○ 「京街道No3」見聞録(八幡~墨染)・(距離 12.3km(今回)/ 49.5km(累計)



  1.八幡~墨染・(12.3km) 2015.06.11 9:15~14:50 曇り後小雨


「八幡~墨染・行程MAP」

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見聞ルートに沿って歩行出来ます。

4月に第二回目の「京街道」紀行を実施して以来、三人の予定が合わず、6月3日に予定したが、雨天で延ばし、今日になった。 天気予報では、午後には雨との予報だが、行ける所まで進もうと実施することにした。

御幸橋

木津川と背割り堤

八幡市駅から、前回の「京街道」最終地点に向かう。 曇り空で、今にも雨が降るのではないかと思われる薄暗さだが、対岸の天王山がはっきりと見えるので、大丈夫だろうと話しながら、木津川に 架かる「御幸橋」渡って進む。
木津川を渡ると前回立ち寄ろうとも考えた「背割り堤」の桜並木が長く続いている。緑の並木は美しく、その先には、天王山が望まれる。
木津川を渡り、同じ「御幸橋」で、今度は宇治川を渡る。この先に、桂川があり、三川が合流して淀川になるのだ。合流地点の天王山の麓近くに サントリー山崎蒸留所があり、ウイスキーを醸造している自然豊かな場所になっている。
宇治川を渡り、広い道路を横切り、宇治川堤防を左・上流に進む。目の前には京滋バイパスの高架道路が通っており、堤防から下って、高架下を 抜けると水田には田植えが終わり、早苗が植わっている。初夏・梅雨の雰囲気だ。

宇治川

堤防から高架下へ

田植えの終わった水田


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

旧街道は、少し広い道を直進する。松ケ崎記念病院先の二股は、右に進むと「円通寺」が建ち、落ち着いた旧街道の雰囲気の道になる。まだ、 旧街道の風情が残っていると話しながら進むと枡形になり、右折する。
旧街道は、少し先の枡形を左折するが、宇治川の堤の下に、旧木津川に面し、間口を川側に向けた「浜納屋」が建っているので、見学に行く。 古い建屋の中は見られないが、川向きも変わっており、昔の地形も興味ある所だ。

円通寺

落ち着いた旧街道

浜納屋


木田醤油店 醤油醸造樽

木田醤油

「浜納屋」の向かいに、古いが立派な「醸醤油店」が建っている。興味深いので覗いていると、ご主人が出て来られ、安政2年(1855)創業の 「木田醤油」は160年の歴史を持つと話され、工場見学をさせてもらう。
醤油工場の見学は初めてだが、清酒醸造と同じようだ。工場内を案内していただき、醤油を絞る工程で、清酒との大きな違いを学ぶ。 清酒の絞り粕は。酒粕として活用されるが、醤油の絞り粕は、利用できず廃棄しなければならないと。
帰りに、「溜り醤油」を買い求め、有意義な工場見学を終える。伏見の酒蔵の下流に、醤油醸造所があるのは面白い。
元の枡形に戻り、左折して進む。少し先左には、立派な「西岸寺」が建ち、昔の雰囲気が残る旧街道を歩んで行く。「淀緑地」と云われる 緑地帯を過ぎ、右に「天満宮」の鳥居を確認して進む。
O君が面白い看板を見付け、立ち止まって見上げる。「馬匹輸送」と記されている。何だろうと正面をみると「競走馬輸送」とあるので、 淀競馬場に近付いているので、競馬馬を輸送する運送会社だ。さすが、淀だと納得して進む。

西岸寺

雰囲気が残る旧街道

天満宮 馬匹輸送


少し進むと右に駐車場があり、その奥に「文相寺」が建つ角を左に曲がるのが旧道だ。枡形のような道を左に曲がって進み、次の角を 右折し、更に、2つ目の筋を右に曲がって元の旧街道の延長線に戻る。
その道の間に、古い木造長屋が建っている。この一角は、昔の趣が残る街並みとなっている。
元の旧街道に戻ると正面に「伊勢向神社」の鳥居が見える。四角く回ったことになる。

文相寺

古い木造長屋

伊勢向神社


旧街道は、直進して左折するようだが、京阪淀駅は淀競馬場との関連で、2012年に高架駅となり、従来の場所から京都寄りに移動したので、道が 複雑になっている。「淀城跡」に向かうため、少し先を左折して、京阪電車の高架下に向かう。 高架下には、大きな道標が立っている。「東南 淀川渡場」と記されているが、違った場所に会った道標を移設したのであろう。
正面には「與杼(よど)神社」が鎮座する。「與杼」と云う文字・読み方も初めてだったが、荘厳な雰囲気のある神社の境内には、近くの 小学生が、座り込んで写生をしている姿は可愛い。本殿で、紀行の無事を願って参拝する。

