[奥津〜横野][横野〜外城田]


○ 「伊勢本街道No7」見聞録(奥津〜外城田)・(距離 40.1km(今回)/ 149.2km(累計)/ 20.8km(残距離)

前回まで
今回
残距離


  1−1.奥津〜横野・(17.6km) 2011.06.08 11:45-17:30 曇り


伊勢本街道全行程.Map
「奥津〜横野・行程MAP」

地図の再生ボタン()を押すと
見聞ルートに沿って歩行出来ます。
クリックすると拡大します。(≪kaz≫さんのホームページより)

今年の梅雨入りは、例年より早く5月20日過ぎから不順な天候が続き、これも例年より早い台風1・2号の襲来と、東日本大震災・ 原発被害地には気が気ではない日が続いた。 そんな中、政治は内閣不信任案提出と政局にうつつを抜かす低落振りにあきれる。どんでん返しの否決に落ち着いたが、与党・野党の 対応には、これからの動向も予断を許せない状況だ。

第7回目の「伊勢本街道」紀行は、交通の便が遠くなり、歩行時間も短くなるので、一泊して進もうとO君と相談し、計画を煮詰めた。 前回の終了地点・奥津までは、近鉄・榊原温泉口駅からコミュニティーバスを乗り継いで進むことにするが、到着が11時40分に到着する。
そこから歩き始め、飼坂峠・櫃坂峠を越えて、横野付近で民宿に宿泊し、翌日、相可or多気まで進もうと計画した。しかしながら、 狙っていた「待月旅館」はすでに廃業し、街道から少し離れた民宿は休み、もう一つは臨時休業とついていない。 仕方がないので、宿泊地はバスで松阪のビジネスホテルとし、翌日もバスでそこまで戻り、進むことにする。
梅雨空が続いたが、予定日は予報では雨模様ではなくラッキーだ。O君と8時10分に鶴橋駅で待ち合わせる。7時前に歩いて駅まで行き、 何時もより混みだした電車で鶴橋に向かう。

榊原温泉口駅

O君と合流し、駅中のコンビニで弁当とおにぎりを買い、予定通り、鶴橋発8時17分発の電車で出発する。 今日の計画を確認し、次回以降の進め方も考える。一気に「伊勢神宮」まで行くか(行けるか?)も含め、今回の紀行の終了時に決める ことにする。
1時間40分程の乗車で、榊原温泉口駅に到着し、直ぐに一志病院行のコミュニティーバスに乗り、一志病院で同じくコミュニティーバスに乗換えて、 昼食までの虫養いとして、おにぎりを食べておく。 奥津駅に到着したのが、11時37分と集合から3時間半が経過している。
このバスの運転手は、前回奇跡のバスとの遭遇の運転手で、 親切に今日の時刻を教えていただいた方と分かり、お礼を云って降車する。 JR伊勢奥津駅は台風で不通になり、代行バスで運転されているので、目下廃駅状態にあるが、改装され行政の出張所になっている。
駅の裏手に廻って見ると、ホームの向こうに蒸気機関車用の給水塔が建ち、線路は廃線の状態で、錆びて草が茂っている。昔の繁栄が 偲ばれる。

JR奥津駅の暖簾

蒸気機関車用の給水塔

寂しい線路


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

9時45分、第7回目の「伊勢本街道」紀行をスタートする。
「奥津宿」の街並みは、前回にも感じたが、家々には特徴ある暖簾が吊るされ、旧街道の息吹を集落全体で表現している姿には頭が下がる。 橋を渡り、道標に従って進むと「旧旅籠」の古い建屋が建ち、近くには「札場跡」の看板が立ち、宿場の入口を表している。

