[日本橋〜越谷][越谷〜幸手][幸手〜古河]


○ 「日光街道No1」見聞録(日本橋〜古河)・(距離 66.7km(今回)/ 66.7km(累計))

  1.「日光街道」日本橋〜越谷・(25.9km) 2015.05.26 7:50〜17:20 晴れ


日光街道マップ
(幸手観光協会より)
日光街道・奥州街道(宇都宮〜白河)宿場一覧
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「日本橋〜越谷・行程MAP」

地図の再生ボタン()を押すと
見聞ルートに沿って歩行出来ます。

昨年(2014年)秋、「旧山陽道」紀行を小学校以来の友人O君・N君と3人で、京都・大阪から下関まで踏破した。
その間、並行的に単独で「薩摩街道」を歩き、本年(2015年)2月に鹿児島まで歩き、「坊津(薩摩)街道」とも云える坊津までの行程を調査したが、 明確な回答を得られず、「薩摩街道」は鹿児島市まで踏破したことにした。
次の旧街道を検討した結果、以前(2012年)「中山道」を踏破しているので、薩摩から長州・京を経由して、江戸までの旧街道を踏破したこと になり、北に向かって「日本縦断」を達成しようと決断した。
まずは、江戸・日本橋から「日光街道」を日光まで進み、その後「奥州街道」を宇都宮から北に向かい、最終は津軽半島・竜飛岬まで進み、 蝦夷の地を望みたいと考えた次第だ。生きている間に到達できるか不安があるが、目標は大きく持とうと「日光街道」をスタートする。

「日光街道」紀行を具体化する過程で、大学時代・体育会事務局で活動したTJ君・TB君と紀行の帰りに、東京で会おうとスケジュール調整をし、 5/25夜行バスで出発・2泊3日で、5/28の夜行バスまでの間に懇親会を行うことにしていた。事前調整の過程で、日本橋のスタートから、適当な場所まで 同行したいとの嬉しい提案があり、5/26・7時30分に東京駅八重洲中央口に集合することになった。

5/25、23時10分発の夜行バスに乗るべく、9時過ぎに家を出て、梅田の立ち飲みで睡眠導入剤を仕入れて停留所に向かう。東京方面の夜行バスは 20本余りあり、待合所は大混雑だ。次々と東京行が出発するが、全て満席のようだ。

鍛冶橋の案内板

朝定食

定刻通り、通路側に座り、満席のバスは出発する。直ぐに眠り、次の長岡京に停まったのも知らず、トイレ休憩の浜松SAまで、ぐっすりと。
その後、海老名SAで停まり、6時20分定刻通り、東京八重洲鍛冶橋バスターミナルに到着する。
バス停から集合場所の八重洲中央口に向かう間に「鍛冶橋」の案内板を見付け、「日光街道」紀行に向かう前に史跡を発見し、幸先が良いと。
八重洲中央口を確認し、この時間に開店している食事処として、近くの「吉野家」で朝食を食べる。24時間営業の店を見付けておくことは 重要だ。
東京駅は久し振りで、早朝の駅の雰囲気を見物しながら、待ち合わせ場所で休憩する。時間前にTJ君が現れ、10数年ぶりの再会に握手。 直ぐにTB君も到着し、大阪で会って以来、1年振りの握手でご挨拶。

