○ 「京街道No4」見聞録(墨染~大津)・(距離 13.4km(今回)/ 62.9km(累計)

  1.墨染~大津・(13.4km) 2015.11.06. 8:50~13:25 晴れ


「墨染~大津・行程MAP」

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見聞ルートに沿って歩行出来ます。

6月に第三回目の「京街道」紀行を実施し、夏場避け、秋になって日程を調整するも、小学校の同窓会では会ったが、お互いに忙しくて、今日の実施となった。 今回で「京街道」も最終行程になる。
8時45分京阪・墨染駅集合に合わせ、7時20分に家を出て、バスで京阪枚方駅に向かい、普通列車で歩いた行程を想い出しながら車窓を楽しむ。天気の心配を したが、10月中旬の暖かさで、歩いていると汗をかきそうだ。

藤森神社

8時50分、全員集合して、「京街道」紀行の最終行程をスタートする。
前回、紫陽花見物のため立ち寄った「藤森神社」に向かって進む。小雨の中の歩行で、紫陽花が思ったより少なかったなどと話しながら、鳥居の前まで行き、 境内には入らず、そのまま直進する。
京都教育大学の前を通り、JR奈良線の手前の道を左折すると「西福寺」が建つ。 ここは「熊野古道・吉野道」を歩いた時、立ち寄った場所だが、 忘れていた。境内に゜道標」があるのだが見落とす。2005年2月に歩いたので、もう10年も前なのだと、改めて感じ入る。
その先のJR藤森駅を過ぎると旧家が建ち、旧街道の趣が残っている。道なりに進むと、JR奈良線を高架橋で渡り、緩やかな丘陵地帯に入る。
暖かい天候で、空は晴れ渡り、所々の桜の木が紅葉している。本格的な紅葉の時期は先だが、青空と紅葉が気分を盛り上げてくれ、先日行った小学校の 同窓会の様子を話しながら進む。

西福寺

旧家

青空と紅葉


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

この辺りの丘陵地帯は、緩やかなアップ・ダウンがあり、遠くの山を望みながらの歩行は気持ち良い。格子の旧家の横には、小さな祠が祀られている旧街道を進むと 「地蔵堂」が建ち、旧街道の趣きが深くなる。
小さな川を渡ると県道35号線に当たり、右折して交通量の多い県道を進むと深草谷口交叉点の角に「深草毘沙門天」の道標が立ち、交叉点から左斜めの小道に 入って行く。その道脇には「仁明天王陵」道標も立っている。

格子の旧家

地蔵堂

毘沙門天の道標 仁明天王陵道標


県道から離れての小道は、気持ち良い住宅地となり、緩やかに右に曲がって行き、再び県道に合流する。

大岩神社の赤い鳥居

京都一周トレイルの道標

右に「大岩神社」の赤い鳥居が見え、道角に「京都一周トレイル」の道標が立っている。
以前「京都一周トレイル」の伏見稲荷から銀閣寺まで歩いていたので、 この辺りを歩いたのかと帰宅して検証する。 ここは歩いていず、新たに「伏見・深草ルート」ができているようだ。記憶になかったのは正解だった。
緩やかな坂道を上ると名神高速道路沿いの道となり、旧街道は、高速道路に吸収されてしまったようで、しばらくは高速道路沿いに進む。ぶどう畑の果樹園が あり、その隣に野菜販売所があるので立ち寄る。赤カブが売られていので、一束買い求め、N君は柿を買い、少し硬い柿を分けてもらい、食べながら進む。
道なりに進むと勧修寺下ノ茶屋町の交叉点に出る。「勧修寺」と思われる森があるが、入口が分からない。
多分、向こうだと見当を付けて直進すると お寺のような「宮道神社」が鎮座し、左折すると「佛光寺」が建ち、その奥に立派な白壁の「勧修寺(かじゅうじ)」が迎えてくれる。 地名は「かんしゅうじ」だが、寺名は「かしゅうじ」と云うそうだ。

