○ 「奥州街道No2」見聞録(喜連川宿~白河宿)・(距離 62.8km/ 88.5km/238.9km ) 3.「奥州街道」(芦野宿~白河宿・20.8km) 2016.02.25. 8:05~15:40 晴れ時々曇り
美味しい料理・お酒に加え、楽しい懇談の酔いで、ぐっすりと眠った。何時ものように、5時過ぎに目覚めると、少し明るくなっている。東の夜明けは早いのだ。 足腰は、少しだるさはあるが、問題なさそうなので安心だ。 本日の行程をトレースしたり、地図を確認しているとS君も起きたようなので、リビングでご挨拶。外に出ると、外気は冷たく気持ち良い。周囲の林の間から、 朝日が昇り出し、青空が鮮やかになる。気持ちの良い朝だ。
栄養バランスの良い和食の朝食を美味しくいただく。たいしたものだ。 ベランダに出ると木がベランダの床を抜けて生えている。自然を活かした豊かな住環境だ。テレビは、アンテナを設置したBSしか映らないそうで、夏には茂った木の葉の ため、映らなくなると。自然豊かだとテレビもいらないだろう。 しばし、別荘周辺の自然の息吹を楽しみ、お礼を云って、出発する。 昨日出会った「遊行庵」まで送ってもらう。車も少ない林間のドライブは気持ち良く、四季によって景観が変わるのが、良く分かる。素晴らしい環境の中で、 木工細工に精を出すのは、心身共にリフレッシュできるだろうと話しながら国道294号線に向かう。寄居の集落を抜けると国道に合流する。今日、ここを通って 「白河宿」に向かうのだ。
多分、あれが旧街道だろうと話していると「遊行庵」に到着する。 昨日は、夕方で曇り空だったが、今朝は、青空で朝日を浴びる「遊行柳」は美しく見えるので、対比するためにパチリと。 彼の話だと、もう少し経つと菜の花と柳の対比が美しくなるそうだ。 今回は、北関東の冬を体感しようと試みたので、美しい景観は望めないのは仕方ないと諦める。 誰もいないので、二人での記念撮影ができず、「遊行柳」をバツクに、朝日に向かって写してもらう。 8時05分、S君にお礼を云って、彼の車を見送り、最終行程のスタートをする。 青空が広がる早朝の国道294号線を北に向かう。陽射しが暖かく感じられるが、外気は冷たく、手袋は外せない。 左に立つ石碑の先から旧街道があり、国道から左折して入って行く。静かな旧街道の道脇には、「大黒天」「十九夜塔」等の石碑が祀られている。その先左に 「愛宕神社」も鎮座しているが、急な階段を上らねばならないのでパスする。 左の山際に、大きな石「べこ石」があり、案内板が立っている。「べこ」とは、牛が横になっている姿に似ているのが名前の由来のようで、細かい文字の 石碑は、芦野の学者戸村忠恕が嘉永年間に道徳を説くために建てたものだと。 国道に合流し、再び、左の旧街道に入るのだが、見落として国道を進んでしまう。少し進んで気付いたが、左に旧街道を見ながら、国道を進む。旧街道には、 「地蔵尊」も祀られているのが望まれる。その旧街道と合流し、国道を渡り、右に入って行くのが旧街道だ。
田園が広がる気持ちの良い旧街道を進むと板屋の集落に入って行く。道横には、霜に囲まれて、文字も読めない「石仏・石碑」が祀られ、旧街道の 趣きいっぱいだ。 集落の中の左に「諭農之碑」が立っている。先程の「べこ石」と同じ、芦野の戸村忠恕が建てたもので、農業・飢饉等に対しての教えを説く 文言が記されていると。芦野には、道徳や農業を諭す学者が居られたのだ。 緩やかな坂道の右丘の上に「板屋一里塚跡」が残っているが、拡幅工事のため、左右の一里塚は道の上で、はっきりと確認できない。案内板には、江戸から 44里目の一里塚だと。
車も通らない静かな旧街道の両側には、名もない「石仏や石碑」が点在している。田圃の左向こうに、国道が望まれる旧街道を気持ち良く進む。 この先に「手つかずの奥州街道」が残っているとのことで、注意深く進む。 少し先右に、民家の間を神社に通じる道があり、入って行くと直ぐ右に大きな「馬頭観音碑」や石碑が立っているので、これだと思い奥に進むと神社があるが、 元の道に通じる左への道が無い。仕方なく戻ると、「馬頭観音碑」から左に草の道が通じているので進むと元の旧街道に通じている。その出口に、朽ちた木の 標識が落ちていて「○○奥州街道」と示している。多分、「手つかずの奥州街道」だったのだろう。旧街道を発見し、気分爽快だ。
