○ 「伊勢本街道No6」見聞録(山粕〜奥津)・(距離 20.4km(今回)/ 109.1km(累計)/ 60.9km(残距離)

前回まで
今回
残距離


  1.山粕〜奥津・(20.4km) 2011.05.13 8:35-15:30 晴れ


伊勢本街道全行程.Map
「山粕〜奥津・行程MAP」

地図の再生ボタン()を押すと
見聞ルートに沿って歩行出来ます。
クリックすると拡大します。(≪kaz≫さんのホームページより)

4月は何かと慌ただしく、「伊勢本街道」紀行を実施することが出来なかった。
その間も東日本大震災の復旧は広範囲の被害地域のためなかなか進まず、不自由な避難生活の様子を見ると心が沈む。福島原発の状況も 一進一退の状況で、家があるのに避難されている方の苦悩を思うと一日も早い解決が望まれるが。

第6回目の「伊勢本街道」紀行は、GWの終わった新緑の時期に、前回に続いて本格的な旧街道を味わおうとO君と相談し、5/12に 設定していたが、季節外れの台風1号と走り梅雨の影響で、数日前から雨模様。天気予報を信頼して、翌日の5/13に実施することになった。
今回もO君と前回に予行練習した6時50分に鶴橋駅で待ち合わせることにする。
高槻発6時の快速に乗る予定が、少し早い電車に乗れ、新しい大阪駅の連絡橋で乗換えて鶴橋へ。
O君と合流し、駅中のコンビニで弁当を買い、予定通り、鶴橋発6時55分発の電車で出発する。
車内で今日の行程の検討をする。当初は前回の榛原から高石までバスで進み、前回間違った山粕峠からの道を確認し、鞍取峠・御杖村・ 牛峠を経由して、少し街道を外れて敷津まで行き、道の駅の温泉に入り、名張までバスで行こうと考えていた。
本来はその先の三重県に入り、奥津まで行き、名松線で帰ろうと考えたが、名松線が不通になり、代行バスを利用すると次回のスタート時間が 遅くなり、次回の行程に支障があると考えていたが、コミュニティーバスを上手く活用すると近鉄・榊原温泉口駅と接続できることが分かり、 当日の疲労度合によって、敷津で終えるか、奥津まで進むか判断することにした。

うだの難所を行く

みえ歴史街道

敷津までは前回活用させていただいた「伊勢本街道保存会事務局」発行の「伊勢本街道の最大難所・大和高原『うだの難所を行く』」の地図を 参照しながら進むことが出来るが、
三重県に入ると詳細な地図がないので、探していると「三重県生活文化部」のサイトから 「みえ歴史街道・ウォーキング・マップ」の 「伊勢本街道」編があることが分かり、送付用切手を 同封して申し込むと立派な地図を送って頂いた。これで、今回と次回以降の行程は安心出来そうだ。

高西バス停

7時55分発の曽爾村役場行のバスは、我々2人だけの貸切状態で、前回歩いた古道を思い出しながら進む。
新緑や野生の藤の花が美しく、 途中の駅では石楠花祭りをしているきれいな石楠花を見ながら景観を楽しむ。 前回、雨で急いで間違えた道を確認するために、山粕西口の一つ手前の高西バス停で下車して、今回の紀行をスタートする。(8:35)
前回、雨の中を間違って国道を右往左往した時に、国道の山側に「伊勢本街道」の道標を見つけ、間違っていたことに気付いた。帰宅して 確認すると、山粕峠を下って、国道の手前から左折する道があり、史跡もあることが分かったので、その史跡を確認するために戻ることに する。

住田の宮跡 細田神社の標識

この辺りは田植えも終わり、石楠花が満開の状態で、山間の集落であることが分かる。「伊勢本街道」の道標に従って、国道から山側の 道を戻ると「細田神社」の標識が建ち、石楠花の花に囲まれた上の岩に注連縄が張ってある。これが「住田の宮跡」のようだ。
大己貴命を祭祀していた佐田の宮城は、平維盛が一時隠れ潜んだ伝承地で、空海が修業中に岩窟に刻んだとされる梵字の石があります。 (曽爾村観光振興公社HPより)
急に平維盛や空海の名前が出て来て、この辺りは色々な時代の歴史が点在しているのだと驚く。
ここから山粕峠に向かって細い道が続いているようだが、後の時間があるので諦めて元の道に戻る。前回、道を間違えなければ歩いた 街道をバス停に向かって下って行く。
国道から旧街道に分岐する空間には「山粕宿」の標識も建ち、峠越えをして宿場に辿りついたことを実感する。旧道を進むと国道と 合流し、前回のバス停である山粕西口の酒屋さんで、暑くなりそうなので水分補給のためスポーツドリンクを買い求め、再び旧街道に分岐した 道を進むと「問屋屋敷跡」の石碑が立っている。

