○ 「西国街道No1」見聞録(三条大橋〜高槻)・(距離 27.1km/ 27.1km) 1.三条大橋〜高槻・(27.1km) 2012.01.05 10:00〜16:30 曇り
「中山道」紀行も碓氷峠を越え、「松井田宿」まで到達し、関東圏に突入した。冬場の「上州路」はなかなか厳しそうなので、 その間を利用して、「旧街道」を歩こうと考えていた。 従来と同じように継続した「旧街道」を歩もうと思い、「中山道」と継続した「旧街道」を検討した結果、高槻の地元を通り、京都から 西宮までの「西国街道」、その先の「山陽道」で下関まで行き、その後は5年間単身赴任していた鹿児島県・出水市を経由して 鹿児島に向かう「薩摩街道」に至れば良いと考え、第一歩を記すことにした。 本来の「西国街道」は京都・「東寺」近くの「羅城門」からのスタートだが、「中山道」と結びつけるため、「三条大橋」から出発する ことにする。 「大阪府・歴史街道ウォーキングマップ」のルートをベースに 歩行するが、他のサイトも参考に旧街道を進むことにする。
天気予報では雨はないが、 気温が上がらない寒い日だと。外の風は冷たく、阪急高槻市駅から阪急電車に乗り、山崎を過ぎると雪が降り出し、外は雪景色になっている。 さすが、京都府に入れば雪と気候が変わるのだ。 河原町駅から四条通りを進み、先斗町の中を歩く。この時間だと人通りはゼロで、街並みの雰囲気を味わいながら三条大橋に向かう。 先斗町内で誰とも出会わなかったのは不思議だと。 2008年4月にここ三条大橋の「弥次喜多像」から「中山道」を歩き始め、18回・23日をかけて「碓氷峠」を越え関東圏に突入したスタート地点だ。
三条通りの商店街は店も開店前で静かな雰囲気だ。商店街を抜けると古いレンガ建ての建物も残っており、京都散策の時に時々通るが、 見方を変えて歩くと新しい発見もあり、面白い。途中から、雪が激しく降り出し、フードを被り、速足で烏丸通りまで進む。 烏丸通りと三条通りの角に「京都市道路元標」の小さい石碑が立っている。昔の京都の道路起点はこの場所なので、「東海道」「中山道」の スタート地点はこの元標からと云われる方もあるそうだ。(真偽は?) この地点を探した発端は、昨年の1月5日に友人とスタートした「伊勢本街道」は 大阪の「里程元標跡」だったので、京都の元標は何処だと探した次第だ。 ここから「東寺」への進み方を検討した結果、烏丸通りはよく歩くが、その先の堀川通りを歩く機会が少ないので、真っ直ぐ進んで堀川通り に向かう。
雪は激しさを増して来る。広い堀川通りを南に下って行く。人が通らない場所には雪が積もり、風情があるが滑り易いので注意しながら歩む。 歩道橋の階段には雪が積もり、降りて来る人が滑って転びかけていたので、注意して上る。 その昔、この堀川通りに最後の市電が走っていたのではないかと思いながら南下すると「西本願寺」の立派な建物が迎えてくれる。門前で 頭を下げ、そのまま東海道線・新幹線の高架下をくぐって「東寺」に向かう。
「南大門」の前には中国人の観光客が、写真を写している。中国の寺院とは違った風情に驚いているのではと。 真言宗の総本山である。平安京遷都とともに延暦15年(796)羅城門の東に左京、東国の鎮護のため建てられたのが当寺の起りで、 弘仁14年(822)空海(弘法大師)に下賜され、名を教王護国寺と改めて、真言宗の根本道場となった。 学僧名僧も多く居住し、朝廷・公家・武家の信仰があつく事あるごとに祈祷法会が行なわれ、中世には多くの寺領も寄せられた。 一方弘法大師に対する庶民の信仰もふかく、毎月21日の大師の命日(ご縁日)は「弘法さん」と呼ばれて数万の参詣者でにぎわう。 