[宇都宮(上金井)~今市][今市~神橋・東照宮]


○ 「日光街道No3」見聞録(宇都宮・上金井~神橋・東照宮)・(距離 26.7km(今回)/ 150.4km(累計))

  2.「日光街道」(今市~神橋・東照宮・8.5km) 2015.11.18. 7:00~12:15 曇り


日光街道マップ
(幸手観光協会より)
日光街道・奥州街道(宇都宮~白河)宿場一覧
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「今市~神橋・東照宮・行程MAP」

地図の再生ボタン()を押すと
見聞ルートに沿って歩行出来ます。

ぐっすり眠り、5時過ぎに目覚める。窓の外を見ると夜の間に雨が降ったが、曇り空で大丈夫そうだが、天気予報では、午後から雨が降ると。 「日光街道」踏破、「東照宮」参拝まで、降らないことを願う。

朝食

竹美荘

今日の予定の資料を整理し、窓の外を見ると、旅館の横に杉並木が続いている。これが「例幣使街道」の杉並木だと確信する。ここを進めば良いのだと。
6時30分前に食事処に行くと、昨夜お会いした同好の方もおられ、小生が入手した福島県の「奥州街道」地図を参考になればとお見せする。
今日は、お会いすることがないが、何時か、何処かで、お会いできれば良いですねと挨拶を交わして出発する。
外に出るとひんやりとしていて、歩行には最適の気温だ。
旅館の横に廻り、見事な杉並木の道を、昨日の最終地点「追分地蔵尊」に向かう。朝の杉並木は、気持ち良い。
「例幣使街道」は、「東照宮」に幣帛を奉献するための勅使が通った道で、「中山道」の「倉賀野宿」を起点として、ここ「今市宿」に通じる街道で、 鹿沼市辺りから日光杉並木が残っているそうだ。
しっとりとした杉並木を進むと大きな「追分地蔵尊」を祀る地蔵堂に至る。明るくなって見ると、昨日、真っ暗になった「日光街道」杉並木から横の国道に退避して進んだが、 そのまま杉並木を進めば、この「例幣使街道」杉並木と当たる角に、地蔵堂が建っていることが判明した。改めて「追分地蔵尊」に「日光街道」踏破を願って 参拝する。

例幣使街道の杉並木

追分地蔵尊


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

「今市宿」だが、宿場の趣を残す史跡は少ない。まずは、右に曲がり、二宮尊徳を祀る「報徳二宮神社」に向かうが、路地を間違え、迷いながら立派な鳥居を見付け 参拝する。
二宮尊徳は、小田原で生まれ、苦労しながら学問に励んだ二宮金次郎の像は有名だ。成人し、一生懸命働き、創意工夫で財をなし、藩の財政を改善 したことから、経営の神様としても尊敬され、この地で亡くなられ、祀られていることを知った。昨日見た「灌漑堰」は、晩年この辺りに住んでおられたので、 貢献されたと納得する。

報徳二宮神社

二宮金次郎の像 二宮尊徳像

二宮尊徳の墓


旧街道に戻り進むと左にこもかぶりの酒樽が積まれた造酒屋・渡邊佐平商店が建ち、その少し先に「今市の水」が竹筒から流れ出している。水が良いので、 醸造業が栄えているのだろうと。
旧街道を右に入り「如来寺」に向かう。三代将軍家光が東照宮造営のために御殿を建設し、ここに逗留したそうだ。門前の紅葉が見事に色付き、日光にも まだ紅葉が残っていることを確認する。境内に入り、「如来寺」の立派さに驚く。