田植えと石楠花

山粕宿の標識

問屋屋敷跡の石碑


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

山粕川の清流を渡ると「めだか街道」の旗が立ち並んでいる。川の流れは速いので、「めだか」が泳いでいるのかとのぞくが、分からない。 道端で地元の方が数人話しておられたので尋ねると、「めだか」は家で飼っているのだそうだ。地域が一体となり「めだか」を旗印に 地域起こしをしている様子は好感が持てるものだ。
山粕郵便局の停留所前に古い「西田家」が建つ。前回にもあった「古民家を大切にする会」の登録古民家で、なかなかのものだ。国道に 合流し、渡った所に「絆の里休憩所」が建ち、絵地図が示されている。これからのルートを確認していると、見慣れた「おいせまいり」の 道標が木に吊るされているのを見つけ、安心して一息入れる。(9:10)

めだか街道の旗

西田家 説明

絆の里休憩所 道標


ここからは国道を離れて「鞍取峠」の峠道に入る。

鞍取峠

上り勾配がきつくてふくろはぎに力が入る。山脇の草むらの中に「六字名号碑」かひっそりと立ち、杉木立の急勾配をフーフー云いながら上る。 地道の上に杉の葉が落ちていて、クッションとなり歩行は気持ち良いが、きつい坂だ。
「お伊勢まいりしてこわいとこどこか、かい坂・ひっ坂・鞍取坂・つるの渡しか宮川か」と伊勢音頭に歌われたお伊勢まいりの難所の一つ の鞍取坂で、 大昔、垂仁天皇の娘であった倭姫命が、伊勢の皇太神宮の御神体「やたの鏡」を持って、大和から伊勢へわたったことがあり、 そのとき、この坂をのぼりはじめると、馬の鞍が飛んでしまったので、姫はここで休んだという。 それ以来、この坂を「鞍飛坂」とも「鞍取坂」とも呼ぶようになった。
また、旅人が頂上で馬の鞍を取って休んだと言うので鞍取峠になった説もあると。 (曽爾村観光振興公社HP他より)
所々に道標も立ち、地元の方の熱意が感じられる。苔に包まれた杉木立も間伐されており、林業もしっかりと根付いているようだ。
「伊勢本街道」の難所に数えられている「鞍取峠(590m)」の頂上に到着して一息入れる。(9:30)

六字名号碑

鞍取峠の急坂

杉木立の道


木漏れ日の峠道を下り始める。上りよりは勾配が緩やかで、トントンと下って行くと「せんとくん」が描かれた「平城遷都1300年祭」の旗が 迎えてくれる。ここはまだ奈良県なのだと。
前回にも見つけた「すずみの水」の水飲み場があるが、この時期はパスしても問題ない。「浄空欣了法師塔」がひっそりと立ち、杉木立の道を 下り切ると桃俣集落の「白髪稲荷神社」が鎮座し、境内にある東屋で一息入れる。(9:50-10:00)

木漏れ日の峠道

浄空欣了法師塔

白髪稲荷神社



「山粕〜鞍取峠」の「紀行スライドショー」

「白髪稲荷神社」を下った所の民家の軒先に「伊勢本街道・桃俣の宿」の看板が掲げられている。ここは「桃俣宿」として栄えた集落 なのだと。
静かな集落を抜け、川を渡って進むと国道369号線と合流し、しばらく国道沿いに進み、青蓮寺川を渡り、川沿いの静かな道を進む。 陽射しもきつくなり、陰のない舗装道路を淡々と進む。
この街道沿いの家は立派で、藤の花、キリシマツツジの花を植え込んだ街並みを楽しみながら進むと「春日神社」や「白藤稲荷神社」の前を 確認する。
堂前の集落の三叉路の角に「堂前の道標」が立つ。古い石碑の道標には「左いせ、右はせ」と刻まれている。

