○ 「高槻市No5.」見聞録

1.高槻東地区探訪・(8.5km)
 2020.05.01 10:30~14:30 晴れ・夏日



今年の3月から「新型コロナウイルス感染」で日本中いや世界中が大災害となった。中国の武漢発生のウィルスが全世界に蔓延し、感染者・死者が 溢れる事態となり、自粛・移動禁止等の規制が広がった。
  日本でも初動の遅れから蔓延し、4月末で、11500名の感染、415名の死者が出る惨事となり、世界では、300万人以上の感染・20万人以上の 死者と世界経済にも大きなダメージを与えることとなった。
「旧街道・日本縦断」紀行計画は、その騒動の前、2月中旬に5月中旬実施で、飛行機の予約をしていたが、3月以降、全ての飲み会・花見 等々が中止になり、「緊急事態宣言」が実施され、諦めざるをなくなり、キャンセルした次第だ。そのため、近場の散策で、運動不足解消を することにする。

以前、高槻市の史跡巡りを実施した時に入手した「高槻まちかど遺産マップ(上牧・高槻東周辺地区)」を参照して、自宅から自宅への 探索を実施することにした。
5月初日から夏日になるとの予報だが、10時30分頃家を出て、淀川堤防まで進む。
例年、鵜殿の葦焼は2月に行われるが、2回連続で雨のため中止となり、葦焼は行われなかったのかの確認も含め、淀川堤防に上ると 焼跡の痕跡はなく、葦は刈られているが、青々と草が茂っている。

淀川堤防

鵜殿葦の原の碑

青空の下、広々と広がる淀川河川敷の緑の平原を眺めながら上流に向かう。
葦焼の痕跡は見当たらず、雑草も活き活きと育ち、青空と緑が気持ち良い。堤防沿いに「鵜殿の葦原」の石碑が立っている。この辺りが 鵜殿の中心に当たるのだろう。葦焼の時には、俳句を詠む方がたくさん眺めているのを想い出す。
暖かい風を感じながら上流に向かうと河川敷に工事車がたくさん集まっている。クレーン車もあり、「新名神高速道路」の橋桁工事現場の ようだ。鵜殿の真ん中を避けて、少し上流に設置されるようだ。鵜殿の葦からは、雅楽の笙等のリード材に加工される貴重なもので、 この地の葦から作られているため、その場所を避けたのだろうかと。
堤防には、散策する人・ランニングする人が時々すれ違うが、密集することはなく、それぞれ運動不足解消に励んでいるのであろうと。 気持ちよく進んだ淀川河川敷から高槻市東端の上牧自由宅地に降りていく。
住宅地の中を縫って進むと小川に当たり、道角に本澄寺の常夜灯が立っている。「街角マップ」には記載されていないため、パスして川沿いに進む。

淀川の遊歩道

新名神高速道路工事

本澄寺の常夜灯


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

川沿いに進むと「まちかど遺産マップ」の第一番史跡となる「タイガース橋」が架かっている。タイガースの由来が書かれている標識を探すが 見つからず、竣工昭和39年とあるので、阪神優勝に関係あるのかと推測する。

タイガ-ス橋

皿うどんと餃子定食

帰宅して調べると、以前この付近にタイガースゴムと云う会社があり、その社名から命名されたそうだ。そう云えば、その昔タイガー ゴルフ練習場があり、その後、金光大阪高校になったことを思い出した。しかし、大阪らしい名前があるのに驚く。
昼食時間となったので、車で何度も通った「リンガーハット」で皿うどんを食べることにする。運転免許を返納してから初めての訪問だ。 店内は「三密」を避けるため、椅子の間隔も広げるレイアウトになっている。皿うどんと餃子定食頼んで、久しぶりに美味しくいただく。 (12:10-12:35)
美味しい昼食を終え、「まちかど遺産マップ」の史跡を探索を続ける。阪急の高架下を抜け、JR東海道線の線路沿いに小さな公園があり 「神南備の森跡」の案内板が立っている。案内板によれば、旧山陽道の管駅跡とも推定され、古今集にも詠まれている地名だと。
公園の入り口には、「梶原大場跡」「神内山古戦場」の小さな「高槻まちかと遺産案内碑」が立っている。以前、歩いた時にも観た優れものの 案内碑だ。「梶原大場跡」が、幕末の砲台跡とは知らなかったし、ひょっとすれば、歴史上の史跡として有名になっていたのかと。 「神内山古戦場」も南北時代に古戦場があったことを知り、この地域の重要さを再認識した次第だ。