日本国道路元標


応援団出身のTJ君委員長の下、フェンシング部出身のTB君と運動部の強化・結束に注力した当時を想い出す昔の仲間との再会は嬉しいものだ。
また、小生の「日光街道」紀行のスタートを共にしようとの申し出も嬉しく、現況を話しながら、スタート地点である日本橋に向かう。
日本橋は、もう2年前になる2013年6月に「中山道」紀行の最終行程を 息子・孫たちと歩き、妻・息子の家族・妹が迎えてくれた想い出の場所だ。
その後、「旧山陽道」紀行から、 「薩摩街道」紀行を踏破し、今回の「日光街道」紀行に 結びつけた地点だ。
7時50分、「日光街道」紀行をスタートする。
日本橋の高架下にある「日本国道路元標」の写真を写すべく、道路の真ん中の標識に向かいパチリと。ここが、日本の国道・道路の中心なのだ。 橋を渡ると「里程元標」の碑が立ち、各地への距離が示されている。
京都まで503km、大阪・550km、下関1076km、鹿児島1469kmと記されている。 国道で進んでも、鹿児島まで1469km、とあり、江戸から薩摩まで、実際歩いた距離は、1585km以上だと改めて認識する。
これからの距離を調べると、宇都宮・107km、仙台・350km、青森・736kmと記されている。竜飛岬までは800km程度の歩行になるだろうと、覚悟を 決める。ここで、「日光街道」紀行スタートの3人での記念撮影をする。

里程元標の碑

各地への距離表示・西

出発の記念撮影


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

少しの間「中山道」と同じルートを進み、三越百貨店を過ぎ、室町3丁目南交叉点を右折する。朝日が眩しく、陰を選んで、まだ通勤の方も少ない 旧街道を進んで行く。昭和通りの地下道を抜け、しばらく進んだ右に、初めての史跡となる「旧日光街道道標」が立っている。新しい道標だが 旧街道だと確認できるのは嬉しい。
次の交叉点を左折し、「十思公園」に寄り道する。江戸通りを渡った先を左に入ると「伝馬町屋敷牢」があった所で、広大な敷地に全国の 囚人が集められたと。吉田松陰もここで処刑され「松陰先生終焉地」の碑が祀られている。公園の中には「鐘楼」もあり、処刑された囚人を 弔っているのだろう。

都心の旧街道

旧日光街道道標

松陰先生終焉地の碑 鐘楼


旧街道に戻り、大伝馬本町通りを進む。ここは、大阪の丼池と同じように、江戸時代から続く繊維問屋街で、衣料品を店頭に出す開店準備の 店が連なっている。学生時代、TJ君が大阪の繊維問屋でアルバイトしていたことを想い出す。
日陰を選りながら進むと浅草橋の地下道に入るが、工事中の場所があり、地上に出て、確認すると間違いで、再び地下道で、交番のある 緑地帯に到着する。ツツジの花壇の中に「郡代屋敷跡」の説明板が立っている。関東一円の幕府直轄地を統括する代官所であるが、地元の人達は 郡代屋敷と呼んでいたと。
すぐ神田川に架けられた浅草橋を渡ると川面には屋形舟がたくさん停泊している。なかなか風情のある風景だ。
神田川を渡ると 「浅草見付跡碑」が立っている。浅草橋は軍事上の重要拠点であり、日光・奥州街道筋の江戸を警護する見付があった所だ。ここで一息入れる。 (8:40-8:45)

繊維問屋街

郡代屋敷跡の説明板 屋形舟

浅草見付跡碑


JR総武線の浅草橋駅高架下を抜け、少し先の交叉点を右折すると「榊神社」が鎮座し、境内にはで「浅草文庫」の大きな碑が立っている。 「浅草文庫」は、明治7年(1874)に創設された官立の図書館で、当時の和・漢・洋の蔵書数は11万〜13万冊ともいわれ、 明治14年に封鎖された後、その蔵書は国立公文書館内閣文庫や国立国会図書館などに所蔵されていると。
元の交叉点に戻り、真っ直ぐに進むと「駒形どぜう」の大きな看板が目に付き、有名な「どぜう」料理の店だと確認する。立派な店構えだ。 その先の交叉点の角には、右前方に架かる駒形橋の名前の由来となった「駒形堂」の赤い建物が建っている。少し進んだ、ビルの間からは、 東京スカイツリーの雄姿が見られ、浅草が近いことを教えてくれる。

