の紀行文を読んだりと検討をし、実施することにした。現在8ケ所の渡し船が、湾岸地区に点在し、如何に効率よく 巡るがを検討した結果、此花区の桜島から港区の大阪港に渡る「天保山渡船」をスタートし、此花区・港区・大正区・住之江区・西成区から大正区に戻る行程がベストだと 考え実施することにした。番外として、小生の小学生時代から近所にあった「源兵衛渡し跡」の地下通路「安治川隧道」にも立ち寄ることにした。
渡し船探索ルート(大阪市HPから借用)
具体的には、先達の行程を参考にし、①天保山渡船 → ②甚兵衛渡船 → ③千歳渡船 → ④船町渡船 → ⑤木津川渡船  → ⑥千本松渡船  → ⑦落合下渡船 → ⑧落合上渡船と巡り、バスでJR大正駅に出て、環状線で西九条の⑨源兵衛渡し跡の地下通路を巡る探索の旅とした。
8時30分過ぎに家を出て、高槻駅まで安満遺跡公園を通って進む。JRで大阪駅に向かい、桜島行の電車に乗るが、平日なのにUSJに向かう観光客で満杯だ。 西九条からも乗客があったが、USJ駅でガラガラになる。
終点の桜島駅で下車すると結構な人が降りているのに驚く。その人の後を進むと広いUSJの関係者の通用門に入って行く。広い敷地では通用門も方々にあり、 スタッフは最寄りの通用門から出勤するのだと理解する。
まずは一番の「天保山渡船」乗場に急ぐ。渡船の出発時刻を大阪市のHPからコピーし、効率的に進まねば、15分から45分の待ち時間となるのだ。
工場地帯の道路を大阪港の観覧車方向に進むと「天保山渡船」乗場に到着する。

①「天保山渡船」10時出航 (此花区・桜島→安治川→港区・天保山)

出発時刻は、時間によって異なるが、この時間帯では0分・30分の30分間隔となっている。10時発に乗るべく船着場に急ぐ。数人の方が待っており、初めての 渡船乗場の状況を観察する。待合室・時刻表があり、通路から桟橋に渡り、渡船に乗るのだ。 安治川の対面には、大阪港の観覧車・海遊館が望まれ、潮風が気持ち良い。
10時に対岸の天保山船着場から渡船が出航し、こちらに向かってくる。時刻表はどちらの船着場も同じ時刻なので、到着までの時間を勘案すると、 5分程度の差があるのだと認識する。
5分程で、安治川を渡って小型の渡船が到着し、10人程度の乗客や自転車に乗った人が降りて来た。USJに勤めているのだろうと思われる外国人も数人 「ありがとう」と礼を云って降りて行くのが印象的だった。
天保山渡船の入口 時刻表
天保山渡船の桟橋と対岸
天保山渡船

画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

いよいよ「天保山渡船」に乗船する。これから乗る渡船も含め、全て無料なのだ。市民の足を確保するためだろうと。
歩行者数人と自転車利用の方も乗船し、直ぐに出発する。時刻表が一つでも、渡船が来ているのが分かり、5分程度の差で出発できるのだ。安治川を 渡る時には揺れも感じるが、船の縁を掴み、景色を眺めるのに忙しい。目の前の観覧車が大きくなり、大阪湾方向を見ると南港のビル群も眺められ、 大阪湾を渡っている感じだ。
5分程で安治川を渡り、築港の船着場に到着する。あっと云う間の「天保山渡船」の乗船だったが、陸地からしか見られない大阪湾を船上から眺められた ことに満足し、船員の方にお礼を云って、築港の船着場を上って行く。
そこには、日本一低山(今は第二)として有名な「天保山」が公園となっている。高校生時代に、ここまでランニングをした時とは大きく変わっているのに驚く。
天保山渡船の船内
対岸の観覧車 大阪港方面
天保山公園


②「甚兵衛渡船」11時出航 (港区・福崎→尻無川→大正区・泉尾)

