○ 「高槻市No3.」見聞録

1.富田探訪・(5.0km)
 2016.12.17 10:00~14:00 晴れ


「高槻市見聞録・富田探訪MAP」

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日本全国に寒波が襲来し、雪の便りが多くなってきた。高槻も今年一番の冷え込みで、2℃と厳しい朝だったが、陽が昇ると暖かくなってきた。 この冬の好天を狙って「高槻市内見聞」の三回目を実施する。
何年か前、高槻市のイベントに参加した時、「高槻まちかど遺産マップ」のパンフレットを入手し、何時かその遺産を訪れてみようと保管していた。今回は、 隣駅でもある富田(とんだ)周辺の「まちかど遺産」見聞をすることとする。

10時、青空が広がり、気温は低いが太陽の光が暖かく感じる中、家を出発し阪急高槻駅まで歩く。

安満遺跡公園のイメージ図

京大農場周辺の農地や「安満(あま)遺跡」広場は、高槻市に買収され、近々「安満遺跡公園」として再開発される予定で、昨年から遺跡調査や農地の整理が 行われている。珍しい遺跡が発掘されたそうだが、今は埋められている。
京大農場の洋館建ての事務棟や前の銀杏並木は残るようで、甲子園球場5個分の広さの公園になるらしい。 果樹園も整地され、洋館の前の銀杏並木を進むと大きな「安満遺跡公園」のイメージ図の看板が掲げられいる。緑が多い公園が、家の近くに出来るのは 嬉しいことだ。
オープン予定が平成31年とあるので、後2-3年すれば、散策等に利用できそうだ。季節によって変わる銀杏並木の光景や築山・緑地・遊園地と多目的な施設が 出来るのに期待したい。
阪急高槻駅に向かい、高槻市バスの時刻表を見ると40分待たねばならないので、高齢者無料定期の使用を諦めて、阪急電車で一駅先の富田駅に進む。
富田駅からは「高槻まちかど遺産マップ」のパンフレットに従って進むことにする。富田付近の遺産は19ケ所あるので、その順番に辿って行くのがbetterだと考え、 久し振りの富田の駅前通りを南に向かう。
少し進んだ交叉点を左折してしばらく進んだ左に「①蓮如上人の腰掛石」があるはずで探すが見当たらず、やっと民家の庭の中に碑が立っているのを発見 する。これでは、先行き大変だと思いながら次に進む。
「②東岡宿の北門跡と石組」は少し先の道脇に小さな標識が立ち、内容の説明がなされている。以降の遺産跡にもこの標識が立っているので、発見し易く 高槻市の史跡に対する取り組み方が分かる。有難い標識だ。
説明によると、この辺りは戦国・江戸時代から「東岡宿」と云う「町場」で、周囲に土塁と堀・筒井池に囲まれ、北・南・西の主要出入口の門が構えられていたと。 ここは北門で、その当時の石組が溝に残っている。

①蓮如上人の腰掛石

②東岡宿の北門跡と石組

遺産跡の小さな標識


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

「③布屋屋敷跡と大イチョウ」は少し先の細道にあった。布屋は江戸時代の豪商で、当時富田にあった酒造家6軒のひとつだと。路地の奥に大銀杏が残っていると 記されているので、路地奥に行くと庭の中に、葉が散った銀杏がそびえている。黄葉の時は見事だったと想像する。
駅前通りに戻り、交叉点の西角に「青蓮寺」が建っている。境内の老松の枝ぶりは見事なものだ。この辺りは、寺院も多く寺町の趣きもあるようだ。 広い道は緩やかに左に曲り、道角に「④紅屋屋敷跡」の標識が立っている。紅屋は、江戸幕府から特権的な酒造りを許された豪商で、敷地の外周300m、面積 5000㎡との屋敷だったと。

③布屋屋敷跡と大イチョウ 大銀杏

青蓮寺の庭園

④紅屋屋敷跡


その直ぐ側に「⑤東岡宿の南門跡」があるが、道路の三角地帯でなかなか見つけられなかった。先程の北門跡に対する南門跡なのだ。
広い道を渡ると「筒井池」が水を湛えている。その横に「⑥筒井池の水門跡」がある。この辺りの灌漑用として筒井池が設けられ、田畑への用水を調節する 水門が備えられていたと。「東岡宿」の周辺は田畑も広がっていたのだろう。
筒井池横の狭い道に入って行くと左角に「地蔵堂」が祀られ、その横に道標が立っている。「右 たかつき・芥川 京、左 天満? 大坂」と示されている。 この辺りは淀川右岸の街道筋だったのだろう。北には「西国街道」で西宮に通じているので、大阪方面はこのルートが賑わったのかも知れない。