榊神社 浅草文庫碑

駒形堂

東京スカイツリー


そのまま直進し、吾妻橋の交叉点を左折し「雷門」を観に行く。

雷門

戦争被害者の碑&言問橋の縁石

門前は観光客が多く、外国人も多い。最近の京都は、東洋系の外国人が多いが、 ここは、西欧系の方の方が多いような気がする。記念に、大きな提灯をパチリと。浅草寺は何回か訪れているのでパスして元に戻る。
吾妻橋交叉点から隅田川沿いの旧街道を進み、東武線のガード下を抜けると、言問橋に通じる道路と交叉し、渡ると公園になっていてその角に 「戦争被害者」の碑が立ち、その横には、言問橋の縁石が置かれている。この辺りは、東京大空襲等の戦災が激しかったそうだ。 ここで、一息入れ、塩飴を舐め、疲れを癒す。(9:45-9:55)
言問橋西交叉点は五叉路になっており、V字型の左が旧街道だが、右に進み「待乳山(まつちやま)聖天」に立ち寄り、 都心とは思えない静かな神社に参拝する。

待乳山聖天

待乳山聖天は、正月、ことに松の内は毘沙門天をまつる聖天さまもいつも賑わっている。 正月といえば恒例行事になっている「大根まつり」もたくさんの信者の方がたがおしよせる。大根と巾着(砂金袋)はこの寺のシンボルである。
大根は消化がよく栄養価が高いところから健康増進、一家和合のもと、巾着は金銀財宝で、商売繁昌をあらわす。 いずれも聖天信仰に通じるものだとしている。
待乳山聖天は、正しくは金龍山本龍院という。推古朝の3年(595)に待乳山ができて、金竜が舞いおりたという。それから6年ほどたってから 十一面観音が大聖歓喜尊天となってあらわれたといわれる。本堂は震災、戦災にあい、当時を偲ぶものといえば、戸田茂睡歌碑や25mに及ぶ 江戸末期につくられたといわれる土塀ぐらいである。(台東区HPより抜粋)

築地塀

広い境内を進み、本殿に向かう途中、社務所に大根が250円で売られているのを不審に思いながら参拝する。後で、大根の由来を知り、 お供え用の大根だったと認識する。なるほど面白い風習があるのだと思った次第だ。
境内の奥の塀は、広重の錦絵にも描かれていると云う「築地塀」で、瓦を積み上げた土塀は美しく連なっている。
旧街道に戻り、少し先から右に入り、浅草高校裏の「今戸神社」に向かう。浅草高校は高層の立派な校舎で、最近の高校の変わり様に驚きながら 神社を探す。「今戸神社」は、源頼義・義家親子が奥州討伐の折、京都の石清水八幡宮を当地に勧進し、祈願したことが始まりで、陶器の今戸焼 の発祥の地として有名だと。境内には「今戸焼発祥の地」の碑が立ち、その横には、新選組の隊士「沖田総司終焉の地」の碑も立っている。 沖田総司は肺の病で療養していたが、この地で没したのだと。本殿に、若い女性が参拝しているのも、ファンなのかも知れない。
吉野通りと呼ばれる旧街道に戻り、泪橋交叉点を通り、常磐線を高架橋で渡り、南千住に入って行く。

今戸神社

今戸焼発祥の地&沖田総司終焉の地の碑

常磐線の高架橋


「日光街道(日本橋〜越谷@)」の「紀行スライドショー」

高架橋の上り下りはエレベーターを使っての省力に努め、南千住から初めての宿場「千住宿」に向かう。
高架橋を下りると左側に「小塚原刑場跡と小塚原の首切り地蔵」の案内板が立っている。江戸の刑場は、品川の鈴ヶ森刑場と 千住の小塚原刑場の二ヶ所で、 小塚原の刑場は、明治のはじめに刑場が廃止されるまでに、磔・斬罪・獄門などの刑が執行され、 首切り地蔵は、この刑死者の菩提をとむらうため寛保元年(1741)に造立されたものだと。
中に入ると墓石が立ち並び、中央には「首切り地蔵」が祀られている。先程通った泪橋はこの刑場にに赴く囚人が涙を流したか、見送る人の 涙なのかに由来する橋だったのだろう。
その横に「回向院」が建ち、中の墓場には、「吉田松陰の墓」や「橋本左内の墓」が祀られている。

