[古河~小山][小山~雀宮][雀宮~宇都宮(上金井)]


○ 「日光街道No2」見聞録(古河~宇都宮・上金井)・(距離 57.0km(今回)/ 123.7km(累計))

  1.「日光街道」(古河~小山・17.2km) 2015.08.26. 8:15~16:20 小雨時々曇り


日光街道マップ
(幸手観光協会より)
日光街道・奥州街道(宇都宮~白河)宿場一覧
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「古河~小山・行程MAP」

地図の再生ボタン()を押すと
見聞ルートに沿って歩行出来ます。

5月末に、学生時代の友人、TJ君とTB君と「日光街道」を歩き始めた。二人とは、北千住で別れ、その後は単独紀行で、越谷・幸手に泊まり、 古河まで進むことができた。
日光到達を、今年の紅葉の美しい時期にしたいと考えると8月中に、もう一度歩かねばならないと検討した。宇都宮より日光の方向に向かい、 適当な所まで進み、バスで宇都宮に戻り、帰阪することをベースに考える。この時期は「青春18きっぷ」が使用できるので、宇都宮から東京は これを活用すればと。
帰路は、東京からの夜行列車を活用して、寄り道をしながら帰阪するルートを色々と検討すると、新宿から信州への「ムーンライト信州」を活用し、 「中山道」紀行時、立ち寄れなかった地に寄り道すれば有効だと結論付けた。
しかし「ムーンライト信州」は、週末金曜日のみの運行なので、 他の予定との兼ね合いで、8/28(金)に絞って、1ケ月前の発売日に購入することにする。7/28の10時過ぎに、緑の窓口に行くと、何と最後の1枚を 購入することができた。東京から信州へ、登山に向かう人が多いのだ。
帰阪の日程が決まったので、8/25(火)の夜行バスの予約をするが、夏休みなので、高くなっている。(2500円→4000円)
暑さの中での歩行なので、無理をしない距離を考慮して、小山と雀宮の安いホテルを予約し、「日光街道」紀行を楽しんだ後、帰路は 「ムーンライト信州」で、信濃大町or穂高まで行き、松本散策・上諏訪の片倉館入浴・奈良井宿散策を楽しみ、帰阪することにする。

台風が2個襲来し、13号は台湾から方向を変えて、日本に向かっている。九州に上陸し、心配したが、バスの運行には心配なさそうだ。14号は 東日本に上陸の心配があったが、太平洋を北上するようで、直接の影響はないが、雨模様の予報で、気が重い。
8/25、23時10分発の夜行バスに乗るべく、小雨が降る中、9時過ぎに家を出て、何時ものように、梅田の立ち飲みで睡眠導入剤を仕入れて 停留所に向かう。東京方面の夜行バスは、前回同様大混雑している。

朝食

古河駅

夜行バスは、定刻通り出発する。満席で、通路側に座り、直ぐに眠ってしまう。途中2ケ所位トイレ休憩で停まり、最後は、海老名SAで停まり、 6時20分定刻通り、東京八重洲鍛冶橋バスターミナルに到着する。雨が降っている。
バス停から東京駅に急ぎ、古河までの切符を買い、売店でパンを買ってホームに行くと予定より1本早い快速に乗ることができた。長椅子タイプなので、 食事をするのを遠慮し、ウトウトしながら古河に到着する。
駅中に、喫茶店があり、モーニング・セットを頼むとバナナが付いている。朝食を食べ、雨が降っているので、レイン・スーツに着替えて紀行の準備をする。
8時15分、小雨が降る中、傘を差して古河駅をスタートし、前回の最終史跡「古河城下高札址」の碑を確認し、道路の反対に立つ「古河宿本陣跡」碑から 街道歩きを始める。県道を進み、次の交叉点を左折するが、反対側の角に碑が立っているので確認する。「日光街道古河宿道標」で、日光街道と 筑波道との分岐点を示している。

古河城下高札址の碑

古河宿本陣跡の碑

日光街道古河宿道標


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

左折して次の角を右に進むと「よこまち柳通り」の碑が立つ旧街道の趣が残る静かな旧街道となる。ここは、昔、遊郭だったとのことだが、 それらしい建物は残っていない。少し先の左に「関東の奇祭 古河提灯竿もみ祭り発祥の地」の碑が立っている。奇祭とは、どんなものだろうと 思いながら雨の中を進む。
雨は、小雨になったり、強く降ったりと傘を離せない。「よこまち柳通り」を進むと、古い建屋の店が続いているが、遊郭の風情は感じられない。 その先の左に「本成寺」が建っている。山門は、赤く塗られているので、徳川家と関係あるのか調べるも、関係はないようだ。
旧街道は、緩やかに右に曲がり、県道と合流する。その角には、立派な「古河宿」の木製の道標が立ち、「古河宿」の出口であることを 示している。その向かいの角に、石の「史跡○○道」の道標が建っているが、文字が判別できない。

