○ 「奥州街道No2」見聞録(喜連川宿~白河宿)・(距離 62.8km/ 88.5km/238.9km ) 1.「奥州街道」(喜連川宿~大田原宿・19.7km) 2016.02.23. 9:50~16:45 曇り後晴れ
「奥州街道」の第一歩を記した後、次の紀行を何時にしようかと考えていた。その時、二年毎に行われる大学のクラスの東西合同同窓会が大阪で開催され、 「奥州街道」を 歩いていると話すと東京在住で、那須に別荘を持ち、玄人はだしの木工細工に励んでいる友人が、「奥州街道」は家の近くを通っているので、ぜひ立ち寄り 泊まってくれとのお誘いがあり、その言葉に甘えて、彼の別荘に宿泊する日程で調整することになった。 本来なら、春になってからの紀行が最適だが、「奥州街道」はまだ北に続き、冬の東北地方の紀行は積雪のため無理と考え、少し寒さを体感するために も、北関東の冬の息吹を感じるべく、彼と日程調整をした後、2月下旬の寒さ厳しい時期に二泊三日の日程を確定した。 今回の紀行で、「白河宿」までの幕府直轄の「奥州街道」を踏破し、次の藩管轄の「奥州街道・仙台道」への足掛かりを付け、更には「奥州街道・松前道」 を進み、津軽半島・竜飛岬への一里塚を築きたいと思った次第だ。 往路は、従来と同様、夜行バスで東京に行くが、帰路は、郡山から夜行バスがあるので、これを活用することにする。 しかし、出発の4日前に軽いギックリ腰になり、ロボットのアシモ君のような歩き方で、腰のケアに注力し、どうにか前日には少しカバーするが、普通の状態に戻って 出発することを決意した。 2/22、何時ものように、23時10分発の夜行バスに乗るため、9時前に出発し、梅田で睡眠導入剤を仕込み、満席の夜行バスに乗車する。夜行スキーバスの大惨事の 後だが、乗客は減っている感は無い。途中3ケ所のトイレ休憩を挟んで、定刻より少し遅れて、6時25分東京駅に到着する。 バス停から小走りで、JR東京駅に急ぎ、6時42分発の宇都宮行快速に飛び乗る。前回は、バスが遅れて1時間後の列車に乗ったので、間に合って良かった。 宇都宮駅で黒磯行に乗換え、氏家駅で下車する。
丁度、お雛祭りの時期なので、街中には見学ルートも設けられており、家々の中も見学できるようだが、まだ時間が早いので、観光案内所の展示だけ 拝見する。「氏家宿」も古い宿場なので、雛祭り等の伝統行事が継承されているのだ。 雛祭りについては、「薩摩街道」紀行時、NHKの朝ドラ「花子とアン」でも有名になった歌人柳原白蓮が過ごした石炭王 「伊藤伝右衛門邸の立派な雛人形」は見事だったのを想い出す。2013年 と3年前の同じ時期に歩いていたのだ。 9時25分発の喜連川温泉周遊の無料巡回バスは、4-5人のシニア女性が乗車され賑やかだ。「奥州街道」と違ったルートで「もとゆ」に向かう。早朝なのに、入浴客は 多く、朝風呂を楽しむ人が多いようだ。 9時50分、身支度を整えて第2回目の「奥州街道」をスタートする。 外気は冷たいが、風なく、思ったより寒くないのはありがたい。 「もとゆ」から旧街道に戻る途中に「寒竹囲(かんちくがこい)」と云われる青々とした生垣が続く。喜連川6代公方が板塀では製作保繕が大変なので藩士の家に 笹の生垣を奨励したのが始まりだと。冬の殺風景の中で、緑が美しい。 旧街道に戻り、少し進んだ本町から右折して「龍光寺」に向かう。境内には、喜連川足利家14代藩主の墓所が祀られている。この辺りは足利家が統治していた のだ。
本町に戻ると道角に「喜連川道路元標」が立っている。旧街道の右に煉瓦造りの建物が建っている。ここは観光案内所になっている。その先右に、古い建屋の 「かぶらぎ時計店」が建っている。ここは昔の旅籠山田屋徳平氏跡とのことだ。「喜連川宿」には、所々に古い建物・史跡が残っている。 その前には、前回訪れた「喜連川神社」の参道と階段があるが、黙礼して次に進む。
