○ 「京街道No1」見聞録(高麗橋〜寝屋川)・(距離 17.2km(今回)/ 17.2km(累計)



  1.高麗橋〜寝屋川・(17.2km) 2015.03.23 10:00〜16:30 晴れ時々曇り


「高麗橋〜寝屋川・行程MAP」

地図の再生ボタン()を押すと
見聞ルートに沿って歩行出来ます。

小中高校と同期のO君・N君とは、昨年末に「旧山陽道」を下関まで踏破し、「ふぐ料理」で達成祝いをした仲間だ。
次は近場の旧街道を歩こうと候補地を検討した結果、大阪から伏見を経由して大津までの「京街道」を歩くことにした。
「京街道」は、江戸から京都までの「東海道五十三次」に加え、徳川家康が、大阪までの間にに、伏見宿・淀宿・枚方宿・守口宿を設け 「東海道五十七次」と云われる江戸と大阪とを結ぶ幹線として賑わったそうだ。
「旧山陽道(西国街道)」紀行では、京都から淀川の右岸の「西国街道」で西に向かい、西宮で大阪・高麗橋の「里程元標跡」からの 「中国街道」に合流し、西に向かった。今回は、高麗橋の「里程元標跡」から淀川の左岸を「京街道」で上り、大津市の追分で 「東海道」に繋ごうと計画した。

10時、京阪北浜駅集合で、1月の 「能勢散策&旧山陽道踏破反省会」以来の再会で。お互いの健康を確認しながら握手する。昨日までは、暖かくて春の陽気だったが、 冬に戻ったような寒さだが、歩くには丁度良い気温だ。
スタート地点の高麗橋・「里程元標跡」に向かう。

里程元標跡

ここは、「伊勢本街道」「中国街道」紀行時のスタート地点でもあったが、今回は「京街道」の 始点となるのだ。
江戸時代の里程計算の起点は、高麗橋の東詰にあった。ここが京街道・中国街道・紀州街道など諸国への道のり、車馬賃の起点となった。
明治9年道路の制度公布によりひきつづき里程計算の起点となり、高麗橋の東南詰に元標がたてられた。
現在は道路元標として 梅田新道交差点西北角に移されている。また高麗橋は、江戸時代から公儀橋のなかでも重視され、西詰には町奉行所の制札場があった。 なお高麗橋は大阪で最初の鉄橋(明治3年)である。(大阪市・歴史散歩道HPより)
冷たいビル風を感じながら、土佐堀通りを東に向かう。
新しいビルが建ち、戸惑うほどの変化を話しながら進むと「熊野かいどう」の石碑が立っている。
旧街道歩きの原点である 「熊野古道紀行」「伊勢本街道紀行」は右折して進んだのだ。
少し進むと右の細道の奥には、上町台地に上る石段が見られる。その先の永田家昆布店の前に「八軒家船着場跡」の碑が立っている。 2003年3月にここから「熊野古道」紀行が始まったのだ。
以前から置いてある「八軒家の今昔」のパンフレットを二人に配り、その歴史を話す。

熊野かいどうの石碑

上町台地への石段

八軒家船着場跡


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

谷町筋を越えて、大阪歯科大学の先から大学の裏に旧街道が続いている。
裏の細い道を進み、広い道を渡り、日経新聞の建物の対面には 「豊臣時代大坂城三の丸北端の石垣」が移築復元されている。ゴツゴツした石垣だ