勧修寺

勧修寺は、真言宗山階派の大本山です。醍醐天皇が母、藤原胤子の菩提を弔うため、胤子の祖父である宮道弥益の邸宅跡を寺としたのが始まりです。
醍醐天皇と勧修寺に関しては、『今昔物語』に玉の輿伝説が伝えられています。 今は昔、藤原冬嗣の孫で藤原高藤という人がいました。高藤は15歳か16歳のある日、鷹狩りに出かけて嵐にあい、道に迷いました。ふと見ると、 人家があります。雨宿りに立ち寄ると、そこに13歳か14歳の列子という、かわいい娘がいました。ふたりは一夜を過ごし、高藤は結婚の約束に刀を与えて 帰りました。 6年の歳月が過ぎました。高藤が再びその家を訪れると、美しく成長した娘と自分によく似た女の子がいました。成長した娘は列子、自分によく似た 女の子は胤子。この胤子が醍醐天皇を産んだのです。
もうひとつ、藤原高藤は紫式部の祖先にもあたります。 高藤が結婚の約束を守らなければ、醍醐天皇も紫式部も生まれなかったわけです。 恋の約束を守る大切さにも通じる話です。(京都観光街巡りHPより)

立派な門をくぐり、境内に入ると菊の品評会があり、庭園に向かうか考えるが、紅葉には早く、菖蒲は季節外なので諦める。庭園は、美しいそうだが 受付の方も今は端境期で寂しいと。

宮道神社

佛光寺

勧修寺山門 白壁


「勧修寺」を後にして旧街道に戻り、京都外環状線を渡る角に「地蔵堂」が祀られ、その横には「南 右大津 左京道」「北 すくふしみ」や「右  坂上田村麻呂公墓 左 深草小栗橋」の道標が立っている。
京都外環状線を横断し、少し先の山科川を渡ると京都地下鉄・小野駅の上を進むと右に大きなカヤの木が植わっている。案内図によると深草少将のカヤと 呼ばれているらしい。その先の交叉点を左折し奈良街道を進む。交叉点に「奈良街道」の標識が立っているので、分かり易い。

地蔵堂

道標

奈良街道 カヤの木


奈良街道にも旧家が残っており、旧街道の趣を感じながら進むと「愛宕神社・常夜灯」が立っている。その先、県道35号線に合流し、左折して 進み、名神高速道路の高架下を抜ける。
高架下を抜けると左に「大宅(おおやけ)一里塚」の枝が切られているが、立派な一里塚が残っているのは嬉しい。街中を通る「京街道」に大木が植わっている 一里塚を感慨深く眺め、先に進む。
その先左に「岩屋神社御旅所」の広場があり、ベンチがあるので、ここで一息入れる。(10:45-10:55)

旧家

愛宕神社・常夜灯

大宅一里塚 岩屋神社御旅所


岩屋神社の鳥居

宝迎寺

一息入れて、再び歩き出すと右に「岩屋神社」の赤い大きな鳥居が立っている。
旧家が残っている旧街道は、交通量も少なく快適に歩けるのは嬉しい。
左に落ち着いた「宝迎寺」を見て、次の四辻右角に「妙見宮道標」を確認して 気持ち良く進む。
その先、東海道新幹線高架の手前左に、大きな切株と大きな石が祀られている。周りが囲まれて、近付くことができない。周囲を廻るが入口がなく「皇塚」と 云われるらしい。

皇塚

帰宅して調べると古墳の跡らしいことが分かったので、入れなかったことを理解する。
もともとこの地には,直径20mほどの円墳があり,大塚・王塚・皇塚などと呼ばれていた。6世紀前半ごろのものと推定され,山科区内最古の古墳と 考えられるが,原型は留めていない。
その名称から,桓武天皇の墓所という伝承もあり,大塚という地名の由来となったと言われる。 この石標は,大塚(王塚・皇塚)の跡を示すものである。(フィールド・ミュージアム京都HPより)