小塚原刑場跡と首切り地蔵

吉田松陰の墓

橋本左内の墓


少し進むと国道4号線に合流する角に「素盞雄(すさのお)神社」が鎮座する。本殿に参拝し、松尾芭蕉の「奥の細道」出発地点であり、これから 「日光街道」を進むと芭蕉の句碑が多いだろうと思い、初めの句碑を静かに眺める。

素盞雄神社

矢立初めの句碑

この素盞雄神社のある千住は、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅へ出発した地点として知られ、「奥の細道」には「千じゆと云ふ所にて船をあがれば 前途三千里のおもひ胸にふさがりて幻のちまたに離別の泪をそゝぐ」と記されています。
この時芭蕉が詠んだ「行く春や鳥啼き魚の目は泪」の矢立初めの句碑(松尾芭蕉の碑)が境内にあります。 (荒川区HPより)

俳句を嗜むTJ君は、芭蕉の「奥の細道」にも精通していて、感慨を持って静かに瞑想している姿は、知らない姿だった。
神社を出て、国道4号線を千住大橋に向かう。最初の橋は文禄3年(1594)に架けられた隅田川最初の橋だそうで、現在の橋は昭和2年(1927)に 架けられた最初の鉄製アーチ橋だと。アーチには「大橋」と記されている。
橋を渡ると、岸辺の壁には「芭蕉と曽良の旅立ち」の壁画が描かれ、左側の「大橋公園」入り口に「矢立初めの地」の碑が立てらている。 公園の中には「奥の細道行程図」や「行く春や 鳥啼き魚の 目は泪」の句が刻まれた「矢立初の碑」が立っている。芭蕉の「奥の細道」出で立ち の地を実感する。

千住大橋 旅立ちの壁画

矢立初めの地の碑

奥の細道行程図 矢立初の碑


少し進み、国道4号線から右に入って行く細い道が旧街道だ。

芭蕉の石像

やっちゃ場南詰の木板

右側に、都中央卸売市場足立市場が建ち、その前に「奥の細道プチテラス」の小さい広場があり、「芭蕉の石像」が矢立初の句をしたためている。
その先には「此処は元やっちゃ場南詰」と記された木板が下げられている。
「やっちゃ場」とは、昔の青物市場の呼び名らしく、 朝早くから、せりのやっちゃやっちゃという声が鳴り響て活気溢れる問屋街だったそうだ。
「やっちゃ場」の中の家々の前には、当時の屋号の木札が掲げられ、その賑わいが伝えられてくる。
道幅や木札を観ながら進むと 左に大きな芭蕉句碑「鮎の子の しら魚送る 別哉 芭蕉」が立ち、その奥には、白壁の蔵 「千住宿歴史プチテラス」が建っている。のぞくと、三浦海岸の貝殻を使った工芸品の展示があり、見学する。
旧街道には、昭和5年の「やっちゃ場」の店の名前が書かれた地図もあり、当時の賑わいを改めて感じる。その先には「旧日光道中」の道標も立ち やがて、「やっちゃ場南詰」の木札を見ながら、進んで行く。

屋号の木札

芭蕉句碑と千住宿歴史プチテラス

やっちゃ場の地図 旧日光道中の道標


墨堤通りを横断し、源長寺の立派な山門を観て進むと東京芸大が建つ交叉点の左に「千住高札場跡」の碑が立ち、右方向に「一里塚跡」碑が 立っている。「千住宿」に入ったと確認し、日本橋から二里=8km進んだのだ。
交叉点を渡り、左の芸術センター前広場には「千住宿問屋場・貫目改所跡」の案内板が立ち、横の茂みの中に「問屋場跡」の石碑が立っている。 いよいよ、「千住宿」の中心部に来たのだ。しかし、東京芸術センターの建物が立派なのには驚く。

