○ 「高槻市No7.」見聞録

1.古曽部地区探訪・(13.0km)
 2021.02.04. 11:00~15:00 晴れ


コロナの感染者数は、漸減の傾向にあるが、2/7までの緊急事態宣言は1ケ月延長されることになった。感染は減少傾向だが、医療体制の 崩壊状態が続くため、延期は止むを得ないが、飲食店を始め関連企業、観光業等経営悪化が顕著である。外出規制もあるので、 遠出はできない状態だ。
そのため、前回に続き、高槻の史跡探訪に向かうことにし、近くの「古曽部探索」を実施する。高槻市観光協会発行の「歌ごころを 偲びつつ町歩き・古曽部」のパンフレットを手に紀行する。

2/5、11時頃、出発する。 確定申告の受付も始まったので、前回探訪した高槻城址にある市民会館の会場に、前回歩いた道を辿りながら進む。会場の屋外に 行列ができている。相談窓口の列は予約制だが、提出のみの列は15分位で館内に入ることができ、館内でも15分程待機して、無事申告が終わる。 年金生活なので、還付金も少ないが、昼食はできるだろうと。
12時20分、昼食を食べJR高槻駅から本日の紀行をスタートする。

西国街道横の上宮天満宮鳥居

昼神車塚古墳跡碑

阪急高槻百貨店の横を通り、前回歩いた「西国街道」を横切ると大きな「上宮天満宮」の鳥居が迎えてくれる。
その先に天満宮の 石段があるが、右横の丘が「昼神車塚古墳」となっている。丘の下はトンネルになっており、何度も車で通った所だが、 古墳を訪れるのは初めてだ。
何処かに入り口があるだろうと探すが、周辺は宅地になっており分からず、一周して戻った金網の中に「昼神車塚古墳」碑が立っている。 全長60m、後円部直径30mの前方後円墳で、発掘時イノシシ・イヌ・狩人の埴輪が出土されたそうだが、その姿は見られなかった。
「上宮(じょうぐう)天満宮」の石段を上って行く。受験シーズンだが、平日なので参拝者は少なく、久し振りの天満宮の石段を上る。20年位は 訪れていないだろう。
「上宮天満宮」は、菅原道真を祀り、太宰府に次いで2番目に造営されたという古い由緒があり、西国街道沿いにもあるので、参拝者が 多かったようだ。本殿に、少し早いが来春受験する孫息子の合格を祈願し、境内を見廻す。
白梅が見頃になっており、天神さんと梅の対比を満喫する。高台の境内からは、高槻駅周辺の高層ビルも望まれ、高く上ったことを認識する。

上宮天満宮の石段

上宮天満宮本殿

白梅


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

天神山遺跡の案内板

街歩き道標

天満宮の石段を下り、西側のきつい坂道をゆっくりと上ると公園の中に「天神山遺跡」の案内板が立っている。
この辺りは遺跡も多く、埴輪の出土もあり、説明版の横には埴輪も並んでいる。
右折して進むと道横に観光協会が設置した「街歩き道標」が立ち、次の「伊勢寺」の方向を示している。これからも、この道標が これからの史跡に誘導してくれたのは有難い。
市道を進むと左に「伊勢寺」の石段がある。その石段を上り、境内に進むと「伊勢姫の句碑」が立っている。
伊勢寺は、曹洞宗に属し、聖観音を本尊とする寺院で、三十六歌仙の一人で平安中期の女流歌人、伊勢姫が晩年を過ごした草庵跡に 建立されたと。句碑には「難波潟 みじかき葦の ふしの間も 逢はでこの世を 過してよとや」 と刻まれている。 この古曽部地区に平安時代の歌人の史跡があることを知らなかったので、良い機会だ。
静かな境内で、平安時代の雅な光景を想いながら一息入れる。高槻の高台に憩いの場所があると認識する。

伊勢寺の石段

伊勢寺・本堂

伊勢姫の句碑 句碑


坂道を下り、道標に誘導され細い道を左折する。道なりに進むと左に「日吉神社」が鎮座するが、石段の奥に本殿がありそうなので パスして進む。
更に道標に沿って進んで行くと右の田圃の中に「文塚」の案内板が立っている。中世三十六歌仙の一人で平安時代の代表的歌人・能因法師が死期を前に して吟稿(和歌の原稿)を埋めた所だと。
アップダウンのある細い道を進むが次の「不老水」が見つからない。戻って探すと藪の中に細い道があり、その奥に「不老水」の井戸が 残っている。晩年、老いを知った能因法師が不老不死を願って煎茶に使用したといわれているのがこの名水の井戸だそうだ。 能因法師も人の子だと・・・・。

日吉神社

文塚

不老水


元に戻って、道標に従って次の「伝能因法師塚」に向かう。細い道の中での道標は有難い。
細い道から左に入れとの指示に従って左に入ると田圃的な広場があり、その奥に木立に囲まれた「伝能因法師塚」が迎えてくれる。

伝能因法師塚

能因塚の名で親しまれる伝能因法師墳は、平安時代の歌人、能因法師の墓と伝えられています。伊勢姫の作風を慕いつつ、 当時の歌道の第一人者であった藤原長能に学び、各地を旅して優れた作品を残しました。
墳墓正面の顕彰碑は高槻藩主永井直清が建てたものといわれ、市の史跡に指定されています。(高槻市観光協会HPより)

伝能因法師句碑


広い空間の先の木立に向かう。
宅地開発が進んでいる中、よく保存されていたと感心しながら塚の周囲を廻ってみる。ドングリがたくさん落ちている一角に 能因法師の句碑が立っている。

「やまざとの はるの夕ぐれ きてみれば いりあひの鐘に 花ぞちりけり」と彫られている。
伊勢姫とその作風を慕って、この地に居を構えて歌道に専念した能因法師の二人が居住した古曽部の集落が如何に歌道に貢献したかを 初めて知ることとができた。歴史のある高槻に誇りを持つ次第だ。

古曽部窯跡の碑

花の井

次の史跡を求めて道標に従って進む。
くねくねと曲がった細い道の民家の玄関の生け垣の中に「古曽部窯跡」の碑を見つける。
古曽部焼きは 江戸時代後期から明治時代末にかけて、古曽部町の五十嵐4代の陶工が営んだ地方窯跡で、その作は「古曽部焼」として庶民は もとより、茶人や文人にも愛されましたと。
高槻に窯元もあったことも知る。古墳時代の埴輪工場は以前に見学したが、近世にも 窯業が盛んだったのも認識できた。
道標通り、広い府道を渡り小道に入ると「花の井」の史跡がある。これも能因法師が、日常生活に使用していたと伝わる井戸だと。 ここにも能因法師に関する遺跡があるのだ。能因法師は古曽部の集落と関連が深い歌人だったと認識し、今回の紀行を終える。
この辺りは、子供たちが通った小学校の校区でもあり、今までの認識不足を痛感しながら帰宅する。
今日の歩行歩数は、22000歩だった。




    
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