[日本橋〜越谷][越谷〜幸手][幸手〜古河]


○ 「日光街道No1」見聞録(日本橋〜古河)・(距離 66.7km(今回)/ 66.7km(累計))

  3.「日光街道」幸手〜古河・(15.9km) 2015.05.28 7:00〜12:20 晴れ


日光街道マップ
(幸手観光協会より)
日光街道・奥州街道(宇都宮〜白河)宿場一覧
クリックすると拡大します。

「幸手〜古河・行程MAP」

地図の再生ボタン()を押すと
見聞ルートに沿って歩行出来ます。

大浴場に入り、しっかりと飲み、ぐっすりと眠れたので、昨日の国道歩きのダメージは残っていず、5時前に目覚める。

旅館・あさよろず

日光街道の標識

朝食までに「幸手(さって)宿」の見学をしようと、昨日もらった「幸手宿マップ」を持ち、5時過ぎに旅館を出る。
今日も暑くなりそうだが、早朝の冷気は肌寒い位だ。
「幸手宿マップ」によると宿泊した「旅館・あさよろず」は、「朝萬」と書き、1819年創業の木造3階建の旅館だったそうだが、今は改装され 近代的な旅館になっている。
旧街道には「日光街道」と書かれた標識も立ち、「幸手宿」の中で泊まったことが分かる。
早朝の旧街道は、車も人も通らず、静かな雰囲気を味わう。もう少し、道路が狭ければ、より風情があるのにと思いながら、マップを頼りに 「幸手宿」を散策する。
昨日の宿場に比べると旧家や史跡も残っているようなので、朝の空気を楽しみながら進む。左に建つ「永文商店」には「幸手宿」の垂れ幕も掛り、 その先右の公園は、「問屋場跡」だと。交叉点右角に「本陣跡」の案内板が立っているが、家屋は新しい料亭となっている。
旧街道を挟んで、両側に古い家屋が残っており、その一つが「飯村医院」として、旧家が残っている。朝の雰囲気と旧家は、雰囲気もあり 、早朝の散策は気持ち良い。

永文商店

問屋場跡

本陣跡 飯村医院


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

マップに従って、旧街道から左の小道に入って行くと「幸宮神社」が静かに鎮座する。

聖福寺・勅使門

創建から400年以上の神社で、「幸手宿」の総鎮守として、信仰されているそうだ。
その先の細い道をウネウネと進むと田の中に黄金の雷神が落ち、これを祀る「雷電神社」が鎮座する。境内の大きな木に、雷神が落ちたと。
旧街道に戻り、少し下ると道の奥に「聖福寺」が建っている。
旧日光街道沿いに今も残る聖福寺は菩提山東皐院と号し、浄土宗知恩院の末寺として応永年間(1394〜1428)に開山したと伝えられています。
江戸時代には将軍の日光社参の折りと、東照宮例大祭に天皇の代理で参拝した例幣使(れいへいし)の帰路の休憩所に用いられ、山門は唐破風 (からはふ)四脚門で将軍と例幣使以外は通行できなかったとされています。
入口の横には、芭蕉の「幸手を行ば 栗橋の関」と曽良の「松杉をはさみ揃ゆる寺の門」の句碑が立っている。(幸手市HPより抜粋)

石畳を進むと立派な勅使門が建ち、将軍一行や日光例幣使だけにしか使われなかったのだと見上げる。
「芭蕉・曽良の句碑」は、まだ新しく、幸手と勅使門を記しているので、作成されたのだろう。「幸手宿」には、歴史を感じさせる神社や 仏閣が多いのは嬉しい。

幸宮神社

雷電神社 境内の大木

芭蕉・曽良の句碑


少し人が出て来た旧街道を進むと右へ曲がる角に大きな常夜灯が立ち、その奥に「正福寺」が建っている。
境内には、「大きな道標」が立ち、はっきりと 読めないが「日光街道」と刻まれているようだ。その横には、天明3年(1783)浅間山噴火に伴う一帯の飢饉に幸手宿の 名主たちが施粥をした「幸手義賑窮餓之碑」が立っている。
この紀行記を記述している時、浅間山の小噴火のニュースが話題となった。この辺りまで、浅間山の噴火の影響がでたことに驚く。
この辺りに「幸手一里塚跡」があるはずと探すが分からず、朝の散策はここまでとし、旅館に戻る。気持ち良い散策で「幸手宿」の主要な 史跡を巡れたのはgoodだった。