静かな宿場を進むと左奥に市役所喜連川庁舎があり、その門が見事な「喜連川城大手門」が復元されている。二階に展示室があるらしいが、 鍵が掛っていたので、見学するのを諦める。 旧街道に戻ると前に木造の古い「街の駅本陣」が建っている。ここは、江戸後期の本陣跡て、昔は警察署だったそうで、今はレストランになっている。 その先にも、古い饅頭屋が続いている。仲町の角辺りに「一里塚」があったらしいので、角のノザワ商店の方に聞くと、店の向かいにあったらしいが、 道路の拡幅等により、不明になったとのことだ。 更に進むと「呉服屋・笹屋」の立派なお屋敷が建っている。その先は、緩やかな枡形になっており、落ち着いた「喜連川宿」を進む。
少し先右に黒板塀の立派な屋敷が建っている。高塩薬局の黒板塀と屋敷門で、旧街道の風情が感じられる。台町の交叉点手前に左を奥に入ると「専念寺」が 建ち、左のお堂に県指定文化財鎌倉時代の珍しい「鉄製阿弥陀如来」がが祀られているらしいが見ることができない。 旧街道は台町を右折する追分になっているが、「追分道標」が見当たらない。この道標は、交叉点の反対側の台町公民館の敷地内に移設されている。 「左在郷道 右奥州海道」と記されている。 追分からの旧街道は、静かな街並みとなり、道なりに左に曲がって行くと、内川に当たった後元の県道に合流し、金竜橋を渡る。(10:45)
「喜連川宿」の中心街を過ぎ、のどかな旧街道を進む。手袋もする必要がなく、殺風景な田園風景を楽しみながら歩いていると右の農家の庭に珍しい物が あるので立ち寄る。三段になった洗い場のようだ。昔の方の知恵が集約されているのだ。エコと工夫の賜のようだ。 しばらく進んだ右に赤い鳥居の神社が鎮座し、周りに石仏が祀られている。歩道の草むらの中に新しい「双体道祖神」 が祀られている。大きな道祖神で、微笑ましくなる。旧街道は、緩やかな坂道となり、左の崖沿いを上って行く。フィオーレ喜連川の新興住宅地の看板も立ち、 木立が多くなった坂道が「つるが坂」と云われ、鶴が飛来していたのだろうと。 崖の中腹には、「馬頭観音」碑が祀られているのも確認できる、のどかな旧街道の峠道だ。やがて、下り坂となり、右からの広い県道25号線と合流して 進むことになる。(11:30)
歩道のない広い県道を進むが、車が少ないので、安心して景観を楽しみながら進むことができ、陽が射し始め暖かくなる。やがて、 下河戸の三叉路を右に曲がる。曲がって直ぐ右に「明治天皇御小休御膳水碑」が立っている。 その横に新しい「双体道祖神」が祀られている。 この辺りの道祖神は大きいのだと思いながら、少し細くなった田舎道を進む。 その先の江川を渡り、緩やかな坂を上って行くと右に「源氏ボタルの里」の標識が立っている。自然豊かなで水がきれいなので、ホタルの名所があるのだろう。 少し先右に「きつれ川幼稚園」の先の小公園の奥に「明治天皇御休輦之處」碑が立っている。公園のベンチで一息入れ、暖かくなってきたので、上着のジャンパーを 脱ぐ。(12:15-12:20)
暖かくなった旧街道は、右のゴルフ場を木々の間から見ながら進む。この辺りに「一里塚跡」があるらしいが、石蔵のある民家の庭にあるとの先達の話を 頼りに、左に続く集落を探す。石蔵の家があったが、手塚家ではないので、その先に進むと立派な石蔵が建っている。近くに居られた方に、手塚家かと 尋ねるとそうだと。誰も居られないので、庭先に入って確認するが分からず、少し盛り上がった所を一里塚としてパチリと。 その先左に、三体の石仏が祀られている。横に「ほほえみ仏」の標識が立つ、赤ん坊を抱いた地蔵・地蔵・道祖神が並んで祀られている珍しいものだ。 