○ 「京街道No2」見聞録(寝屋川~八幡)・(距離 20.0km(今回)/ 37.2km(累計)



  1.寝屋川~八幡・(20.0km) 2015.04.09 9:40~17:15 晴れ時々曇り


「寝屋川~八幡・行程MAP」

地図の再生ボタン()を押すと
見聞ルートに沿って歩行出来ます。

「京街道」紀行の第二回目は、三人の予定合わせ、9時寝屋川駅集合で実施する。
O君・N君とも元気に集合し、新学期で摂南大学の学生が長蛇の列をなしているバスに乗り、前回の最終地点・大間口バス停に向かう。
9時40分、淀川新橋の下からスタートする。

淀川堤防からの眺め

散り始めの桜

淀川堤防に上ると薄曇りだが、風もなく、気持ちの良い光景が広がり、最高の紀行日和だと話しながら 歩き始める。
旧街道は、このまま堤防の上を進むのだが、今回は寄り道する場所が多いので、旧街道から離れても良いことにし、効率良く 進むことにする。
早速、O君が以前入手した「淀川河川公園利用マップ」をもらおうと堤防下の「淀川河川公園・大間サービスセンター」向かい、係の方から大きなマップを いただく。今回進む予定の八幡市から河口までの淀川流域の詳細な地図で、「京街道」の行程は網羅されているのは嬉しい。 お礼を云って、寄り道場所の「大間天満宮」に向かって進むと 古い家が立ち並び、小さな公園の桜の花が散りかけているが、見事に咲いている。まだ、道中でお花見ができそうだと。

大間天満宮

公園を廻った所に「大間天満宮」が鎮座する。境内に石の案内板があり、周辺の史実について記されている。
「衫子(ころもこ)絶間跡」 日本書紀 仁徳天皇11年(5世紀初)、茨田堤の築造は難工事で、二か所が何度工事をやり直してもつながらず、人柱を立て て完成させようと しました。
下の一か所は、武蔵の国強頸(こわ くび)が犠牲になり、上の所は茨田 連衫子(まんだむらじころもこ)が指名されましたが、機知をもって いけにえに なることを免れました。その現場はここから東へ400mとい うことです。

この二か所は、どうしても流れが強く堰が切れてしまう「絶間(たえま)」があったことから、「絶間橋」や「太間天満宮」と云う「絶間」に 因んだ名前が残っているのだと。
「太間天満宮」の前の道を下って行くと淀川の取り水用の水路があり、そこに「絶間橋」の古い銘板が残っている。水路は、上流まで 続き、遊歩道も設けられており、桜並木が美しい。
淀川堤防に戻る途中に「西正寺」が建ち、「絹本着色 方便法身尊像」が祀られているそうだが、拝観はできず、堤防に上る。
淀川の堤防の下の集落には、歴史のある言い伝えが残っているのだと、改めて知ることができた。

絶間橋

遊歩道の桜並木

西正寺


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

堤防の上の道を進むと右下に「茨田堤碑」が立っている。先程「太間天満宮」の石碑で観た堤とはここなのだと。
少し進んだ堤防の下に「大阪府立水生生物センター」があるので立ち寄ることにする。淀川流域の淡水魚を展示しており、天然記念物で絶滅危惧に 指定されている「イタセンパラ」が飼育されている。
館内の水槽の中に「イタセンパラ」が元気に泳いでおり、外来種の大きな「ブルーギル」も飼われている。 淀川のワンドに住む、水生生物を網羅しているようだ。一人歩きでは、立ち寄ることのない施設に、見学できたことは貴重な経験だ。