この辺りの歴史を感じながら新幹線の高架下を抜けると、右の高架下に「みぎ うじみち」の道標が立っている。
その先、交通量の多い国道1号線に当たり、地下横断歩道をくぐって進むと、次の筋左奥に「屋根の付いた井戸」が残っている。珍しい。
音羽橋を渡って、青空の下、もう少しで「追分」だと気持ちを高ぶらせながら進むと右に「清水寺・牛尾山道」道標が立っている。

みぎ うじみちの道標

屋根の付いた井戸

青空の旧街道 牛尾山道の道標


再び、国道1号線の地下歩道を抜けて、音羽病院の前を進むと名神高速の京都東ICの高架に当たり、その下を抜けると、次の筋右に「牛尾山道」の道標が 立っている。
緩やかな坂を上って行くと左に目的の「東海道・京街道の追分」の碑が立っている。2008年4月に「中山道」紀行をスタートした時に通過した地点だが、その時は「京街道」の 詳細も知らずにひとつの「追分」としてしか認識していなかったが、今回、大阪と「東海道」を結び付けたことに感動した一瞬だ。
この「追分」で、「京街道」踏破の記念撮影をする。(11:45)

東海道・京街道の追分 説明板

京街道踏破記念


「墨染~大津①」の「紀行スライドショー」

「東海道」を踏破しているN君は、ここから先の「大津宿」までも歩いているので、所用があるため、ここまでとするが、一緒に昼食を食べようと 京阪・追分駅近くまで同行することとする。
緩やかな下り坂の途中で、滋賀県に入り、「佛立寺」の前を通って、国道一号線に合流する。何処か昼食処がないかを探すが、見当たらず、夕方の再会を 約束して、ここでN君とは別れて、O君と二人で、「東海道・大津宿」を目指す。
国道1号線は、名神高速道路の高架下をくぐり、京阪電車と並行して、逢坂山の坂道を上って行く。峠を上り始めると道脇に、小さな「めし屋」があるので、 昼食場所を見つけたと喜び、店に入ると満席で、やっと相席で注文することができた。木の葉丼とおかずを一品頼んで、美味しくいただく。(11:50-12:15)

滋賀県へ

佛立寺

昼食


緩やかな坂道を上って行くと右に「月心寺」が建っているが、門が閉ざされて中を観ることができない。
2008年4月の「中山道」紀行時には、境内の「走り井の泉」を観ていたので、 残念だ。

月心寺

走り井の泉 (2008年撮影)

その時の画像と調べた案内を引用する。
歌川広重が描いた東海道五十三次にある大津の錦絵には、溢れ出る走井の水のそばの茶店で旅人が休息している姿が見られますが、 この茶店が現在の月心寺です。
日本の名水として広く知られたこの走井の水は、多くの詩歌や文学作品に登場し、古くから有名でした。
茶店のあと住む人もなく荒廃していたのを、大正時代の初めに日本画家の橋本関雪が朽ちるのを惜しんで自分の別邸にし、 その後月心寺となったのです。(滋賀県観光案内HPより)

その隣には、「大津そろばん片岡庄兵衛」の碑と家の前には「車石」が敷かれている。「車石」は急な逢坂山の坂道に敷かれた馬車用の線路のような石で、 これからの街道沿いに所々展示されている。
その先の歩道橋で、国道1号線を越える。歩道橋の上から、国道・京阪電車を眺めると狭い山間を「東海道」が通っていたことが分かる。歩道橋を渡り、 左の小道を上って行くとまだ少ないが、紅葉が美しい。