正福寺の常夜灯

大きな道標

幸手義賑窮餓之碑


6時30分からの朝食は一人だったが、美味しく、しっかりといただく。

朝食

幸手一里塚跡

7時前に、昔旅籠であった旅館を、ご主人の気を付けての見送りで出発する。
昨日もそうであったが、宿場の中に宿を取ると、朝食までの間に、宿場の史跡を見学できることが分かり、次回からも、同じように考えようと。
朝の散策で見学した所は急ぎ足で進み、右に曲がる辺りにあるはずの 「幸手一里塚跡」を探すと、曲がり角の内側に案内板が立っていた。先程は、「正福寺」側を歩き、通り過ぎていたのだ。
旧街道は、緩やかに左に曲がり、直進すると国道4号線に合流する。
車もまだ少なく、陽射しも穏やかな国道歩きとなる。国道には、日本橋から50kmとの標識が立ち、着実に日光に向かっていることを確認する。
国道は、権現堂川の堤に緩やかに上って行く。この辺りが、幸手市の有名な「権現堂堤の桜並木」で、桜の季節は大賑わいとなるそうだ。

権現堂堤の供養碑と行幸堤碑

国道を渡り、右側に広がる権現堂堤に向かう。
権現堂川は、江戸時代には利根川の本流が流れており、ここ権現堂河岸から、江戸に向かって米の積み出しが行われていた。
江戸へ川路20里となる。
権現堂堤は、下流の江戸を水害から守るために築かれ、享和2年(1802)の洪水時、巡礼の母娘が通りかかり、竜人のたたりかも知れないと云い、 村人の要請で人身御供となり、洪水は治まった。村人たちは、巡礼母娘の供養碑を立て、感謝し祀った。
明治に入っても堤の修復が行われていたが、東北ご巡幸途中の明治天皇がその労をねぎらったことに由来した「行幸堤碑」が国道脇の 堤防の上に建てられている。 (幸手市HP他より抜粋)

見事な桜並木が続き、散策する人が多い。
「供養碑」と「行幸堤碑」を探すが分からない。散策する人に尋ねるが、観たことがないと。 周辺を探し、違う人に尋ねると、あの辺りに何かあったと。その小高い丘は、雑草に覆われ、上る道を探しながら行くと二つの碑が立っている。 やっと見付けることができた。雑草と木々に覆われていたので、下からは見えなかったのだ。 小生も、散策するルートの史跡を訪ねられたら答えられないので、止むを得ない。
桜並木を少し入ると、見事な並木が続いている。満開時は素晴らしい光景だろうと想像できる。
権現堂川に架かる御幸橋を渡り、「幸手宿」を後にする。

日本橋から50kmの標識

権現堂堤

権現堂川


行幸橋を渡り、国道から左へ堤を下って行くと静かな旧街道になり、気持ち良く歩行する。
右上に国道4号線が通っているが、その自動車の音が聞こえるだけで、静かな旧街道を楽しみながら進むと二股に道が分かれている。 その真ん中に「追分道標」が立ち、「左日光道」「右つくば道」と刻まれている。
道標に従って、左に進むと正面に「雷電神社」が鎮座している。この辺りは、国道4号線で、旧街道は分断されているようだが、基本的には、 国道4号線沿いに進むのが正解のようだ。
「雷電神社」の境内の石に座り、一息入れ、次の「栗橋宿」へのルートを確認する。(8:00-8:05)

静かな旧街道

二股 追分道標

雷電神社


「日光街道(幸手〜古河@)」の「紀行スライドショー」

利根川の堤防の上を通る国道4号線の下を進む。騒音は聞こえるが、国道歩きと違い、のんびりと進むことができる。
しばらく進むと左に祠が祀られ、案内板が立っている。「小右衛門村一里塚」で、「幸手宿」と「栗橋宿」の中間の小右衛門(こうえもん)村に あり、江戸から14番目に当たると。「幸手宿」の一里塚から4km歩いたので、「栗原宿」までも、後4kmと目算する。
更に、堤の下の道を進み、東北新幹線の高架下をくぐるとしばらくの間、国道歩きとなり、再び、左に劇場がある所から左の旧街道に下りて行く。 坂を下った右に名前の分からない神社が鎮座しているのを見ながら、広いが静かな旧街道を進む。

