○ 「高槻市No6.」見聞録

1.高槻・芥川地区探訪・(12.5km)
 2021.01.20. 10:40~15:15 晴れ・大寒



昨年来のコロナ禍から1年経つが、終息の気配は見えず、益々拡大している状態だ。政府の後手後手の施策で、緊急事態宣言が再び発出 され、首都圏・関西圏・中部圏・福岡と午後8時以降の外出自粛になっている。飲食店の被害は甚大だ。今日から国会も始まったが、 改善がなされるのだろうか・・・・?
昨年来、外出・紀行の機会も自粛し、巣篭り状態で、ストレスも溜まり、今年は「旧街道・日本縦断」達成を期しているので、身体を 動かすことも必要だと考え、地元の史跡探索に繰り出す。

以前、高槻市の史跡巡りを実施した時に入手した「高槻まちかど遺産マップ(高槻・芥川地区)」を参照して、自宅から自宅への 探索を実施することにした。
今日は大寒と云うことで、朝の冷え込みはきつかったが、天気も良く紀行には最適の気候だ。
10時40分、家を出て、直ぐの「西国街道」に向かう。この街道は、「中山道」を踏破した後、2012年1月に京都三条大橋から歩き出した 街道だ。その頃は「旧街道・日本縦断」は夢にも考えていなかったが、 この「西国街道・山陽道」を踏破し、「薩摩街道」で 鹿児島に到達した頃から「旧街道・日本縦断」を意識するようになった第二ステップの街道だ。

山手町薬師堂

能因塚墳


一昨年に免許返納をして以来、この旧街道を歩くのは久し振りで、古い家は潰され、新しい家並みが続くのに驚きながら進む。 旧街道は変わってきている。
しかし、以前歩いた時に見た史跡が残っているのは嬉しい。街並みは変わっても、史跡は残っているのだ。 「山手町薬師堂」を確認し、狭い「西国街道」を進むと「能因塚墳」の碑が迎えてくれる。以前と同じ光景だ。
その先のJR高槻駅近辺は大きく変わった。関西大学・高槻病院・タワーマンションが立ち並び、見間違えるような光景だ。以前の 西武百貨店は退散し、今は高槻阪急百貨店に衣替えし、人通りも変わった近代都市となっている。
駅前の「上宮天満宮」の鳥居を確認し進むと、その先の道路は拡幅され二車線となり、大きく変貌している。しかし、その先には古い 格子のお屋敷がある新旧混ざった町が続く。

高層ビルの駅前

上宮天満宮」の鳥居

格子のある旧家


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

突き当たりは枡形になっていて、その角に祠が祀られ「芥川仇討の辻」の案内板が立ち、賎ヶ岳七本槍の一人加藤嘉明の曾孫14歳の 助三郎がこの辻で親の仇討をしたと。以前にこの史跡を初めて知ったことを想い出す。
この辺りは「芥川宿」で少し進んだ角に「芥川一里塚跡」の碑と祠が祀られている。

芥川一里塚跡

西国街道は、8世紀の山陽道の後身にあたり、約8.1kmにわたり市域を東西に貫いています。京から大宰府に通じ、淀川とともに三島地域の 政治・経済に大きな影響を及ぼしました。現在の道筋は、14世紀ごろに固定化したとみられ、三好長慶や高山右近、さらには織田信長、 豊臣秀吉らが駆け抜けた道です。
江戸時代には脇街道として「山崎通(やまざきみち)」と呼ばれ、京都・山崎と西宮間を結んで西国大名の参勤などに利用され、 同時に京坂間の交通路として重要な役割を果たしました。
街道沿いには、一里塚が設けられ宿場が整えられていました。一里塚とは、1里ごとに街道の両脇に塚を築き、エノキを植えて、 街道の路程の目印としたものです。市域では梶原と芥川にありましたが、現在は旧芥川宿東口の東側だけに残り、 府の史跡に指定されています。 (高槻市HPより)