J奥津宿の暖簾

旧旅籠

札場跡 説明


旧街道を進むと「須郷の里」と書かれた立派な家の裏側で、地元の方がたくさんお茶を飲み、話しておられる。休憩して行ってはとの 言葉に甘えて、お茶をいただき、お話の輪に加わる。毎日楽しく話しておられる集会所のようで、元気の源のようだ。地元の杉で 作られた「伊勢本街道・奥津宿」の木札を100円で購入し、記念の品としてリュックにぶら下げる。
集落を離れた街道脇に「谷口常夜燈」が立つ。文久4年(1864年)の作と歴史あるものだ。説明に横のミラーとの対比が興味を引くと書いてあった ので、ミラーを入れて構成する。 なだらかな坂道を上って行くと「正念寺」の立派な木製の山門が建ち、遠くから眺めながら歩を進める。

須郷の里の休憩所

谷口常夜燈 説明

正念寺の山門


今回も「みえ歴史街道・ウォーキング・マップ」の「伊勢本街道」編をベースにして進むことにしているが、この地図では国道に沿って進むことになって いる。しかし、実際の旧街道は国道の下の道で、緩やかな「飼坂峠」への坂道を上る。曇り空で、陽射しもなく暑さが感じられないのは 有難い。
少し進むと「首切り地蔵」が道端に祀られている。昔、「飼坂峠」には山賊や狼が出没した名残の供養地蔵なのだ。 国道下の道から階段で、国道に上ると直ぐにトンネルがあり、その左横から「飼坂峠」の峠道に入る。
伊勢音頭に歌われた「お伊勢まいりしてこわいとこどこか、かい坂・ひっ坂・鞍取坂・つるの渡しか宮川か」 の難所の一つである「飼坂峠」なので高低差が厳しいと覚悟していたが、今までの行程で、高さを稼いでいたのか、思ったより 緩やかだ。

国道下の旧街道

首切り地蔵 説明

飼坂峠のトンネル


飼坂峠茶屋跡 説明

地道の峠道に踏み込む。杉の葉が落ち、クッションとなって歩き易い道だが、勾配は徐々にきつくなって来る。前でガサッと音がしたので、 見上げると、何と野生の鹿が森の奥に駆け込んで行くではないか。速くて写真は取れなかったが、野趣豊かな峠道なのだと。
しばらく上ると「胴切り地蔵」が祀られている。
下で祀られていた「首切り地蔵」と同じく山賊や狼に襲われた方々の供養地蔵なのだ。 「首切り地蔵」と「胴切り地蔵」は同じ地蔵様のようにも見えるが?
杉木立の静かな峠道を上って行く。昨日までの雨が小さなせせらぎとなって横の溝を流れているが、道にまで溢れることはなく、 石がゴロゴロとしている道を楽しみながら進む。
上の方に、東屋の屋根が見え、「飼坂峠」の頂上(484m)に到着する。ここには「茶屋跡」の標識があり、東屋が休憩場所として設けられている。
少し上に展望台があるので、上るとテラスの見晴らし台があり、これから下って行く「多気宿」の街並みが遥か下に望まれる。東屋に戻り、 ここで昼食とする。バスでおにぎりを食べていたので、ここまで空腹が持った次第だ。 静かな空間の中で、昼食の弁当を食べ、一息入れる。(12:55-13:20)

胴切り地蔵

飼坂峠の峠道

多気宿の街並み展望



「奥津〜飼坂峠」の「紀行スライドショー」

「飼坂峠」の下り道も、木々に覆われ気持ち良い。少し勾配がきつく、雨に濡れた落ち葉で滑らないように注意しながら快調に下る。

飼坂峠の下り坂

多気宿の街並み

途中に「ホトトギスの水」と書かれた木札が立っているが、近くに水場を見つけられず、峠道を下って行く。
峠を下ると「多気宿」の標識が立ち、宿場に入ったことが分かる。落ち着いた宿場の街並みを楽しみながら進むと道角に、立派な 「上多気常夜燈」が迎えてくれる。高さが4.9mと街道でも最大級のもので、元治2年(1865年)作だと。
ここ上多気は歴史上、由緒のある場所だと。
江戸時代は伊勢本街道沿いの宿場町であったが、この地が脚光を浴びていたのは中世で、南北朝時代から戦国時代にかけて、この地を 本拠地とした北畠氏の活躍によるものだ。