こもかぶりの酒樽 今市の水

如来寺

見事な紅葉


再び、旧街道に戻ると道脇に「今市町道路元標」が立っているのを発見する。その先右の広場には、初めて宿場らしい「今市宿」の標識が立っている。 今回の紀行で、初めて見る宿場の標識だ。
旧街道を左に入り「今市御蔵跡」を探しに行くが分からない。登校する小学生を送るお母さん達がたくさんいたので、尋ねるが知らないと。その時は 気付かなかったが。「報徳役所跡」を尋ねれば良かったと思うが、後の祭りだ。そこには、二宮尊徳像があったようだ。
探索を諦めて、今市小学校の前を通って、森の中に鎮座する今市の総鎮守「瀧尾神社」に参拝する。

今市町道路元標

今市宿の標識

瀧尾神社


重連水車

唐人小屋跡

「瀧尾神社」の前から、国道は左に通じ、旧街道は真っ直ぐに杉並木に入って行くのを見て、嬉しくなる。
杉並木に進まず、右横に「杉並木公園」が、並行に広がっているので、公園に入って行く。公園には、「重連水車」が設けられ、広々とした素敵な公園にな っている。見晴らしも利き、素晴らしい。
左の植え込みに「唐人小屋跡」の標識が立っている。朝鮮通信使の日光参拝のための宿舎だったそうだ。
少しの間、公園の中を進み、きれいな小川を渡って、杉並木の旧街道に入る。

日光街道・杉並木

昨日の杉並木以上に見事な旧街道が続いている。
朝日が射し込んでいるので、木漏れ日も美しく、道の両側の細い溝には、きれいな水が 流れている。

日光街道・杉並木

日光街道・例幣使街道・西会津街道の3つの街道で、全長37kmに渡って道の両側に約1万3300本もの杉の木がうっそうとそびえ立つ並木道。
徳川家の忠臣・松平正綱が20年余りの年月をかけて20万本以上もの杉を植樹し、家康の33回忌の年に日光東照宮の参道並木として寄進しました。
高さ約30mにも成長したこの杉並木は現在日本で唯一、特別史跡と特別天然記念物の二重指定を受けており、平成3年には「世界一長い並木道」として ギネスブックに認定されました。(日光旅ナビHPより)

真っ直ぐに続く杉並木を楽しみながら進む。両側の溝には、きれいな水が流れ、その上の石垣とその上に植わっている杉並木が、延々と続く光景は、本当に 見応えのある景観だ。木漏れ日も美しい。
杉並木の途中に「瀬川の一里塚」があるはずだが、両側の杉が塚の上に植わっていないかと観察しながら進むが、これだと云った杉が見当たらず、これだろうと 思われる杉を「瀬川の一里塚」と見成しパチリと。日本橋から34里(136km)となる。もう少しで「日光街道」踏破だと歩を進める。
杉並木が途切れる手前右に、昔風の建物が建ち、蕎麦屋をやっているようだが、まだ開店していない。その奥には、茅葺きの家が建っている。

杉並木

瀬川の一里塚?

昔風の建物


「日光街道(今市~神橋・東照宮①)」の「紀行スライドショー」

砲弾打込杉

しばらく杉並木が途絶え、再び国道から右の石畳の杉並木に入る。舗装・石畳・地道と杉並木の道もいろいろあり、それぞれに趣がある。
石畳の杉並木を堪能しながら、次の史跡である「砲弾打込杉」を探しながら進むと右に標識が立っている。標識がなければ、たくさんの杉で判別できないので 有難い。
幹の中央の窪んでいる所が、戊辰戦争で官軍の放った砲弾跡だと。戊辰戦争跡が、こんな所にも残っているのだ。

石畳の杉並木

砲弾打込杉














いつまで杉並木が続くのだろうと思う位の杉並木が続く。気持ち良い歩行ができ、大満足だ。
朝日の木漏れ日が、杉並木に射し込む光景や紅葉が混じる杉並木をを眺めて進むと「竜蔵寺跡の薬師堂」が祀られ、その前に、大きな「石の釣鐘」が 地面に置かれている。奉納されたとき龍頭が壊れたため放置されたままになっているのだと。

