○ 「奥州街道No2」見聞録(喜連川宿~白河宿)・(距離 62.8km/ 88.5km/238.9km ) 2.「奥州街道」(太田原宿~芦野宿・22.3km) 2016.02.24. 7:00~15:45 曇り後晴れ
心地良い疲れと酔いでぐっすりと眠り、5時過ぎに目覚める。天気予報は、雨・雪の心配はなさそうだが、昨日より寒く(8℃)風が強いようだ。 腰の状態も大丈夫なようで、資料や地図を準備し、体勢を整える。 今日は、友人S君の別荘に泊めてもらうので、16時に「芦野宿」の「遊行庵」で会うことになっている。楽しみだ。
7時、ご主人にご挨拶し、向かい風で冷たいでしょうが、気を付けての言葉に送られて出発する。 外に出ると外気は冷たく、風が強いので、体感としては5℃以下だろう。手袋をはめ、マフラーも着けて旧街道に戻る。 昨日の終了地点「那須与一像」から「鍋掛宿」に向かって、静かな「大田原宿」の県道を進むと金燈籠交叉点の左手前に立派な「金燈籠」が立っている。少し 広場になっていて、説明碑と「旧奥州道中 大田原宿」の標識も立ち、その横には「奥の細道」の説明碑も立っている。 「金燈籠」の台座には、西側に江戸、東側に白川と道標を兼ている。説明碑によると、元の燈籠は、文政3年(1820)に建立されたが、戦時中に供出され、 現在のは3代目だそうだ。 その先の交叉点を左折し、少し先の「大田原宿 寺町」の標識を右折するのが旧街道だ。緩やかな枡形もある旧街道を進み、左奥に建つ「光真寺」に立ち寄る ことにする。思ったより遠く、地元の方に確認して参拝する。「光真寺」は、天文14年(1545)大田原資清が建てた大田原藩主の菩提寺で、境内左奥に 歴代大田原藩主の大きな立派な墓が祀られている。さすが、太田原藩主の菩提寺だと感服する。
旧街道に戻り、道なりに進むと「お雛様」が飾ってある店があり、季節を感じて、思わずパチリと。横には「五月人形」も飾ってあるのは嬉しい。 やがて、県道と合流する手前左に「大田原神社」の長い階段がある。本来なら、上って参拝するのだが、腰が本調子でないので、先のことを考え、 階段から黙礼して進むと横に「大久保木戸跡」の標識が立っている。 県道の向こうには、「大田原城跡」があるが、ここもパスして、蛇尾(さび)川を渡る。蛇のように蛇行しているから命名されたのだろう。
橋を渡って右に行くと「黒羽道」で、その先に「那須与一」が寄進した「那須神社」が鎮座している。旧街道は、左折し、広い県道を進むことになる。 左に富士電機の広い工場を見て進む。 向かい風が強い県道を進むと左のコンビニの駐車場に「中田原一里塚」が、その姿を残しているのは嬉しい。碑だけの一里塚や何の表示もない一里塚が多い中、 移設されたとは云え、塚が残っているのだ。ここで一息入れる。(8:00-8:05) 更に県道を進むと交叉点の左奥の黒羽刑務所の看板の前に「棚倉道・道標」が立っている。読み難いが「右たなくら」「左しらかわ」と記されていると。 その横には、先程の「一里塚」やこれから訪れる「コウヤマキ」の道標が立ち、それぞれまでの距離を示している。ありがたい道標だ。
「道標」から0.8km先の市野沢交叉点の先左に樹齢約400年の「高野槇」が植わっている。奥州道中三槇の一つだと。 県道の旧街道には、可愛い「道祖神」も祀られていたり、その先右には、「十九夜塔」や「大黒天」の碑が祀られている。広々とした畑が広がる旧街道には、 史跡が点在しているので、飽きることがない。 その先右に、「弘法大師歌碑」が立っている。「蓑に添う 市野沢辺の ほたる哉」と記されているが、弘法大師の歌碑を 見たのは初めてではなかろうかと?。平安時代にここを通った弘法大師が詠んだ、と伝えられているそうだが、江戸時代に詠まれた句なのだとか。