大坂城の石垣移設跡 OBPのビル群

京橋川魚市場跡

京橋を渡る時には、大阪城とOBPのビル群が望まれ、土佐堀通りとの角には「京橋川魚市場跡」の碑が立っている。
秀吉が整備した「京街道」の起点はこの京橋だったと。
旧街道は、土佐堀通りを進むようだが、その1本京阪電車の高架沿いの道を選んで進む。 ここは多分、京阪電車が地上を走っていた軌道の跡 だろうと話しながら進むと片町の交叉点に当たる。ここの踏切は、開かずの踏切だったと懐かしみ、信号を渡り、小さな三角地の茂みの中に 「のだばし阯」の石碑が立っている。他の石碑もあり、見付けにくかった。
ビルが建て混んだ旧街道は、やがて京阪京橋駅への歩道橋を渡り、駅の中を横切るように進む。京阪京橋駅を抜けて、JR環状線沿いに進み、左の 晃進ビルの前に「左京みち」「右大和なら・のさき」と書かれた「追分道標」が立っている。文政九年(1826)建立のものだと。
国道1号線に当たり、横断するJR鉄橋のガードには「京街道」と記されている。何度も見たガードだが、ここを抜けるのは初めてだ。直ぐ左斜めの 商店街に入って行く。狭くて賑やかな商店街は、下町の風情があり、吊るし看板に「ビギン寄席」とあるので、近くに寄席があり、「京街道」の 始まりにあるから「ビギン」と云うのかなと話しながら進む。

のだばし阯の石碑

追分道標

京街道のガード 賑やかな商店街


賑やかな商店街もやがて住宅地となり、道なりに進むと道横に「京かいどう」の新しい道標が立っている。これからの行程では、この道標が 頼りになる指標となる。更に進むと左に「榎並地蔵」の祠が祀られ、横には「京街道」の地図が掲げられており、現在地点とこれからの行程を 確認する。
旧街道は、少し先から右の小道に入り、都島通りに出て、右の野江4丁目交差点を渡り、北に向かって少し先から右に入る。この辺りが「野江の 七曲り」と云われる旧街道だ。七曲りを道なりに進むと地下鉄が通る都島通りの広い道路に出る。間違えずに行け、一安心だ。
この都島通りの商店街は、歩道にテントを張った昭和の趣を残す店が立ち並び、珍しい瓢箪を売る店もある。立派な瓢箪もあり、店の人と話すと 昔は良く売れたが、今は・・・と。

京かいどう道標

榎並地蔵 京街道の地図

瓢箪を売る店


都島通りを少し進むと左斜めに入る道があり、ここから「関目の七曲り」が始まる。
道なりに進み、都島通りに近付いた所から、広い道の反対側に「関目神社」が見えるので参拝する。
「関目神社」には、「関目発祥之地」の石碑があり、この辺りは、平安時代以降は榎並荘と呼ばれており、その頃から「関目」と呼ばれて いた。この地に見張り所(目で見る関所)があったことから生まれた名だと。また「関目の七曲り」は、大阪城の守りのための枡形だと。 なるほどと思いながら一息入れる。(11:35-11:40)
旧街道に戻り、「関目の七曲り」の緩やかに曲りくねった道を進むと先程の都島通りに合流する。この道を横切って進むのだが、分離帯の柵が あり、少し先の信号を渡り、旧街道の対面に戻る所に「明治天皇聖躅」の石碑が立ち、少し先を左の細い道に入るのが「関目の七曲り」だ。 道なりに進むと国道1号線に当たり、左折して関目5丁目交叉点に向かう。

関目の七曲り入口

関目神社

関目の七曲り 明治天皇聖躅の碑


関目5丁目交叉点を渡った所から右斜めの道が旧街道で、左の喫茶店の前に「京街道」の道標が立っている。
道なりに進み、阪神高速の高架下には「古市橋」の案内板が立ち、道標として「左 京・右 大阪」と示している。道なりに進むと「京街道」 道標が立ち、「京かいどう」の案内石碑が立っている。この辺りの標識は充実している。
やがて、「森小路 京かい道商店街」に入って行く。「京街道」の名前が入っている商店街も賑やかだ。大阪の下町の雰囲気を味わいながら進む。

国道から右斜めへ

古市橋の案内板 京かいどう案内石碑

森小路 京かい道商店街


その先には、アーケードが立派で賑やかな「千林商店街」に入って行く。この長い商店街を右に入った所に、かっての「ダイエー」が創業した1号店が あった庶民的な商店街を抜けて行く。
少し先には「地蔵堂」が祀られているのを見て進む。やがて、国道1号線を横断して直進すると広い道に当たり、右折して今市交叉点で、 国道1号線を進む。この先の「京街道」は2つのルートがあるようだが、「守居神社」に向かう「土居商店街」に入って行く。この辺りは、商店街が 多く、何処も賑やかなのには驚く。
商店街の左に「守居神社」が鎮座する。O君が今年初詣に参拝したそうで、この辺りでは有名な神社だそうだ。案内板によると、 延喜18年(918)の大洪水の時、土居を築いて治水祈願をしたのが始まりで、その土居と守口の一字ずつをとって「守居神社」としたと。
そろそろ昼食時間なので、近くの庶民的な食堂で昼食とする。込み合っていて、時間がかかったが、美味しくいただく。(12:40-13:25)