国道堤下の旧街道

小右衛門村一里塚

国道から下った神社


静かな旧街道は、国道に合流するように進む。合流する手前右に「会津見送り稲荷」の赤い鳥居が見える。少し奥まっていて、危うく見落とす 所だった。案内板によると、江戸時代、会津藩士が江戸に向かう途中、道に迷い、助けてくれた老人が、実は狐の化身だったので、祀ったと。
国道に出て、直ぐ左の小道を下って行くと広い道路の高架に突き当たり、トンネルを抜けて進む。
少し進んだ右に「焙烙(ほうろく)地蔵」が祀られている。利根川に関所があり、関所やぶりの重罪人はここにあった刑場で火焙りの刑に処せ られた。地元の人々は処刑者を祀ったと。
この辺りから「栗橋宿」に入ったのか、街灯に旗が飾られている。左に「顕正寺」が建ち、その先、左奥には「深廣寺」が建つ、寺院が多い 街並みとなる。「深廣寺」の境内には、に、高さ3.6mの「六角名号塔」と呼ばれる供養塔が21基も祀られている。伊豆大島から運び、石 を刻んだ供養塔だと。
道路に立つ電柱に、青いテープが巻かれているので確認すると昭和22年のカスリーン台風の浸水の深さで、2.4mもあったのだ。利根川が氾濫すると 凄い被害が出るのだと防災意識を高めている。

会津見送り稲荷

焙烙地蔵

深廣寺の六角名号塔 浸水水位


陽が高くなり、暑さが厳しくなって来た。旧街道は、真っ直ぐ進み、利根川を渡るが、JR栗橋駅近くに「静御前の墓」が祀られているので、 寄り道をしようと栗橋駅入口の交叉点から左折する。
栗橋駅までの距離が結構あり、まだかまだかと歩くが、暑さのためバテ気味だ。コンビニに立ち寄り、初めてアイスコーヒ(冷コ)を飲もうとするが、システムが 分からない。店員に聞き、アイスボックスの中の氷入りのカップを取り出し、マシンからコーヒーを注入することを知る。冷たいコーヒーを飲み、ホッとする。飲み干した カップに持参の水を入れるとまた冷えるのは有難い。
コンビニの横に「静御前の墓→」の道標があり、それに従って進むと「静御前の墓」を祀る広場に至る。 小さな広場には、「静御前の墓」の他にも、彼女に関連する石碑がたくさん祀られ、観光協会の絵図等も飾られている。

静御前の墓

静御前は源義経の内妻で、文治5年9月15日(1189)久喜市伊坂(旧村名、静村)にて悲恋の死を遂げました。

静女の墳

その時、侍女琴柱は遺骸を当時この地にあった高柳寺(現・中田光了寺)に葬り、1本の杉の木を植えそのしるしとしました。
弘化3年(1846)利根川氾濫により枯れてしまいこの時、杉の代わりに銀杏を植えたそうです。
「静女の墳」は、静御前の墓にしるしがないため、中川飛騨守忠英が、享和3年(1803)に建てたものと考えられています。 また、静御前墓所内には『静女塚碑』をはじめ静御前にまつわる石碑などがあります。 (久喜市HPより抜粋)

広場の正面には「静御前の墓」が祀られているが、改修されたもので、当時の墳墓は、横の厨子の中に安置されている。それに並んで 「義経招魂碑」や「坐泉の歌碑」が立っている。
静御前の命日に合わせ、「静御前墓前祭」が催され、義経・静御前・白拍子等による華やかなパレードもあるそうだ。昨日も源頼朝の史跡が あったが、これからも源氏の史跡に出会えるだろうと思いながら、広場のベンチで一息入れる。(9:35-9:45)