少し進んだ右に「高徳寺」が建ち、境内には、石の「地蔵尊」や石仏が祀られ、山沿いの傾斜地には、「馬頭観音碑」が六基祀られている。旧街道筋のお寺 には、各種史跡が残っている。 その先にも旧街道が残っている。右に入る道の右に「馬頭観音碑」が数基祀られ、高台の上には「石仏」も望まれる。旧街道の趣いっぱいの道を楽しみながら 国道294号線に合流し、長い旧街道歩行を終える。
国道は歩道もあり、車道との間の植え込みの木は、動物の形に剪定され楽しみながら進むことができる。 単調な国道歩きが続き、右に「座り地蔵」が祀られ、旧街道は、左の寄居の集落に入って行く。小学校には、二宮金次郎像も建ち、道には 「常夜灯」も残っている。S君の別荘は、ここからJR豊原駅方向に入って行ったのだ。 寄居の集落は、「間の宿」でもあったそうで、緩やかに右に曲がって行く旧街道の左には、立派な門構えの旧家も残っている。少し先で、 再び国道に合流し、その先の駐車場の真ん中に「泉田一里塚」が立っている。原型を留めたきれいな塚で、江戸から46番目の一里塚で、関東最北端の 一里塚だと。ここで一息入れ、S君に順調に進んでいると電話する。(9:55-10:05)
「奥州街道(芦野宿~白河宿①)」の「紀行スライドショー」 再び国道歩きが始まり、少し先に左の小川沿いに入るのが旧街道だ。国道の左右に旧街道が残っているパターンは多いが、嬉しいものだ。 少し進んだ右に「石仏群」があり、地蔵尊・二十三夜塔に混じって「足尾山」と読まれる石碑があり、横には「従是江戸四十五里五丁」と記されている。 道標でもあるようだ。 少し進むと右に「初花清水碑」が立ち、横には石で囲まれた水汲み場がある。水はなかったか、昔は、清水が湧いていたのだろう。さらに進むと国道との 合流地点手前左に、瓢箪型の石碑が立っている。右端の石は「ふくべ石」と云われるそうだ。瓢箪のくびれに、紐が結わえられており、面白い。
少しの間、国道を進むと右に旧街道が通じている。緩やかな坂道を上る途中右の墓地の前に「馬頭観音碑」が数基祀られている。この辺りは、「馬頭観音」を 祀る所が多いようだ。気持ち良く、山中の集落を進む。 右の立派な家の庭の中に「明治天皇山中御小休所の碑」が立っている。明治天皇行幸の史跡が所々に残っているだ。旧街道沿いに建つ家の用水を見ると 厚い氷が張っている。寒いのだ。 やがて、国道に合流し、少し先右に、大きな「馬頭観音碑」が祀られている。今までの中では、一番大きい碑だ。
国道は、栃木・福島県境に向かって、緩やかな上り坂が続いている。少し先左に、細い道が通じているのが旧街道だ。細い坂道は、荒れた上り坂で、 国道を下に見ながら上り、そして下って国道に合流する。急勾配を避け、カーブを緩やかにするため旧街道が残れたのだろう。 その先左の崖の上に「明神の地蔵尊」が祀られている。「馬頭観音」も多いが「地蔵尊」も多く祀られている地域だと。 坂道を上って行くと日陰の草むらには雪の塊が残っている。少し平坦になった国道を、県境に向かって進むと上り坂になった頂上に、「福島県・白河市」の 標識が立っている。
峠の頂上が下野国と陸奥国の国境で、国境を挟んで両側に「境の明神」と呼ばれる神社が鎮座している。まずは、左の下野の国最後の、 「下野玉津島神社」に参拝する。案内板には、天喜元年(1053)紀州和歌浦の玉津島神社を分霊勧請したと。社殿は明治39年の火災で焼失、明治41年再建され たと。 国境の神社なので、もっと立派な神社と想像していたが、質素な神社なので、驚いたが、峠の神社だと納得する。 国境の坂道の右上の高台に、立派な「境界石」が建ち「従是北白川領」と記されている。いよいよ、下野の国から陸奥の国に入ったのだ。関東から東北に入り、 津軽半島は近くなった・・・・・!?