千林商店街 地蔵堂

守居神社

昼食



「高麗橋〜寝屋川@」の「紀行スライドショー」

昼食を終え、「守居神社」の横の筋を東に向かう。もう1つのルートは国道1号線をもう少し進んだ所から右折するが、この道とは日吉公園の角で 合流することになる。
少し進むと右に曲がる坂道があり、「京街道」の看板が掛ったいる道を上ると道なりに左に曲がる緩やかな坂道となり「文禄堤」の始まりと なる。 坂の上から下に下る石段があり、そこから見下ろすと下の道路まで、結構な高さがあり、堤なのだと納得する。
左に「義天寺」が建ち、門前には大きな「題目石」が祀られている。かって野江の刑場にあった「題目石」が移されたそうだ。

文禄堤の始まり

文禄堤の石段

義天寺と題目石


緩やかな上り坂は「文禄堤」の上に進み、平坦な細い道には、うだつのある家が建ち、趣のある旧街道だ。

文禄堤上の旧街道 案内板

雰囲気を楽しみながら、大阪に住みながら、今まで知らなかった「文禄堤」を進む。
文禄3(1594)年、太閤豊臣秀吉は『淀川の治水』と『京阪間の街道整備』を目的に、毛利輝元・吉川広家・小早川隆景に命じて、大阪府枚方市 から大阪市長柄までの約27kmを2年がかりで築かせた。河内平野に淀川の水が氾濫する事を防いだ。また、堤防上には、京阪間を最短で結 ぶ京街道が整備されて大いに役立った。
明治後期に始まった、新淀川掘削工事において流路が大きく変更されたため、文禄堤は御役御免となった。このため、27kmもあった 文禄堤も、現在では京阪守口市駅前に1kmほど残存しているのみである。(守口市HPより)

堤の上の道は、カラー舗装されており、気持ち良く進むと下に幹線が通っている天井を進む感じだ。
旧家や飲み屋も点在する「文禄堤」は、「守口宿」の一角にもなっていたようで、店先に「東海道57次 400年 57次守口宿」の幟が掲げられて いる所もある。
「文禄堤」の案内板も立ち、しばらくの間、太閤秀吉の偉業を称えながら進むと右下に京阪守口駅が見える。堤の高さが良く分かる高低差だ。

文禄堤の趣ある道 高台の道

守口駅

東海道57次 守口宿の幟


道なりに「文禄堤」を進むと右に細い石段の路地があり、石段の左に小さな「なら・のざきみち」の道標が立っている。

難宗寺

石段を下り、下の道を 左折すると「地蔵堂」が祀られ、「難宗寺」の塀に当たり、左に廻って本堂に向かう。

難宗寺・大銀杏

難宗寺は、蓮如上人が、文明9年(1477年)に創立した守口御坊が始まりと伝えられ、慶長16年(1611年)に本願寺掛所となり西御坊と呼ばれる ようになりました。
その後、たびたび兵火や風水害などに見舞われ、現在の本堂は、文化7年(1810年)に、石清水八幡宮護国寺仮堂の古材を再用して再建された ものです。
境内の、樹齢約500年、高さ約25m、直径約1.5m、枝張約15mの大いちょうで、大阪府の天然記念物に指定されました。 (守口市HPより)

「難宗寺」の立派な門から本堂で拝観する。立派な本堂だ。境内には、樹齢500年の銀杏の木がそびえている。 秋には黄葉が美しいだろうと見上げる。
「難宗寺」から広い道に出る角には、「道標」がたくさん並んでいる。。「すく守口街道」や「すく京」「左京」「右大」と刻まれた 道標や「御行在所」「御仮泊所」の標石が立っている。ここは重要な十字路だったのだろう。