道なりに進むと綿貫十文字の交叉点を過ぎる。この辺りの交叉点は、十文字と云うらしい。 少し進んだ左の田圃の高台に「お堂」が建っているので、上って行くと「麻疹地蔵」が祀られ、周りには石仏も祀られている。 その先の田圃の中に「馬頭観音」碑も祀られている。のどかな旧街道だ。 風が冷たく感じるようになり、緩やかな上り坂を進むと、左に「念仏塔」「十九夜塔」等の石碑が数基立っている。「永代常夜燈」は、道標を兼ね 「右奥州海道」「左原方那須湯道」と記され、右端の新しい碑には「旧奥州道中 綿貫」の標識となっている。ここで、一息入れる。(9:15-9:20) 緩やかな坂のアップダウンを楽しみながら進むと左の草むらに「明治天皇御駐輦記念碑」が立っている。立派な石柱だ。
「奥州街道(大田原宿~芦野宿①)」の「紀行スライドショー」 旧街道は、のどかな田園地帯の中を通り、那須塩原市に入る。 この辺りは、牧畜が盛んなようで、干し草のヘイロールが積まれ、牛舎が点在し、かすかに臭いも漂っている。道が狭くなり、車が通らなければ気持ちの良い 旧街道だが、車が通ると避けなければ危険だ。 所々に、畑が緑に覆われている。麦畑と思ったが、牧草のようだ。この時期に、青々と生える牧草があるのだろうかと思いながら進むと左に祠があり、 「お不動様」が祀られている。「樋沢の不動明王像」で、明歴2年(1656)に制作された寄木造りのお不動様で、地元の信仰を集めていると。
旧街道は、野間十文字を越えて進むと左の樋沢公民館の上に「樋沢神社」が鎮座する。石段を上り境内に向かうと、祠の横に大きな石が置かれている。 案内文には、後三年の役(1083~1087)で陸奥平定に向かう八幡太郎義家が、戦勝祈願 にと小高い丘の上の八幡神社に馬で一気に駆け上がったところ、勢い あまって巨石に馬の前足が乗ってしまい蹄の跡が残り「蹄跡石」となったと。その周辺には、たくさんの石仏が祀られている。 「蹄跡石」の奥には、「葛籠石」と呼ばれる石があるが、形が葛籠(つづら)に似ていることから、義家が「葛籠石」と命名したと伝えられていると。 源義家の名前が出て来たのにも驚き、「奥州街道」の時代毎の歴史を感じる。
少し進んだ左に「鍋掛神社」が鎮座し、「鍋掛一里塚」の標識が立っている。
階段横の一里塚跡を探すと、左に木々に囲まれて 「鍋掛一里塚」が残っている。江戸から41番目の一里塚で、もとは11m東にあったが、道路拡幅のためここに移転したと。 移設されたとは云え、原型を留めているのは嬉しい。 少し進むと広い道と交叉する鍋掛十文字となり、左手前にコンビニが建っている。これから先、昼食を食べる所もなさそうなので、おにぎりやお茶を仕込み 一息入れる。(10:35-10:40) 鍋掛十文字を渡った左高台に「清川地蔵尊」が祀られている。延宝7年(1679)建立の子育て地蔵で、地元の信仰が厚いと。境内には、数基の石仏が祀られており、 地元の憩いの場として活用されていたと想像できる。 青空が広がり出し、少し暖かくなって来たが、風は冷たく手袋は外せない。丸い置石がガードレールとなっている街並みは「鍋掛宿」だと思いながら進むが、 宿場らしい史跡は残っていない。