高槻市内の真ん中に「芥川一里塚跡」残っているのは嬉しい。この辺りが「旧芥川宿」で、宿場町として賑わっていたのであろうと 想像しながら枡形を右折し、芥川方向に向かう。
芥川の堤防からが「高槻まちかど遺産マップ(高槻・芥川地区)」の史跡巡りが始まる。まず、堤防の右側に「愛宕灯篭と子宝地蔵堂」が 祀られている。その前には「芥川宿水門跡」の小さな標識が立っている。今回の史跡巡りには、史跡毎に小さな標識で説明しているのは 有難い。

芥川仇討の辻

愛宕灯篭と子宝地蔵堂

芥川宿水門跡


その先には「芥川の金毘羅灯篭」が立ち、この辺りでも金毘羅宮信仰が深かったことを表している。その横には「橋詰地蔵堂」が 祀られており、丁度、地元の方が掃除しておられた。
芥川の橋の上から芥川を眺める。昨年の大雨で、浸水手前まで増水したので、補修工事が行われているのを確認して、本来の探索を 進めることにする。橋の向こうに「西国街道」が西宮へと続くのだ。

芥川の金毘羅灯篭

橋詰地蔵堂

芥川


堤防を元来た道に戻り、細い道を左折するとJT医薬総合研究所の敷地に当たり「芥川小学校跡」の碑が立っている。JTは小学校跡に 設立されたのだ。道沿いに右折して進むと先程通った「芥川仇討の辻」に当たり、そのまま直進すると「芥川宿と城下町を結ぶ道」の 細い道に通じるが、標識を見つけることはできなかった。

芥川小学校跡の碑

古い家屋

そのまま道なりに進むとJR高槻駅に至り、駅橋上に「山崎合戦の秀吉本陣跡」があるはずなので、方々探し、観光案内所にも尋ねるが 分からなかった。こんな所に秀吉の本陣があったことも知らなかったので、今後調べてみたいものだ。
JR高槻駅から郵便局に進み、コンビニの角辺りに「松永久秀の鼓塚」があるらしいが、これも発見できず、都市部の標識がないのが 分かったが、歴史の一端を感じることができた。
松坂屋百貨店の横を通り、大通りを左折し、細い道を左折すると「芥川口とのこぎり形の家並み」の標識も発見できず、新しい家屋が 多い中、古い家屋を見つけてパチリと。
12時も過ぎ、昼食にしようと新しくできた阪急高槻駅のラーメン屋に行くが、長い行列なので、諦めて高槻城下町方向に進み、餃子屋が あったので、昼食とする。(12:20-12:40)
城北通りを進み、国道171号線の交差点を渡り、直ぐの道を左折する。この辺りは、寺町となっており、寺院が点在している。 狭い道を進むと円成寺が建ち、その先の角に「京口と円成寺前の道標」が立っている。ここからの方角毎に行く先が詳しく彫られている 立派な道標だ。右は京・山崎・淀・・・左は大坂・とんだ・茨木…等が示されている。
その先を右折し、少し進んだ先を右折すると道角に「前島口と本町通り東辻の道標」が立っている。先程と同じように詳しく彫られている 立派な道標に驚く。城下町の角々に道標が設置されているのだ。

寺町通りの道

京口と円成寺前の道標 標識

前島口と本町通り東辻の道標


通りを目印を追いながら進んでいると「しろあと歴史館」の前に来てしまった。ここは以前に訪れたことがあるので、後程訪れる ことにし、前の細道を縫って進む。
細い道角に「愛宕信仰の灯篭」を確認し「高槻城の外堀道」を探すが、標識を見つけられず、現代劇場の通りまで進み、ここで 「高槻城北大手門跡」を探すが、これも発見できなかった。本当にあるのかと疑うが・・・
現代劇場の手前にカトリック高槻教会が建ち、その中に「高山右近の像」が立っている。キリシタン大名として有名な高山右近が 亡くなったマニラの聖母大聖堂をモデルに建てられたと。
次は、市民会館の裏側の史跡を探索しようと市民会館の中を抜け、裏側の門柱に「高槻城三の丸と外堀跡」の標識を発見するが、 それらしき史跡は残っていない。城跡の史跡は、ほとんど残っていないようだ。 その先に「高槻城出丸の門跡」の標識を見つけるが、史跡は残っていない。

