○ 「山陽道No2」見聞録(神戸〜塩屋)・(距離 11.1km(今回)/ 116.2km(累計))

  1.甲子園〜神戸・(20.7km) 2012.02.06 9:35〜16:40 曇り


西国・山陽道全行程.Map

「神戸〜塩屋・行程MAP」

地図の再生ボタン()を押すと
見聞ルートに沿って歩行出来ます。
クリックすると拡大します。(街道歩き旅.com HPより借用)

前回、「中国街道」で大阪から西宮まで進み、「西国街道」と合流し、「山陽道」に入り、神戸まで来た。

JR神戸駅

神戸市内では「山陽道」の名前はなく「西国街道」の道標が立つ。何処から「山陽道」になるのかを解明するのも今後の課題となる。
前日から雨が降り、天候が心配だが、時刻別の天気予報では雨から曇り空になるとのことで、O君とは計画通り、JR尼崎駅9時09分発の 小生が乗っている列車で待ち合わせることにし、彼と合流して神戸駅に向かう。
今回は「山陽道」紀行と共に「平清盛」の史跡を巡ろうと考え、高槻駅でパンフレットを探すと大河ドラマの影響でパンフレットが数種類置いてあり、 これらを入手して、このマップも参考に進むことを車中でO君と確認する。
9時35分、曇り空で少し寒い中を神戸駅を出発する。今回の紀行の前半は「平清盛」の史跡を中心に駅で入手したマップをガイドに巡るため、 旧街道のルートから離れ、国道を渡りまず「湊川神社」に参拝する。
早朝の゛「湊川神社」は静寂で、巫女さん達が広い境内を掃除しておられる。

湊川神社・表門

旧別格官幣社。 御祭神は、主祭神として楠木正成公をお祀りし、 配祀に楠木正行卿および湊川の戦いで殉節された楠木正季卿ほか一族16柱をお祀りしています。
楠木正成公は、延元元年(1336年)、湊川の地で足利尊氏と戦い殉節しました。 その後、徳川光圀が石碑を建立。以来、水戸学者らによって楠木正成は理想の勤皇家として崇敬されました。 幕末には維新志士らによって祭祀されるようになり、明治元年(1868年には明治天皇から神社創建の命があり、 明治5年(1872年)湊川神社が創建されました。(神戸市観光協会HP他より)

境内に入ってすぐ右に古い道標が立つ。「従是くすのき公せ記ひみち」と刻まれ、「西国街道」から移設されたものだと。
その奥には「水戸黄門像」が祀られ、横には「楠木正成公の墓」も祀られている。
水戸黄門と楠木正成の関係は知らなかったが、忠臣正成を世に広めたのが光圀だったのだと知る。
奥の本殿に旅の安全をお願いして、静から境内から次の行程に進む。

水戸黄門像 説明

楠木正成公の墓 説明

湊川神社・本殿 道標


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

旧街道とは違った、地下に神戸高速鉄道が走る国道28号線の広い道を西に向かい新開地交叉点を左折し、少し迷いながら「厳島神社」を 探す。清盛が、福原遷都の際、安芸国厳島神社をここに勧請したきれいな神社だ。清盛と厳島神社の繋がりの深さを感じる。
南に下って、JRの高架下を抜けて進むと旧街道と交わり、そこには「みなと八幡神社」が鎮座する。神社の前には「湊口惣門跡」の碑が 立ち、「兵庫宿」の東の入口だったと。
再び、旧街道を離れて広い道路を渡り「鎮守稲荷神社」に向かう。ここには一ノ谷の合戦で戦死した平敦盛の兄・「平経俊(つねとし)の墓」が 祀られ、海の豪商と云われた高田屋嘉兵衛が海上安全のため献上した「石灯篭」が立っている。

厳島神社 説明

みなと八幡神社 惣門跡

鎮守稲荷神社 説明


高速道路の下の高架橋を渡り「七宮神社」に向かう。ここも清盛が工事を妨害する暴風雨を起こしていた神をこの神社に移して祀ったと。 清盛の逸話が多いのに驚きながら地下鉄が走る広い道を西に進む。
海岸に近いのか古いレンガ建の建物が残っており、異国情緒を感じながら進むと運河に行き当たり、そこには大きな水門が設置されている。 この水門には「清盛ゆかりのまち兵庫」ときれいな絵が描かれている。水門の内側には小さな船がたくさん停泊している。
運河の角に「築島寺」か建ち、境内には「松王小児入海之碑」と「妓王妓女の塔」が祀られている。説明文によると、どちらも清盛との 関連の深い人で兵庫・福原=清盛の結びつきの強さを感じる。