上多気常夜燈 説明

この地で勢力を伸ばし戦国大名化した北畠氏の拠点霧山城は、上多気村と下多気村の村界一帯で、この地に北畠氏の居館を中心と した霧山城(多気城)の中心部があったと伝えられている。
天正4年(1576)に織田信雄の攻撃を受け、当時本拠地としていた三瀬館や霧山城も落城し、城下町多気は完全に滅び去った。

道標

この多気が山間部でありながら畿内方面との交通路が通じ、交通の要衝となっていたのは、北畠氏が多気を本拠として勢力を伸ばして いたことによるもので、北畠氏の滅亡後は静かな山村として文化的な遺産も栄光も埋もれてしまい、伊勢への参宮路の宿場町として発展し 、旅籠屋も多数あったようだ。(中部・東海地方の街並みHPより)

多気宿の標識

旅館・三鬼屋跡 説明




こんな山の中に南北朝時代の話が現れることに驚く。旧街道には歴史に繋がる史実が残されているのは面白い。しかし、北畠氏のことを ほとんど知らなかったことは・・・
交叉点の角には「すぐいせ道、すぐはせ道」の自然石の道標が立ち、横の空き地には「旅館・三鬼屋(三木屋)」跡の看板が立っている。 立派な旅籠だったことが分かる。
先程、「飼坂峠」の展望台から眺めた街並みに降りて来たのだ。(13:30)
橋を渡って進むと「町屋の家並み」が続く。「町屋」とは地名だと分からず、町屋が続くと思った勘違いを楽しみながら、「結城屋旅館」の 古い旅籠の建屋を見て歩を進める。
田圃が続く林の陰に「六部供養碑」がひっそりと立つ。元禄13年(1700)製の碑で、説明文によると「長谷寺」と「伊勢神宮」の丁度中間地点 だそうで、それぞれ11里半だと。伊勢神宮まで、後、46kmあるのだと認識する。

町屋の家並み 説明

結城屋旅館

六部供養碑 説明


少し進んだ所にある史跡を事前の計画時、マップに「サカムカエ場」と書かれているのを「サカムカ工場」と読んでいて、何の工場が史跡として 残っているのか不思議に思っていた。説明板によると「坂向場」と書くそうで、伊勢講から帰って来た人たちを出迎えた場所だと。 伊勢詣のならわしか残っている史跡なのだ。
この辺りの家の軒先には薪が積まれて保存されている。この地区ではま薪を使っているのだろうと思いながら歩いていると、煙突から 煙が出ている家がある。自然豊かな森の資源を今なお利用しているのに、原発事故で節電が叫ばれている時代では羨ましいとも思える。
舗装道路の広い道に出て、緩やかな坂を上る途中に名水「鶯の水」が流れ落ちている。夏の暑い時だと、きっと顔を洗い、頭から水を 浴びているだろう。今回はタオルに水を浸して首に掛け、難所の一つである「櫃坂峠」の道を上る。(14:25)

サカムカエ場 説明

薪が積まれた家

鶯の水


「櫃坂峠」への緩やかな坂道は、国道368号線となっており、車もほとんど通らない。鶯の声、横を流れるせせらきからカジカの声に 癒されながら上って行く。道端に古い「道標」が「右いせみち、左やまみち」と刻まれている。
横の渓谷は細くなり、段々と上って行くことが分かる。これが舗装道路でなく、地道であれば最高だと話しながら・・・。
旧街道は国道から分岐して川沿いに進む。国道から脇道があれば、国道建設時のルート変更による、旧街道が残っている何時もの道筋だ。 上手くなった鶯の声とせせらぎの音を聞きながら、緩やかな坂を上る。勾配もきつくないので、難所と唄われているのが不思議だ。