茨田堤碑

大阪府立水生生物センター

イタセンパラ ブルーギル


再び、気持ち良い堤防歩きとなり、少し先から堤防を下り、木屋西交叉点で国道1号線を渡り「本信寺」に向かう。
国道横の水路にも、桜並木があり美しい。境内がきれいに整理された法華宗の「本信寺」には鐘楼もあり立派だ。その時知らなかったが、 このHP作成時に、境内に石灯篭があり。2つの「ひさご」が刻まれていると。
これは、先程の「茨田堤」で人柱にされそうになった茨田連衫子が 「私の命が欲しいと云った神が、もし本当の神ならば、この瓢箪を沈めてみよ」と云って、瓢箪を二つ河へ投げ入れたが、 沈むこともなく流れていったので、衫子は死なないですんだと云う故事に因んだものだと。気付けば、探していたのにと思うが、後の祭りだ。
次に「鞆呂岐神社(ともろぎじんじゃ)」に向かおうとしていると地元の方が、真っ直ぐ行けば良いと。「菊の御紋」の神社だと教えていただく。 細い道を進むと「鞆呂岐神社」が鎮座し、本殿に参拝する。
吊るされている提灯に「菊の御紋」が記されている。 境内の奥にも鳥居があり、説明によれば、「寄進の鳥居」と呼ばれ、「忠臣蔵」で有名な赤穂浪士の一人、村松喜兵衛秀直の4代目の子孫が 寄進したと。
再び、堤防に戻り、東に向かっていると堤防の下に「赤井堤記念碑」が立っている。明治18年の淀川大洪水の翌年に建てられたと。この辺りは 淀川の氾濫が多かったことが分かる。

本信寺

鞆呂岐神社 寄進の鳥居

赤井堤記念碑


淀川の河川敷の広場では、野球を楽しむ人やランニングに励む人も多く、ひばりのさえずりも聞こえる。春だ。
少し進むと右下に堤防を下りて行く道があり、堤防と家の間の細い道を進む。旧街道は、緩やかに右に曲がり、「地蔵堂」が祀られ、出口の 集落に入って行く。
旧街道らしい、緩やかに左右に蛇行する道を進む。よくこんな旧街道が残っているなぁと話しながら、雰囲気を楽しんでいると、右に 「蹉跎(さだ)神社御旅所」が鎮座する。菅原道真が左遷されたとき後を追ってきた娘の苅屋姫が悲しみ、足摺(蹉跎)したことに由来する そうだ。境内に社殿はないが、常夜灯や遥拝所石が設けられている。

地蔵堂

雰囲気を残す旧街道

蹉跎神社御旅所


旧街道の雰囲気残る細い道を進むと右の広場の奥に「蓮如上人腰掛石」が祀られている。思ったより小さな石だ。
広場の桜の落花を観ながら、ここで一息入れる。(11:05-11:15)

光善寺山門 蓮如上人坐像

道なりに進むと突き当たりの枡形の左に「光善寺」が建っている。 立派な山門から右に廻って境内に入る
光善寺は、本願寺中興の祖と呼ばれる蓮如上人(1415-1499)が創建された。 1475年、布教先の越前吉崎から枚方に布教に訪れた61才の蓮如上人が、淀川河畔に立てた草庵が後に光善寺として建立されたそうだ。

蓮如上人腰掛石

光善寺から200mほど南に行くと左側に「親鸞聖人 蓮如上人 御田地」の大きな石碑が目を引く。石碑の奧の玉垣の中には蓮如上人が 腰をかけて説法したという小さな丸い「腰掛石」がある。(枚方クチコミガイドHPより)

境内に入ると本堂の前には「蓮如上人坐像」が祀られ、「光善寺」が当地での主要な坊であったことが分かる。境内の史跡を観ながら、 蓮如上人の生い立ち等を話し合う。
山門に戻り、枡形を左に進みむと旧街道の風情がある旧家の街並みが続き、旧街道の風情を楽しむ。
道なりに進むと国道170号線の枚方大橋南詰の交叉点に至る。交叉点の東側の細い道が旧街道だと確信し、入って行くと道角に「京街道・ 枚方宿」の道標が立ち、少し広くなった道にはカラー舗装されている。

旧街道の街並み

枚方大橋南詰の交叉点の細い道

京街道・枚方宿道標 カラー舗装の道


「寝屋川~八幡①」の「紀行スライドショー」

枚方宿西見附跡 三十石船の絵

旧街道の街並み

「枚方宿」に入ったのだとカラー舗装道路に導かれて進むと道角には「道標」立ち、枡形の角に「枚方宿西見附跡」の案内板が立っている。
案内板には、「三十石船とくらわんか船」の絵も描かれ、当時の「枚方宿」の繁栄ぶりが分かる。 古い家並みが残る旧街道を進むと「鍵屋」が建ち、そこは「市立枚方宿鍵屋資料館」となっているので、そこで売っている 「東海道57次イラストマップ」(300円)を購入し、見学する。
丁度、春の行楽シーズンに運行する「枚方宿」と前回通った大阪・天満橋の「八軒家」を行き交う「三十石船」に乗船する人で混み合っている。