桃俣の宿の看板

青蓮寺川を沿いの道

堂前の道標


青蓮寺川沿いの静かな道を進む。道脇には石楠花や八重桜が咲き、お花見をもう一度出来たと話しながら進む。

桜峠

国道と合流して歩むと「桜峠」の道標が細い道を示してくれる。これからは方向がはっきりと分かる道標が案内してくれそうだ。
細い道の正面に民家があるので、手前の地道に入るとゴソゴソと物音がする。少し進んだ所にある小屋からの音で、良く見ると大きな 猪が数頭飼われている(?)。多分、檻に入った猪を生け捕りにし、飼っているようだ。道が途切れているのと怖いので元に戻る。
民家の方に進むとこれが正解で、牛小屋の中に牛が数頭飼われ、その前を進み、地道の峠道を上って行く。 緩やかな坂道で、少し上った所に「桜峠」の標識が立っている。
まだ頂上ではないが、杉木立の道を上り切ると展望が開け、ドーム型の 建物が見える。御杖小学校のモダンな建物に沿って下ると6年生が理科の実習で何か植物を植える準備をしている。元気な挨拶に応え、 何を植えるのか聞くが??。
小学校の周りの八重桜は満開で、季節感が1ケ月遅れているようだ。桜見物をしながら下ると再びR368と合流する。

桜峠への道標

桜峠への道

御杖小学校


R368の歩道を進むと旧道に分岐する小道に当たる。国道を通す時、直線にするため旧道が迂回して残っている所が多い。 その旧道には古い建屋や史跡が残っていて、国道と違って、心地良く歩ける道だ。
国道から離れて旧道に進むと、駒繋橋の横に立派な「太神宮灯篭」とその横には古い道標が立つ。

太神宮灯篭と道標

玄関の木槌と矢

道標に従って左折し、枡形になっている旧道の街並みは立派な家が立ち並ぶ静かな旧街道を楽しみながら進む。
「安能寺」の山門を遠くに見ながら進むと枡形の角に小さな「菅野の道標」が立っている。
この辺りの家は、まだ注連飾りが玄関に飾られている点は伊勢地方の風習が波及しているのだろうかと。
それに加えて、玄関に棟上げ式に使用したと思われる木槌が飾られているのだ。これは初めて見る風習で、木槌が玄関の 上に飾られているの立派な家がたくさんあり、ある家には木で造られた矢も飾られている。

旧道の建屋

注連飾りをする家

菅野の道標


田植えの終わった田舎道を進むと鎮守の森らしい木立が見え、確認すると「四社神社」だ。境内に入り、落ち着いた本殿に参拝する。 お賽銭を入れて礼拝すると突然、御神楽の音色が聞こえて来る。何処かにセンサーがあるのだろうと探すと賽銭箱の上の梁に設置されていた。 面白い神社だ。

四社神社

「四社神社(ししゃじんじゃ)」の本殿は神明造です。1752年(宝暦2年)天照大神、春日大神、八幡神、熊野神の四柱を祀って 「四社大明神」と称しますが、
それより昔、 崇神天皇の皇女・豊鋤入姫命(とよすきいりひめノみこと)に続き、第11代垂仁天皇の御代、 皇女・倭姫命(やまとひめノみこと)が御杖代(みつえしろ、斎宮の事)になり、大和笠縫邑(かさぬいむら)から神慮(しんりょ)に 叶う新たな宮地を求めて、ここで行宮(ゆきみや)を造り、禊(みそぎ)をして、後に伊勢へ遷宮(せんぐうょになったので、 伊勢本街道沿いの当地を「天照(あまてらす)の道、元伊勢」とも称します。 (奈良観光HP他より)
「伊勢本街道」のこの辺りは「倭姫宮」の逸話が多く、祀られているのが良く分かる。
井戸の跡や本物かと思う程の立派な「菊花石」が 祀られて(?)いる。
丁度、昼食に適した時間になったので、静かな境内の木陰の下、昼食とする。風がきついが、寒さは感じず、春よりも初夏の 趣きを楽しみながら、弁当を食べ、一息入れる。(11:45-12:15)

菊花石 拡大

倭姫宮の社

倭姫契りの御井



「鞍取峠〜四社神社」の「紀行スライドショー」

昼食を終え、少し風が強いが、明るい陽射しを浴びて出発する。
この辺りの畑は田圃になり、田植えが終わった所やこれからの所が点在する。のどかな田舎道の旧街道の家の軒下には、燕の巣が設けられ 親燕が行き交っている。川沿いの道を進むと民家の軒下に「伊勢本街道」の提灯が吊るされている。嬉しい道標だ。
川を渡る橋の手前に、木陰に隠れて「伊勢本街道」と刻まれた道標が立ち、橋を渡って「牛峠」に向かう。