「天保山渡船」から次の「甚兵衛渡船」までは4km余りあるので、昔懐かしい港通りを進んでいるとバスが来たので、港通りから右折する三先2交差点まで バスで進む。車窓からは昔国際見本市会場があった広場は、市立体育館に変わっているのだ。三先2交差点から右折して工場街を進むと港南中学校が建ち、 福崎神社が鎮座し、突き当りに「甚兵衛渡船場」がある。
出航時間10分前に到着したので、周辺を観察する。安治川の幅の広さに比べ、尻無川の川幅は狭く、対岸の船着場に渡船が停まっている。定刻になり、 対岸から乗客や自転車利用の乗客が渡ってきて、港区側からの数人が乗船する。スタッフ2名が運転と乗客誘導をテキパキとやっている。
出航すると尻無川の高潮防止水門が大きく見え、大阪市の高潮対策の重要性を感じる。対岸まで数分の乗船だったが、船舶・水門と港湾関係の光景を 楽しむ。
甚兵衛渡船場
対岸に停まる渡船
甚兵衛渡船 尻無川の水門


③「千歳渡船」11時40分出航 (大正区・北恩加島→大正内港→大正区・鶴町)

「千歳渡船」の出航時間を確認して早足で、尻無川沿岸を進む。「千鳥渡船」の乗船場は、長い千歳橋の下を渡る渡船で、大阪市の大正南港化工事の一貫として 設置された渡船だそうで、広い大正南港を渡っている。
ここも早足で進むと大きくて長い千歳橋が眺められ、その下にある渡船場に急ぐと待合室があり、「千歳渡船」が停まっている。急いで乗船すると2人の 乗船客のみで出航する。千歳橋の下を進むような航路で、広い大正内港を対岸の鶴町に向かう。潮風を感じながら進むと広い内港の向こうにはアベノハルカスの 雄姿が望める展望を楽しむ。
千歳橋下の船着場
千歳渡船
千歳橋下の航路 アベノハルカス


④「船町渡船」12時20分出航 (大正区・鶴町→木津川運河→大正区・船町)

「千歳渡船」から「船町渡船」までも工場街の歩行となる。今回の経路は全て工場地帯なので、緑もなく殺風景なのは残念だが、渡船の性格上、止むを得ないと 思いながら歩を進める。
「船町渡船」が渡る木津川運河の川幅は狭いので、短時間の渡航だ。対岸から渡船が向かってきて、乗船後、直ぐに出向しても5分程度だったのではないだろうか。
船町渡船・鶴町側の船着場
木津川運河
船町渡船・船町側の船着場


⑤「木津川渡船」12時45分出航 (大正区・船町→木津川→住之江区・平林)

「木津川渡船」の出航間隔は45分間隔なので、1便乗り遅れると45分待たねばならない。あまり時間がないので、ここも早足より早く歩き、12時45分発の 時間に間に合った。船着場に到着して直ぐに出航するあわただしさだったが、間に合って一安心だ。
対岸から渡船が来て、直ぐに乗り、木津川を渡る。横には立派な新木津川大橋が架かっており、車の往来が望まれる。昔はカーフェリーが運航されていたそうだ。 港湾地域の渡船と架橋の必要性が、問題解決となるようだ。
木津川渡船・船町側の船着場
新木津川大橋
木津川沿岸の工場群


⑥「千本松渡船」13時45分出航 (西成区・南津守→木津川→大正区・南恩加島)

「木津川渡船」から「千本松渡船」への行程の間には敷島運河があり、木津川沿いを上れないので迂回して敷島運河を柴谷橋で渡り進まねばならないので、 階段を上り柴谷橋を渡って進む。
渡船の出航時間があるのと工場地帯で食事処が見当たらず、昼食ができず困っていた所、コンビニがあったので、サンドウィッチとコーヒーを買って店内で 昼食とする。市内でも工場地帯の食事は難しいことを痛感する。
資料によると、このあたりは木津川の川尻に近く、江戸時代には諸国廻船の出入りの激しいところであった。 幕府は、舟運の安全のため水深を確保し、また防波堤のとしても役立つよう、天保3年(1832)ここに大規模な石の堤を築いた。 千本松の名は、この堤防の上に植えられた松並木に由来する。
現在はその面影は残っていないが、横にはループ状の千本松大橋が架けられ、交通の要衝となっている。その千本松大橋を目標に進み、ギリギリで乗船時間に 間に合ってホットとする。
敷島運河 昼食
千本松大橋のループ
千本松渡船