鍵屋

江戸時代の枚方は、東海道の延長部“京街道”の宿場町でした。また、伏見と大坂を結ぶ淀川舟運の中継港でもありました。
旧枚方宿の町並みに建つ「市立枚方宿鍵屋資料館」は、水陸交通の要衝地として栄えた「枚方宿」の歴史を紹介する唯一の展示施設と なっています。
京街道に面していた料理旅館の「鍵屋」は、江戸時代には宿屋を営み、また、幕末頃になると淀川 三十石船の「船待ち宿」としても繁盛 しました。 敷地内には、19世紀初頭の町家建築の構造を残した「主屋」と「別棟」があり、「別棟」には、枚方宿関係の史資料や発掘遺物、 民俗資料、模型を展示し、彫刻欄間や格天井、大広間など、料亭だった頃のしつらえを楽しむことができます。(鍵屋資料館HPより抜粋)

係の方の案内で、「枚方宿」の歴史や発掘した時に発見された陶磁器、当時の道具や生活様式の模型等々見学する。有名な「くらわんか船」の 模型もあり、2階の大広間に行くと、船待ちで食事をする方が多い。窓から外を見ると、すぐ淀川が流れている。よく通る堤防の道路下に 「鍵屋」があるのだ。
見学途中で現役時代、システムのサポートをしてもらった方とお会いするハプニングもあり、印象深い「鍵屋」の見学だった。

くらわんか船

大広間

淀川を望む


「鍵屋」の見学を終え、道なりに東に進むと左に重厚な建物が建っている。前に案内板が立ち、「枚方宿・問屋役人木南家」で、 江戸時代初期から庄屋と問屋役人を兼ね、くらわんか船の茶船鑑札を所持していたと。
枡形の角には「道標」が立ち、枚方市の「枚方宿」に対する熱意が感じられるのは嬉しい。「浄念寺」の前も枡形になっており、曲がった所には 「浄土真宗と枚方寺内町」の案内板が立っている。枚方は浄土真宗と関係が深く、山側には寺院がたくさん建っているようだが、そのまま 旧街道を進む。

枚方宿・問屋役人木南家

浄念寺 道標

浄土真宗と枚方寺内町の案内板


「枚方宿」では、毎月第2日曜日に「枚方宿くらわんか五六市」と云うイベントが催され、旧街道沿いに手造りの店屋が立ち並ぶそうだ。 イベントにも参加している露天に近い八百屋があり、野菜等安く売っているので、ピーナツを買い求める。
道なりに進むと左に小さな公園があり、入口には「明治天皇御昼餐所」の碑が立ち、「本陣跡」があるはずだと探すと、公園の中に「枚方宿 本陣跡」の案内板が立っている。案内板には、代々池尻善兵衛が経営し、間口20間・奥行24間の敷地に215坪の立派な建物が建っており、 参勤交代の宿泊所として、徳川吉宗も宿泊したと。また、明治天皇の大坂行幸時、休憩所に当てられたと。
その先左に「妙見宮常夜灯石灯籠」が立っている。天下泰平と枚方宿の安全を能勢妙見宮に祈願したそうだ。
旧街道は、枚方駅に近付き、賑やかになってくる。駅前のショッピングモール前の公園に「東海道枚方宿案内図」の案内板が立ち、今まで歩いて来た 旧街道や史跡が表示されている。
昼食時間になっていたので、O君が知っている野菜バイキングのレストランに向かって昼食とする。バイキングでしっかりと食べ、午後からの 歩行に備える。(13:05-13:40)

枚方宿本陣跡 明治天皇御昼餐所

妙見宮常夜灯石灯籠

東海道枚方宿案内図の案内板


昼食を終え、元の場所から歩き始める。駅前の賑やかな道を少し入ると「宗左の辻」の道標があり、左折する。
このHPを作成している時、 この道標は、新しく造られたもので、本来の古い「道標」があったそうだが、気付かず進んでしまったのだ。
枡形を曲がって進むと古い旧家が建ち、その先に「枚方橋跡」の親柱が一対残っている。昔は土橋が架かっていたそうだ。枚方駅前からの広い 道路を横切って旧街道は続いている。少し先右には「浄行寺」が建ち、狭い境内には、大きな銀杏の木が植わっているが、上部が切られている。