竿もみ祭り発祥の地 よこまち柳通り

古い建屋 本成寺

古河宿の道標 道標


県道を進むと右に「塩滑地蔵」が祀られている。その先で、国道4号線と合流するが、少し手前から、茨城県から栃木県に入る。いよいよ、 最終行程の栃木県だと意気を高める。
少し進むと右からの国道4号線と合流する。久し振りの国道4号線だ。

塩滑地蔵

野木神社・鳥居

暑い時の国道歩きは苦痛だが、小雨で車の往来が少ないこの辺りの 国道歩きは、歩道もあり、涼しくで気持ち良い。
国道との合流点左に鳥居が立っているので、確認すると「野木神社」だ。参道が続いている。
もう少し先の国道から入って行くと思って いたので、通過して国道を進む。
「野木神社」への参道があると思いながら国道を進むと「日本橋から64km」の標識が立っている。日本橋からの距離が、これからも表示される だろうから、歩いた距離が分かると思いながら進む。
その先に「日光道中野木宿」の案内板が立っている。「古河宿」から「野木宿」に進んで 来たのだ。宿場の形跡は何も残っていない寂しい国道の旧街道だ。
更に進むと、「浄明寺」が建ち、入口に「十九夜」の碑が立っている。「中山道」紀行時には「二十三夜」の碑をよく見かけた。どちらも 月待と呼び,近隣の信者が集まり、飲食・歓談しながら月の出を拝んで散会する風習があったそうだ。十九夜は、「十九夜さん」「十九夜観音」 と呼び,出産と育児の安全を願って女性だけで集まることも多く、子安講とか子安観音の講と呼ばれるそうだ。
少し先には「野木一里塚跡」の木札が立っている。更に進むと「野木宿入口」の木札が立ち、この辺りに木戸があったことを記している。

日光道中野木宿の案内板

浄明寺と十九夜の碑

野木一里塚跡 野木宿入口


「野木神社」の参道は、先程の参道しかなさそうなので、少し戻って、国道から「野木神社」方向に入って行く。細い道を曲がりながら進むと 参道に当たり、「野木神社」の境内に進む。

野木神社・本殿 鳥居

およそ1600年前、仁徳天皇の時代の建立。平安時代の征夷大将軍、坂上田村麻呂が延暦21年(802年)にここに詣で、勝どきをあげたと いわれています。
田村麻呂は、蝦夷の反乱を抑えられたのは「神の助け」として、そのお礼に社殿を新築し、宮地を現在の場所に定めたのです。
鎌倉時代になると、源頼朝が社領として田地を寄付したり、源実朝が神馬を奉納するなど、源氏の信仰が厚かったようです。
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樹齢1200年の銀杏

江戸時代には、古河藩主の崇敬も厚く、現在の社殿は、文政2年(1819年)に土井利厚によって再建されたものです。(野木町HPより)

大きな鳥居をくぐり、本殿に向かう。
境内には、木々が茂り荘厳な雰囲気があり、本殿で、今回の紀行の安全を願う。
横には、樹齢1200年の公孫樹(銀杏)が高くそびえている。 幹の下部には、突起物があり、乳を連想させるため母乳と考え、母乳が出るようにとの信仰があったそうだ。 ここで一息入れ、水を飲み英気を養う。(9:35-9:45)
境内には、芭蕉の句碑「一疋(いっぴき)のはね馬もなし河千鳥」があるそうなので、周辺を探すが、広い境内で分からず、諦めて、元来た道を 国道に戻る。
まだ、小雨が降っているが、霧雨になって来たので、傘を閉じて、レイン・ウェアだけで歩行する。 「東京から65km・小山まで12km」の標識が立っている。小山まで、12kmだと歩を進める。少し先に、はっきりと読めない「野木宿道標」が立っている。 横の案内板には、この道は栃木に向かう日光山近裏道と呼ばれる脇往還で、例幣使街道に通じているそうだ。
少し進んだ左に「観音堂」が祀られ、横には「十九夜」 の碑も祀られている。この辺りは「十九夜」が一般的だと思いながら、淡々と国道を進む。
国道の両側に、「長屋門」を持つ旧家が点在しているのは、旧街道の趣が残っていて嬉しい。左の小さな広場に、石碑が祀られているので確認すると 「十九夜」と「二十三夜」の碑が混在して祀られている。やはり、「二十三夜」も風習として残っているのだと確認する。