古い道標

川沿いの道

分岐した旧街道


再び国道に合流し進んでいると「役行者」の説明板が立っている。30m程上った所に祀られているとのことで、上ることにする。

役行者祠 説明

矢印に従って、獣道のような道を上って行くが、それらしき祠が見当たらないので、諦めて降り始めると横の尾根にロープが張ってあり、 上に祠のようなものが建っている。
急な坂道をロープを持って上り切ると「役行者と不動明王」が石の祠に祀られている。
「熊野古道」を歩いている時、特に「大峯奥駆け道」では修験道の開祖「役行者」の史跡が多く見ることが出来た。 その時まで、「役行者」が「えんのぎょうしゃ」と読むことも知らなかった。
修験道とは修行得験、実修実験の道と言われます。山中深く分け入り、自らの身心を使って限界まで修行をする、それによって様々な 験(しるし)を得ていく、そういった実践の宗教なのであります。
開祖は役行者(諡号神変大菩薩)。7世紀に活躍した山岳修行の祖であります。役行者の開いた修行の道は、日本古来の山岳信仰に、 神道や仏教・道教などの外来思想を包含しながら、平安期から中世にかけて、修験道として体系化されていきました。(役行者ファン倶楽部HPより)

役行者と不動明王

道端のお地蔵様 説明

「伊勢本街道」唯一の像だと云われる程の立派な「役行者」に旅の安全を願って坂道を国道に戻る。
しばらく進むと国道脇にログハウスと広場があり、遠くで男性が畑仕事しておられる。この土地を開墾しておられるようで、道端にはお地蔵様が 祀られている。安全祈願の地蔵だと思われるが、人里離れた地で暮らすことも楽しいだろうと思いながら進む。
杉木立が気持ち良い国道を進むが、車の往来は全くなく、二人占めで進むと津市美杉村と松阪市飯南町の境界である奥立川せ架かる 「不動橋」を渡り、松阪市に入る。
直ぐに「多気不動尊」の祠と石燈籠が立っている。ここで一息入れる。本当に静かだ。(15:30)

杉木立の国道

不動橋

多気不動尊



「飼坂峠〜不動橋」の「紀行スライドショー」

「櫃坂峠」の頂上に近付いて来た。この辺りは「峠集落」で、近畿と伊勢の交通の一大拠点として旅籠がたくさんあったと。道脇に「櫃坂道」 「古坂道」の標識が立ち、「櫃坂道」の方向に進む。

櫃坂峠

「伊勢本街道・櫃坂(ひつさか)」(435m)の標識があり、国道から離れて地道への降り口を示している。地図と共に「13丁」の標識もあり、 麓まで1400m余りだと認識し、地道の峠道に向かう。
けわしい山道が多いことでも有名な伊勢本街道。中でも櫃坂峠は、本居宣長の紀行『菅笠日記』に登場し、宣長が大和国の榛原(はいばら) で一行に本街道越えを指示したところ、一行はこの道を通るなど考えただけでも恐ろしいとふるえあがったと書かれています。 その面影を探しに歩いてみてはいかがでしょう。 (かんこうみえHPより)
昨年秋、「志摩半島にドライブ旅行」した時の帰路は 国道368号線を通って、曽爾高原のススキを見に行く途中、国道筋から時々「伊勢本街道」の道標を見ていた。何時かは歩こうと思った契機に もなった道で、多分、狭くてウネウネと曲がる国道で、大きなトラックと離合する苦労して、やっと峠の頂上に出た時の道標だったと思われる。
上り道は舗装道路で緩やかだったが、峠の下り道は地道で割合急な坂道だが、九十九折れの緑の道や杉木立の道を下って行く。
1丁毎に立つ標識を数えながら、峠道が広くなった所で、O君が呼び止めた。何かと道脇を見ると獣の白骨が転がっている。多分、鹿の 骨だろうが、角は取られてなくなっている。山深い旧街道の姿を見た感じだ。

櫃坂峠の下り道

櫃坂峠の杉木立

鹿の骨?