案内板によると、神社の社殿は弘化元年(1844)に造営したと。 境内の文政時代の絵図には、「下野・陸奥国境」「ニ所玉津島大明神」の文字も見られる。北は陸奥の国になるのだ。 「境の明神」は両社とも「玉津島明神(女神・衣通姫)」と「住吉明神(男神・中筒男命)」が 祀られ、女神は国内を守り、男神は外敵を防ぐという信仰に基づき、下野・陸奥ともに自らの側に「玉津島明神」を祀り、反対側には「住吉明神」を祀るのだと。 それぞれの国で、独自の解釈があるのは面白い。 今回の紀行は、下野から進んでいるので、手前が「玉津島神社」で、国境を越え、「住吉神社」に参拝したことになる。 「住吉神社」の境内には、五基の句碑が立っており、「奥の細道」でここを通った「芭蕉句碑」も並んで立っている。 「風流の はじめや奥の 田うえ唄」 と記されている。 この句碑は安永6年(1777)建立だと。この地を、芭蕉が曽良と訪れ、その後「白河の関」に向かったそうだ。
「陸奥玉津島神社」の向かいの高台に「白河二所之関址」の碑が立っている。文字は読めないが、ここに「古関」があったことを示しているらしい。 「白坂峠」の頂上には、「玉津島明神」と「住吉明神」が対になってるので、「境の明神」は、古くから「二所の関」とも呼ばれていたと。 「白河二所ノ関址」碑は、この二所の関にこそ、白河の古関も置かれていたとの説のため建てられたと。 今回の「奥州街道」紀行まで、「白河の関」は、この県境にあると思っていたが、一般には「白河の関」は、ここから10km以上離れた所にある関所と 云われている。(どちらが正解か分からない)
奥州三古関(勿来関・念珠関・白河関)のひとつに数えられる白河関は、奈良時代から平安時代頃に機能していた国境の関で、蝦夷(えみし)の南下や人、物資の 往来を取り締まる機能を果たしていたと考えられています。 その後、律令制の衰退とともにその機能を失いましたが、『歌枕』(和歌の名所)として文学の世界で都人の憧れの地となり、能因や西行、芭蕉など時代を 代表する歌人・俳人たちが多くの歌を残しています。 寛政12年(1800年)、白河藩主松平定信が地図や歴史書、詠歌、老農の話をもとにして、此こそ古代白河の関の地と定めた。(白河市観光協会HP他) 源頼朝・義経の時代は、「東山道」と云う古道に「白河の関」があったが、時代の変遷で衰退し、街道は「奥州街道」に移って行ったのだ。 やはり、現地に行かねば分からない史跡の歴史だ。 県境で、一息入れる。いよいよ東北だ。(11:00-11:10) 「奥州街道(芦野宿~白河宿②)」の「紀行スライドショー」 気分新たに、東北地方への第一歩を踏み出す。峠は下り坂になり、道脇には雪が残っている。峠を境として、気候の変化の違いが、顕著に 表れているのには驚く。 少し下って行くと左に「衣がえの清水」の案内標識が立ち、標識に従って崖を下って行くと小さな池泉があり、水を湛えている。案内板には、弘法大師が この清水で衣を濯ぎ、芭蕉も曽良と共に元禄2年(1689)白河入りし、「境の明神」を参拝後この清水に立ち寄り、休息をしたと。 崖を上って旧街道に戻る。周辺の杉林は、今にも花粉が飛びそうな褐色になっている。この辺りの季節は、少し遅いのだ。緩やかな坂道を下って行くと 道脇に「石仏」が祀られている。 「白坂峠」を下ると右に「旗宿道」が通じている。この道が、芭蕉が通った「白河の関」に通じているのだ。「遊行柳」からここまでの道は「奥の細道」で 芭蕉が通ったみちだったのだ。 曲がり角の左に「戊辰戦役 旧大垣藩士酒井元之丞戦死之所」の碑が立っている。慶応4年(1868)戊辰戦争で白坂を警護していた大垣藩士が被弾し戦死したと。