やがて、太田原市に入り、そろそろ食事処がないかと進むと広い道との三叉路があり、その角にコンビニがあるので、何か買わねばと。少し先右に、 食事処らしき旗が立っているので、 ダメだと戻ろうと進むと「蕎麦処・和楽庵」だった。勘が当たったと席に着き、お奨めを尋ねると「けんちん汁そば」だと。注文し、運ばれてきた蕎麦を 見て驚いた。大きな鉢に、野菜一杯のけんちん汁が付いた蕎麦なのだ。蕎麦を汁に漬けて食べるのだと。暖かく、野菜たっぷりで、蕎麦も美味しい。 食事を終え、親父さんと話す。時々「奥州街道」を歩く方が立ち寄ろそうで、気を付けて進んでくださいと激励を受け、出発する。心身ともに温かくなった。 (12:55-13:25)
「奥州街道(喜連川宿~大田原宿①)」の「紀行スライドショー」
やがて、右に大きな「農産物直売所」が建ち、 二股の道を左に進むと「知ってっけ佐久山」の大きな地図の看板が立っている。「佐久山宿」が近いのだ。 直進して進むと前坂の交叉点で県道52号線に当たる。そのまま、県道を横断して細い道を直進するのが旧街道で、「佐久山宿」の宿場町が現れる。 細い旧街道の坂道を下って行くと左に「観音堂」が祀られ、その前には「六地蔵」や石仏が並んで祀られている。宿場町の風情が残り、嬉しい。 道脇には「二十三夜碑」も残っているのを確認して進むと、その先は枡形になっており、立派な蔵が建つ旧家も残っている。やがて、旧街道は、 先程横断した県道と合流する。
県道の左に旧家が建ち、古い門構えの家の前には「運用膏」と書かれた薬屋の古い看板が掛っている。「佐久山宿」は、 薬屋が多く、特に傷薬が効くと戊辰戦争で評判になったと。 その先にも、古い酒屋さんが建ち、県道沿いではあるが、宿場町の風情が残っている。 少し先右の消防センターの前には「旧奥州道中佐久山宿下町」と記された標識が立ち、その横の公衆トイレの壁には、「那須与一」が扇の的を射る壁画が描かれている。 那須与一は、大田原市の生まれで、「郷土の誉れ那須与一」と市民から尊敬され、市を挙げて市のキャラクター「与一君」を初め「与一まつり」等、イベント施設に 名前が登場するようだ。(後程訪れた大田原市街には銅像が立っていた。) 横の小道を入って行くと「不動明王像」が安置された「大日堂」が建っているが、中は覗けなかった。その裏に樹齢800年で県指定天然記念物の大欅が堂々と 植わっている。
旧街道に戻り、右の佐久山城跡に向かおうとも考えたが、腰の状態が万全ではないため、高い城跡への見学は諦める。 城跡には行かないが、左丘の上に建つ「実相院」を訪れる。長い階段の上に、朱塗りの山門が迎えてくれる。山門は、正徳年間(1711~1716)に建立された、 和唐折衷の四つ脚門で、屋根に矢板市平野産の石を置いてあると。立派な山門から、「佐久山宿」を見下ろす。 旧街道に戻ると右に直角に曲がり、下り坂左角に「正浄寺」が建っている。この正浄寺に伝わる雅楽は、同寺の檀家有志が一子相伝の形で伝承して きたもので、県内でも貴重な郷土芸能として県指定無形民俗文化財になっていると。 境内の左に「芭蕉句碑」が立っている。文字は読めないが「花の陰 謡いに似たる 旅寝哉」と記されていると。 芭蕉には疎いが、この句を検索すると 元禄元年。『笈の小文』の旅の途中、吉野の平尾村にて。ここに「謡」は謡曲『二人静』を想定している。時は春、所は吉野。こうして旅寝をしていると、 なにやら謡曲の主人公になったような気分になる。分けても吉野といえば義経と静御前の悲劇が思い出される。と記されている。何故、この地に 吉野で詠まれた句碑が残っているのか? 義経と那須与一の関連で、この地に置いたのか? 小生には分からない。ここで一息入れる。(14:30-14:40)