「芭蕉句碑」には、「野を横に 馬牽きむけよ ほととぎす はせを」と記されているらしいが、判読できない。 文化5年(1808)に地元の俳人が建立したもので、鍋掛の南に当たる黒羽町寒井の辺りで、送られた馬の「口付のおのこ」に乞われて 詠んだと云われているそうだ。 やはり、この辺りは「奥の細道」の経路に近いので、「芭蕉句碑」が設置されているようで、これからの旧街道でも楽しみだ。 少し先左に「正観寺」が建ち、門前には樹齢250年の見事な枝垂れ桜が植わっている。この辺りに、「本陣跡」があるらしいが、分からない。 正面に那珂川のアーチ型の昭明橋が見える所から、左に入る小道があり、少し先に、大きな「馬頭観世音碑」が祀られている。多分、旧街道であろうが、 先に通じていないため、元に戻り、昭明橋の歩道橋できれいな那珂川を渡る。両側の森と水の流れは美しい。
美しい那珂川を渡り、直ぐ左折すると「越堀(こえぼり)宿」の街並みが続くが、明治時代に大火があり、その面影は残っていない。「鍋掛宿」とは、那珂川を 挟んで近い距離の宿場は、那珂川の氾濫による川留めのためだろう。 少し先右に「浄泉寺」が建ち、その境内右に「黒羽領境界石」が立っている。はっきり読めないが「従是川中東黒羽領」と記されているようだ。「旧山陽道」 紀行時には、各地で「国境界碑」が立っていて、国境を明確に区分していたのを思い出す。西国に比べ、奥州方面は緩やかだったのだろうか? 今回、初めての対面だったので、これから先が楽しみだ。 その横には、「明治天皇御膳水の碑」や井戸も残ってる。
その先、越堀自治公民館前に、新しい「奥州街道越堀宿 桝形の地」の碑が立ち、緩やかな桝形となる。角の広場には大きな「征馬の碑」と「道標」が 立っている。「道標」には、「右これより江戸四十里 左これより白河宿七里」と記されている。 その先右の垣根の中に、小さな「越堀宿 坂本屋」の石碑を見付ける。宿場の屋号を示す標識だ。
やがて、旧街道は上り坂となり、雪を戴いた周辺の山々が望められる。陽射しは暖かいが、風が冷たく手袋・マフラーは離せない。 緩やかな坂を上り切ると左の高台の上に「高久靄崖(あいがい)の墓」の標識が立ち、周りにお墓が祀られている。高久靄崖は、谷文晁に学び渡辺崋山らと 親交があった南画の巨匠だと。 やがて、旧街道は下り坂となり、舗装道路は広くなり、拡幅された 道路の横に「馬頭観音」が祀られているのを見たり、道路沿いの杉林を見上げたりしながら、再び上り坂となる。 この坂は「富士見峠」と云われ、昔はここから富士山が見られたのであろうが、今は木々に遮られて、望むことはできない。しかし、こんな所から、 富士山が見られるとは、関東平野の広さを認識せざるを得ない。 緩やかな「富士見峠」を上り、頂上付近の陽だまりで風のない場所を見付けて、コンビニで買ったおにぎりで、昼食とする。(11:50-12:05)
「奥州街道(太田原宿~芦野宿②)」の「紀行スライドショー」 「富士見峠}の緩やかな下り坂を進むと別荘の分譲地が広がっているが、所有者の標識が立っているが、まだ建築していない所がほとんどだ。のんびりと 下って行くと、寺子十文字の右手前に「寺子一里塚公園」があり、「寺子一里塚」が復元されている。江戸から 42番目の一里塚だ。その横には、安永4年(1775)に建立された「馬頭観世音」が祀られている。富士見峠頂上付近にあったものを移設したと。 寺子は、「越堀宿」と「芦野宿」の間(あい)の宿だったそうだ。 寺子十文字の先左に「會三寺(えさんじ)が建ち、境内には「麻疹地蔵」が祀られているそうだが、中をのぞくも分からなかった。 その先で余笹川に当たるが、手前を左に入るのが旧街道で、川縁に「寺子地蔵大菩薩」が祀られている。享保年間(1716-1736)に大飢饉があり、老人や子供の 餓死者を供養するために建てたと。また、「イボ地蔵」としても新興されていると。
