「熊野古道」Map


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○ 「高野道・小辺路」紀行を終えて

「はじめに」

2003.11.11に14回・22日間をかけて「紀伊路・中辺路」を完全歩行踏破し、「伊勢路・大辺路」紀行 にトライし始めたが、どちらも遠いので「青春18きっぷ」を活用して進めることにした。
その間、「石清水八幡宮」を訪れた時、宮司さんからお聞きした、八幡が「紀伊路・中辺路」と 「高野路・小辺路」の分岐点とのお話に興味が沸き、調べると八幡から「東高野街道」が高野山に達っし ていることが分かった。

「熊野古道」本来の「紀伊路・中辺路・伊勢路・大辺路」ではなく、京都から「小辺路」に通じる 「高野街道・高野山町石道」も歩き、京都→八幡→高野山→本宮大社るルートを極めようと計画し、 実行した。
京都府→大阪府→和歌山県→奈良県→和歌山県の約210kmを10回、12日間、1年7ケ月かかって踏破出来た。 紀行途中、「高野街道」で高野山・金剛峰寺に参拝した、2004.07.01に「熊野古道」が「紀伊山地の 霊場と参詣道」として「世界遺産」に登録されたことは嬉しい限りだ。

「東高野街道」「高野街道」「高野山町石道」で高野山に上る予定が、「西高野街道」に寄り道 したり、「高野街道」でも上ったりと史跡を見るために柔軟に変更もした。
「小辺路」は高野山から本宮大社への「熊野道」を一気に歩こうと考えたが、先達の方のアドバイスで 無理をせず2回に分けて紀行した。高野山から三浦口まで行ったが、三浦口での民宿が とれず、本宮大社から「高野道」で三浦口に戻るルートで合流せざるを得なかったのは残念だ。
広範囲に渡る紀行を分類して振り返ってみたい。

1-1.「東高野街道」

2004.04.26「東高野街道」をスタートした。「東高野街道」は生駒・葛城・金剛山の山裾である河内を 北から南へ縦断するルートで、河内長野で「西高野街道」と合流とし、「高野街道」となり、高野山 山頂に通じる街道だ。

春真っ只中の「石清水八幡宮」を早朝に訪れる。人影も少ない参道の横の竹薮にはタケノコが迎えて くれる。参道を上り、これからの旅路の安全を願って本殿に参拝する。落着いた神社だ。

石清水八幡宮・参道

石清水八幡宮・神門から本殿

石清水八幡宮・本殿


参拝して高野山への「東高野街道」をスタートする。「道しるべ」も設置されており、「高野山を歩く」の ガイドブックに従って進む。「八角堂」「松花堂美術館」を通り、「洞ケ峠・茶屋」の茅葺屋根を見て 国道1号線を進む。
「出屋敷の街並み」は古道の趣を残している。JR星田駅周辺の古い街並みを楽しみ、「四条畷神社」に 参拝し、「野崎小唄」で有名な「野崎観音」で満開のつつじと展望を楽しむ。

高野街道・道しるべ

四条畷神社・本殿

野崎観音・本堂


◎「石清水八幡宮〜野崎観音」の「紀行スライド」

「東高野街道」は生駒山の山裾を南に進む。生駒山のを左に見なが「石切神社」に参拝する。 早朝からたくさんの参拝者に驚き、近鉄奈良線を渡り信貴山を目指す。河内の国を縦断しているのだ。 「恩智神社」に参り、二上山を望みながら大和川を渡る。

石切神社・本殿

恩智神社・本殿

新大和橋から二上山展望


藤井寺市は史跡の豊富な街だ。「大山咋(おおやまくい)神社」の樹齢数百年の楠を後に集落を進み、 奈良時代の国府跡「国府(こふ)遺跡」「国府八幡宮」と巡る。菅原道真の号「道明」を寺の名前にした 「道明寺」の落着いた境内を楽しむ。史跡を次々に訪ねる。「道明寺天満宮」「旧土師寺・ 五重塔礎石跡」「西之宮神社」「弘法大師腰掛石」「誉田八幡宮」を探しながら進む。
所々に古い「道しるべ」が残り、歴史が感じられる。百済の学者、王仁を祀る「西琳寺」を過ぎ、 竹之内街道と交差し、大きな「大和路・道しるべ」を見て「日本武尊(やまとたけるのみこと)」 と「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」を祀る古市の氏神である「白鳥神社」を参拝する。
古市の中華料理屋でガイドブック・朱印帳を忘れたのも良い思い出だ。