紅葉と杉並木 木漏れ日の杉並木

竜蔵寺跡の薬師堂

石の釣鐘


杉並木は、国道と合流するが、歩道のない国道にも、杉並木は続いている。車に注意しながら進むと右の墓地の中に「戊辰戦争隊士の墓」が祀られている。 先程の「砲弾打込杉」と当時の歴史を知ることができる。
歩道のない杉並木の国道を進むと右に標識があり「並木太郎」と記されている。今までにも、「並木太郎」があったらしいが、標識が見付からなかったため、 分からなかった。案内板によると、並木の中で一番大きな杉で、周囲5.35m、樹高38mだと。車道を渡って、反対側から全体を写そうと試みたが、最上部まで 入れることができず、見上げて戻すと、頭がくらくらしてしまった。他の杉も見事だが、「姿が美しく端正である」ことが並木太郎と呼ばれる所以だと。

国道の杉並木

戊辰戦争隊士の墓

並木太郎 並木太郎全貌


山陰になった杉並木の杉には、苔が付き、古木の様相を示している杉もあり、少し先の右に、根元が銀杏の葉のように広がっている「銀杏杉」があると 云うが、標識がないので、根が張った銀杏を「銀杏杉」と見成してパチリと。名のあるある杉には、標識を立てて欲しいものだ。
杉並木が途切れた左に「明治天皇七里御小休所跡」の碑が立っている。明治9年東北巡幸の帰途の小休所となったと。その先に左に「尾立岩」があるのだが、 これもはっきり分からず通過する。
国道は交叉点になり、直進すると筋違(すじかい)橋を渡ることになる。橋の手前左に「地蔵尊」が祀られている。昔はこの橋の下をくぐれば麻疹(はしか)が 軽くすむと云われたことから「麻疹地蔵」とも云われると。

苔むした杉

銀杏杉?

明治天皇七里御小休所跡

麻疹地蔵


やがて、杉並木の旧街道は、国道から分かれて少しの間、直進する。直ぐその先左に「異人石」が置かれている。

異人石

JR日光駅

明治の頃、杉並木を愛した一人の外国人が 杉並木を鑑賞するため、石屋にこの石を座り易く加工してもらい、毎日ここで過ごしたと。お互いに座って、記念撮影をし、外国人の気分を味わう。
その先、杉並木は、国道に合流し、JR日光線の高架下を抜け、進むと右にモダンなJR日光駅が建っている。
日光の案内マップを求めるため、観光案内所に行き、案内所の方と見所・所用時間等を聞き、大阪から来て、今朝は今市から歩いて来たと話すと驚いておられた。 杉並木の見事さを賞賛するも、歩いていないと・・・・。ここで一息入れ、いよいよ最終行程に備える。(9:45-9:55)
いよいよ最終宿場の「鉢石(はついし)宿」に入って行く。東武日光駅の前を進むと標高543mの標識が立っている。
緩やかな坂道を進み、右に入り 「稲荷神社」に向かい、最終行程に到達したことを感謝し、参拝する。
「稲荷神社」の境内に、「ながむながむ 散なむことを きみも思え くろ髪山に 花さきにけり」と記された「西行法師歌碑」が立っている。その横に 大きな「西行戻り石」が置かれている。西行が石の上の子供に「小僧どこえ行く」と聞くと、小僧は「冬萌(ほ)きて 夏枯れ草を刈りにゆく」 と答えたので、西行は「手強い相手だ。歌比べは難しい」と引き返してしまったのだと。
その先の細い道を進むと立派な木が茂り、土壁の大きな家が建っている。日光の名家なのだろうと話しながら進むと「虚空蔵尊」が祀られている。 きらびやかな装飾で「東照宮」に似た栃木県文化財に指定されていると。