「寺子地蔵大菩薩」から先の旧街道は、余笹川で遮られているため、元に戻り、県道に架かる橋を渡る。余笹川は、平成10年(1998)に氾濫し、周辺は 大災害になったそうだ。橋の上から、静かに流れる余笹川を眺めると、先程の地蔵堂から川を渡る旧街道が残っているようなので、橋の階段を降りて 対岸に向かう。 川岸は整備されて、「だるま石」と云われる昔から水位の目安にしていた大きな石もあり、川岸から旧街道に進むと、電柱には平成10年の洪水の水位を示す 最高水位の線が引かれている。2m以上あったようだ。 旧街道は、県道と合流する広場に、牛が寝ている像「蓄魂碑」や「庚申塔」等の石碑が祀られている。その中に「弁慶の足踏み石」と名付けられた 「馬頭観世音碑」があり、案内板には、源義経が奥州街道を落延びる途中、弁慶が道端の石を踏んだ時の足型で窪んだ岩で、「馬頭観音」の文字を刻んだと。 確かに、足型が残っている。
拡幅された広い県道は、緩やかな「石田坂」と云われる上り坂になる。道沿いには、白梅が咲き始め、北関東にも春の訪れが来たことを示しているが、 風は冷たい。 途中、「石仏群」や高台の神社を眺めながら、アップダウンする旧街道を進むと「那須町」の標識が立ち、栃木県最後の町、那須町に入る。 別荘の造成地を道なりに進むと、県道が左に曲がる所に、直進する旧街道らしき道があるので、県道から離れて入って行く。 その道は、黒川に当たり、川沿いを左に上り、県道に架かる橋を渡る。 今夜、泊めてもらう友人と連絡を取る。一応、16時に「遊行庵」で待合せることにする。大丈夫だろう。
黒川を渡ると左は「芦野温泉」への大きな標識が示している。右の崖沿いの道を進むとU字型に曲がり下りる県道の真ん中に旧街道らしき細い道が 残っている。右方向に県道を見ながら下って行く。 この辺りに「夫婦岩」があるはずだと、見廻すが分からず、県道との合流点まで来てしまい、戻りながら探すと新しい県道の向こう側に鳥居が見えるので、 畑の中を抜けて、県道を越えた所に「夫婦岩」を発見する。案内板によると、戦国時代に敵に追われた男女がこの石の割 れ目に隠れると、白蛇二匹があらわれ、敵が逃げ帰ったので命拾いしたと。時代が移り「見落とし石」が「めおと石」になった。 県道を進むと今回の紀行で、初めての雪の塊と遭遇する。山陰の溜り場に、雪が残っているのだ。踏んでも崩れない程、固く凍っている。段々と北に来たことを 実感しながら進むと右に「夫婦石の一里塚」が残っている。左の一里塚も森の中に残っているようだが、はっきりと区分できない位、木々が茂っている。 江戸から43里目の一里塚だ。
緩やかな下り坂を進むと左に旧街道らしき道が残っている。県道から左に入り、気持ち良い旧街道を進むと「馬頭観音」碑が、道端に祀られている。 旧街道の雰囲気を感じながら、再び県道に合流して進む。 視野が広がり、畑の向こうに「芦野宿」の集落が望める。
「奥州街道(大田原宿~芦野宿③)」の「紀行スライドショー」 広々とした畑の中を進み、国道294号線を渡ると奈良川に当たる。いよいよ「芦野宿」だと、下高橋を渡ると左に、出迎えてくれるように「川原町の地蔵尊」が 祀られている。立派なお地蔵様に黙礼し、「芦野宿」に入って行く。 旧街道は枡形になっており、家々の前には、屋号を記した「常夜灯」が設置されている。ほとんどの家の前に立っているので、なかなかのものだ。 「芦野宿」の街並みを楽しみながら進むと左に「山本屋旅籠造りの家」が残っている。江戸時代の代表する旅籠だそうだ。