「正浄寺」の前の県道は、一直線に大田原市街地に続いている。車の往来が少ない県道を淡々と進むと道筋に立派な門構えの旧家や長屋門の家が点在 している。旧街道の風情が残っているのにはホッとする。 途中、小さな川を何度か渡る。その川の水が澄んでいて、水草の緑が美しく映えている。「イトヨ生息地」が近くにあるようだ。周辺は田園風景が広がり、 遠くの山々には雪が被っているのが望まれる。旧街道の宿場と宿場の間は、田舎道の一本道が続いていることが分かる。
少し進み、親園(ちかその)の集落の右に、立派な「与一の里名木選国井氏宅赤マツ」が植わっている。樹齢200年の立派な枝ふりは、遠くからも確認できる。 長屋門のある旧家を見ながら進むとその先の川を渡った左に「供養塔」が祀られ、奥には古い祠も祀られている。旧街道だ。 その先左に「湯殿神社」が鎮座し、その入り口のお堂の中に「浦蘆(ほろ)碑」が祀られている。浦蘆とは、蜃気楼のことで、旅の僧が那須野原で蜃気楼を見た 体験に重ねて地元の代官の善政を讃えたものだと。お堂の横には「旧奥州道中」の標識が立っている。
「湯殿神社」の筋向いの立派な門構えの国井氏宅の門を入った直ぐ左に祠が祀られ、その中に「町初碑」が収められている。50㎝程の小さな自然石で、 寛永年間に奥州街道道筋の八木沢集落が開かれたことを記念して建立したそうだが、集落の起こりを示す「町初石」の存在を初めて知った。 再び、真っ直ぐな県道歩きが続く。史跡がないと単調な歩行となり、淡々と進むと右に「八幡神社」が鎮座していて気が晴れる。途中、犬の散歩をしている 方と出会い、奥州街道を歩いているのかと尋ねられ、そうだと応えると、今日は暖かくて良かったね。気を付けてと。心休まる一瞬だ。 更に進むと 市街地が現れ、右に「旧奥州道中 大田原宿 新田木戸跡」の標識を発見し、「大田原宿」に入ったことを確認する。
旧街道は、その先の新明町交叉点で右折する。ここを左折して行けば「日光北街道」で、日光に通じるようだ。 右に曲がって行く旧街道の左奥に「薬師堂」が祀られている。
「大田原宿」に入って初めての史跡に囲まれて、やっと目的の宿場まで来たと安堵する。 「薬師堂」から旧街道に戻るが、県道沿いで、趣きは少ないが、街灯には、宿場のシンボル・キャラクターである「与一君」の「願いがかなう一矢必中」の 幟が掲げられているが、少し寂しい街道筋だ。
今日はここまでとして、旅館に向かう途中、旧街道右に「本陣・問屋・高札場跡」の案内板が立ち、この辺りが宿場の中心地であったことを示しているが、 全くその雰囲気がないのは残念だ。
「奥州街道(喜連川宿~大田原宿②)」の「紀行スライドショー」 今夜の旅館は、浴場もある「こめや旅館」に予約しているので、旧街道から右の住宅地に入って行く。新興住宅街が広がり、とても宿場町とは思えない。
夕食はないので、近くの居酒屋を聞き、旧街道まで戻って探すが、一軒目は臨時休業、二軒目は電気が点いていない。仕方がないので、飲食店を探すが、全く見当たらない。 「薬師堂」まで戻り、再度探し出すと、旧街道の左奥に居酒屋らしき店があるが、高級な感じで敷居が高そうだ。 カウンターに座り、生ビールで乾杯し、親父さんと話しながら、ゆっくりと楽しむ。この辺りは、焼酎よりも日本酒が主で、東北地方応援の地酒があったので、 日本酒を頼み、美味しくいただく。カウンターに地元の方も来られ、「奥州街道」を大阪から歩いていると話し、大いに懇親する。地酒「旭興」の燗酒を 御馳走になり、 翌日、友人と会う時の地酒の銘柄を聞いたりと。地元の福祉関係の名士の方で、話題も楽しく、約1時間程、楽しい歓談となる。 粋な「居酒屋・粋処祭」を出て、旅館に戻り、そのままぐっすりと眠る。 腰の調子が、本調子でなかったが、無事、計画通り歩け、明日も大丈夫そうなので、一安心だ。今日の歩行歩数は、42400歩だった。
|