川沿いの道

伊勢本街道の提灯

伊勢本街道の道標


緩やかな舗装された峠道を上り始める。新緑が陽の光と青空に映えて気持ち良い。広い峠道だが、車も走らず、新緑を楽しみながら進むと 道端に赤いよだれ掛けをした地蔵が祀られている。
上り詰めた丘の上に記念樹に囲まれた石碑が建てられている。これが、「牛峠」の頂上の石碑だろうと。
少し進むと再び国道368号と合流する。

新緑の峠道

峠道の地蔵

牛峠


国道を渡り、新しい道が出来たのか、拡幅されて少しわかり難い道の下の道を進む。

首切り地蔵と道標 拡大

街道筋の集落は落ち着いていて気持ち良く進むと「御杖神社」への方向を示しているか道標があるが、立ち寄らずに歩む。
枡形になった西町辻に「太神宮常夜燈」と道標が立っている。角を曲がって神末川を渡った正面に立派な「今西家」が 建っているが、説明文もなく写真を写し、川沿いに進む。
立派な家が立ち並ぶ川沿いの道を進み、三叉路から「佐田峠」への緩やかに上って行く。
峠の頂の崖に「首切り地蔵」が祀られ「菅野村行悦の道標」が立っている。
「神末川」に沿って北へ行き、バス停「神末」の三叉路を右へ曲がって行くと、変則的に曲がりくねったなだらか坂道を上がり切った所が 「佐田峠」です。左側の山肌に小さな「首切地蔵」が座っています。明治維新の時に、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で棄てられ、 3つに折れたが、首から上の病に霊験あらたかです。全快したなら赤い布地の涎掛(よだれかけ)を奉納する慣わしがあります。 (奈良観光HP他より)

西町の集落

太神宮常夜燈

今西家


「佐田峠」を下り、見晴らしが開ける手前の左側の崖に白い花が群生している。花に詳しいO君が、足を停めてこれは「敦盛草」では ないだろうかと。平敦盛の鎧姿に似た珍しい花だそうで、楽しそうに写している。少し下の民家の奥さんに確認すると、「敦盛草」で 愛好者が三脚を立てて良く撮影していると。
峠を下り降りると田園地帯となり、目の前には大洞山(985m)の美しい山姿が見られる。青空の中に美しい姿を現わし、旅の疲れを癒して くれるようだ。
「伊勢街道・姫石明神」の道標に沿って、田圃の小道に入って行くと田植の終わった水田に大洞山の姿が映っている。

敦盛草

伊勢街道・姫石明神の道標

大洞山


田圃の中の道を少し進んだ所に「常夜燈」が立ち、左に向かうと敷津のバス停に向かえる。ここから敷津バス停に向かって、道の駅の温泉に 入浴するルートも考えていたが、14時前とまだ時間も早いので、奥津まで進むことにする。
ここからは「御杖村七不思議」の史跡が次々と現れて来る。まずは七不思議・其の二「月見石」で倭姫命(やまとひめノみこと)が、 この岩の上にあがり、仲秋の名月を鑑賞されたと。
次に其の四「倭姫命の手洗い井戸跡」があり、次に土を除けて現しておいても恋しがって、何時の間にか元の通りに沈み、他の所に運んでも 必ず戻り、離すと泣くと云われる其の三「夫婦岩」が顔を出している。

常夜燈

月見石

倭姫命の手洗い井戸跡


街道筋には次々と史跡が残っている。七不思議・其の五「弘法の井戸」を見ながら大きな家が建つ道を進むと緑豊かな「丸山公園」の中の 遊歩道を散策する。

姫石明神 陽石

公園から出ると道はゴロゴロとした薄暗い岩の道になり歩き難い。
岩道の横に赤い鳥居が建つ七不思議・其の七「姫石明神」の石のご神体が 祀られている。
「丸山公園」から東へは、車が入れない「伊勢本街道」で、ちょっと薄暗い石ころごろごろの山道を登った頂上が「岩坂峠」で、 そこからりっぱな石段を降りた左側に木の小さな鳥居が建ち、高さ七寸、幅二寸の大きな岩が祀られ、鎮座しています。
まるで、婦人が俯(うつむ)きになってお尻を突き出した様な岩で、ご丁寧に毛氈苔(もうせんごけ)の下に穴まであり、 赤い水も垂れている「姫石明神」です。その昔、倭姫命が祈られた「姫石」の陰石で、ご婦人の下の病気や子宝もうけ、その他、 縁結び等にご利益があります。なお、写真の岩の上方にも大きな岩(陽石)が斜面にころがっていて、根元には雑木が生い茂っています。 (奈良観光HP他より)