静御前の墓の広場

坐泉の歌碑

義経招魂碑


長い距離を旧街道まで戻り、利根川・国道4号線沿いの道を進む。住宅が無くなり、利根川の堤防が見えるようになった。この辺りに 「栗橋宿・本陣跡」が あるはずだが、青いビニールシートに覆われて工事中だ。歩いて来られた方に尋ねると、工事中の所にあったと。仕方がないので、ビニールシートをパチリと。
その先、工事中の場所の堤防側に案内板が見えるので行くと「栗橋関所跡」の碑で、江戸幕府の箱根・碓氷と並ぶ需要な関所で、特に 「入り鉄砲と出女」を取り締まっていたと。先程通った「焙烙地蔵」は、この関所を破って、火焙りになった罪人を祀った地蔵だと納得する。 また、将軍一行が利根川(当時は房川と云われた)を渡る時は、利根川に舟橋を架けて渡ったそうだ。
旧街道は、利根川の堤防を上って行くが、正面に「八坂神社」が鎮座するので立ち寄る。この神社は、狛犬ではなく「狛鯉」なのには驚いた。

栗橋宿・本陣跡

栗橋関所跡の碑

八坂神社 狛鯉


いよいよ利根川だ。堤防を上ると広々とした利根川が流れている。対岸が霞んでいるように見える位だ。

利根川・坂東太郎

茨城県突入

利根川は、「坂東太郎」と云われる流域面積が日本一の大河川で、徒歩で渡るのは初めてだ。
「薩摩街道」紀行時、筑後川を「筑紫次郎」と 呼ばれると知り、四国の吉野川が「四国三郎」と呼ばれ、利根川と合わせて、三大暴れ川と云われるらしい。
この川を渡る渡しが、「房川渡し」と呼ばれ、先程の「栗橋関所跡」と対岸を結んでいたと考えると凄い距離だ。難所だっただろうと 思いながら利根川橋を渡り始める。
川風が気持ち良く、暑さが吹っ飛ぶような気分で、歩道のある橋を渡っていると中間地点で「茨城県・古河市」の標識が立っている。 いよいよ、茨城県だと。

「日光街道(幸手〜古河A)」の「紀行スライドショー」

10分余りかけて利根川を渡り、直ぐ左の道を下って行くと右にカーブする角に「房川渡と中田関所跡」の説明板が立っている。この辺りが、 栗橋とを結ぶ「房川渡し」があり、「中田関所」があったそうだ。
少し進んだ左に火の見櫓があり、そのの下に「中田宿説明板」が立っている。利根川河川敷に、延長530mに渡って、本陣・問屋・旅籠・ 茶店などが軒を並べていたが、洪水等の影響で、今は面影もないと。
真っ直ぐな静かな街並みが続く「中田宿」を楽しみながら進む。陽射しが厳しく暑い。

房川渡と中田関所跡

中田宿説明板

中田宿の街並み


静かな「中田宿」を進むと左に「鶴峯八幡宮」が鎮座する。この神社は源頼朝 or 二代将軍源頼家が創建したと。源氏の史跡が点在しているのだ。
その先に「光了寺」が建ち、先程訪れた「静御前の墓」に説明があった静御前の亡骸を葬ったお寺だ。 境内には、芭蕉の「いかめしき 音や霰(あられ)の 檜木笠」の句碑が立っている。
真っ直ぐに伸びる「中田宿」の街並みには、旧家は少ないが、「円光寺」「本願寺」等、寺院が立ち並び、やがて東北本線の踏切を越えると 「中田の松原」と呼ばれる松並木が続く。当時は、一里近く一直線に松並木が続いていたそうだ。まだ、若松だが、10年もすれば、見事な 松並木となり、旧街道の雰囲気を演出してくれるだろう。

鶴峯八幡宮

芭蕉の句碑 光了寺

中田の松原


「中田の松原」の松並木を過ぎると雑木林や畑があったりと少し旧街道の趣が出て来る。少し先の県道を越え、古河第二高校の校庭の中に 「原町一里塚」が立っている。こんもりとした土盛りの塚の上には木が植えられ、本格的な一里塚が残っているのは、今回の「日光街道」では 初めてだ。江戸から16番目の一里塚だが、金網越しなので、見え難いのが残念だった。
その先に大きな三叉路があり、右に曲がると「古河宿」に入って行く。整備された道路は、旧街道とは思えない。木製の「常夜灯」には 「古河宿」と記され、自治体の熱意が分かる。
所々に、小さな木製の常夜灯が立ち、史跡の道標の役割を果たしているのもgoodだ。「古河城御茶屋口址」の碑が立ち、将軍一行が、日光参りの時 古河城に宿泊することが多く、ここにあった門から古河城に御成りになったと。