稲荷神社

西行法師歌碑 西行戻り石

虚空蔵尊 立派な家


鉢石宿・入江本陣跡

鉢石

旧街道に戻り、坂道を上って行く途中右の「そば処 魚要」が「鉢石宿・入江本陣跡」だそうだが、その面影はない。
土産物屋・和菓子屋等の店を眺めながら、坂道を上って行くと最終地点の「神橋」まで来てしまった。
「鉢石宿」の名前である「鉢石」を見落としたので、店の方に聞きながら随分戻ることになった。
羊羹屋の角を右(進行方向から)に曲がる奥に「鉢石」が置かれている。鉢を伏せたような直径2m程の石で、地中から地表に突き出た岩盤の一部がだと。
先程進んだ道を戻り、「神橋」に向かう。観光客も多くなり、東洋系より西欧系の外国人も多いのに驚く。さすが、世界遺産の日光だ。 右の歩道を上って行くと広場があり「磐裂(いわさく)霊水」があり、美味しい水が滾々と湧き出ている。
その近くに「天海上人像」が堂々と立っている。曇り空で、表情がしっかり見えないが、凛々しい風貌だ。

天海上人像

板垣退助像

家康の命で日光山に入り貫主となり、 家康死後は東照宮の創建に尽くした「日光山中興の恩人」で108歳で大往生したと。
その反対側には、「板垣退助像」が立っている。戊辰戦争の時、幕府方の大鳥圭介と官軍の板垣退助が話し合って日光を戦火から守った功績をたたえた ものだと。

磐裂(いわさく)霊水















いよいよ、日光橋を渡り、大谷(だいや)川を渡り、前に真っ赤な「神橋」を望み、「日光街道」踏破を実感する。
急流の大谷川の上に架かる「神橋」の姿は、周辺の紅葉にも映え、神聖なものと感じるのは、踏破した感激や満足感のためだろうか。しばらく、川の流れ、水の音を聞き、 OK君と共に、「日光街道」踏破記念撮影をする。やった!!
ここで「日光街道」紀行は踏破し、「東照宮」参拝に向かう。 (11:15)

神橋

踏破記念写真


「日光街道(今市~神橋・東照宮②)」の「紀行スライドショー」

「日光街道」踏破した感激とともに、「東照宮」参拝に向かう。
天気予報通り、厚い雲が出て、雨が降りそうな空模様になって来た。修学旅行の小学生の列を抜け、「世界遺産」の石碑の横の石段を上って行く。 左に行くべきだったが、右の石段を上って行くと「四本龍寺」への参道となり、石段の先に「紫雲石」の説明板が立つ。 勝道上人が, 礼拝 をささげた時、 この石の辺りから紫の雲 が立ちのぼり, 男体山の方へたなびくの を見たということから, 紫雲石を呼ばれ、 ここに「四本龍寺」を建てたと。
その横には「三重塔」が建ち、「拝殿」に参拝し、急ぐように次に進む。

世界遺産の石碑

紫雲石 三重塔

拝殿


宇都宮に戻るJRが、1時間に1本なので、余り時間を取ることができないので、所々に残っている美しい紅葉を愛でながら進む。その先の広場の真ん中に、 日光開山の祖と云われる「勝道上人」の像が立っている。
天平7年(735)年に現在の栃木県真岡市で生まれ、成人して僧侶になり、32才の時、 大谷川の激流を神仏の加護を受けて渡り、草葺きの小屋を建て、毎朝、二荒山(ふたらさん)・男体山の霊峰を拝していた所、先程見た、紫雲石を見付け、ここをを 霊地とし、日光山の歴史が始まったのだと。日光が、奈良・平安時代から霊地として、存在していたことは知らなかった。
その先の「日光山輪王寺」に向かうが、本堂(三仏堂)は改修中で、覆われていたが、本堂の模写が描かれているのを観て、「東照宮」に向かう。