淀川渡場の道標

與杼(よど)神社・鳥居

與杼神社・本殿


左には「淀城址」の公園になっているので、廻って見学する。
城址公園の中には、淀駅周辺の拡幅工事で、移設された史跡が集めら、立派な城壁の跡も残り、静かな空間を残している。この辺りに訪れた のは初めてなので、少し驚いた。

唐人雁木跡等の石碑

淀城は,宇治・桂川合流点と木津川に挟まれた川中の島にあり,廃城となった伏見城に代り,京都警衛の拠点となった。
元和9(1623)年 松平定綱(1592~1651)が最初の城主となり,享保8(1723)年稲葉正知(1685~1729)が,下総佐倉より移封され明治維新に及ぶ。 戊辰戦争時,幕府軍の宿泊所となり,慶応4(1868)年正月2日,この城から京都に向けて進軍した。5日には敗走の幕府軍の入城を拒んだ。
なお,淀君が住んだ淀古城は別の場所であり,文禄4(1595)年廃城となった。(京都市HPより)

公園内を巡ると大きな灯篭が立っている。案内板によると豪商・「大阪淀屋の高灯篭」だそうだ。淀屋所縁の人が、「高灯篭」をこの地に 寄進したのであろう。その先、地面から小さな石が突き出ている・「神心石」と彫られているが、その理由は分からない。
静かな園内の先に、立派な社が鎮座している。案内板によるとる「稲葉神社」で稲葉正成を祀っているそうで、その妻・春日局は、徳川家光の 乳母だったのだ。稲葉正成のことは知らなかったが、春日局の名前は知っている。
その先には「淀城の石垣」が残り、その前には「唐人雁木跡」「淀小橋址」「淀城之故址」等の石碑が立っている。周辺の史跡を、拡幅工事の際、 ここに集めたのだろう。横に立つ案内板には、当時の「淀城絵図」が描かれている。淀川に囲まれた水城のような要塞であることが分かる。
「淀城」の奥は、通行止めになっていたので、公園の外に出て、コンビニで飲み物を仕入れて一息入れる。(10:35-10:40)

大阪淀屋の高灯篭 神心石

稲葉神社

淀城の石垣 淀城絵図


「八幡~墨染①」の「紀行スライドショー」

「淀宿」と云われるが、宿場を表すような史跡は見当たらず、 淀駅前に進む。旧駅が移設され、高架になった新駅は、淀競馬開催時の混雑を避け、美しく改装されている。駅前の広場に、石碑が立っているが 新しいのに、文字が読めない。何たることか。
駅前の道を納所(のうそ)交叉点まで進む。この辺りに、先程見た「唐人雁木跡」「淀小橋址」の石碑があったようだ。「唐人雁木」とは、 江戸時代、朝鮮通信使が淀川の通行に利用した「雁木」と云われる船着場の階段を指していると。朝鮮から渡航し、淀川を上り、ここで上陸した後、 京都に向かったと。
納所交叉点を左の狭い道に進むのが旧街道で、落ち着いた道を、右に淀競馬場を見ながら進む。競馬開催中でないので、静かだが、開催の時は 大混雑するのだろうと話しながらすすむと左に「戊辰役東軍西軍激戦之址」と木碑が立っている。伏見に近付いて来たので、幕末の史跡が 多くなるのだろうと思いながら進む。

駅前の碑

納所交叉点

戊辰役東軍西軍激戦之址


京阪電車沿いの旧街道は、踏切を渡り、宇治川の堤防上の道へと進む。目の前に、宇治川とその先の河原が広がる広大な眺めとなる。この辺りが 昔の巨椋池(おぐらいけ)の干拓地だ。学生時代、大阪高校漕艇部の周航歌に「巨椋が池の秋の月、渚に立ちて思ふ時、旅に悩める若人の、 瞳(まな)に愁いの涙あり」と歌ったことを想い出す。
宇治川堤防の道を進むと、小さな碑が立っており、「河口から42.0km」と記されている。淀川を下り、大阪湾まで42kmあるのだと。曇っていて 少し風もある堤防の道は歩き易い。「旧山陽道」紀行時、真夏の堤防歩きが辛かったことを話しながら、伏見に向かう。
京阪国道にぶつかり、道路の下に道がなさそうなので、交通量の多い国道を中央分離帯で停まり、2回に分けて横断し、次の阪神高速道路は 橋の下をくぐって進むと遥か先に「三栖閘門」が見えてくる。
高瀬川を渡るため、少し川沿いに上り、人専用の細い橋で高瀬川を渡る。 京都・四条の高瀬川はここで、宇治川に合流していたのを知る。
再び、宇治川堤防を進むと「三栖閘門」の大きな閘門の建物に到達する。