大津そろばんの碑と車石

歩道橋からの眺め

紅葉


緩やかな坂道の右に「蝉丸神社」の鳥居と長い石段があり、その下には「車石」が置かれ、銀杏がたくさん落ちている。逢坂山と蝉丸は百人一首でも 有名だ。参拝はせず、その先の有名な鰻屋「かねよ」に向かう。
「中山道」紀行時、この庭園に「車石」の上に荷車が載っているを見ているので、案内の女性に頼んで見学させてもらう。昔の人は偉かった工夫の品だ。 轍に合わせて石を切り、荷馬車の線路のようになっているのだ。これを逢坂山の坂道に敷き、運搬・流通に活用したと。
小さな 道は、再び国道1号線に合流する所に、「逢坂山の関」の東屋が建ち、その横に「逢坂山関址」の碑が立っている。逢坂山の頂上に建つ関所は、治安・流通の 要所として重要な関所だったのであろう。

蝉丸神社

車石と荷車

逢坂山関址の碑 東屋


国道1号線は下り坂となり、逢坂山の急坂を下って行くと左に「弘法大師堂」が祀られ、その先左の長い階段の上に「関蝉丸神社上社」が祀られている。 参拝はせず、更に下ると左の山の中に「旧逢坂山隧道」のトンネルが口を開けている。明治11年に掘られた日本最古の隧道で、かっては東海道本線が通っていた そうだ。

弘法大師堂

関蝉丸神社上社

旧逢坂山隧道


国道1号線は名神高速道路の高架下を抜けて下って行く。やがて、国道1号線は、右に曲がって行くが、直進して国道161号線を進む。左に「安養寺」が建ち、 その先左の京阪電車の線路の向こうに「関蝉丸神社」が鎮座する。
逢坂山には、寺院や神社が点在しているのに驚く。また「蝉丸神社」がたくさん祀られているのだ。
やがて、東海道本線の上を越える。昔は、先程の「旧逢坂山隧道」が使われていたのだと思いながら下って行く。
O君が、珍しい史跡があるとのことで、左の小道を入り、京阪・上栄町駅横の踏切を渡り、階段を上ると「長安寺宝塔」が祀られている。鎌倉初期の石造 宝塔で、霊牛の供養塔だそうだ。珍しい形なので、「旧山陽道」紀行の時、新山口駅で見た「山頭火」のとっくりのモニュメントに似ていると話しながら、旧街道に 戻る。

安養寺

関蝉丸神社 東海道本線

長安寺宝塔


国道161号線を進むと右に「大津宿本陣跡」の標識が立っている。その雰囲気の建物もないのは残念だが、この辺りが「大津宿」の中心だったのだろう。 しかし、その先右に小さな広場があり「大津宿本陣跡」の標識が、ここにも立っている。ここの方が雰囲気があり、本陣が二つあったのかとも。
少し先で、左からの京阪電車軌道と合流し、広い道路に長い編成の京阪電車が走るのは壮観だ。
琵琶湖に向かって下って行くと京町1丁目交叉点左角に「札の辻」の標識と「大津市道元標」の碑が立っている。ここが、「東海道」と「北国海道」の 分岐点で、「京街道」の終着点となる。到達したのだ!!(13:25)

大津宿本陣跡 初めの標識

京阪電車

札の辻


「墨染~大津②」の「紀行スライドショー」

4日間で「京街道」約63kmを歩いた達成感を味わうため、コンビニで缶ビールとおつまみを買い、琵琶湖湖畔の広場に向かう。曇り空だが、気持ち良い空間の広場で 琵琶湖を望みながら、乾杯!!

琵琶湖湖畔

三高ボート部・艇庫

以前、O君が大津を散策した時、紅葉がきれいだった所に向かうことにする。
湖畔に沿って北に向かうと京都への疏水への流出口があり、その岸辺に 「旧制第三高校ボート部・艇庫」が残っている。ボート部に所属していたことを知っているO君の計らいで、初めて「三高ボート部・艇庫」を観ることができた。ここから 琵琶湖を周航し、「琵琶湖周航の歌」が生まれたのだろうと。
疏水の流出口から大門通りを上って行くと「三井寺」の立派な「大門」に当たる。境内には入らず、長い塀に沿って右折し、大津市役所方向に向かう。 市役所の前の並木道の紅葉がきれいとのことで訪れたが、色付いているが、もう少し先が見頃のようだ。
「三井寺」の大きさを認識しながら、長い塀を向こう側まで進むと疏水がトンネルになる所が見られる。ここから京都・蹴上付近まで、地下を流れるのだと 思うと、当時の土木技術の凄さが分かるようだ。