「千本松渡船」は千本松大橋の下を対岸に進む。千本松大橋の両岸の上り口がループ状に設計されており、周辺の用地確保が軽減されている ことが分かる。都市部の橋としては見事だ。
大正区の南恩加島船着場には江戸時代の光景を描いた錦絵が飾られており、当時からの主要な要所立ったことが分かる。
千本松大橋
千本松大橋のループ
千本松の錦絵


⑦「落合下渡船」14時15分出航 (大正区・平尾→木津川→西成区・津守)

「落合下渡船」は大正区から再び西成区に向かう。木津川を往復する渡船が多いのは、この地域での人の往来が多かったのだと推察するが、 乗船者は数名と少ない。渡船のコスとを考えると何時まで継続するのか難しい問題だ。
対岸から渡船が渡ってきて乗船するが2人だけだ。乗船場の柱の上にフクロウの置物が飾っていたのは不思議な光景だった。川幅が広くなった木津川の沿岸は クレーン船や運搬する貨物船が接岸している。港は生きているのを実感する。
落合下渡船待合室
落合下渡船
広い木津川


⑧「落合上渡船」14時45分出航 (西成区・上津守→木津川→大正区・千島)

「落合下渡船」から「落合上渡船」までは近く、10分程度で到着し、最後の渡し船に乗船する。
いよいよ最後の渡し船だと心新たに「落合上渡船」の甲板から木津川を眺める。上流には大きな水門が設けられ、高潮に備えているのが望まれる。 この地域は、台風も恐ろしいが高潮の被害が多いので、万全の対策なのだろう。
無事、大正区の千鳥船着場に到着し、今回の「大阪市・渡し船探索」を終えることができた。工業地帯の歩行は楽しくなかったが、大阪市港湾部の 産業の活動を実感できたことは嬉しい。出航時間に追われて、日頃の歩行スピードより早足で歩かざるを得なかったのは疲れたが、体力がまだ あることを実感できた。

落合下渡船待合室
落合下渡船
広い木津川

大正区役所まで歩き、バスでJR大正駅に向かう。今日からパリーグのCSが始まるが、この時間ては、まだ京セラドームに向かう観客もいないようで 大正駅も閑散としている。(オリックスはこの日敗戦したが、翌日勝利して、パリーグ優勝となった!!)
環状線で西九条駅に向かい、小学生時代から校区から離れての冒険を楽しんだ「源兵衛渡し跡」の地下トンネルに向かうことにする。 西九条駅下車も久し振りで、阪神電車乗り入れ等で大きく変化した様子に驚き、安治川方面に向かう。

⑨「源兵衛渡し跡(安治川隧道)」(此花区・西九条→安治川→西区・九条)

「源兵衛渡し」は安治川を渡る渡し船として発展していたが、戦時中、輸送の増強を図るため、トンネルを掘ったと。渡し船はなくなったが、地下トンネルの 往来は、小生の幼少の頃はあり、トラックと一緒に人もエレベーターで地下に降り、川底のトンネルを抜け、エレベーターで対岸に上ることができた。
1977年に下流に安治川大橋が架かったため、自動車の通行は閉鎖されたが、人・自転車は継続している。
西九条側のエレベーター建屋の前に行くと自動車用のエレベーターの扉は閉じられていたが、歩行者用のエレベーターの前には5名位の人と自転車が待っている。 懐かしい光景を想い出し、エレベーターで川底へ。川底の歩道を対岸に抜け、再びエレベーターで九条側の地上に到着するのだ。
小学生の頃は、この「源兵衛渡し」を抜けることは、大冒険だったことを想い出す。その頃は、自動車と人は同じところを進んでいた記憶があるが、 歩行者用の通路があったのだ???
しかし、車が数台しか乗れないエレベーターを輸送手段にしていた時代があったのだと今になっては驚く次第だ。
源兵衛渡し跡・西九条側
川底の通路 エレベーター
源兵衛渡し跡・九条側


大阪市湾岸部の渡し船を探索し、幼少期冒険したトンネルを再訪問した充実感で、梅田で所用を果たし帰宅する。
以前から考えていた「大阪市・渡し船探索」+「源兵衛渡し跡」紀行を楽しんで大満足だった。本日の歩行歩数は、31000歩だった。





    
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