○ 「西高野街道」見聞録 

1.堺東〜河内長野
 2004.05.27 09:40〜15:00 薄曇り

「東高野街道」から「高野街道」に入り、高野山の麓・学文路まで来た。「高野街道」歩行中に 「高野山女人堂へ八里」の里石を見つけ、それを辿りながら「高野山女人堂へ三里」の里石まで来た。この里石の スタートは「西高野街道」とのことで、八里以前の里石を探索し、堺から「東高野街道」との 合流地点・河内長野まで紀行する。

「東高野街道」は京の貴族・武士・庶民の高野山参拝のルートだったが、「西高野街道」は 中世以降、発展した港町・堺に舟で着いた物資を高野山に送る通商路として賑わったとか。

朝一番、所用があり出発が遅くなったが、8時40分に出発し、大阪・新今宮で乗り換え、南海電車で 堺東に着いたのが9時40分。
駅前の開店準備で忙しい商店街を通り、「大小路橋跡」に向かう。国道の大きな交差点となっている 歩道橋の下に半分埋もれた昔の親柱を探す。エレベーター付きの歩道橋下交差点にはエキゾチックな 南蛮貿易を象徴する絵が描かれた路線バスが行き来している。

市役所を見ながら駅の方に戻り、踏切を渡る。そのまま進むと三国ヶ丘高校に出合い驚く。「紀伊路」 紀行の時訪れた道だ。間違いに気付き踏み切り付近まで戻り南に進み、ガイドブックにある榎元町を 探す。
榎元町に行き着いたが、「高野山女人堂へ十三里」の里石が分からず、数人に尋ねるが要領を得ずウロウロ。 やっとのことで里石を発見。丁度、「竹内街道」との分岐点に立っており、「竹内街道の道しるべ」も 新しく立てられている。
近くに「一里塚」があるので尋ねたり歩き廻って探すが分からず、諦める。

大小路橋跡・親柱

高野山女人堂へ十三里の里石

竹内街道・道しるべ 説明→


ここからの道もはっきりせず踏み切りを渡り「仁徳天皇陵」を目指して進むこととする。特に 道しるべもなく、方向だけを頼りに進むと国道に「すぐ高野街道・道しるべ」が立っており一安心。
「仁徳天皇陵」北縁の堀端に「西高野街道・道しるべ」が立ち、正規の街道に辿り着いた。ここから R310沿いに進むが道に迷った疲れと薄曇りとは云え暑さが厳しくなって来たので歩が進まない。 マンション脇の公園で一息入れる。(10:45)予定より大幅遅れだ。
梅北交差点から一筋東の街道に入ると交通量も少なくホッとする。中百舌鳥にかけては「古い街並み」 が所々残っており、「地蔵堂」がたくさんある。これは今回の「西高野街道」の特徴だ。

西高野街道・道しるべ

中百舌鳥の古い街並み

地蔵堂


中百舌鳥は中学時代テニスの試合によく来た所だが当時の記憶は薄くなっている。再び国道に出た 所に大阪府立大学があり、これがテニスコートや球技場があった場所だろうと推測する。変わったものだ。
再び国道を逸れて旧街道を進む。「西高野街道・道しるべ」が数100m毎に設置されており、堺市の 史跡に対する姿勢が分かる。(最初の所もあれば迷わなかったのに・・)
「地蔵堂」も各町に立っており、街道筋の趣と町内の信仰心の深さが感じられる。「歴史の道・案内板」 で「西高野街道」を再確認し、泉北高速鉄道の高架を過ぎ、歩を進めると関茶屋の集落の「街並み」 の中に「高野山女人堂へ十二里」の里石と「地蔵堂」が迎えてくれる。(11:40)

歴史の道・案内板 説明→

関茶屋の街並み

高野山女人堂へ十二里の里石


旧街道のやや狭い道をクネクネと進む。「中地蔵堂」「惟妙寺」をガイドブック通り通過し、近畿 自動車道の高架下を過ぎると「滝谷不動分岐点・地蔵堂」の「右こうや、左たきたに金剛山・道しるべ」が 立っている。「西高野街道」は色々な街道と交わる主要道路であることが良く分かる。
この辺り「中茶屋の街並み」も昔の面影を残しており、暑さで少しバテながら歩む。「興源寺」を 過ぎるとR310に交差する。国道筋で昼食を取らねば食べる所が無さそうなので、近くの食堂をのぞくと 少し行列が出来ているのでここに決めて待つ。和食の店で寿司定食を頼むとにぎり・刺身・ちらし寿司・ 赤だしに鯛の荒煮まで付き、デザート・コーヒーも付いて890円。美味かった。麦茶をたくさん飲んで渇きを癒す。(12:15)