野木宿道標

観音堂

長屋門の旧家 十九夜・二十三夜の碑


「日光街道(古河~小山①)」の「紀行スライドショー」

霧雨は、降ったり止んだりの状態で、暑さは感じず、レイン・ウェアを着ているので、寒さも感じず、歩くのには最適な気温だ。淡々と国道歩きが続く。
左に「観音堂」が祀られたり、右に「長屋門」の旧家を観たりしながら進むと左に「法音寺」が建っている。
「法音寺」の境内に入ると、右にたくさんの石碑が祀られ、その横に「芭蕉句碑」が立ち、「道の辺のむくげは馬に喰われけり」と刻まれている。 説明板には、芭蕉の足跡を示す地図に加えて「芭蕉像・北斎漫画」と記された絵も描かれている。また、芭蕉は、次の「間々田宿」に 宿泊したとも記されている。
「法音寺」の向かいには、徳川将軍が日光社参時の休憩所となった「友沼八幡神社」が鎮座している。ここで一息入れる。(10:45-10:55)

法音寺 観音堂

芭蕉句碑 芭蕉像

友沼八幡神社


国道歩きは続く。右に大きな木がそびえ、その下に観音堂が祀られているを観ながら、小山市に入る。
周辺に田園風景が広がる道脇に「網戸渡船場道」の道標を兼ねた「馬頭観音」碑が祀られている。台座には、「これより左  乙女河岸・・・」と記されているらしいが、判別できない。
国道の横には、栗畑が広がり、大きな実を付けている。その先には、稲穂が黄色くなり、一部刈り取りをしている田圃もある。初めての 田園風景に気分良く進む。
少し先左に「若宮八幡宮」が鎮座する。国道から奥まった所に鎮座し、静かな雰囲気の神社だが、境内の一角に 銅製の「大日如来坐像」が祀られている。江戸時代、地元出身者が父母の供養のために、祀ったそうだ。神社の中に、仏像が祀られていのは 珍しい。

網戸渡船場道・馬頭観音 稲穂

若宮八幡宮

大日如来坐像


「間々田宿」への国道を進むと左に「十九夜」の碑が祀られている。この辺りは「十九夜」信仰が強いようだ。その先に「日本橋から70km」の 標識が立っているので、記念にパチリと。
右に「仏光寺」を観て、JR間々田駅に通じる交叉点に進む。この辺りに蕎麦屋があり、昼食をしようと考えていたので、交叉点の角の店に行くと、 何と定休日だと。近くを見廻すも、食事処はなさそうなので、そのまま進むことにする。
やっと、左にラーメン屋を見付ける。行列ができているので、美味しいだろうと並んで待つ。お奨めの「ネギ味噌ラーメン」を注文し、美味しくいただく。 ただ、ネギと云うと青ネギが、いっぱい入っていると想像していたが、白ネギなので、目立たない。勘定時、親父さんに、関西では青ネギか九条ネギ なので、地域差を勉強させてもらったと話すと、九条ネギは、こちらでは高級品だと。ネギも地方によって変わることを改めて認識する。 (12:00-12:25)

十九夜の碑

日本橋から70kmの標識 仏光寺

昼食


逢の榎 (日光街道中間点)

雨は止み、涼しくなった国道を進むと左に「逢の榎」の碑が立っている。
ここは、江戸へ18里、日光へ18里と中間地点の一里塚で、「間(あい)の榎」と呼ばれていたのが「逢の榎」と呼ばれ、縁結びの信仰の名所とも なっているのだと。
中間点に到達した喜びと、まだ半分残っているとの気持ちと入り混じって複雑だが、ひとつの通過点に到達したと満足する。
さあ、半分過ぎたと気分新たに、後半の行程に歩き始める。
少し先左奥に「竜昌寺」が建っている。赤門だと云われるが、写真では、その色彩が分からない。
「日光街道」の中間地点の「間々田宿」に 入っているが、史跡も少なく、国道の両側を注意しながら進む。
左の駐車場前に案内板が立ち「間々田宿問屋場跡」と示している。日本橋から11番目の宿場で、中間地点として賑わったようだ。
その少し先にも案内板が立ち、「間々田宿本陣跡」と記されているが、広場があるだけの寂しさだ。この宿場に、芭蕉が泊まったこと、中間の 宿場であることが、有名なのだろう。