⑤東岡宿の南門跡

⑥筒井池の水門跡 筒井池

地蔵堂と道標


その角を右折して少し先の右に「⑦御蔵屋敷跡」がある。文禄年間から豊臣家直轄の米蔵として置かれ、江戸時代になっても利用されたそうだ。富田は 高槻市域で一番石高の高い村で、3000石あったそうだ。
狭い道を左に右に進むと少し広い道の立派な旧家の前に「⑧市場通り」の標識が立っている。江戸時代酒造業を中心に栄えた富田を東西に貫く道を 「市場通り」と呼ばれ、多くの店が軒を連ねたと。大正時代に摂津富田駅ができ、商店街は駅前に移ったが、その面影を残している。
市場通りを西に進むと道脇には「地蔵堂」が祀られ、その先には「三輪神社」が鎮座する。境内の奥の「本殿」に参拝し、案内板により「三輪神社」は 醸造の神様だと知る。奈良の「三輪大社」に参拝したが、それは知らなかった。

⑦御蔵屋敷跡

⑧市場通り 地蔵堂

三輪神社 本殿


「三輪神社」を少し先の「普門寺」参道の道角に「⑨普門寺前の道標と尼崎道」の標識と道標が立っている。
天保4年(1833)建立の道標で、高槻城下と富田 ・茨木を結ぶ「富田街道」の辻に立ち、南へ下ると「大阪道」。途中西に曲がると「尼崎道」だと。また、山崎合戦の前日、羽柴秀吉の軍勢は、この 「尼崎道」から富田に入り着陣したとも云われていると。歴史のある辻なのだ。
その辻を南下して、古い街並みを眺めながら進み、二筋目を左折すると板塀の旧家が建ち、左の「教行寺」の塀を過ぎた四つ角に「⑩御坊之内」の標識が 立っている。この地に、浄土真宗中興の祖・蓮如が「富田道場」を開設し、道場は後に「教行寺」となり「富田御坊」と称され、ここを中心に富田寺内町が 形成されたと。
この辺りに寺院が多いのは、この「富田御坊」設立だったのだと理解する。 角を曲がって、立派な「教行寺」の門前で礼拝して次に進む。

⑨普門寺前の道標と尼崎道 板塀の旧家

⑩御坊之内

教行寺


元の「大阪道」に通じる道に戻り南下した四辻左に「道標」が立っている。「右 富田道、左 高槻街道」と記されている。標識はないが、その向かい側に 「⑪大峰山 日丸講石燈籠」が立っている。今回初めて見る石燈籠で、旧街道の道標としての機能を示しているのだ。
石燈籠を右折して進むと珍しい石柱を見付けた。「石敢當」と刻まれた石柱で、これは「薩摩街道」紀行時に時々出会ったものだ。その時の案内板には、 「石敢當」とは負けたことがない豪傑の名前で、魔除けのまじないとして、この碑が立てるのだと。起源は中国の風習が琉球を経て 14世紀頃日本に 伝わったのだと。鹿児島は琉球と近いが、富田の地にあるのに驚いた次第だ。
その先道なりに左に曲がって行くと府道に当たる角の水路に「⑫西富田集落と水路」の標識が立っている。西富田の集落は、「太閤検地」には「政所」と 云う屋号があり、平安時代からの「富田荘」に遡ると。集落の西辺に水路が設けられていたそうだが、今の水路の原点なのだろうか?

⑪大峰山 日丸講石燈籠 道標

石敢當の石柱

⑫西富田集落と水路


溝沿いの小道

右折して府道を西に進むと広い交叉点があり、右折して細い溝沿いの小道を左に入って行く。
パンフレットの地図を頼りに、狭い道から少し広い道とウネウネと辿って行くと池のある公園に至り、その側の公園横に「⑬廣端寺東の天神山」の標識を見付ける。 かって「天神社」と云う神社があり、一帯は天神山と呼ばれていたと。
天神山の紅葉が見事だと記されているので、周辺を見渡すと紅葉の木がたくさん 植わっているので、秋には人気な場所なのだろう。
天神山に建つ立派な街並みを右に廻るように進むと「廣端禅寺」の重厚な山門が迎えてくれる。本殿に向かう参道も静かで重々しい雰囲気が漂っている。
案内板によれば、黄檗宗に属し、持統天皇時代に創建され、戦乱で荒廃した後再興されたと。静かな本堂に参拝し、府道に戻る。
府道沿いには商店が点在しているので、昼食の食事処を探していると中華料理店があったので、日替わり定食の五目そばを食べて一息入れる。 混雑しているので、ゆっくりと過ごす。(11:55-12:30)