地蔵

滝谷不動分岐点・地蔵堂 拡大→

中茶屋の街並み


昼食後一服して出発。(13:05)旧街道を進むと「常夜灯」が家の角に立ち、三叉路に「左高野道・道しるべ」 があり、ガイドは直進のようなので角の煙草屋さんで尋ねると真っ直ぐとのこと。良かった。
昼食を食べ、疲れも落ち着き淡々と進むと「高野山女人堂へ十一里」の里石に出合いにんまり。(13:35)
4km毎に里石があるのはコースと時間の把握には最適だ。そのまま進むと「天野街道分岐点・地蔵堂」 が立ち、「右あまの山、左こうや山・道しるべ」が導いてくれる。

常夜灯

高野山女人堂へ十一里の里石

天野街道分岐点・地蔵堂 拡大→


分岐点を左に進むと下り坂となり、本来山並みが望めるのであるが、春霞で薄っすらとしか見えない。 この「おわり坂」を下ったところで府道と交わり「地蔵堂」があるが、方向を間違えウロウロ。
堺市から大阪狭山市に入ると今までの「西高野街道・道しるべ」は無くなり、ガイドブック頼りとなる。 行政の姿勢の違いが素人の歩行人には顕著に分かる。
三津屋川橋が四天王寺からの「下高野街道」との合流点とのことだが、結果として手前で曲がった ようでパスしてしまった。(残念)
旧街道と思った道を進み、帝塚山学院大学の横を通り、「三津屋 地蔵堂」を進むと三叉路で東に進むと「弘法大師堂」が立っている。この道が本来の道と納得し南へ 進む。
途中で年配の愛好者と出会い、「西高野街道」との確認をし進むと「常夜灯」が立ち安心。少し進むと 屋敷の角に「高野山女人堂へ十里」の里石がひっそりと立っていた。

三津屋地蔵堂

常夜灯

高野山女人堂へ十里の里石


旧街道を進むと楠町交差点を過ぎ、落着いた「街並み」の中に「松林寺」があり、その先に 「中高野街道分岐点・地蔵堂」が「常夜灯」と共に立ち、前には「西国三十三ケ所・道しるべ」が 迎えてくれる。

楠町の街並み

松林寺

中高野街道分岐点・地蔵堂


坂を下り、小学生の下校の行列と一緒に進む。陰陽師・安倍晴明にちなむ「晴明塚」を過ぎ、バイパスの 高架下を越えると家の角に「道しるべ石」が向かい合っている。「左まきの、右さかい」と 「右こうや、左ふじいでら」の交差点に当たる。街道の集合地点だ。

晴明塚

左まきの、右さかい

右こうや、左ふじいでら


国道を越え、いよいよ終着点に近付き、「行者堂」の横に今回の最後の里石である「高野山女人堂へ九里」 が立っている。堺東の十三里から四里進んで九里まで来た。前回は次の八里から三里まで歩いたので 後少しだ。
商店街に入り、河内長野駅前に到着する。前々回「東高野街道」踏破の時、合流した地点だ。 ここから前回の「高野街道」で高野山に向かうのだ。(15:00)
駅前の居酒屋が開いていたので、ジョッキで「西高野街道」踏破を祝って乾杯!!暑かったのと道に 迷った疲れが吹っ飛ぶ美味さだ。

行者堂

高野山女人堂へ九里の里石

東高野街道、合流地点


堺からの物資や舟で来た人達が辿った「西高野街道」を歩いた。「高野山女人堂里石」を探しての 町中の歩行は「紀伊路」を歩いた時を思い出す。あの時も暑く、よく道に迷った。行政の史跡に 対する熱さの度合いが歩行者の疲労度に大きな影響を及ぼす。

「道しるべ」「地蔵堂」「里石」「街道の合流・分岐点」と単調な中にアクセントのある街道だった。 次は「中・下高野街道」に進むか「高野街道」の続きを歩くか「高野山町石道」に向かうか・・・・ じっくり検討しょう。
乾杯の後、ノンビリと居眠りをしながら18時前に帰宅した。本日の歩行は33000歩だった。









    
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