「白坂宿」に入って行くが、旧街道らしい史跡は何も残っていない。拡幅された道を進む。 道横に雪の塊も残っており、冷たい空気の中を進むと左に「観音寺」が建っている。高台に建つ「夕日堂」は、夕日に赤く染まるのが美しいそうだが、 曇天の中では、余り映えないのは残念だ。 舗装された旧街道は、緩やかな坂道となり、林間の道を進むと右に古い「馬頭観音碑」と新しい「牛王観世音碑」が祀られている。「中山道」紀行時、 「牛王観音碑」を見ることがあった。当時、同好の方メールで意見を述べ合ったことがある。「馬頭観音」は西に多いが、「牛王観音」は東にしかない。 何故だろとか、「牛」ではなく「午(うま)」の間違いで、上の棒が突き抜けていないのもあると。面白い論議をしたが、正解は分からない。
林間の道を抜けると皮篭(かわご)集落となり、道路には「道路の除染をおこなっています」との標識が立っている。作業はしていないが、3.11の 原発事故の影響を目の当たりにし、改めて福島県に入ったのだと再認識せざるを得ない。
近いと思ったが、林の道を長く歩くと左に 「金売吉次三兄弟墓」が祀られている。案内板によると、源義経を奥州・藤原氏に送り届けたと云われる金売吉次が、砂金の交易で奥州と京都を往来する 途中、ここで群盗に襲われ殺害されてしまう。これを里人が憐れみここに葬り供養した。後に、源義経が、ここを訪れ、兄弟の霊を「八幡神社」に 合祀したと。 ここでも、源義経の名前が出て来た。「奥州街道」の歴史の積み重ねを感じずにはいられない。 旧街道に戻り、北に向かうと左に大きな池があり、その畔に「石仏・石碑」が祀られている。文字は読めないが、池と石仏の対比は趣があり、 その背景に、雪を戴いた山並みが見える。美しい街道筋だ。 その先に、一里塚があったそうだが、その跡はなく、「一里段」のバス停の標識が残っている。そろそろ、昼食だと探しながら進むと左に朝日屋食堂が あり、入ると満員だったが、温かいラーメンを頼み、冷えた身体を温める。美味しい。(12:30-12:55)
林間の丘を越えて進むと右に旧街道が通じている。雪が残る道横には「馬頭観音碑」が祀られているのを見ながら、道なりに進むと元の県道に合流する。 国道289号線の交叉点付近には、大きな店舗が立ち並び、その先には、街並みが開け、白河市内に入って来たことが分かる。 直進すると稲荷山の丘に当たり、旧街道は右に曲がって行く。その正面に、大きな「戦死墓」の碑が立ち、案内板には、慶応4年(1868)白河における戊辰戦争 (白河口の戦い)で、会津藩・仙台藩約700名の戦死者を弔うための碑だと。 その向かいには、「長州大垣藩戦死六君墓」の碑が立っている。戊辰戦争での白河の戦いが、如何に激しい戦いであったことを示す史跡だ。会津に近付くに 連れ、このような史跡が点在しているのだろう想像しながら、稲荷山に沿って、旧街道は右に曲がって行く。
「奥州街道(芦野宿~白河宿③)」の「紀行スライドショー」 稲荷山に沿って進むと左に「稲荷山神社」の鳥居を見て進むと広い道に当たる。右に進むと「南湖」に進むが旧街道は左に曲がって行く。古い旧家も残る 街並みは、やがて右に曲がって行き、谷津田(やんた)川を渡ると「白河宿」の街並みが始まる。 少し先右の角に「奈良屋」着物店が建ち、その店先に、宿場の出入り口に設けられていた「馬つなぎ石」が残っている。石に、馬をつなぐ鉄の輪が 付いているのだ。 旧街道は、その先で右折するが、その左角に「月よみの庭」という白河石を散りばめた不思議な広場がある。白河石は、色が白くクッション性に富み内部に水を 含んいるので、蒸発作用で歩く足元が涼やかになると。
右に平屋の商家と蔵を持つ「醤油屋」が建ち、その先左には、蔵か立ち並ぶ立派な旧家が、「白河宿」の面影を残している。 その先左に曲がる小さな枡形があるので、宿場であることが分かる。 枡形を右に入り、旧街道から離れて「関川寺」に向かう。 広い境内には、戊辰戦争の犠牲者の碑が祀られている。「白河宿」には、 戊辰戦争の慰霊碑が多い。 横の小道を入って行くと蛇行した谷津田川畔に出る。秋には、紅葉が美しく、絶好の散策路となるらしいが、この時期は 寂しい。上流に歩くと少し先に、大きな「水車小屋」が建ち、ゆっくりと回っている。 この辺りは、江戸時代後半から昭和初期にかけて、多くの精米工場があった場所で、その水車を復元したものだと。 その先の「妙関寺」の境内には、樹齢400年の見事なしだれ桜が植わっているが、まだ蕾も見られない。「乙姫桜」と呼ばれ、伊達政宗が将軍家に献木する 中の1本を賜ったものだと。