これが旧街道かと思いながら「岩坂峠」を下って行くと杉木立の歩き易い道に快調に下る。

弘法の井戸

丸山公園

杉木立の道


「岩坂峠」の杉木立の道から少し離れた所に「月輪胎蔵界大日如来種子碑」や「六部塚」の史跡の史跡があり、確認して下り切ると再び国道368号線に 合流し、直ぐ横の休憩所で一息入れる。
国道の標識は「三重県」となっており、奈良県を通過して三重県に入ったことを認識する。大阪を出発してから6回目の紀行で、 三重県に到達したことを喜び、休憩所にある地図を見て、奥津までの距離を確かめ、お茶を飲み、お菓子を食べてゆっくりする。 (14:10-14:20)

岩坂峠の道

六部塚

奈良県と三重県の県境



「四社神社〜県境」の「紀行スライドショー」

奈良県側は「伊勢本街道保存会事務局」発行の「伊勢本街道の最大難所・大和高原『うだの難所を行く』」の地図を 参照しながら進んで来たが、これをリュックに終い、「三重県生活文化部」作成の「みえ歴史街道・ウォーキング・マップ」の「伊勢本街道」編を 取りだして、紀行を進める。
国道の下に通じる道には「伊勢本街道」の道標があり、三重県に入っても心強い道標があるのを確認して嬉しく思いながら、木漏れ日の 森の地道を進む。民家の間を抜ける小道も通り、家の軒先には「歓迎・おいせまいり」の笠が吊るされているのを見ると旅人への思いやりが 感じられ、これからの三重県の紀行が楽しくなる。
再び国道に戻ると道幅が狭くなっている道脇の小高い所に「太一・常夜燈」が立つ。天保15年(1844年)の銘がある古いものだ。
※「太一(たいち)」の文字
中国の道教では天体の中心をなす北極星を指し、天帝を意味する。日本では伊勢神宮の御用材の印として使われたが、常夜燈にも 刻まれている。たいいつとも。 (みえ・まんなか学のすすめHPより)

三重県の道標

森の地道

太一・常夜燈


車も通らない国道を進むと三叉路に自然石の「杉平の道標」が立ち、「いせみち」と刻まれているのを確認する。ここ美杉町の史跡には 小さな説明文があり、史跡への姿勢が感じられる。
少し進んだ所に三角柱の「払戸の道標」(天保14年・1843年)が三多気の桜への分岐を示している。 陽射しがきつくなって来た舗装道路を淡々と進む。この季節だとまだ汗ばむ程度だが、これからの季節は耐えがたい苦行となるだろうと 話しながら歩む。
暖簾のかかった家が現れる。奥津宿の家々には暖簾を掛けていると先達の紀行記で読んでいるので、奥津は近いと思いながら歩を進める。 遠く離れた家の庭には鯉のぼりが気持ち良く泳いでいるのを見ながら進むと三日月型のある「払戸・常夜燈」が迎えてくれる。この燈も 文政2年(1819年)と古いものだ。

杉平の道標

払戸の道標 説明

払戸・常夜燈


旧街道は国道から分岐して静かな道に入る。この辺りの家も広くて庭の緑が気持ち良い。

庚申堂 道祖神

陽射しが強く、鼻や手首の露出した皮膚が赤くなって来る。青空・新緑を楽しみながら旧街道を進むとこの地区で一番古い「中垣内・常夜燈」 が立つ。文化11年(1814年)と刻まれている。
この常夜燈にも「太一」の文字が刻まれている。やはり伊勢神宮に近付くに連れ、信仰の度合いが深くなるのだろうか。 この辺りの家には、昔の屋号と思われる看板が掛かっている家が多く、笠も吊るされ歓迎してもらっている様子は嬉しいものだ。
少し進むと自然石の「中垣内・道標」が「右いせみち」と刻まれ立っている。
旧街道から少し下った所の広場に「庚申堂」の古い祠が祀られている。
庚申は2〜6本の腕ある猿の形相の鬼神。かのえさるの日に寝ずに夜明けを待つ行事がある。昔は盆踊りをしたが、今はカラオケとか。 (みえ・まんなか学のすすめHPより)
庚申堂の祠の中には室町時代の石仏が祀られ、歴史の古さが表れている。祠の横にも、色々な石仏が祀られているが、その中に今回の 「伊勢本街道」紀行の中で初めて接した「男女の道祖神」が祀られている。「中山道」紀行時には良く見る「男女の道祖神」を眺めながら ベンチに座って一息入れる。(15:00)