竜昌寺

間々田宿問屋場跡

間々田宿本陣跡


少し進み、「間々田八幡宮」に向かうため、左の参道を進む。結構距離があり、小道の先に鳥居が見え、ホッとする。

間々田八幡宮・本殿

間々田八幡宮の創建は、約1300年ほど前の奈良時代中期(天平年間)と伝えられています。
939年頃に起きた平将門の乱に際しては、藤原秀郷が当八幡宮ほか沿道の神社仏閣に戦勝を祈願し、見事乱を平定したため、神社にご神田を 奉納され、飯田(まんまだ)の里と呼ばれるようになります。
1189年、奥州藤原氏との合戦に臨んだ源頼朝は、先の藤原秀郷の戦勝祈願を知り、当八幡宮に参拝し、『頼朝手植えの松』植えました。 この松は、明治時代に枯死するまで氏子等により大切に守られていたそうです。
さらに江戸時代に入り、日光街道が幕府の手により整備されると、この地がちょうど日光と江戸の中間点となることから、地名が 飯田(まんまだ)から間々田(ままだ)へと改められました。
以降、松尾芭蕉も宿泊するなど、日光街道11番目の宿場町として、間々田宿は大変栄えることとなります。(間々田八幡宮HPより抜粋)

本殿に参拝し、広い境内を眺める。大きな池もあり、見事に手入れされている。敷地が2万坪もあり、一部は、間々田八幡公園として開放されている そうで、小雨の中、散策している方もおられる。池を眺めながら、国道に戻る。

間々田八幡宮の参道

間々田八幡宮・鳥居

間々田八幡宮境内の池


「日光街道(古河~小山②)」の「紀行スライドショー」

石仏の祠

千駄塚古墳の道標

霧雨の降る国道を進むと左に「石仏の祠」が祀られている。「十九夜」の碑かと思ったが、観音様のようだ。
その先の角に「千駄塚古墳」の道標が立っているが、遠いようなので、寄り道はせずに国道を進む。少し進むと「浅間神社」の参道があるが、 これもパスして「小山宿」に向かう。
左に古い造り酒屋「西堀酒造」の酒蔵が見えて来た。地酒を試飲をしようかとも思ったが、ぐっと我慢して先に進む。
少し進むと左に分かれる小道がある。この道が、旧街道の名残なので、左折し、直ぐ右折し、旧街道を進む。少しの間だけであったが、今回初めての 旧街道歩きを楽しみ国道に合流する。
栗宮の三叉路の手前に「安房神社」の鳥居があり、本殿までは行かず、鳥居から参拝し、一息入れる。(14:00-14:05)

西堀酒造

旧街道への曲がり角 旧街道

安房神社の鳥居


「安房神社」の先にある栗宮の三叉路で、国道4号線は左に分かれて行くが、旧街道は直進する。

小山一里塚跡

持宝寺

国道から離れて、少し静かになった県道を進む。国道50号線の高架下を抜けると小山市の市街地に近付き、賑やかになってくる。
「小山一里塚跡」が、宮本町バス停付近にあったらしいが、今はビルになっていて、その面影は残っていない。
旧街道から離れて、左折して「須賀神社」に立ち寄る。少し進むと右に、立派な鐘楼門の「持宝寺」が建っている。徳川吉宗が、日光参拝 した時に、休息したお寺だそうだ。鐘楼門は見事だ。
国道4号線を越えた先に「須賀神社」が木立に囲まれて建っている。大きな鳥居をくぐり、大きな欅がそびえる参道を進み、本殿に向かう。

須賀神社・本殿

須賀神社は、「祇園さん」とも「天王さま」とも称されます。
創建は、天慶3年(940)、藤原秀郷公が京都の八坂神社より御分霊を迎えてまつったことによります。 御祭神は、素盞鳴命・大己貴命(大国主神)・誉田別命(八幡神)の三神です。
徳川家から奉納された社宝の朱神輿を始め、重量2トンを誇る大神輿、木曽檜造りの神門廻廊、伝説の七ツ石などを有する、厳かな須賀の森へ どうぞお越し下さい。 (栃木県神社庁HPより)

本殿で、小山まで到達したことに感謝し、参拝する。
境内には、小山城古井戸にあった庭石「七ツ石」が移設されている。小山城落城で結城藩に接収され、涙を流したために、 小山城の鎮守の神でもある須賀神社に移したところ泣かなくなったと伝えられている。
また、元来木造であったが、平安時代に石造りとなり、1653年に建立された「明神鳥居形式」の石鳥居も残っている。県内でも、日光東照宮の四基の鳥居に次ぐ 古さだと。
静かな鎮守の森の神社の石に腰を降ろし、「小山宿」を如何に廻るかを検討しながら、一息入れる。(13:00-13:10)