なら・のざき道石段

道標 地蔵堂

難宗寺横の道標群


本来の「文禄堤」の方向に広い道を進むと左の駐車場に「守口宿本陣跡」の標識が立っている。

守口宿本陣跡

白井家 大塩平八郎ゆかりの書院跡

「東海道57次」最後の宿場の本陣跡なのだ。 その向かい側に、石碑が立っているので広い道を渡って確認すると「白井家 大塩平八郎ゆかりの書院跡」の石碑で、白井家の隠居所で、 大塩平八郎が守口近郷の農民に陽明学を講義したそうだ。大塩平八郎の乱により、白井家一家に処罰が下されたと。
元の「道標群」の角に戻り、左折して進むと右に「盛泉寺」が建っている。改修中で、中まで入れなかったが、案内板によると東本願寺の末寺で 、難宗寺の「西御坊」に対し「東御坊」と呼ばれていると。また、「幻の大阪遷都ゆかりの寺」の石碑が立っている。こ大阪遷都の歴史的な ことは知らなかったので、帰宅して調べると面白い。
《幻の大阪遷都》
前年の慶応三年(1867年)10月の「大政奉還」、12月には「王政復古の大号令」を出し、翌年の1月2日に勃発した「鳥羽伏見の戦い」に勝利した 薩長・・・。
明治天皇という錦の御旗を手に入れて官軍となった薩長軍の大久保利通は「幕府にはむかう逆賊」のイメージを拭い去り、天皇中心の 新しい政治が始まる事を印象づけるために・・・と、慶応四年(明治元年・1868年)1月19日、「大坂遷都白書」を提出します。 しかし、予想通りこの案は、大昔の平安の頃の天皇中心を夢見る京都の公家たちの猛反対に遭います。

盛泉寺 説明板

あまりの反対ぶりに、大久保はしかたなく、当面の目標を、天皇の「大坂御幸」に変更し、1月29日に明治天皇の大坂行きが決定します。 つまり、「首都にはまだ決定していないけど、とりあえず天皇は大坂に滞在してください」って事です。
そして、3月21日、京都を出立した明治天皇は大坂に入り、翌22日の夜、お寺に一泊・・・それが、難宗寺です。 そこで一泊された明治天皇は、翌3月23日、東本願寺の末寺・盛泉寺に入り、ここに内侍所(ないしどころ・賢所)を置かれたました。 賢所とは、宮中にあるアマテラスオオミカミを祀る場所で、天皇が祭祀行う最も重要な場所・・・つまり、この時、わずかの間だけでは ありますが、この場所に天皇がいて賢所があったという事で、厳密に言えば、ここが日本の首都であったという事になります。
しかし、その後、前島密から、新たな「東京遷都論」が出され、1ヶ月後の4月には新しい官制が発表され、天皇は江戸へ行かれますが、 もちろん京都の公家たちは、これにも反対・・・結局、またまた、とりあえず・・・といった感じのまま、7月に江戸が東京と改められたの です。 (大阪歴史散歩HPより)

守口一里塚跡

この「大阪遷都」の歴史は全く知らなかったが、今「大阪都構想」が政治的話題になり、住民投票まで進むタイミングで知れたことは面白い。
「盛泉寺」の前の道を進むと右に丸い「瓶橋」の碑が立っている。
少し先の国道1号線を渡って細い道を進むと「守口一里塚跡」の 標識が立ち、小さな公園の奥には「一里塚石碑」が立っている。
今回の紀行で初めての一里塚なので、嬉しく思い、江戸からの 一里塚だろうと話しながら道なりに進み。
広い道を渡って右に曲がりながら行くと再び広い道に合流し、少しの間広い道を進む。 少し先に、左に入る細い道が旧街道なので、入って行く。 淀川の堤は近いと話しながら進むと阪神高速のガードをくぐり、住宅街を進むと今までとは形の違った「京街道道標」が立っている。 道標が充実しているのは嬉しい。
その少し先、右への曲がり角に「正迎寺」が建っている。
境内に入り、一休みしていると住職が帰って来られ、何処へ行かれるのかと聞かれ、京街道を歩いていると話し、この辺りの歴史も 話していただく。(14:30-14:35)