原町一里塚

古河宿の常夜灯 道標の常夜灯

古河城御茶屋口址の碑


ここから左に曲がると昔の宿場町・城下町の雰囲気が感じられる街並みとなり、石畳の緩やかな坂道を上って行く。
枡形の角に「小麦まんじゅう」の看板が出ているので、店に入り、ご主人と話しながら、お茶と小麦まんじゅうをいただく。甘くて美味しい。 大阪から来たと話すと驚いておられ、お茶をもう一杯いただく。
静かな石畳の道を進むと雰囲気がより感じられる一角に出る。小さな休憩所があるので、作戦会議を行う。夕方16時30分に、友人たちと 東京駅で会うため、列車の時刻に注意しなくてはと。昼食を食べ、古河での入浴は時間が早いので、東京で汗を流すためには、13時頃の 列車に乗らねばならないと。あまり時間がない。(12:00)

鷹見泉石記念館

古河城址には、歴史的な史跡や建物が残っている。気持ち良く進むと「鷹見泉石記念館」の落ち着い建物が迎えてくれ、門の中に入ると 茅葺きの建屋が建つ空間が広がる。
鷹見泉石は古河藩・藩主の土井利厚・利位に仕えた家老で、晩年に過ごした隠居所が「鷹見泉石記念館」として保存されている。 時間がないので、外観に魅入る。
古河は、古くは万葉集にも登場、河川交通の要所として、江戸時代には譜代大名の城下町、日光街道の宿場町として栄えてきました。
足利氏とのつながりも深く、中世東国社会の政治文化において重要な位置を占めてきた古河公方の拠点として知られています。 古河公方の起こりは、京都に幕府を開いた将軍足利尊氏が子の基氏を鎌倉府の長官である鎌倉公方として派遣しましたが、その後、変遷を重ね 鎌倉から古河の地に座を移したことによります。
爾来120年余りにわたって古河公方と称し、東国一円の重要な位置を占めてきましたが、現在も公方ゆかりの寺院や史跡が残っております。 (古河市観光協会HPより抜粋)

記念館の前には「古河歴史資料館」が建っているが、パスして、石畳の道を戻りながら、古河駅方面に向かうと煉瓦造りの「古河小学校」の 荘厳な校舎と校門が迎えてくれる。歴史を感じる街並みだ。

小麦まんじゅう

茅葺きの建屋

古河小学校


石畳の気持ち良い道を進むと小さな広場があり、観光客が休息するスペースになっている。観光にも留意した行政の姿勢は凄いと思いながら 右折して「肴町」に向かう。
「肴町」は、古河城に来訪する諸大名を接待するご馳走番所があったり、城内への食料品供給路でもあったそうだ。「古河藩肴取次所址」の碑 も立つ、珍しい街並みを楽しみながら旧街道に戻る。

小さな休憩所

肴町の土産屋

肴町の街並み 古河藩肴取次所址


旧街道をJR古河駅方向に進む。今までの雰囲気のある地域から、近代的な街並みになり、そのギャップの大きさに驚く。電柱には、「古河宿」の キャラクター・桃娘の旗がかかり、宿場の雰囲気を盛り上げている。本町2丁目交叉点を渡ると 右角に「古河城下高札場址」の碑が立っている。
道路の対面の花壇の中に「古河城下本陣址」の碑が立ち、この辺りが「古河宿」の中心だったことが分かるが、新しい建物が建ち、その面影は 残っていないのは残念だ。東京に戻る時間が迫って来たので、「古河宿」散策は、ここまでとして古河駅に向かう。