宗左の辻の道標

枚方橋跡

浄行寺 枚方駅への道


旧街道の趣を残す道の右に旧家が建っている。「旧枚方宿問屋役人小野平衛門家」の立派な家で、幕末の建築で、醤油業を兼ねていたと。 所々に旧家が残っているのは嬉しい。
旧街道は、天野川に突き当たり、堤防の下に「枚方宿東見附跡」の石碑と案内板が立っている。ここが「枚方宿」の東の入口なのだ。 旧街道は、真っ直ぐに天野川を渡っているが、堤防沿いに左折して府道13号線の「鵲(かささぎ)橋」を渡って右折する。

旧枚方宿問屋役人小野平衛門家

枚方宿東見附跡

鵲橋で天野川を渡る


天野川の堤防から、先程の旧街道の延長線上に当たる道に左折して進む。古い家はなくっているが、静かな旧街道を進むと左に「地蔵堂」が 祀られ、旧街道の雰囲気を残している。
やがて、府道13号線に合流して、しばらくは、旧国道1号線の国道歩きとなる。 国道1号線のバイパスができたので、交通量は少なくなっている。
「渚の院跡」に寄り道するために、旧街道から離れて、京阪御殿山駅の所から、 踏切を渡り、「渚院跡」の道標に従って進む。細い道を通り、通りかかった方に尋ねたりして、渚保育園横の公園の片隅に「渚院跡」の 石碑を見付ける。
金網の奥にある説明板によると 「渚院」は、文徳天皇の第一皇子・惟喬親王(これたかしんのう)の別荘で、平安歌人・在原業平の詠んだ歌には、皇位継承争いに敗れた 惟喬親王の心情を込めたとも解釈されいると。
この「渚の院」跡に建立された寺院の本尊が、近くの「西雲寺」に祀られているとのことで、公園で遊んでいる子供に尋ねると、近くまで 案内してくれ、「西雲寺」に参拝するが、拝観はできなかった。

静かな旧街道 地蔵堂

渚の院跡碑

西雲寺


「西雲寺」の方に、府道までの道順を聞き、少し迷いながら、京阪の踏切を渡って府道に到達する。
府道を進むと直ぐに府道から左の細い道の旧街道に入って行く。落ち着いた旧街道は、緩やかに右に曲がって行き、三栗(めぐり)交叉点で府道を 横切り、進むと雰囲気のある旧街道が続いている。
京阪電車の踏切を渡り、道なりに緩やかに左に進むと一対の「常夜灯」が立っている。左は「都京」、右は「阪大」と記されている。 「坂」でなく「阪」と書かれているのは、この時代では珍しいとか。

府道から左の旧街道へ

旧街道の街並み

一対の常夜灯


右に阪今池公園の緑豊かな丘を見ながら進むと穂谷川の堤防に当たり、川沿いに進む。前に牧野駅のビル群を眺めながら明治橋を渡って対岸を 進む。牧野駅で、踏切を渡り、京阪電車に並行した旧街道を進む。
やがて、線路から左方向に進むと船橋川の堤防に当たり、「八幡宮の石碑」や「道標」が立ち、「地蔵堂」が祀られている。「石清水八幡宮」が 近付いたことが分かる。堤防沿いに左に曲がり、府道の樟葉橋を渡る。淀川堤防の上からは、広い河川敷や対岸の天王山が望まれる。

穂谷川の堤防

八幡宮の石碑・道標・地蔵堂

淀川堤防からの眺め


船橋川を旧街道の延長線上まで戻り、左折して、残っている旧街道を進むと再び、府道13号線に合流し、しばらくの間は、国道歩きとなる。 左の河川敷は、くずはゴルフ場で、ゴルフをしている人を見ながら進み、樟葉駅の高架下を抜け、ショッピングモールで一息入れる。(15:50-16:00)

「寝屋川~八幡②」の「紀行スライドショー」

今回の目標の八幡駅までは行けそうなので、少し疲れた腰を上げ、樟葉駅から賑やかな道を東に進む。京阪電車に当たった所を右折し、道なりに 左折すると右に「旧京街道・道標」が立っている。
旧街道は、静かな高級住宅街を進むと「地蔵堂」が祀られている。しばらく進むと、京阪電車と並行に進むことになり、ガードがあり、淀川に 出る道が通じている。このガードを抜けて、淀川河川敷を進む旧街道のルートもあるらしいが、直進する旧街道を選ぶ。