千住高札場跡の碑

一里塚の碑

千住宿問屋場・貫目改所跡の案内板&碑


旧街道は、賑やかな商店街に入り、その先の道を左に入ると「赤門寺」と云われる「勝専寺」の赤い山門が建っている。この寺には、 徳川秀忠が鷹狩りをした際に休憩所となり、家光の時代には境内に茶屋が造営され、度々立ち寄っていたと。
JR北千住駅に通じる道路を横切り、少し進んだ左の100均の店の前に「千住宿本陣跡」の碑が立っているのを探し回って確認する。なかなか 分からず、商店の前のごちゃごちゃした所に立っていた。
ここが、「千住宿」の中心だと話し、昼食場所を探すが、適当な所がなく、やっと中華料理店に入り、冷やし中華を頼むと明日からだと。仕方なく レバニラ定食と餃子を注文し、ここまでの行程を振り返りながら、会話が弾む。 昼食後、まだ歩くかと相談の結果、二人はここで終了とし、明後日夕方に、再会することにする。良い経験が出来たとの好印象だったのは 嬉しい限りだ。(12:00-12:40)  

勝専寺の赤い山門

千住宿本陣跡の碑

昼食


「日光街道(日本橋〜越谷A)」の「紀行スライドショー」

二人と別れて、単独での歩行となる。陽射しはきつくなり、水分補給には気を付けなければと、気を引き締めて進む。
少し進み、左の路地に曲がると「千住本氷川神社」が鎮座する。静かな境内には、「芭蕉句碑」が立っている。「春もやゝ 景色とゝのふ  月と梅」と云う句だ。この辺りには、芭蕉の足跡が強く残っている。
旧街道に戻り、「宿場町通り」のアーチをくぐり、鈴蘭灯で飾られた道を進むと公園の入口に「千住宿・高札場」が復元されている。町中で「千住宿」 を大切に保存している姿勢は嬉しい。

千住本氷川神社 芭蕉句碑

宿場町通り

千住宿・高札場


横山家住宅

千住絵馬屋・吉田家

少し進むと古い建屋の家が残っている。右には、松屋の屋号で紙問屋を営んでいた「横山家住宅」が建っている。江戸時代後期に立て られた建物だと。
その向かいには、「千住絵馬屋・吉田家」の建物で、胡粉と泥絵の具で絵馬を描く絵馬師は八代目だと。ガラス戸の中をのぞくと何か絵らしきものが 残っているが、ガラスの反射で、はっきりと分からない。それそれの家屋には説明板が立ち、 詳しく説明されている。
「千住宿」も終わり、静かな旧街道を進む。この辺りから、各地への旧街道の追分となるようで、少し先の道角に「水戸佐倉街道」の道標が 立っている。「日光街道」は直進し、少し進んだ所から左折するが、直進するのは「下妻街道」だ。
左折せず進むと、右に「名倉医院」が建っている。明和年間(1764〜)に開業した接骨院だと。
元に戻って、左折して旧街道を進むと荒川の堤防に当たり、螺旋階段を上って、千住新橋で荒川を渡る。広い河川敷と荒川を渡っていると 涼風が気持ち良い。2年前には、「中山道」紀行で、この荒川を渡って、日本橋に向かったのだと想い出しながら橋を渡る。

水戸佐倉街道の道標

名倉医院

荒川


日光街道・標識

石不動尊

荒川を渡り、堤防の下を左に進むと、右に「善立寺」が建つ所から右折して、再び「日光街道」を進む。
静かな住宅街の通りには「日光街道・標識」が所々に立っている。有難いことだ。道脇に「石不動尊」の祠が祀られ、旧街道の趣を残している。
淡々と進み、東武伊勢崎線のガードを梅島駅でくぐり、賑やかになった旧街道を進む。
旧街道の左奥に「国土安穏(あんのん)寺」があるのだが、曲がり角が分からず、商店の方に尋ね、教えられた角を左折して、静かな道を進むと 「国土安穏寺」の立派な御成門が迎えてくれる。