桃娘の旗

古河城下高札場址の碑

古河城下本陣址の碑


「日光街道(幸手〜古河B)」の「紀行スライドショー」

駅前に食堂があるだろうと思ったが、見当たらず、目に付いた中華料理屋に入り、冷やし中華(冷麺)を頼み、今日はもう歩かないので、 今回の紀行の達成を祝い、ビールで一人乾杯する。満足感と冷たさで美味しい!!
今日の歩行歩数は、34000歩と半日としては、良く歩いた。(12:35)
古河駅に行き、時刻表を確認すると、13時17分発の小田原行があるので、急いでホームに上り、乗車する。本来なら、古河駅周辺の銭湯で汗を 流して乗車したい所だが、近くに銭湯はあるが、15時開湯なので、NGとなった次第だ。
この列車は、宇都宮の手前の小金井駅から東京を経由して、小田原まで行くのだ。JR東日本の路線の長さに驚く。ただ、関東の列車は長椅子 タイプが多く、長距離利用では、2人掛けが良いのにといつも思いながら、座って、歩いて来た行程を見ながら戻る。しかし、その中に、ウトウトと 眠ってしまう。

仲間との懇親会

昔は、東京駅にも銭湯があったが、今は無いので、検索すると御茶ノ水駅近くに見付けていたので、上野駅から山手線に乗換え、御茶ノ水の 「クアハウス江戸遊」に行く。ビル街の真ん中にある銭湯だが、安く(460円)て、洗剤付と都心の銭湯とは考えられない立派さだ。近くのビニネスマン・OLも 利用しているのに驚く。
汗を流し、さっぱりとしたので、東京駅に16時15分頃到着し、八重洲中央口で待っていると、TB君、TJ君が来てくれて、2日振りのご挨拶。 二人とも、日本橋から北千住までの「日光街道」紀行に満足したとの話に、誘ってよかったと。
早速、八重洲地下街の餃子「aa」に行き、生ビールで乾杯する。美味しい!!
「aa」は学生時代よく行った店だったが、大阪では少なくなり、久し振りに餃子を味わう。当時の「aa」の話をしながら・・・・。
二人と別れてからの行程や明治初期にイギリスの女性旅行家イザベラ・バードの著書「日本奥地紀行」に載っているルートを歩いている三人の男性に 出会った話や「静御前の墓」が栗橋にあった等、紀行中の出来事を話しながら、しっかりと飲む。(後日談だが、TJ君が、 イザベラ・バードの「日本奥地紀行」に興味を持ち、本を買って精読しているとのこと。好奇心を刺激したことはgoodだった。)
次は、沖縄料理店に行き、沖縄の名物料理を味わいながら、泡盛を呑みながら、政治・経済と固い話にも話題が弾む。昔の学生時代に戻ったような 議論に、お互い歳はとっても、気持ちは変わっていないと納得する。店員さんに記念写真をパチリと。
夜行バスの時間まで、まだ余裕があるだろうと、更に焼き鳥屋に行き、仕上げの呑み会となる。すっかり出来上がり、次回も機会があれば 会おうと約束してお別れする。スタート・エンドを共にでき、本当に嬉しい「日光街道」紀行となった。
鍛冶橋駐車場・23時発の夜行バスは満席で、通路側に座り、良き睡眠導入剤を飲んだので直ぐに眠ってしまう。三方原PAでトイレ休憩になるまて、 ぐっすりと眠り、ウトウトしたりしながら、6時15分梅田に到着し、8時前に無事帰宅する。

「旧山陽道・薩摩街道」紀行を終え、次は「日光街道」に向かおうと思いながら、遅れ遅れになっていたが、初めの一歩を踏み出すことが できた。
帰りに会う予定だった二人と一緒に、「日光街道」をスタートできたことも嬉しい紀行となり、「日光・奥州街道」と続くこれからの 紀行の出発にふさわしい、良き兆しだと感謝したい。
「日光街道」は将軍家の参拝道なので、成熟した街道となっており、自然との触れ合いは少なく、国道・舗装道路歩きの連続で、今までの 旧街道とは違い、物足りなくもあったが、知らない史跡・史実等々を見聞できたのは嬉しいことだ。 これからは、江戸から離れて行くので、国道歩きは変わらないだろうが、自然との触れ合いも多くなることだろうと、楽しみに計画したいものだ。

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