美しい紅葉

勝道上人の像

日光山輪王寺


広い砂利道の参道は、観光客も多く、外国人の多いのには驚く。途中に「スカイツリー」の模型が立ち、ここの標高が634mでスカイツリーと同じ高さだと示している。 駅前で、542mだったので、約100m上ったことになる。
石鳥居をくぐり、人混みに押されるように拝観料を払い、「五重塔」を観て、「表門」からに入場して行く。写真を写していくが、曇天で暗く、ピンボケばかりで、 上手く写っていないのは残念だ。一部、OK君の写真を借用する。

東照宮・本殿

現在「東照宮・陽明門」は、平成の大修理でテントに覆われているのは残念だが、急ぎ足で参拝・見学して行く。
日本を代表する世界遺産「日光の社寺」。その中でももっとも有名な「日光東照宮」は徳川家康がまつられた神社で、現在の社殿群は、そのほとんどが 寛永13年3代将軍家光による「寛永の大造替」で建て替えられたもの。
境内には国宝8棟、重要文化財34棟を含む55棟の建造物が並び、その豪華絢爛な美しさは圧巻です。
全国各地から集められた名工により、建物には漆や極彩色がほどこされ、柱などには数多くの彫刻が飾られています。(日光旅ナビHPより)

境内に入ると左の「神厩舎」の前に人だかりがあるので覗く。昔から、猿がウマを守るとされているところから、有名な「三猿」の彫刻が施されている。 数枚の物語になってるそうだ。その中でも、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が有名だ。
「陽明門」は大修理のため、テントで覆われていて、観ることができない。

表門 (ピンボケ)  五重塔

三猿 (借用)

陽明門


「陽明門」の内側は、改修中で通行制限もあり、ややこしくて何処が何処か分からない状態だったが、きらびやかな建物を写して、人の流れについて行くと 左甚五郎作の「眠り猫」が飾られている。傑作だと云われるが、よく分からない彫刻だ。
「本殿」に上がり、説法を聞き、狭い改修中の通路を通って、改修中の現場を通り退出する。

鐘楼 (ピンボケ) 

眠り猫 (借用)

神輿舎


広くて長い参道をバス停まで急いで進むと、11時55分発の世界遺産循環バスが、タイミングよく来たので乗車し、JR日光駅まで戻る。

昼食のラーメン

JR日光駅で、発車時間を確認すると13時05分発なので、昼食場所を探すが、駅前にはなく、少し離れた所のラーメン屋を探し当て、ここで昼食とする。 (12:15-12:40)
「日光街道」を踏破し、駆け足の「東照宮」参拝と急いだが、「日本橋」から「神橋」までの約150kmを歩き、「東照宮」を参拝した満足感で、本来なら 乾杯をしたい所だが、次の「奥州街道」紀行スタートするため、自重しラーメンを美味しくいただく。ここまでの歩行歩数は、25200歩だった。
昼食後、日光駅に戻ると修学旅行の小学生が、たくさん列車を待っており、修学旅行列車が到着すると数校の小学生が下車し、待っていた小学生が乗車する のを、旅行社の手際の良さに感服しながら見る。
13時05分発の列車で、宇都宮に向かい「日光街道」紀行は完了する。

「日光街道(今市~神橋・東照宮③)」の「紀行スライドショー」

初回は、5月26日に大学時代の友人二人とともに日本橋を歩き始め、二泊3日で古河までの行程を進み、2回目は、古河から二泊3日で宇都宮・上金井まで、 途中、友人とともに歩き、最終回の今回も、小学校以来の友人と1.5日歩いて「日光街道」を完歩した。友人たちとの紀行も印象深く、楽しい旅だった。
前半は、他の旧街道に比べて、国道歩きが多く、開け過ぎた旧街道だったが、昨日・今日の杉並木を体感して、「日光街道」の醍醐味を味わうことができたのは 嬉しい限りだった。さあ、次は「奥州街道」にトライだ。


[宇都宮(上金井)~今市][今市~神橋・東照宮]


(奥州街道へ)




    
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