国土安穏寺

国土安穏寺は、応永17年(1410年)に日蓮ゆかりの日通聖人が開いたと伝える古刹です。開基は室町時代後半に足立の領主の一人であった千葉氏一族の 千葉満胤と伝えられています。葵の寺紋を許され、朱印を賜るなど、徳川将軍家から厚く信任されていた寺で、旧日光街道に近く、 歴代将軍が位牌所や御膳所として立ち寄りました。(足立区HPより)

葵の紋 天井の竜

立派な御成門には、仁王様が立ち、門には「葵の紋」が飾られている。
さすが、徳川家と縁の深い寺だと実感する。
御成門の天井には、極彩色の 竜の絵が描かれ、しばし魅入る。
境内の石に座って、裏側からの御成門を眺めると、大きな草履が掛けられいる。表は仁王様、裏は大草履と悪除けが徹底している。 静かな雰囲気を味わいながら一息入れる。(14:00-14:10)

旧街道に戻り、史跡も少ない旧街道を進むと国道4号線に当たる。その交叉点で、素晴らしい出会いがあった。街道歩き風の三人の男性が、 信号待ちしておられるので、同じ仲間と感じ、何処まで行かれるのですかと話しかける。北海道まで行く予定と聞き、奥州街道で進み、北海道に 渡ると思って話すと大違い。
彼らは、明治11年に来日した、イギリスの女性旅行家イザベラ・バードが、東京から粕壁・栃木・日光・会津・新潟・山形・ 新庄・秋田・青森・函館・白老・函館・横浜を旅行し、それを「日本奥地紀行」として 執筆された足跡をたどるのだと。
全く知らない名前で、明治初期に日本旅行したイギリス人女性がいたのも知らなかったが、新たなことを知る機会が出来、しばらく一緒に歩くこと になる。彼女は、通訳を伴い、人力車で旅したそうだ。
国道4号線を渡り、直ぐ県道49号線を左折し、細い毛長川を渡ると埼玉県の草加市に入る。
県道を三人の方と話しながら進む。なかなか健脚でスピードが速い。右に「富士浅間神社」が鎮座している。写真を写している間に、健脚の 方に置かれてしまう。
県道を進むと交叉点の右に「ひあぶり地蔵」の祠が祀られている。奉公に出ていた娘が、母危篤を知り暇を願い出たが許されず、 ご主人様の家が焼ければ母に会えると放火して捕らえられ、ひあぶりで処刑されたのだと。
三人を追いかけるように進むが、追い付けない。草加の街に近付き、「草加せんべい」を製造販売する店が見られるようになった。

毛長川を渡り埼玉県草加市へ

富士浅間神社

ひあぶり地蔵 草加せんべい


やがて、県道49号線と左に入る道路の間に「今様草加宿」の大きい石碑が立っている。左の旧街道に入って行く。
草加市の賑わいが感じられる街並みを進むと市役所の前に「浅古家地蔵堂」が祀られている。江戸中期頃に建てられた草加宿南限の邪神を防ぐ 境神であったそうだ。
旧街道には、古い民家も残っているが、高層のマンションや工事中の所が多く、旧街道の雰囲気が残っていないのは残念だ。しかし、街灯には、 「国指定名勝・草加松原」の旗が掲げられている。  