創建ののちたびたび兵火にかかったがそのつど再建された。 五重塔(国宝)は江戸初期の再建で高さ56mで我国最高のもの。 講堂(重要文化財)内部には仏像が安置され平安初期密教美術の宝庫をなしている。大師堂(国宝)は大師の御影をまつり、 寝殿造の住宅建築としても有名。(京都観光NaviHPより) 参拝者もおられる中、境内に進む。「金堂」「講堂」を拝観し、境内から「五重塔」を見上げる。日本最高の塔は雪空の中に、堂々と そびえている。 久し振りに訪れたが、この時間だと静寂・荘厳と気持ちがきりっとする雰囲気を味わい、これからの旅の無事を願う。 本来なら、境内の隅々まで見学・参拝したいが、「西国街道」の第一歩を記したいので、ぐるっと廻るだけで、目的のスタート地点に 進む。(9:15)
「三条大橋〜東寺」の「紀行スライドショー」 「東寺」から九条通りを西に少し進んだ所にある「西国街道」スタート地点の「羅城門跡」に向かう。
794年(延暦13)に建設した平安京の正門。 東西4.5km、南北5.3kmの京域中央部の南端に羅城門がそびえ、北端の朱雀門と相対していた。 門は正面33m、奥行8m。二重閣瓦屋根造で棟両端に金色の鴟尾を置く。鬼の腕切りなど能・小説・映画「羅生門」で有名。 (京都観光NaviHPより)
9時45分、「羅城門跡」から「西国街道」のスタートをする。 何時、下関まで行けるのか分からないが。 「矢取地蔵堂」に戻り参拝する。横のお堂の中に「羅城門の模型」が飾られている。金色で立派な門だったのだと思い、京都の南を守って いたのだと改めて認識する。 「東寺」と共に「西寺」があったとのことなので、その跡地を探す。少し進み右に入った唐橋小学校の裏に広場があり、その丘の上に 「史蹟西寺址」の碑が立っている。 「羅城門」を挟んで、「東寺」「西寺」が建っていたことを認識して、「西国街道」を西に進む。
九条通りに戻り、少し進むと左側に細い道が通じている。これが旧街道で国道から離れて進む。 所々に古い家も残り、道幅も狭く、旧街道だとの風情を残している。国道171号を渡って真っ直ぐに進むとシンプルな「愛宕神社・常夜燈」が 立っている。京都に近い所では、この常夜燈は良く見られる。
桂川に向かって進む途中に「日向地蔵尊」のお堂が祀られ、旧街道だと思いながら、少し逸れて桂川の堤防を歩く。河川敷は自転車の ロードコースが嵐山まで設けられているのだ。 京都の西山付近は雪模様で霞んでいる。河川敷を歩き久世橋で桂川を渡る。橋の上は風が強くて冷たい。 対岸の岸に川魚料理を食べる のであろう船が係留されており、渡った所に立派な「いずみや」の料理旅館が建つ。「西国街道」が賑わった頃から繁盛していたのだろうと 思いながら、国道を離れて、川沿いの道を下る。
川沿いの道から下に進むのが旧街道で、その分岐点に「西国街道」の道標が立つ。初めて見る「西国街道」の道標に従って右の道に 降りて行く。 緩やかなカーブを繰り返し、先程別れたR171を越えて進むと右手奥に「福田寺」が建つ。少し進むと新幹線の高架があり、近くの空間で 一息入れる。(10:45) 旧街道はJR東海道線にぶつかり、その地下道を抜け、線路沿いに進むとJR向日町駅に至る。右斜めの賑やかな府道を進むと阪急電車の踏切が あり、渡った所に大きな「太神宮常夜燈」が立っている。
阪急の踏切を渡り、府道から左斜めの石畳の道に入る。「梅の木」と云われる筋らしく、少し進むと「梅の木道標」や石碑が数本立っている。 石畳の道は気持ち良い旧街道の風情を表し、古い旧家も残っている。石畳には竹藪の絵が描かれ、向日市の名産である筍を想像させる。 道脇に「愛宕神社常夜燈」や「地蔵堂」が祀られる旧街道だ。なかなか趣きのある道を進む。