⑬廣端寺東の天神山

廣端禅寺 本堂

昼食


府道を東に進み、先程曲がった広い交叉点に戻り、北に向かう。少し進んだ富田小学校の向かい側に碑が立ってるので確認すると「大宅壮一生誕の地」だ。 富田に生まれられたのだと驚き、碑文を読むと富田尋常小学校時代から文学少年だったそうで、茨木高校から東大に進学され、執筆活動のため中退されたと。 その後、ジャーナリストとして活躍され、懐かしい「一億総白痴化」「駅弁大学」等の時代を捉えた言葉を生みだした。今で云えば、流行語大賞だろう。
その先の細い道を右折して進むと午前中に訪れた「⑨普門寺前の道標と尼崎道」の標識に戻り。先程は立ち寄らなかった「普門寺」の参道を進む。右横は 「三輪神社」で参道の左に「⑭旧富田小学校の門柱」が残っている。大宅壮一の出身校の門柱なのだ。 奥の「普門寺」に参拝し、参道を道標に戻る。

大宅壮一生誕の地

⑭旧富田小学校の門柱

普門寺


「三輪神社」の前から左折して、神社に沿って左折した先に「⑮出世地蔵」が祀られている。神仏分離により「三輪神社」の外に出された地蔵尊を信者が ここに祀ったが、何度安置しても転ぶ状態が続いたと。しかし、10年目に転ばなくなった。それは地蔵が修行をし高い位(阿闍梨)を得たからだとして 「出世地蔵」と名付けられたと。
少し先左に立派な「本照寺」が建ち、本堂に向かう途中左に「⑯本照寺富寿栄の松を支えた石柱」が残っている。「本照寺」には、かって「富寿栄の松」と 云う樹齢約700年の松の大木が境内を覆うほど枝を広げ、天然記念物に指定されていたと。昭和43年(1986)に枯れた松を支えた石柱だと。
「本照寺」の前の道を進み、左折して少し行くと筒井池公園に当たり、左の細い道の先の溝の柵に「⑰東岡宿の西門跡」の標識が立っている。これで、 「東岡宿」の全ての門跡を巡ったことになる。そんなに広いと は思えない「東岡宿」は土塁や堀に囲まれていたのだと思うと自衛手段が行き届いたいたの だろう。

⑮出世地蔵

⑯本照寺富寿栄の松を支えた石柱

⑰東岡宿の西門跡


その先を左折すると緩やかな坂道となり、旧家の前に「⑱跡坂」の標識が立っている。「跡坂」の由来は「普門寺」の後ろにある坂だからと云われていると。 この坂を上って進むと総持寺村に向かう「総持寺道」へと続いていたと。
右の細い道をクネクネと進み、細い道に出ると格子戸の古い家が連なり、その角には杉玉が吊られた「寿酒造」建っている。酒造の町・富田を代表する 酒造メーカーがここに建っていることを発見した。
元に戻ろうと少し迷いながら、溝沿いの道に戻る。少し先に「⑲五社の水」の標識が立っている。高槻北部で安威川から取水した水路を「五社水路」と呼ばれ、 古墳時代に開かれたと。枝分かれした水路は筒井池に流れ込み、周辺の田畑を潤した。地元では、この水路を「五社の水」と呼び、親しまれていたと。 富田は、この水脈で栄えたのだと思える小川・溝が多いのが理解できた。

⑱跡坂 格子戸の旧家

寿酒造

⑲五社の水


「高槻まちかど遺産マップ」をガイドブックとして、富田の史跡を巡った。隣町であったが、その実態を知らなかった者としては、その歴史・自然・民俗を 理解できるようになったのは嬉しい紀行だった。遺産の①から⑲までを全て踏破できたことも嬉しく思う。
満足感を持って、JR摂津富田駅に向かい、無料定期を活用して帰宅する。今日の歩行歩数は14000歩だった。




    
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