今様草加宿の石碑

浅古家地蔵堂

古い民家 草加宿の旗


補強され道標 道路元標

少し先の道角に小さな「草加町道路元標」の石碑が立ち、その先には、金具で補強され道標が立っている。「千住町へ弐里拾七町五拾三間三尺、 越ヶ谷宿へ壱里三拾三町三拾三間三尺」と記され、明治時代に立てられたと。
新しく開発された街並みを進むと「大川本陣跡・宝暦年間」の碑が立ち、その先には「清水本陣跡・宝暦〜明治初期」の碑が立っている。 時代によって、本陣が変わったようだ。

大川本陣跡 清水本陣跡

神明茶屋

「草加宿」の街並みも、そろそろ終わる左に古い建屋の「神明茶屋」があり、観光案内所になっているようだ。中をのぞくと、先に行かれた 三人が休んでおられたので、健脚振りに驚いたと話し、中に入りお茶の接待を受ける。(16:00-16:05)

「日光街道(日本橋〜越谷B)」の「紀行スライドショー」

三人の方から少し遅れて出発する。今まで真っ直ぐだった旧街道は、枡形ではないがゆっくりと右に曲がり、その左角には、趣きのある 「久野家(大津屋)住宅」が建っている。天災・火災にも免れた当時の建屋だそうだ。
その先、国道4号線に合流する所に「神明神社」が鎮座し、前の「おせん茶屋公園」には、「草加せんべい発祥の地」の碑が立っている。

久野家(大津屋)住宅

神明神社

草加せんべい発祥の地の碑


「草加宿」を終え、国道4号線を横切り、趣のある「六丁目橋」を渡ると綾瀬川畔に広がる「札場河岸公園」となる。公園の中には、黒く高い 「望楼」が建ち、近くには「芭蕉の銅像」も立っている。
公園の右奥に「甚左右衛門堰」があるので、見学に向かう。明治27年(1894)から昭和58年(1983)まで使われたと云う煉瓦造りの水門で、 そのアーチは見事だ。綾瀬川は、江戸に通じる重要な水路で、米・塩等の物資輸送をしていたので、その水量調整にも用いられたのだろう。
元の公園入口に戻る川縁に、「札場河岸常夜燈」が立ち、当時の繁栄ぶりを表しているようだ。

趣のある六丁目橋 望楼

札場河岸公園の芭蕉像

甚左右衛門堰 札場河岸常夜燈


綾瀬川沿いの「札場河岸公園」の遊歩道を進む。夕方近くなり、ウォーキングに励む老若男女の姿が多くなる。
少し進むと「日本の道百選」の 碑が立ち、ここから1.5km余りの松並木は「日光街道草加松原」と云われ、気持ちの良い遊歩道になっている。

草加松原

松尾芭蕉の「おくのほそ道」に関連する10県13件の名勝地が、後世の人々の風景観に影響を与え、今なお往時の雰囲気を伝える一連の風致景観と して評価され、一群として国の名勝に指定されました。
草加松原は、草加市中心部を南北に流れる綾瀬川沿いにある、約1.5kmの松並木です。「おくのほそ道」にも登場する草加宿の北側に位置し、 江戸時代から日光街道の名所として知られてきました。幹周り約2メートルにも及ぶ老樹を含め、今なお「おくのほそ道」の時代の雰囲気を 伝える優れた風致景観であることが評価され、今回の指定に至りました。 (草加市HPより)

松並木の遊歩道を進むと綾瀬川渡る道の上を越すように、優雅な木製の「矢立橋」が架かっている。道路を横断せず、橋を渡る歩道橋に なっているのだ。橋の名前も「奥の細道」に因んで、なかなかのものだ。
その先の道路の上にも「百代橋」が架かっている。1.5kmの遊歩道は、交通信号もなく、真っ直ぐに進めるのは見事だと思いながら、 松並木と所々に立っている句碑や説明碑を観ながら進む。
やがて、松林も終わり、噴水場になり、子供たちが水遊びをしている所で、先行された三人が休憩しておられるので、一緒に休憩する。 今日は、越谷のホテルに泊まると聞き、何処のホテルかと尋ねると「雷鳥ホテル」だと。一緒のホテルなのには驚きだ。(16:30-16:40)