旧街道から離れて、ゆっくりと「白河宿」の自然を味わい、元の枡形に戻る。 旧街道を進み、少し先から右に曲がって寄り道をする。次の筋の角に「白河ハリストス正教会」が建っている。 「白河宿」とは思えない洋館建ての立派な教会に 驚く。1915年に建立された全国でも希なビザンチン様式によるギリシャ正教会系の教会だと。 左に進んで「天恩皇徳寺」に珍しいお墓があるとのことで向かう。「天恩皇徳寺」の広い墓地には、「小原庄助の墓」の道標も立ち、墓地の中を縫って行くと 、ここにも「戊辰戦争戦死者供養碑」が祀られ、新政府軍(西軍)・奥羽越列藩同盟軍(東軍)の分け隔てなく祀られていると。その近くには「新撰組隊士・ 菊池央の墓」も祀られている。彼も戊辰戦争で亡くなったと。新撰組も戊辰戦争に関連していたのを初めて知る。 墓地の奥に、徳利に盃をかぶせたような形の「小原庄助の墓」が祀られている。案内板には、小原庄助は、会津塗師久五郎で、羅漢に絵付けを学びに白河に 来て、安政5年(1758)没したと。戒名は「米汁呑了信士」。 時世の句 「朝によし 昼になほよし 晩によし 飯前飯後その間もよし」 が墓石に 記されている。民謡「会津磐梯山」に登場する「小原庄助」だと伝えられていると。そのためか、墓前にはお酒がたくさん供えられている。 「小原庄助の墓」に参拝しながら、「チュニジア旅行」に行った時のベテラン添乗員の話を 想い出した。カルタゴ等、ローマ時代の遺跡が多いチュニジアを廻っている時、彼は「ローマ人は、小原庄助さんと同じだ」と。ローマ人が侵攻した地は、全て温泉があり、 葡萄酒の醸造拠点なので、朝寝・朝酒好きな小原庄助と同じだと。面白い例え話に、拍手した記憶がある。
旧街道に戻り、枡形を右・左と曲がって本町通りを進む。左に「脇本陣跡」の標識があるが、内部が修復工事中で見ることができない。その先右に 「本陣跡」があるらしいが、発見できない。 「白河医術講義所跡」の案内板が立っている。明治4年(1871)に、白河宿本陣の一部に県立病院が開設されたと。ここが、どうも「白河宿・本陣跡」 のようだ。 本町の街並みには古い家屋も残り、宿場町の面影が残っている。左の「和菓子屋・玉屋」を代表としてパチリと。 少し先の大きな交叉点から、旧街道は左折する。その右角に「本町道標」と「奥州街道と白河城下」の案内板が立っている。道標は、江戸後期に建てられ、「左 せんだい あいづ でハ えちご」「右 日光 江戸」と記されている。ここから左折し、女石の追分で、仙台方面と会津方面に分かれることを 示している。「奥州街道」の終点はもう直ぐだ。、
白河駅に通じる広い道を渡った所に「白河だるま店」が建ち、店内には、大小のだるまが陳列されており、楽しい 気分になる。 JR東北本線の高架下を抜けて進むと大きな川に出合う。予習の時も気付かなかった「阿武隈川」なのだ。中学の地理の時間で、阿武隈山脈・阿武隈川を 教わった時、まさか、この川を徒歩で渡るとは、思いもしなかった。感激だ。 広い阿武隈川の田町大橋を味わいながら渡っていると右足先に激痛が走った。どうも、爪に異常が発生したようだ。少し立ち止まり、足を引きづりながら、ゆっくり 進まざるを得ない。