道明寺・山門

誉田八幡宮・本殿

白鳥神社・本殿


◎「野崎観音〜古市」の「紀行スライド」

「東高野街道」は奈良に向かう「竹之内街道」と交差し南下する。この辺りのガイドブックとして、 サイトで「史跡を訪ねて楽しく歩こう」 を探し出し、案内してもらう。
狭い街道は国道の一筋山側をウネウネと続き、二上山を展望しながら「安閑天皇陵」「高屋神社」を巡り、 「粟ケ池共園」の遊歩道を過ぎると富田林市に入る。
ここで、タイムスリップしたような「街並み」に出会う。戦国時代の門前町から始まった街造りが 自治の確立を伴い、大阪・堺と並ぶ商業都市としても栄えた息吹が感じられる「寺内町」だ。大阪府に このような史跡が現存するのに驚き、街を散策する。中でも「寺内町」のメインで重要文化財である 酒造業の「杉山家」は立派だ。

粟ケ池共園

寺内町の街並み

寺内町・杉山家


「寺内町」から「向田坂」を下って河内長野に田舎道を進む。「錦織(にしこり)神社」 「千代田神社」を時々見られる 「道しるべ」で確認しながら歩を進める。道脇に西国三十三ヶ所参りの4番札所「槙尾山施福寺」と5番 札所「藤井寺」を結ぶ「道しるべ」が「右まきの、左こうや」と刻まれ、「東高野街道」と 「巡礼街道」の分岐点を示している。
やがて、「西高野街道」との合流点である河内長野に到着し、「長野神社」に参拝し、「東高野街道」 の無事踏破を報告する。

錦織(にしこり)神社

右まきの、左こうや・道しるべ

長野神社


◎「古市〜河内長野」の「紀行スライド」

1-2.「西高野街道」

「東高野街道」から「高野街道」に入り、高野山の麓・学文路まで歩行中に 「高野山女人堂へ八里」の里石を見つけ、それを辿りながら「高野山女人堂へ三里」の里石まで来た。この里石の スタートは「西高野街道」とのことで、八里以前の里石を探索し、堺から「東高野街道」との 合流地点・河内長野まで紀行することにした。

「東高野街道」は京の貴族・武士・庶民の高野山参拝のルートだったが、「西高野街道」は 中世以降、発展した港町・堺に舟で着いた物資を高野山に送る通商路として賑わったとか。

堺東から「高野山女人堂へ十三里」の里石を探しながら歩き始める。数100m毎の「西高野街道・ 道しるべ」に導かれ、久振りに街中を歩く。中百舌鳥の街並みを過ぎ、「高野山女人堂へ十二里」 の里石に到達する。

高野山女人堂へ十三里の里石

西高野街道・道しるべ

中百舌鳥の古い街並み


「西高野街道」近世の道なのでお寺は少ないが、古い街並みが所々に残っているのを楽しむ。 「滝谷不動分岐点・地蔵堂」の「右こうや、左たきたに金剛山・道しるべ」と刻まれ「西高野街道」は 色々な街道と交わる主要道路であることが良く分かる。
「高野山女人堂へ十一里」の里石を見つけ、進むと「天野街道分岐点・地蔵堂」が立ち、 「右あまの山、左こうや山・道しるべ」が立ち、やがて「高野山女人堂へ十里」の里石を通り 「中高野街道分岐点・地蔵堂」が「常夜灯」と共に立ち、前には「西国三十三ケ所・道しるべ」が 迎えてくれる。
古い街並みを楽しみながら 陰陽師・安倍晴明にちなむ「晴明塚」を過ぎ、家の角に「道しるべ石」が向かい合っている。 「左まきの、右さかい」と「右こうや、左ふじいでら」と刻まれた街道の集合地点だ。 「高野山女人堂へ九里」の里石が行者堂の横に立つのを見て、商店街に入ると「東高野街道」との 合流した地点だ。

天野街道分岐点・地蔵堂

中高野街道分岐点・地蔵堂

高野山女人堂へ九里の里石


◎「堺東〜河内長野」の「紀行スライド」

「小辺路」紀行前に京都から高野山までの「東高野街道」を歩こうと決意し実施に移した。日頃から 良く知っている所なので気楽な気持ちでトライしたが、歴史史跡が方々に散りばめられた街道に驚いた。
高野山へのルートは八幡からの「東高野街道」、堺からの「西高野街道」、四天王寺からの「下高野街道」、 平野からの「中高野街道」があり、河内長野で合流している。古くは京都からの街道で、その後 大阪からの街道として発展したようだ。

合流地点の河内長野まで到達した。これからは「高野街道」となって高野山山頂に向かう。
四日間の日帰りの紀行も無事終えることが出来、第一目標の高野山へ!!(2005.12.01.記)






    
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