日本の道百選の碑

矢立橋

百代橋 綾瀬川


休憩を終え、三人の方と一緒に出発する。松並木は、川沿いの桜並木となり、国道のガード下の側壁には、草加宿にたどり着いた「芭蕉と曽良 の旅姿」の壁画が描かれている。「草加宿」は焼けて史跡は残っていなかったが、芭蕉に関連する史料は多かったと思いながら進む。
綾瀬川沿いを進み、2つ目の「蒲生大橋」を渡る。橋の手前から写真を写していた所、川向こうに背の高いムクノキが写っている。 これが「蒲生一里塚」で、埼玉県内唯一の現存一里塚だと。説明板と「蒲生一里塚」の碑が立っている。

芭蕉と曽良の旅姿の壁画

蒲生大橋とムクノキ

蒲生一里塚


案内板を読んでいる間に、三人が進まれたが、方向がおかしいので呼び止め、地図突きあわせて協議する。川沿いの道を行くのが正しいと分かり、 川沿いの道に向かう。次の「越谷宿」までは、史跡も少なく、単調な歩行となる。
しかし、所々に旧街道らしい史跡が残っている。しばらく進んだ右に「不動明王と馬頭観音」が祀られている。不動明王の下は、道標になって いるようで、「こしがや」と書かれているのか?
やがて、県道49号線に合流し、県道を進む。合流地点に「清蔵院」があったが、話していてパスしてしまった。淡々とした県道歩きになり、 暑さと疲労度が増してくる。 随分歩いて、JR武蔵野線の高架が見える手前で、三人の方は、今日はここまでとして、乾杯して、電車で越谷のホテルに行くとのことなので、 お別れする。
後2kmもないと云い聞かせて、少し陽が落ちかけて来た県道を進むと右の照蓮院手前の駐車場奥に、「窮民救済の碑」が立っている。 瓦曽根村の名主中村彦左衛門が、天明年間の凶作時に、貯えを全部を払い出し、窮民に与えて飢餓を救ったのだと。
更に進むと道は二股になり、その三角地帯に「里程標」が立っている。文字がはっきりしないので分からない。県道から分かれ、左の旧街道を 進む。新しい建物が立ち並び、昔の面影が感じられず、「越谷宿」の探索は、明日にすることにする。

不動明王と馬頭観音

窮民救済の碑

里程標 越谷宿の街並み



「日光街道(日本橋〜越谷C)」の「紀行スライドショー」

居酒屋にて

疲労度も高いので、越谷駅の近くの「雷鳥ホテル」を探して進む。駅近くのの繁華街の中にホテルがあり、チェックインして、バスで汗を流し、 足腰をマッサージする。結構、足に身が入っている。
入浴したので一息付け、フロントでお奨めの居酒屋を聞き、駅前ビルの2階にある店に向かう。まだ、お客も少なく、カウンターでビールで乾杯する。
友人たちとの歩行を満喫し、知らない三人の方と話しながらの道中は、有意義だった。
史跡は少なく、国道・県道の舗装道路歩きで、面白味はなかったが、 日本橋から北に向かう第一歩を踏み出せたことは意義があり、ビールが美味しい。
いわしの刺身があったので、芋焼酎で美味しくいただく。板前さんは、神戸の出身で、大阪から歩いて来たと話すと、関西なまりを久しぶりに 聞き懐かしいと。お奨めの料理と芋焼酎を満喫し、気持ち良くホテルに戻る。
フロントの方に聞くと三人の方は、まだ゜到着していないと。しっかりと乾杯しておられることだろう。
部屋に戻り、ベッドに横になると、夜行バスの疲れ、紀行の疲れで、直ぐに眠ってしまった。今日の歩行歩数は54000歩と、久し振りに50000歩を 越えた。  

[日本橋〜越谷][越谷〜幸手][幸手〜古河]







    
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