その先左には、鰻で有名な「丁子屋」が建っている。この店の奥には「安達家蔵座敷」が残っており、利用されているそうだ。本来なら食べたいが、 友人宅に泊まるので、パスして進む。 その前には、「奥州道中 芦野宿」の碑が立ち、宿場の中心地だったようだ。その先の郵便局の手前を右に上って行くと左に「平久江家の門構え」が残っている。 平久江家は芦野氏陣屋の大手口に当たり、上級武士に許された棟門や邸内には石垣の枡形も残っているそうだが、入ることはできない。 その先を右折し、「那須歴史探訪館」に入場し、館内の資料を見学する。この建物は、東京オリンピックの国立競技場の設計者になった建築家、隈研吾氏の設計 だそうだ。
友人との待ち合わせ時間もあるので、見学を早めて「那須歴史探訪館」を出て、山沿いにある「芦野氏陣屋跡」を探す。この辺りに「芦野城」があったそうだ。 桜ケ城とも云われる桜の名所になっていると。 元の郵便局に戻り、「本陣跡・石の美術館」に向かう。「本陣跡」の面影はなく、美しい「石の美術館」が建っている。この建物も隈研吾氏の設計 だそうだ。 友人との懇親のため、地酒を買い求めようと色々と探した結果、芦野に利酒師の酒店があるのが分かり、「石の美術館」の隣の「那須屋」に立ち寄り、 相談しようと考えていた。メールで主旨を話していたのでご主人と奥さんに地酒の種類等、色々と話すが、友人の好みが一番と云うことで、後程、 一緒に訪れることにし、「遊行庵」に急ぐ。
枡形も残る宿場は、やがて国道294号線に当たる。その手前左に「新町の地蔵尊」が祀られている。丁度、「芦野宿」の入口と出口に、魔除けの「地蔵尊」が 祀られているようだ。 横には「二十三夜塔」も祀られ、旧街道独特の信仰を表している。 国道を渡ると道の駅のような「遊行庵」の建物が建っている。しかし、冬期は土日しか開店していないようで、閉まっていて、人影がないのは寂しい。 「遊行庵」の駐車場から眺めると広々とした冬の田圃の中に「遊行柳」が望まれる。
左右に柳が植わり、左の常夜燈横に囲いがあり、「案内板」が立っている。1471年時宗19代尊皓上人(遊行上人)が奥州行脚の際、 柳の精が老人の姿をして上人の前に現われ、上人から十念と念仏札を授けられ成仏したため、「遊行柳」云われると。後日、謡曲が作られ、芭蕉・蕪村が 訪れたことは有名だと。 「遊行柳」の周りには、歌碑・句碑が三基立っている。西行・芭蕉・蕪村の碑だ。 西行歌碑 「道のべに 清水流るる 柳かげ しばし とてこそ 立ちどまりつれ」 芭蕉句碑 「田一枚 植えて立ち去る 柳かな」 蕪村句碑 「柳散 清水涸 石処々 (柳散り清水かれ石ところどころ)」
更に横には、旧街道紀行時に、時々見られる謡曲史跡保存会の「謡曲 遊行柳」の案内板が立っている。古くから、有名な場所だと、改めて認識する。
「遊行柳」の奥の山裾には 「温泉神社」が鎮座し、境内には「樹齢400年の上の宮銀杏」がそびえている。
銀杏の葉も散ってしまい、枯れ枝だけになっているのは寂しいが、秋のシーズンは見事な黄金色に輝いているのだろうと想像できる。 この時期の芦野の田圃は、曇り空のため灰色で彩りは無いが、春の若芽、新緑、夏の田圃の青さ、そして、秋の黄葉の季節であれば、見事だろうと思いながら 「遊行柳」を後にして、「遊行庵」に戻る。(15:45) 「遊行庵」は閉まっているが、隣の売店が開いていたので入店し、店番のお母さんと話す。冬場は、お客さんも少なく暇だと云いながら、お茶を出していただく。 