中垣内の常夜燈

屋号の看板 旧道

中垣内の道標


計画時、奥津までに行くと帰路の交通の便が悪く、コマュニティーバスの時刻に合わず、休止中のJR名松線の連絡バスに乗るしかなく、17時21分まで 待たねばならない。奥津駅でゆっくりしようと話しながら出発する。

かぶと屋の暖簾

田植えの済んだ田圃を抜け、猪除けの柵の扉を開けて進んだり、民家の間の道を抜けて進むと民家の横に「瀬之原・太一常夜燈」が立っている。 この常夜燈も弘化元年(1844年)の古いものだと。
道なりに進み、橋を渡ると国道に合流する。しばらく進んだ後、再び国道から離れて旧道に入ると「奥津宿」の街並みが続く。
古い家々の玄関には「伊勢本街道・奥津宿」と、それぞれの屋号等が染め抜かれた暖簾が吊るされている。 「中山道」の宿場町でも屋号を掲げた街並みはよく見るが、街並みが暖簾で連なっているのは初めてで、「奥津宿」の方々の「伊勢本街道」 への想いが深いのが分かるようだ。
暖簾を掲げた家には竹筒に生け花を活けている。この「塩汲み」と云う竹筒に水を入れて伊勢神宮へお参りしたと説明されている。
「かぶと屋」始め屋号が染め抜かれた暖簾を眺め、楽しみながら進むと骨董屋さん風の店の奥さんが見て行ってと。中に入ると新旧取り混ぜた 品々が並んでいる。家の蔵にあるものを陳列し、見てもらうのだと。面白いものもたくさんあり、少し話す。「奥津宿」は優雅で、奥深い 宿場町だ。

瀬之原の太一常夜燈

尾張屋の暖簾

魚屋の暖簾

塩汲み

小林座の暖簾

やまうちの暖簾



「県境〜奥津」の「紀行スライドショー」

連絡バスの時刻まで時間があるので、奥津駅で待つ間に乾杯しようと酒屋を探すが分からないので、出会った奥さんに聞くと、あちらにあると。 その方向に進むと酒屋があり、缶ビールを購入し、次回進むべき道を確認して奥津駅に向かっている時、奇跡が起こった。
道の向こうからバスが現れたのだ。慌てて手を挙げて停めて、運転手に確認すると津市のコミュニティーバスで、竹原まで行き、乗換えると 近鉄の榊原温泉口駅に接続するバスがあると。ビールを持っているので、車内で飲んでも良いとの許可を貰って、喜んで乗車する。
誰もいない車内で乾杯し、市のコミュニティーバスの時刻表を確認すると、巡回バスなので、同じ停留所が2ケ所書かれていて、一方しか見て いなかったのが分かった。大きな過ちを偶然のバスとの遭遇で、約2時間の時間短縮できた次第だ。
奥津駅(八幡出張所前)15:41'→16:14'竹原16:35'→16:59'榊原温泉口駅のルートは有効な交通手段だ。

コミュニティーバスで竹原に行き、少し待った後榊原温泉口に着くが、駅前には何もない。取り敢えず、駅近くの酒屋を探し、缶焼酎とつまみを 買い求め、近鉄急行に乗車する。ロマンスシートなので、改めて乾杯して、今回の紀行の反省会を行う。道に迷うことはなく、天候にも恵まれ、 地道や史跡も多い楽しい紀行だった上に、奇跡的なバスとの遭遇でラッキーだったと。
次回は榊原温泉口駅からコミュニティーバスを乗り継いで、奥津まで向かうと12時頃から歩き始めることになる。泊まりも考慮して検討する ことにする。
鶴橋で乗換え、京橋でO君とお別れして無事帰宅する。今回の紀行は20.4km、38000歩だった。
(工事中)




    
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