瓶橋の碑

左の道へ 京街道道標

正迎寺


守口浄水場

淀川の堤防

「正迎寺」から東に進むと公園があり、左に廻るように進むと、左に「守口浄水場」の建物が建ち、その先から、淀川の堤防に上る。
堤防の上は、暖かくて春の陽気を楽しみながら近畿自動車道・モノレールが走る鳥飼大橋を見ながら進む。
人影もなく、空には、ひばりがさえずり、初めてのツバメも飛び交っている。
淀川堤防は春の息吹がいっぱいだ。
鳥飼大橋の下を抜けて淀川左岸の堤防を上って行く。北摂の山々も望まれ、あれが天王山だと話しながら、涼風を気持ち良く浴びる。
しばらくの間、春の堤防の風情を楽しみながら歩む。堤防の下に、「佐太天神宮」の大きな鳥居がある所を下りて行くので、右下の国道1号線 を眺めながら進むと大きな鳥居が見えたので、堤防から石段をを下り、国道に向かう。
堤防を下り、国道の手前の水路横に「淀川筋佐太渡船場」の碑が立っている。
国道1号線を渡り、「佐太天神宮」の大鳥居をくぐって本殿に 参拝する。菅原道真公が太宰府へ左遷される時に滞在し、道真の死後の50年後に創建されたと。境内の桜の蕾が、少し赤く膨らんで来ている。 春は近い。ここで、一息入れる。(15:30-15:40)

淀川筋佐太渡船場の碑

佐太天神宮・大鳥居

佐太天神宮・本殿


「佐太天神宮」の庭園を通り、通りの右に建つ「来迎寺」に向かう。本堂の前には見事な松が茂り、本堂の裏に廻ると「石造十三重塔」が 立っている。鎌倉時代の石塔だと。
「来迎寺」の周辺に「佐太陣屋跡」があるので、探すと寺院の塀の奥に「佐太陣屋跡」の標識が立っている。美濃の国加納藩に移った 淀城城主永井氏が、美濃から大坂へ特産物を売りさばく加納藩の台所の役割を担わしたのだと。
「佐太天神宮」に戻る角を右折すると左に「菅相寺」が建ち、境内には、鎌倉時代作成の珍しい「石製露盤」が残っている。

来迎寺 石造十三重塔

佐太陣屋跡

菅相寺 石製露盤


再び、淀川堤防に戻り、堤防歩きとなる。景観が広がり、気持ち良い歩行の前方にツバメが飛び交うのを楽しむ。
鳥飼仁和寺大橋の下を抜け進むと、堤防には、所々に河口からの 距離を示す石柱が立っている。「河口から20km」の石碑に出会い、ここから淀川の河口まで、20kmもあるのだと認識する。
堤防の右下に「茨田樋之跡」の史跡があるので、探しながら進むと堤防の下に「水辺公園」があり、木碑が「茨田樋之跡」を示している。堤防を下り 小さな公園に行くと「茨田樋之跡」の石碑と横には、江戸時代の淀川から取り水の跡を模した「樋門」や水路が造られている。淀川は当時から 流域の水源だと再認識する。
ここで、一息入れ、これからの行程を検討する。京阪電車に近いのは、光善寺駅まで行かねばならないが、時間がかかりそうなので、 今日はここで終了することとする。(16:15-16:25)

水辺公園 河口から20km碑

茨田樋之跡の石碑

樋門と水路


「高麗橋〜寝屋川A」の「紀行スライドショー」

堤防に戻り、淀川新橋の手前から堤防を下り、京阪電車の香里園駅or寝屋川駅に向かうバス停を探しながら進む。少し道に迷ったが、バスに乗り、 寝屋川駅に行き、何時ものように居酒屋で乾杯する。
「旧山陽道」紀行以来の幼友達との歩きは楽しいものだった。「京街道」踏破まで、まだ数回歩くが、近場なので、ゆっくりと楽しみながら 進もうと。今日の歩行歩数は36800歩だった。






    
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