石畳の道を進むと「西国街道」の石碑が立つのを確認し、再び府道に合流する向こう側に立派な旧家が建つ。これが京都府指定文化財の 「須田家住宅」で昔は醤油製造業を営んでいたと。その角に新しい道標が立ち、「右・西国街道」と書かれている。 府道を左折した所にも旧家が建ち、大きな説明文が掲げられている。「富永屋」と云われる旅籠跡で、この辺りも街道筋として賑わって いたのであろうと想像出来る。 その向かい側に「向日神社」の大きな鳥居が建ち、初詣の方が参拝に訪れている。本殿は大分奥なのでパスして次に進む。
「長岡宮・大極殿跡」の標識があったので、寄り道することにする。 府道から左に入り、住宅街を進むと、丘の藪の中に「鶏冠井興隆」と下の見えない石碑が埋まっている。少し進むと小さな公園に なっている「長岡宮・大極殿跡」に到着する。 静かな住宅街の中の公園には高い石碑が立ち、 説明碑もたくさん設けられている。ここが「長岡京」の中心だったのだと一息入れて見学する。(11:10)
それが長岡京で、東西4.3キロ、南北5.3キロで平城京よりも大きく、ほぼ平安京に匹敵する規模の都でした。 長岡京は京都盆地の南西部にあたる丘陵地帯にあり、付近には桂川、宇治川、木津川、淀川などの大河川が流れ、水陸交通の至便な地でした。 長岡京は、延暦13年(西暦794年)に平安京に遷都されるまでのわずか10年間でしたが、日本の歴史上、重要な時代を築いた都で、 その政治・文化の中心が向日市にありました。 (向日市HPより) 「長岡京」の近くに住みながら、一度も訪れたことがなかった跡地の公園の中で、何故、一時的な都をここに移したのかと考えたりする。 その一部しか残っていないが、広い地域としても、今の「平安京」には及ばず、より立地条件の良さを求めて再び遷都したのだろうと。 再び旧街道に戻り、府道を進む。五辻の交叉点から旧街道に進むと古い家もあり、その先に「石塔寺」が建つ。この寺では 京都府指定無形民俗文化財の「鶏冠井題目踊(かいでだいもくおどり)」と云われる日蓮宗に関連する奉納踊りがあるそうだ。 先程見た「鶏冠井興隆」の碑は「鶏冠井興隆寺跡」と思われ、ここ鶏冠井(かいで)町のお寺で廃寺となった寺の碑だろう?、 少し進むと赤い鳥居の「鈴吉大明神」が祀られている。阪急電車の高架下を抜けて小畑川の堤防に上って行くと温度計が設置されており 8℃と示している。風はないが冷たい。前にラーメン屋があったので昼食にする。(11:50-12:15)
「西国街道@」の「紀行スライドショー」 冷たい空気の中の歩行だったので、暖かいラーメンは体を温めてくれる。 小畑川に架かる「一文橋」の広場には「西国街道」の石碑が埋められ、橋の欄干には「一文銭」のモニュメントが飾られ、当時の通行料が一文 だったことの名残だと。 橋を渡り、堤の下の道を進むと小さい祠が祀られ、旧街道だと認識させてくれる。馬場一丁目の交差点には「西国街道」の碑が立ち、 石畳の道に向かって進む。「西国街道」は豊臣秀吉が朝鮮出兵に際して拡張整備したことから、江戸時代には「唐道」「唐海道」とも 呼ばれていたそうだ。 石畳の道は「神足商店街」に連なり、商店街らしくない道をJR長岡京駅方向に進む。
JR長岡京駅への交叉点にも新しい「西国街道」の碑が立ち、きれいになった駅舎と広場が望める。昔は神足(こうたり)駅と云われていたが、 何時の時点か覚えていないが、長岡京駅と全国区の地名にしたのだろう。 石畳の道には立派な家が続く。雰囲気は旧街道を進んでいる感じだ。突然、JR神足駅の駅名標が出て来た。昔の駅から記念として移設した ものだろう。 右手に大きな屋敷があり、それが「旧石田家住居」だ。今は長岡京市の「神足ふれあい町屋」と観光施設として活用されている。 室内には地元の工芸品や昔の衣装等が展示されている落ち着いた空間だった。