直進すると国道4号線に当たり、左に進むと黒磯や会津若松、右は郡山・仙台方面に進むのだが、旧街道(奥州街道・仙台道)は「女石の追分」を右に行き、 国道4号線に合流し、仙台方面に向かうのだ。 「女石の追分」まで行くが、追分碑もなく、何の標識も立っていない。 「奥州街道」最終地点なのに、何と寂しいことか。 何はともあれ、ここで「奥州街道」を踏破したと感激する。旧街道は、右に「奥州街道・仙台松前道」、左に「会津越後道」となるのだ。 追分の角で、薩摩から長州・京・江戸を経由して、「日光街道」「奥州街道」を踏破した満足感に浸る。(15:40) 「女石の追分」の左に立派な「仙臺藩士戊辰戦歿之碑」が祀られている。ここでも、戊辰戦争の激戦があり、仙台藩士150余名の霊を祀っているそうだ。 「白河宿」の最後にも、戊辰戦争の史跡があり、白河口の戦いの激しさを思わざるを得ない。 戦没碑の前で、靴を脱いで、足先をチェックすると右足薬指の爪が、少し剥がれて、小指に食い込んでいたためだと分かり、手当てする。歩く前に、足の爪の ケアを忘れてはいけないと。 帰路は、郡山から夜行バスに乗るため、白河駅に向かって戻る。再び、阿武隈川を渡り、白河駅に向かっていると「小峰城跡」が望まれる。 小峰城は、寛永9年(1632)に江戸時代の初代藩主、丹羽長重が完成させた梯郭式の平山城で、その後、松平定信等の大名が居城したが、慶応4年(1868)戊辰戦争 白河口の戦いで落城したが、平成3年(1991)に三重櫓を復元したと。 見事な復元された「小峰城跡」を見ながら「白河駅」に到着する。レトロな駅舎の趣のある喫茶店に入り、満足感に浸りながら、列車の到着を待つ。
「奥州街道(芦野宿~白河宿④)」の「紀行スライドショー」 ゆっくりとくつろいで、17時発の列車で郡山駅に向かう。次回、歩く景観を車窓から眺めながら郡山駅に到着する。 ここで、大きな勘違いに気付く。郡山駅の東口と西口を間違い、賑やかな出口に出て、バス停を確認すると反対の東口だと。郡山駅の構内を渡って東口に 出ると、店もない寂しい広場があり、バス停を確認する。銭湯の場所は、ここから20分余り歩かねばならない。方向を間違い、大失敗だ。 銭湯に電話し、位置を確認し歩き始める。(タクシーも通っていない) やっと「郡山まねきの湯」に到着し、大浴場で3日間の疲れを癒し、足腰をマッサージする。足の 爪も大丈夫なので一安心だ。駅前に戻っても、店がないので、銭湯のレストランで夕食とし、生ビールで「奥州街道」踏破の乾杯!! 22時05分発のバスの時間に合わせるべく、ゆっくりと休憩室で過ごし、タクシーを呼んでもらい、22時前に郡山駅のバス停に向かう。乗客も集まり、定刻通り、 仙台からのバスが到着する。満席だ。通路側の席に座り、眠る体制にしていると、運転手から、本来北陸自動車道を進む予定だが、雪のため、東名高速を 通って進むと。 直ぐに眠ってしまい、3度のトイレ休憩では目覚めたが、ぐっすりと眠り、8時20分、京都駅に到着し、10時前に帰宅する。 今回の紀行で「奥州街道」を踏破できた。友人の別荘に泊めてもらい、旧交を温めることもできたし、「奥の細道」と重なる旧街道では、「芭蕉句碑」を 何度も見た。宿場の趣が、残っている所は少なかったが、一里塚は結構残っていたのは嬉しい。地道が、ほとんど無かったのは残念だが。 「奥州街道」の歴史も源頼朝から芭蕉、そして戊辰戦争と時代の推移を身近に感じられた。また「白河の関」の位置も、思っていたのと違ったことも認識 することができた。 2008年4月に、三条大橋から「中山道」を歩き始めたのがスタートで、その後、小学校以来の友人と3人で「旧山陽道(西国街道)」を歩き、並行して、単独で 「長崎街道・薩摩街道」を鹿児島まで進んだ。 西の旧街道を踏破したので、次は東へと「日光街道」を歩き始め、いろいろと調べていると幕府直轄「奥州街道」は、白河まで、その先は藩管轄の 「仙台道」「松前道」が津軽半島まで続いていることを知り、「日本縦断」にトライしようと決意した次第だ。 「日光街道」は東京在住の友人たちと楽しみ、 「奥州街道」に挑み、達成したのだ。集計すると、55回・85日・約1800kmの歩行だった。良く歩いたものだ。 さあ、次は「女石の追分」から福島・仙台・盛岡・青森を経由して津軽半島・竜飛岬を目指したいものだ!! (工事中)
|