神南備の森跡

高槻まちかと遺産案内碑

梶原大場跡 神内山古戦場


JRの線路を抜けると「西国街道」だ。2012年1月に、「中山道」を踏破した後、三条大橋から歩き始めた 「西国街道」で、ここから下関までの 「旧山陽道」を歩いたのだ。
JRの線路沿いの旧街道を進むと右の山に「妙浄寺」が建ち、その先には「梶原一里塚跡」のお堂が祀られている。一里塚に地蔵尊が 祀られているのは珍しいと思いながら、反対側を観ると「船本松太郎碑」が立っている。船本松太郎は、明治時代の相撲取りの集団で、 奉納相撲を行っていたと。

妙浄寺

梶原一里塚跡

船本松太郎碑


しばらく静かな「西国街道」の街並みを懐かしく思いながら進むと立派な「一乗寺」が建っている。
ここにも「一乗寺山門の柱継手」と「弁慶の駒つなぎ」のクスノキの「まちかど遺跡」碑がある。立派な山門の柱の継手は特殊な工法で 修復されているらしいが、よく理解できない。境内の大クスノキは、樹齢780年、幹周り6.6m、樹高29mの立派なもので、弁慶が馬を繫いだ との伝説があるらしい。(画像回転できず?)

西国街道の街並み

一乗寺 柱継手

大クスノキ


その先に「畑山神社」が鎮座する。昔は「梶原寺」と合祀されていたそうで、その遺跡が発掘されている。山門の横に「歯痛地蔵尊」が 祀られている。旧街道筋に時々見られる歯痛地蔵尊には親しみが沸く。
山門から境内に入ると立派な本殿があり、境内の端には「梶原寺の礎石」が展示されている。また、その先には「伝・林丹波守の五輪塔」が 祀られている。林丹波守は、徳川家康の旗本で、小早川秀秋の家臣として関ケ原の戦いに参戦したと。

畑山神社山門 歯痛地蔵尊

畑山神社本殿 梶原寺の礎石

伝・林丹波守の五輪塔


「畑山神社」の横から出て、名神高速道路の方に上って行くと「田中寺」が建ち、その先高速道路下に「延命・子育て地蔵尊」が 祀られている。昭和30年頃、西国街道の水道工事現場で発見され、ここに祀られているのだと。
西国街道に戻り、西に向かう。数年前、名神と新名神高速道路のJCTができた時、アクセス道路として国道171号線と高槻JCTが結ばれた 高架道路できている。この辺りの環境も大きく変わったのだ。このJCT建設のため、家庭菜園をやめることになったのだ。
そのアクセス道路は、JR東海道本線を高架で渡っている。その下付近の東海道本線のトンネルが「まちかど遺産」に指定されているので 探しに行く。山側からは分からなかったが、目ぼしいトンネルをくぐり、反対側から見ると「レンガ造りのアーチ橋」のトンネルに なっているのを発見。東海道本線設置時からのトンネルだろうと思われるが「まつかど遺産案内板」が見当たらないのは残念だ。

田中寺

延命・子育て地蔵尊

レンガ造りのアーチ橋


再び、西国街道に戻るが、夏日となった日差しはきつく、計画では、最近よく散策に行く「墓地公園」や「安満遺跡跡」まで行こうと 考えていたが、無理せず家に戻ることにする。

桧尾橋の欄干

地蔵堂

散歩コースの桧尾川の堤防にやってきた。西国街道は桧尾橋で渡るその欄干の模様が、街道らしい大名行列になっているのは嬉しく、 毎回通る度に眺めている景色だ。
橋を渡った所に「地蔵堂」が祀られているのも毎回眺めている風景だ。散歩コースを改めて探索するのも面白いものだと思いながら 帰宅する。
暑さで、汗まみれとなり、長袖をまくっていた腕は、真っ赤に日焼けしている。この時期の紫外線の強さを再認識した次第だ。 濡れタオルで体を拭って、久しぶりの探索紀行に満足する。
コロナ騒動の終息は予見できず、まだまだ不安定な時期が続きそうだ。「奥州街道」紀行や仲間たちとの紀行もできないので、近場の 探索で体力の維持を図りたいものだ。本日の歩行歩数は、15100歩だった。

Windows10に変更してから、一部の画像回転が上手くできない。原因不明なのでご容赦を。




    
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