石畳の道はゆっくりと右に曲がり、府道と合流する手前に「常夜燈と道標」が立つ。少し府道を進み、川を渡った所から府道から左の細道に 入る。角には長岡京市の「筍型の道標」が示してくれるのは嬉しい。 旧街道を進むと「与市兵衛の墓」が建つ。初めて知ったが、仮名手本忠臣蔵で有名な赤穂浪士・萱野三平の義父で、娘を祇園に身売りさせた 金で三平を赤穂浪士の一員に入れたと。歴史がある街道なのだと思いながら、大阪成蹊大学の横を西に進む。
緩やかな上り坂の旧街道沿いに「旧中野家住宅」の旧家を確認して進むと「古い道標」が立ち、「やなぎ谷観音」を示している。 旧街道の前方に高速道路の工事現場が現れる。以前は知らなかった高速の工事現場に少し戸惑い、近くに行くと調子六角の交叉点で、 名神大山崎JCTから延びる京都縦断道路の工事で、付近が通行制限とややこしくなっている。ここで、道を間違えて手前の道を左折して 進んでしまった。少し進むと長岡天神に参拝する時通る道なので、おかしいと気付き、元に戻り、工事現場の通行規制の道を抜けて 高速の向こう側の道を進む。 目の前には「天王山」がそびえ、「スイス・ドイツ会のハイキング」を 思い出しながら小泉橋を渡って、「山崎宿」に向かう。
狭くなった旧街道はJRの高架下をくぐり、名神高速の下を抜けると大山崎町役場に至る。
JR山崎駅の手前に「離宮八幡宮」が建っている。 860年(貞観 2) に僧行教が宇佐八幡神を嵯峨天皇の離宮の一郭に勧請したことにより、離宮八幡宮が誕生しました。 平安時代末頃に当地で始まった荏胡麻油生産は中世になると活発化し、生産者たちは八幡宮を本所として油座を組織し、 全国の油専売権を握り、販売を独占しました。その当時の様子は司馬遼太郎の「国盗物語」の中にも描かれています。 (大山崎町HPより) まずは駅前に建つ「妙喜庵」の中にある千利休が造った茶室を訪れるが、申込みをしていないので、外からチェックし「離宮八幡宮」に向かう。 静かな境内は初詣の方も居られ、ゆったりとした気分に浸る。(14:15) 神社の前の角に鉄柵で守られた「古い道標」が「右西国街道」と示している。
道標に従って右に曲がり、左に曲がる角に「離宮八幡」の油座に由来する「天婦羅・三笑亭」が建っている。ここは接待や職場の宴会で よく利用させてもらったお店で、名物お婆さんが居られたが・・・・。 その反対側の角に大阪府と京都府の標識が立ち、「関大明神社」の祠が建つ。境内には「従是東山城國」と刻まれた石標が 立ち、ここから山城国から摂津の国の境界線となっていたことが分かる。 旧街道沿いにはまだ古い家も残り、JR沿いに進むと踏切の向こうにサントリー山崎蒸留所の見慣れた建物が迎えてくれる。
「西国街道A」の「紀行スライドショー」 現役時代、よく通った旧街道を進み、「水無瀬神宮」の道標に従って、旧街道から離れて神社に向かう。 息子が地元の高校でラグビーをしている時、「離宮の水」を試合の力水として、係の方が毎回汲んで来ていただいた。その力もあったのだろう 大阪大会で優勝し、念願の花園出場を果たした。 花園でも1回戦はシード、2回戦は勝利し、元日の花園に連れて行ってくれ、父兄一同歓喜した。残念ながら ベスト16で終わったが、必勝祈願にも訪れた神社に久し振りに参拝する。