旧京街道・道標

静かな高級住宅街 地蔵堂

ガードを抜けるルート


線路と並行の道は、行き止まりとなり、右に曲がると左に「久親恩寺(くしおんじ)」が建っている。その先を左折すると目の前に広々とした 住宅開拓地が広がっている。通行止めの道もあり、柵沿いに進むしかない。
この辺りに「戊辰役橋本砲臺場」があるはずだが、開拓で見当たらず探索を諦める。柵沿いに、何が出来るのだろうかと話しながら進むと、 前方に長い土塀が見え周辺を廻って行くと「久修園院(くしゅうおんいん)」の正面に出て来る。
案内板によると「久修園院」は、神亀2年(725)行基創建と云われる真言律宗の別格本山で、広大な寺院だった。大阪冬の陣、夏の陣で焼失したが、 江戸時代にこの寺の中興の祖、宗覚律師によって、再建されたと。

久親恩寺

住宅開拓地

久修園院


住宅造成地を廻るように進み、京阪電車の高架下を抜けると京都府に入る。

橋本の情緒ある街並み

遊郭跡

道なりに進むと橋本の情緒ある街並みが続く。昔の遊郭跡を思わせる装飾を施した建屋やステンドグラスの窓等、昔の雰囲気が残っているのだ。
中学の校区に松島新地があった3人で、当時の同級生の話などしながら、趣きのある旧街道を抜けて行く。
街並みを抜けて右折する角に「柳谷わたし」「山ざき あた古わたし場」「大坂下り舟のり場」と記された道標が立っている。 ここから、淀川の対岸にある「柳谷観音・山崎・愛宕山」への渡し場でがあったのだ。地元の親しい名前が出て来るので面白い。 直ぐに左折する角にも「左 八まん宮 いせ京伏見 道」等と記された道標が立っている。いよいよ。「石清水八幡宮」は近い。左折して 進むと右に神社が鎮座しているが、名前は見落としていた。
その先の道角にも「右 八まん宮の道標」が立っている。「石清水八幡宮」は右折するようだが、旧街道は直進する。

柳谷わたし・道標

八まん宮いせ京都・道標 神社

八まん宮・道標


道なりに進むと小さな川を渡り、淀川堤防に上る道がある。旧街道はその手前の道を進むが、「背割の桜」を見ようと、堤防に上る。

背割の桜

背割の桜の満開時(2010年)

「背割の桜」は、木津川と宇治川に挟まれた1.4kmの堤防に、約250本のソメイヨシノが植わっている桜の名所だ。電柱もなく、時代劇の撮影場所と しても有名な堤防で、関西では有名なお花見処なのだ。
堤防の上から、木津川の対岸の「背割の桜」を眺めるが、散り始めが多いのか、薄桃色が少なく最盛期は過ぎていることが分かり、紀行の最後に お花見に訪れようかと思っていたが、断念することにする。対比のため、以前訪れた時の写真を添付する。
旧街道に戻り、堤防下の道を進むと大きな「八幡宮の常夜灯」が立っている。その先には、「樹齢1000年の大楠」が植わっている。江戸時代から 旅人の憩いの場所を提供していたのだろうと想いながら堤防を上って行く。
広い道に当たり、左に行けば木津川に架かる御幸橋があり、それを渡ると「背割の桜」が楽しめるが、今日の歩行はここまでとする。(17:15)
右折して、京阪八幡市駅に向かう。駅前には、男山の竹でフィラメントを造った「エジソンの胸像」が立っている。
駅前の居酒屋で乾杯する予定でいたが、午後から休みとのことで、駅前のスーパーでN君が筍を、小生は「奄美にんにく」を買い求める。スーパーの 隣に「走り井餅」の店があったので、名物の餅を土産に買い、京阪電車で枚方に出る。

八幡宮の常夜灯 大楠

エジソンの胸像

京阪八幡市駅

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「寝屋川~八幡③」の「紀行スライドショー」

電車の中から紀行した道を見ながら枚方に戻り、居酒屋で乾杯する。
旧街道もたくさん残っており、「枚方宿」も良かったと感想を話しながら楽しく呑む。「京街道」のゴールを何処にするか、何回で進むかも 柔軟に対応することにして、20km歩いたことに満足する。 今日の歩行歩数は40400歩だった。






    
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