愛宕信仰の灯篭

高山右近の像

高槻城三の丸と外堀跡 出丸の標識


市民会館の中を元に戻り、隣の「野見神社」に参拝する。恵比寿神社でもあり、今年の10日戎はコロナの影響で人出は少なかったようだが、 例年は賑わうスポットだ。
その向かい側のと道路沿いに「ムクノキ大明神」が祀られているが、老木となっているのは寂しい。道なりに左折すると右側に 「しろあと歴史館」が建ち、その前に「思案石」が置かれている。

野見神社

ムクノキ大明神

思案石


高槻城に関する資料を集めた「しろあと歴史館」を見学する。館内には、城の歴史や高山右近に関する資料等が展示されており< ゆっくりと見学する。

しろあと歴史館

高槻城下見取り図

高槻城は、南北朝期の入江氏の居館に始まり、永禄12年(1569)に和田惟政が城としての基礎を固め、天正元年(1573)に高山右近が 町屋を城内にとりこんで堅固な城郭を築きました。また右近は熱心なキリシタンで、キリスト教を手厚く保護し、天主教会堂を拠点に 布教をすすめてたと伝えられています。
江戸時代、北摂唯一の城郭として重要な役割を果たした高槻城。大坂夏の陣ののち元和3年(1617)、江戸幕府による直営改修工事が 行われ、慶安2年 (1649)には永井直清が入城、以後13代、幕末まで高槻藩3万6千石の譜代大名永井家の居城となります。 明治7年(1874)に京阪間鉄道建設のため石垣が破却され、用材として使われました。 (高槻市HPより)

「高槻城下」の見取り図も展示刺されており、標識がなかった場所も想像しながら、この一角を廻ったのだと納得する。ほとんど 残っていないが、北摂の一大拠点だったことは誇りだ。
充実した気分で外に出て、「城跡公園」の方に進む。以前、子供プールがあった場所は、新しい会館が建つようで建設中である。 なかなか立派な劇場ができるようだ。

高槻城城跡公園

工兵第四聯隊跡の碑

少し先には「高槻城城跡公園」が静かに迎えてくれる。広々とした公園で、もう直すると梅便りも届けてくれるだろうと。
以前には気付かなかった「工兵第四聯隊跡」の碑が立っている。その奥にレンガ造りの営門が残っており、ここに軍隊の一部が あったのは知らなかった。高槻にも軍部の施設があったのだと。
公園の一角に「高槻城跡」の案内板が立っている。先程「しろあと歴史館」で観た資料の説明や城下の見取り図もあり、改めて 高槻城の雄大さを感じる。
静かな公園の中を散策する。ウィークデイの昼間なので、人影は少なく、緑の空間を楽しみながら進むと大きな「高山右近像」が 立っている。高槻と高山右近は離せないのだ。キリシタン大名として、秀吉にも信念を曲げずに、フィリピンで亡くなった その歴史的意義は凄いと感じる。
更に奥に進むと小さな濠があり、石垣の先に「高山右近像」が望まれる。史跡の跡が残っていなかったので、高槻城を感じられる 光景にしばし静かに眺めて昔を偲ぶ。

高槻城跡の案内板

高山右近像

高槻城堀跡と高山右近像


今回の紀行の目的を果たしたので、歩いていない道を辿りながら15時過ぎに帰宅する。本日の歩行歩数は、12100歩だった。 緊急事態宣言の中、近場の散策を実施したが、誰とも話すことがなく平穏な紀行だった。




    
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