宇治川と巨椋池の干拓地

宇治川堤防の道 細い橋

三栖閘門


「三栖閘門」は、濠川を二つの閘門で堰き止め、濠川と宇治川の水位の違いを調節し、船舶の運行を円滑にできるのだ。川沿いに資料館があり、 伏見の水路や「三栖閘門」について展示されているのを見学する。(11:55-12:05)
外に出て「三栖閘門」の上流・下流の閘門を観る。この間に、船を入れて、宇治川と濠川の水位を調整するのだ。大阪・都島の淀川と大川を 結ぶ「毛馬閘門」も同じような仕組みになっており、初めて通った時には、感動したのを想い出す。
濠川の上流に向かう川縁には、紫陽花が咲き誇り、初夏・梅雨の趣を感じさせてくれる。その先には「十石船」の模型が置かれていて、座席に 座って、伏見・濠川の景観を味わう。

下流の閘門

上流の閘門

十石船の模型 紫陽花


濠川の河原の遊歩道を上流に進み、京阪電車の鉄橋の下を抜け、堤に上って、次の肥後橋を右折して渡る。
「伏見宿」の街に入り、落ち着いた街並みを楽しみながら進む。古い家も所々に残っており、宿場に入って来た感じを味わいながら、京阪・中書島駅手前から左折して進む。途中に 「伏見長州藩邸跡」の碑も立ち、宿場町と同時に、幕末の歴史を感じる史跡が残る。
その先に、京橋が架かり、川沿いには、新緑の柳並木が美しい。伏見の景観の中心が、この川沿いに広がっているのだ。橋の横に 「伏見口の戦い激戦地跡」の碑が、幕末の史実を示している。河原に下りたりと景観を楽しむ。そろそろ昼食処を探さねばと。

肥後橋 伏見宿の街並み

京橋 伏見長州藩邸跡

新緑の柳並木 伏見口の戦い激戦地跡


京橋を渡った次の筋を左に曲がると「伏見宿・本陣跡」があるらしいが、昼食後に訪れることにし、右折して「寺田屋」に向かうことにする。

寺田屋

右折すると人通りが多くなり、緩やかに左に進んで行くと「寺田屋」が建ち、観光客がたくさん見学している。
竜馬人気もあり、平日とは云え、見学者が多いのには驚く。
明治維新の立役者、坂本竜馬が身を寄せた船宿。文久2年(1862)4月23日討幕急進派がこの寺田屋に結集し決起を企てた「寺田屋騒動」は有名。 鳥羽伏見の戦いで罹災しており、現在の建物はその後再建されたものである。 (京都市HPより)

坂本竜馬像

以前に入場していたので、館内の見学はせず、玄関前の庭園に入ると、正面に「坂本竜馬像」が立っている。「寺田屋事件」で有名な場所で、 伏見は幕末の政変の主要な場所であることが分かる。 観光バスで来ている観光客も多く、大賑わいなのには驚く。 「寺田屋」を確認し、昼食処に向かう途中、「黄桜酒蔵」の売店に入り、利き酒を楽しむ。三種類あるうち吟醸酒を味わう。美味しい!!
酒蔵の塀を観ながら、「鳥せい」の向かいにある蔵を改装した月桂冠直営の「月の蔵人」に入り、昼食とする。まずは、自家製手造り豆腐を肴に、ビールで 乾杯し、蔵人御膳を美味しくいただく。上品で、京都らしい風情のある料理だ。(13:00-13:40)

酒蔵の塀

自家製手造り豆腐とビール

蔵人御膳


「八幡~墨染②」の「紀行スライドショー」

美味しい昼食に満足し、外に出ると空が暗くなり、今にも降りそうな天候になっている。伏見まで雨が降らねば良いと思っていたので、予定 通りの天候だ。まだ、進められるので、寺田屋の前を戻り、「伏見宿・本陣跡」を探しに行く。
京橋から一つ目の道を左に進むが、それらしき標識も立っていない。近くの人に尋ねるが知らないと。諦めて、元の旧街道に戻り、直進する。
次の交叉点の角に「我が国に於ける電気鉄道事業発祥地」の碑が立ち、 その横の案内板によると、明治28年(1895)に伏見と京都駅間にチンチン電車が開通したと。全く知らなかったことで、驚いた次第だ。
交叉点を右折し、魚屋通りを進む。商店街に入る手前の筋を左折して北に向かっていると、雨がポツポツと降って来た。まだ、傘を差すほどでは ないので、そのまま進む。商店が点在する街並みを進み、しばらく歩くと右に伏見区役所があり、その先に「金札宮」が鎮座する。 「金札宮」は、天平勝宝(750年)の創建で、伏見で一番古い神社だと。境内には、樹齢千年以上と云われるクロガネモチの巨木が植わっている。
その先左に「大黒寺」が建ち、右には「松林院」が建つ、寺町が続く。