須賀神社・鳥居

七ツ石

明神鳥居形式の石鳥居


国道4号線を越えて、旧街道に戻る。小山市街は拡幅されて、近代的な街並みが続くが、左に「脇本陣跡」の広場があり、横には「明治天皇行在所跡」の碑が 立っている。「明治天皇行在所跡」の碑がなければ、分からない史跡だ。
広い道路には、「小山宿通り」の木碑が立ち、「小山宿」の旧街道を示している。その先には、「本陣跡」と思われる広場が残っているが、 碑もなく、推測するしかない。

脇本陣跡・明治天皇行在所跡

小山宿通りの木碑

本陣跡


小山駅前の通りに当たり、左折し、小山市役所に向かう。市役所は、国道4号線沿いにあり、手前には「小山御殿広場」の芝生広場が広がり、 その先の市役所駐車場の奥に「小山評定跡」の碑が立っている。

小山評定跡

徳川家康は、慶長5年(1600)7月24日、上杉景勝を討伐するために会津に向かっていた途上、下野国小山に本陣を置きました。 その時、石田三成挙兵の報が入り、翌25日、急遽家康は本陣に諸将を招集して軍議を開き、「このまま上杉を討つべきか、反転西上して 石田を討つべきか」を質したのです。これが世に言う「小山評定」です。

小山御殿広場

このとき、尾張国清洲城主の福島正則が、続いて遠江国掛川城主の山内一豊が、 「家康に城を明け渡してまでもお味方します」と進言したため、家康支持で固まったのです。
こうして家康率いる東軍は、石田三成討伐のため西上することに決したのです。 そして9月15日、美濃国関ヶ原に東西両軍約20万の大軍が相まみえて天下分け目の一大決戦が行われ、東軍が勝利したのでした。 もし、「小山評定」が無かったならば、東軍は結束することができたでしょうか。「天下分け目の関ヶ原の戦」と良く言われておりますが、 実は、「天下分け目の小山評定」だったのです。 (小山市HPより抜粋)

「小山評定」については、少しは知っていたが、その場所に立ち寄り、改めて歴史の転機になった「小山評定」の意義を感じ入る。大阪に住む 者としては、残念な判断だったと。
「小山御殿広場」は、徳川家光が家康を日光に葬る時に建てた「御殿跡」で、その後、日光参拝時に将軍が泊まったと。 次に、「小山城跡」を訪れようと、左の城跡らしき小さな丘に向かって進む。住宅街に入り、丘沿いの道を行くが、標識が見付からない。 散歩している夫人に尋ねると、標識はないが、この「城山公園」一帯が、「小山城跡」と云われているらしい。更に、 「小山宿」の寺院を探しながら、国道4号線沿いの小山氏初代が建てた「天翁院」や赤い屋根の「宝性院」を巡り、駅前近くのホテルに向かう。

小山城跡

天翁院

宝性院


今回のホテルは、大浴場付のホテルを探したが、満員なので、駅に近くて安いホテルを探すと「グランドシティー小山」が見付かり、残り少ない部屋を確保できた。 何と、素泊り3000円の安さで、少し後でチェックすると満員だった。

夕食

16時20分、ホテルにチェックインし、小さな湯船にお湯を張り、足腰をマッサージしながら、身体を癒す。安さの一つは、浴衣もないので、着替えてベットで くつろぎながら、テレビを見る。明日は、曇り空で、雨の心配がなさそうなのは嬉しい。
一息入れた後、小山駅前に夕食に出掛ける。全国チェーンの居酒屋もあるが、駅ホーム下の居酒屋に入り、まずはビールで乾杯。
冷奴を頼むと具たくさんの冷奴ですと、豆腐の上に野菜がいっぱい盛られており驚いたり、日本海の魚や宮崎の地鶏もある楽しい店で、 店員さんと話しながら、ゆっくりと味わう。
楽しく過ごし、ホテルに戻って、世界陸上を見ていると、知らない間に眠ってしまっていた。23時頃、目覚めて明日の準備をし、再び、ぐっすりと 眠る。
雨の中のスタートとなったが、激しい降りは少しだけで、霧雨や止んだりと傘を差すことも少なく、暑さの心配は全くなく、レイン・ウェア着用で、 丁度良い歩行紀行だった。今日の歩行歩数は、43200歩だった。

「日光街道(古河~小山③)」の「紀行スライドショー」


[古河~小山][小山~雀宮][雀宮~宇都宮(上金井)]







    
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