疏水への流出口

三井寺

疏水のトンネル入口 並木の紅葉


静かな山沿いの道を進むと「長等神社」の赤い山門が鎮座し、親子連れが散策している。長等公園への道を確認して進むと「大津大神宮」の鳥居が立っている。 この辺りは、神社仏閣が点在しており、昔の都の面影が残っている。
その先に、目的の長等公園が静かに迎えてくれるが、平日でもあるので人影はなく、紅葉もまだ始まったばかりだ。もう半月もすれば、紅葉真っ盛りとなり 賑わうであろうと思いながら、ベンチで一息入れる。(15:10)
長等山の山麓を少し上ると琵琶湖が望めるスポットを通り、山を下って京阪電車・上栄駅に向かう。坂道を下り切ると上栄駅の横に到達し、ここで、今日の歩行を 終える。(15:20)

長等神社

大津大神宮

長等公園 琵琶湖展望


N君に連絡し、17時に京阪三条駅で待合せることにし、京阪電車で、今朝通った追分付近を通って、京阪三条駅に向かい、 所用を済ましたN君と合流する。今日の反省会は、O君が知っている川端二条の「行列のできる居酒屋」に行くことに決め、17時の開店まで、三条大橋周辺を 散策する。
三条大橋を渡ると「中山道」紀行のスタートとした「弥次喜多の像」が立っている。
木屋町通りを曲がった所に「瑞泉寺」が建っている。豊臣秀吉が、秀次を自刃させとその一族子供5名・妻妾34名を三条河原で処刑した霊が祀られているのだ。 初めて訪れた寺院だが、何時も通っている街角に、こんな歴史的な寺院があったことを知った次第だ。

弥次喜多の像

瑞泉寺

豊臣秀次公の墓


賑やかな木屋町通りを上り、御池通りで鴨川を渡って、川端通りの居酒屋に向かうが、まだ開店まで時間があるので、鴨川の河原でと時間待ちをする。 川沿いの桜が紅葉し、川面に泳ぐ鴨の姿をのんびりと眺める。

赤垣屋

10分前に店の前に行くと10人余りの行列ができている。O君が云っていた「行列の出来る居酒屋・赤垣屋」だ。最後尾に並んでいると、後にも行列ができ、 タクシーで乗り付ける方もいるのには驚きだ。
17時丁度に店が開き、小座敷に案内され、まずはビールで乾杯する。
冷奴・刺身・おでん等を注文し、「京街道」踏破の祝賀会・反省会を行う。春から4回に分けての紀行は、淀川左岸の知らない史跡を訪ねる楽しい旅だった。
特に、守口にあった「文禄堤」は、都会の真ん中に残っている秀吉が造った堤で、その大きさと地元に溶け込んでいる史跡の存在に驚いた。
同窓会のこと、紀行のことと話題は広がり、芋焼酎も大いに楽しむ反省会だ。
次回の企画をどうしようかとの話になり、いろいろと案が出たが、「旧山陽道」紀行時、感激した「石見神楽」を地元で楽しむため、広島付近の瀬戸内海から 中国地方を縦断して、日本海に出ることとなった。
具体的には、来春以降に実施することとし、広島在住が長かったO君が企画することとした。「旧山陽道」「京街道」に続いて、大いに楽しみたいものだ。
お開きにし、京阪電車で枚方まで行き、二人にお別れして、気持ち良く帰宅する。本日の歩行歩数は、36100歩だった。
「墨染~大津③」の「紀行スライドショー」






    
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