峠道は少し広くなり、緩やかに降りて行く。
道横に古い「井戸(清水溜まり)」が設けられ、その上に「勢至菩薩像」が祀られている。慶応2年(1866)製で古くから街道筋の安全と潤いを 与えていたのだろう。
拡幅された新しい道も出来て来て、道標がはっきりしないので戸惑いながら進むと「櫃坂峠」の頂上で別れた狭い国道と合流しする。 その手前の家の陰に「道標」が建ち、現在位置を確認出来た。 近くに店屋があったので、パンを購入し、柿野までどれ位と聞くと4km・40分程度だと小母さんが教えてくれた。民宿での宿泊が ダメになったので、松阪行のバスの時刻を考慮しなくてはならない。川沿いの静かな国道を少し急ぎながら下る。

井戸と勢至菩薩像

道標

静かな国道


崖崩れ防止のトンネルの中に「弘法大師の水」「長瀬不動尊・弘法大師の御堂」「常夜燈」2基が並んで立っている。ひんやりとした空気で 人心地つき、次に進む。

弘法大師の水

長瀬不動尊・弘法大師の御堂

常夜燈2基


この辺りから、旧街道を進んでいるのは分かるが、位置が分からず、バスの時間までの距離を換算出来ない。途中で会った人に、柿野までの 距離を訪ねると4kmと進んでも、その距離は変わらない。所々に拡幅工事があり、史跡も見当たらず首をかしげながら進む進む。
マップにある史跡を見落としたのか、分からず進んでいると「伊勢本街道」の道標が脇道を指している。曲がって進むと「常夜燈」が 立っているので一安心。 ここで、早とちりする失敗を犯す。見ていたマップの次のページに進んでいたのを気付かず、「常夜燈」を過ぎた道から国道に戻ってしまった のだ。しばらく進んで、マップを確認するとそのまま川の方向に迂回して行くのが「伊勢本街道」なのだと分かる。
しかし、戻る時間がないのでそのまま進む。国道筋に「道標地蔵」が立つ。少し進んだ所で、脇道からの本街道と出会いそのまま国道を 急ぎ足で進む。
ここで、また失敗する。本来の本街道は再び、左の脇道に入るのだが、気付かずそのまま国道を下って行く。「柿野神社」に出会うはずと 思いながら進むと「和歌山街道」の国道166号線に出会ってしまう。バス停を聞き、やっと到着する。(17:30)

常夜燈

道標地蔵

バス停・赤滝



「不動橋〜横野」の「紀行スライドショー」

しかし、バス停は「赤滝」で「柿野」ではない。17時35分発のバスに乗り、松阪に向かう。次の駅が「柿野」なので、道を間違ったことに 気付いた次第だ。時間に追われると注意力が散漫になることを、前々回に続いてミステイクをしてしまった。
約35分で松阪駅に到着(820円)し、ビジネスホテルに向かう。近鉄側の国道筋に面した「ホテルルートイン松阪駅東」にチェックイン(6500円)する。 予約段階で、風呂があり、朝食も食べられる所を探したが、満室が多く、松阪にビジネス客が多いのに驚いていたが、ホテルの前に観光バスが 停まっている。シニアの卓球大会があるようで、全国各地から来られていて、ホテルが満室だったようだ。
大浴場で足腰を伸ばしてリフレッシュし、松阪に来たからには焼肉・ホルモンの美味しく・安い所を聞く。教えられた焼肉店に行くが、飲み物は高く、 肉・ホルモンも品質が良いのだろうが高い。生ビールで今日の紀行完歩を祝して乾杯し、肉・ホルモン・野菜を食べ、もう少し安い店で仕上げようと 出て、ホテル横の回転寿司「スシロー」で寿司・生ビール・日本酒で疲れを癒し、ホテルに戻る。

スタート時間が遅かったが、気持ち良い峠道、車の少ない国道と歩んだ。史跡も多く、天候にも恵まれ、快適な紀行となったのは有難い。 今までの中で一番歩行・散策に適した「伊勢本街道」だったような気がする。今回の紀行は17.1km、家からの総歩数は37000歩だった。
初めての宿泊紀行なので、明日の疲れが心配だが、楽しんで進みたい。

[奥津〜横野][横野〜外城田]









    
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送