「辛子味噌」を買って、話していると友人S君が、車で到着したので、ご馳走様とお礼を云って駐車場へ。 昨年の秋以来、3ケ月振りの再会だが、厚かましくも訪れたことに感謝し、握手。早速、車に乗り、先程訪ねた「那須屋酒店」に向かう。ご主人・奥さんを 交えて、色々展示されている地酒の特徴を聞き、冷酒でお奨めの「大那」ともう1本「姿」を買い求める。S君は、芦野には時々来るが、利酒師の店があるのは 知らなかったと。春に入る新酒の話題も盛り上がり、今夜のお酒は調達できたので失礼する。那須屋さんに感謝だ!! 彼の木工細工の材料を調達している材木屋さんに立ち寄り、新たな材料の相談をしている姿を見ると、とても素人とは思えず、木材にも造詣が深いこと を知る。
家の横には、数日前に積もった雪の塊が残り、 自然豊かな環境に驚き、二階のきれいに整理された室内に案内される。ロッジ風で、明るく快適な部屋で、薪ストーブ風の暖房が、温かさを増している。 一階には、「工房・重」と名付けられた木工作業場があるそうなので、居間の隅の階段から下に降りると、木工工作機械がびっしりと詰まっている。見事だ。 工作機械以外の内部のレイアウト・作業台等も全て自家製なのには驚き、頭が下がる。 完成された作品(商品)は、納入されて見られなかったが、次の作品のための材料も納入され、スタンバイの状態だ。知人からの注文も多く、結構納期もかかるそうだ。 直近に作成した欅の机は、料理屋で活用しているそうで、足の部分に工夫があるのだと。また、三角関数を使って計算し、制作していることを聞き、 驚いた。昔の職人は、三角関数など知らないだろうと話すと金尺を巧みに使って製作していたと。 最近は、汎用的なものとして額縁を作成し、地元の展示即売会に出品しているそうで、実物やその写真を見せてもらう。彼に依頼し、工房・机・額縁の 写真を記念として提供してもらう。
工房の見学を終え、夕食となる。
かつおの刺身・スペイン風オムレツ・奥さん手製のサラダ等、見事な料理に驚き、ビール・地酒「大那」で懇親会が始まる。 料理も地酒も美味しく、話題が色々と発展しながら楽しい時間を過ごす。 次は、豚シャブだと、鍋にネギだけを入れ、豚肉をシャプシャブし、ポン酢でいただく。 シンプルだが、美味しく、酒が進み、持参していたペットボトルに入れた芋焼酎「島美人」も空けてしまう。 次々と話が広がり、22時を過ぎたので、明日のこともあるので、片付けて風呂に入る。なんと、温泉でぬるぬるとした湯は気持ち良く、足腰をマッサージし 明日に備える。 23時前に、寝室でぐっすりと眠る。彼は、別荘の機能を活用し、ロフトに上がって眠った。 「奥州街道(大田原宿~芦野宿④)」の「紀行スライドショー」 今日は、「太田原宿」からスタートし、栃木県の最北部まで進むことができた。県道歩きが多く、地道が恋しかったが、史跡も点在し、一里塚も残っており、 旧街道の雰囲気が味わえたのは嬉しい。 「奥の細道」と合流する所には、「芭蕉句碑」が設置され、その行程を記す案内板もあり、知らない世界を探求することができた。 最後は、S君宅に泊めてもらい、ご馳走になると共に、彼の趣味が実益にまで発展していることに驚き、シニア生活の生甲斐の一方法を見ることができたが、 小生には無理なことだと痛感した次第だ。 いよいよ、明日は「奥州街道」の最終行程。今日の元気で、到達したいものだと思いながら眠る。本日の歩行歩数は、43570歩だった。
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