特に後鳥羽天皇はこの水無瀬の地を好んでいたらしく、配流された隠岐にあっても「水無瀬山わがふるさとは あれぬらん まがきは野らと 人もかよわで」というように水無瀬をしのんだ歌を残しています。
広い境内の中、「離宮の水」にはたくさんの方がポリ容器を持って水汲みに来ておられる。コップ1杯の名水を美味しくいただき、20数年前の ラグビー応援を思い出しながら旧街道に戻る。 昔と少し変わった街並みをチェックしながら、旧街道を進むと「桜井の駅跡」に到着する。
「建武の新政」に不満を持つものたちが足利尊氏のもとに集まり、挙兵しました。これに対し天皇は正成の策を入れず兵庫で 迎え撃つことを命じました。 正成は少ない手勢を率いて下向し、途中桜井において嫡子正行に「父が討ち死にした後もいつ族をまとめて 戦い続けることが忠孝である」と遺訓して別れました。その後、正成は湊川において壮絶な最期を遂げました (島本町HPより) 現役の時、この場所はもっと緑が多く、一角に「府立青年の家」が建ち、よく合宿で活用していた場所だ。JR島本駅設置により、緑の 森は少なくなり、「青年の家」も取り壊され、少し寂しい景観になっているが、史跡は当時のまま残っているようだ。 「楠公父子訣別之所碑」等の史跡を確認し、島本駅の新しい駅舎を眺めて、旧街道を進む。 上牧(かんまき)周辺も変わっているが、JRの高架下を抜けると狭い旧街道となる。JR沿いに進むと梶原の集落に入り「梶原一里塚跡」の 地蔵堂が建つ。今回の紀行で初めて出会った「一里塚跡」だ。市街地を通るので、保存は出来ないだろうが、跡も確認出来ないのは 「西国街道」の宿命か。 旧街道沿いには「一乗寺」や「畑山神社」が現れる。
車や自転車でよく通る旧街道を進む。何も感じないで通っているのと違って、「西国街道」紀行として歩くのでは意識が違い、旧街道の 両側を眺めながら歩む。 こんな所に古い建屋があったのだと思いながら、毎朝散歩時に通る桧尾川の「桧尾橋」を渡る。橋の欄干には「大名行列」が描かれて いることに気付き、日頃の観察力の少なさに反省する次第だ。天井川の桧尾川を下ると家に向かう道になり、ここからは3分程度で 帰宅出来るが、前に進む。 家庭菜園に行く時に通る「山手町薬師堂」をチェックし、交通量が多くなった旧街道を注意しながら高槻駅に向かう。
日が落ち出して、西に向かっていると眩しい位だ。日頃の生活道路には古い建屋も残っていたが、段々と取り壊して新しい家に変わって行く。 JRを渡る高架橋の下を抜けると「能因塚墳」の青い石の碑が立ち、もう少しで高槻駅だと。 ここから駅までの道が、ここ数年で大変化した。以前は電池工場があった所が、関西大学の校舎・病院・マンションに変わり、道は拡幅され とても旧街道とは思えない変貌ぶりだ。地元の者は分かっているが、訪問された方は驚かれるだろう。マンションも41階建てと高層で、雨が 降った時などは屋上が見えない程だ。 西武百貨店を曲がってJR高槻駅に到着する。(16:35)
「西国街道B」の「紀行スライドショー」 新春の初紀行は新たな気持ちでスタートすることが出来た。現在進行中の「中山道」と三条大橋で接続することが出来、「中山道」踏破の 暁には江戸から「西国街道」に通じることになったのだ。 これから「西国街道」「山陽道」で下関まで進みたい。その後、九州に渡って「薩摩街道」を通って出水市経由で鹿児島までと。何時の 時点で到達できるか分からないが、一歩一歩進めたいものだ。 今回の歩行は27.1km、51800歩だった。次は、「西宮神社」までの「西国街道」を踏破したい。
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