我が国に於ける電気鉄道事業発祥地の碑

金札宮 金札宮・本殿

大黒寺


旧街道は、京都市伏見板橋児童館に突き当たり、右折するが、児童館の庭の中に。「南 右 京大津」と記されている道標が立っている。 しかし、もう一面は 読み取れない。「ふ?のり」とあるが、その地名が思い当たらない。
右折して進むと立派な旧家が建ち、宿場町の雰囲気を残している。枡形のように、直ぐ左折して、少し先、二つ目の角を右折すると 左に「本成寺」が建っている。枡形を縫って行くような旧街道だ。「本成寺」に祀られている地蔵菩薩は、古来「痰切り地蔵」として信仰を 集めているようだ。

道標

立派な旧家

本成寺


枡形はさらに続き、二つ目の角を左に曲がり、両替町に入って行く。この辺りに昔の銀座があったのだろう。
雨が激しく降り出したので、軒先を借りて傘を取り出し、雨支度をする。更に北に向かうと近鉄のガードがあり、これを抜け、国道24号線の 一つ手前の筋を右に入ると道なりに国道に合流する。
国道の手前に「地蔵堂」が祀られ、広い国道を渡って真っ直ぐに進むと右奥に「欣浄寺」が建っているので立ち寄る。本堂の中には、「伏見大仏」 で知られる丈六の大仏が祀られているが、覗いても暗くて分からなかった。この寺は、深草少将の邸宅跡とも云われ、小野小町のもとに九十九夜 通ったが、百夜の日に亡くなり、この地に埋葬されたと。
次の角を右折すると右に「墨染寺」が建ち、少し先の川を渡ると京阪・墨染駅に到達する。雨が激しくなって来たので、今回の紀行はここで終了 することにする。(14:50)

地蔵堂

欣浄寺

京阪・墨染駅


「京街道」紀行は、ここで終わり、次回はこの墨染駅からスタートすることにするが、O君が「藤森神社」の紫陽花が見頃だとの情報で、 次回のルートになるが、「藤森神社」に向かうことにする。

藤森神社・本殿

駅から次の筋を左折し、次の信号を右折すると左に「藤森神社」が鎮座する。
昔から深草の産土神として信仰を集める藤森神社。本殿の後ろに並ぶ大将軍社と八幡宮社は足利義教の造営と伝えられ、どちらも流造り、 檜皮葺きの社殿で重要文化財に指定されている。
また本殿の東には、藤森神社を創祀したと言われる神功皇后が朝鮮出兵の凱旋をして 旗を埋めたとされる塚がある。
5月5日の藤森祭には端午の節句の発祥の地にちなんで、武者行列や駈馬神事がある。また、境内には約3,500株を集めたあじさい苑があり毎年、 6月上旬~7月上旬ごろには、あじさい苑が開苑される。 (京都市HPより)

立派な鳥居をくぐり境内に進む。本殿までの間は、砂地になっており、流鏑馬や駈馬神事の馬場となっており、本殿の前には、「神馬の像」が 飾られ、 勝運、馬関連にご利益があることを示している。
本殿に参拝し、その横奥には、神功皇后が朝鮮出兵の凱旋をして旗を埋めたとされる「旗塚」が祀られている。
この「藤森神社」は熊野古道・吉野道」紀行時に立ち寄り 参拝したことを想い出す。もう10年も前のことだ。
本殿の裏にある「紫陽花苑」を鑑賞に行く。まだ咲き始めの感があるが、株は多いのは魅力的だ。次に、馬場横の「紫陽花苑」に向かうと 受付があり、300円の入場料を支払う。ここの紫陽花も咲き始めだが、珍しい品種もあり、東屋で一息入れ、雨に濡れる紫陽花の風情を楽しむ。

藤森神社・鳥居

旗塚 神馬の像

紫陽花苑


「八幡~墨染③」の「紀行スライドショー」

大きな赤ワインのボトル

「藤森神社」参拝と紫陽花鑑賞を終え、元来た道を京阪・墨染駅に戻る。
次回は、ここからスタートすることを確認し、反省会の場所は、枚方とし 戻ることにする。まだ時間が早いので、居酒屋は開店していず、駅前の大衆イタリアンの店に入り、ビールで乾杯。
大きな赤ワインのボトルを頼み、イタリアンを肴に美味しくいただく。高校生も多いのは、単価が安いからだろう。
次回は、夏場は避け、秋に大津まで 進み「京街道」を踏破しようと約束し、お開きとする。
今日の歩行歩数は29900歩だった。後半、雨に降られたが、淀・伏見の宿場を楽しむことができた。

(工事中)




    
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