七宮神社

運河の水門 レンガ建の建物

松王小児入海之碑・妓王妓女の塔 説明


運河沿いに進むと大きな石が飾られている。「古代大輪田泊の石椋(いしくら)」遺跡と云われ、古代の防波堤の石材で、清盛が開発した 大輪田泊の港を示す史跡だと。

兵庫大仏

古代大輪田泊の石椋

北側に進むと「能福寺」があるので進む。ここで大きなミスをしてしまった。「山陽道」の史跡である「札場の辻跡」の碑を見落として しまったのだ。気付いたのが随分進んでからだったので、戻って確かめるのを諦める。
「能福寺」の境内には大きな大仏が鎮座する。こんな所に大仏が祀られていると知らなかったので驚く。
能福寺は、805年、唐に留学していた伝教大師最澄が日本で最初の教化霊場・能福護国密寺としたのが開創であると伝えられています。
能福寺は平清盛所縁の寺としても知られ、1180年(治承4年)福原京遷都にともない平清盛が能福寺で剃髪入道(浄海)し、平家一門の 祈願寺に定められ大伽藍が建設され八棟寺と称されました。
境内には平相国廟(平清盛廟)・平清盛公墓処があり、 境内に鎮座する兵庫大仏は伝統日本三大佛の一つで、身丈(像高)11m、重量約60t、蓮台高3m、台座高4m、 総高18mあります。(神戸市観光協会HPより)

以前、「青春18きっぷ・越中富山と飛騨路散策」で 富山県高岡市を訪れた時、「日本三大大仏」は奈良・鎌倉・高岡と云われていたが、兵庫大仏とNo3争いをしているようで面白く思いながら 境内を見学する。
本堂から奥まった所に立派な「平清盛公墓処」が祀られ、その傍には我が国最初の英文碑といわれる浜田彦蔵により寺の縁起を英文で作った 明治25年頃の碑がたつ。石碑には英文が刻まれている珍しいものだ。
前回「三宮神社」で知った「神戸事件 滝善三郎正信の碑」の案内板があり、神戸事件の責任を一身に背負って切腹した 「滝善三郎正信碑」が祀られている。

能福寺・本堂

平清盛公墓処

我が国最初の英文碑 説明


「能福寺」から「琵琶塚」に向かう。運河の横の高台に「琵琶塚」があり、隣に清盛の銅像が立っている。琵琶の名手、平経正 (平清盛の弟経盛の長男)を祀っている。その隣の「清盛塚」には高さ8.5mの十三重の塔が立つ。清盛始め平氏の息吹が満ち溢れている 所だ。

清盛塚 説明

清盛の銅像

琵琶塚


まだまだ「平清盛」の史跡があるようだが、旧街道に戻りながら、JR兵庫駅を目指す。
JR高架近くの角に「えびす神社」が鎮座し、その横には「柳原総門跡」の案内板が立つ。ここまでが「兵庫宿」だったのだろう。 JR高架下をくぐって、兵庫駅前のうどん屋で昼食とする。(11:40-12:00)

「山陽道No2」の「紀行スライドショー」

長田神社

駅前から左斜めの道を西北に進むと高速神戸鉄道が地下に通る国道28号線に出る。道なりに高速神戸駅に向かうと大きな鳥居と「長田神社」の 石碑が立つので、寄り道して「長田神社」に向かう。
「長田神社」への朱塗りの鳥居が立っている参道の商店街で賑わっている。
高取山の南東麓に鎮座する長田神社は、神功皇后が新羅より帰還する途中、「吾を御心、長田の国に祠れ」とのお告げを受けて、 201年(摂政元年)に創建されたと伝えられ、日本書紀にも記載されている古い歴史を持つ神社で、家内安全・商売繁盛・開運招福・ 大漁満足・厄除解除の御利益があるとされています。
古来、長田神社は、皇室をはじめ武門の崇敬が篤く、延喜の式では明神大社、更には祈雨八十五座に列し、神戸(かんべ)41戸を もって奉祀護持され、今日の神戸発展の守護神として仰がれています(神戸市観光協会HPより)

朱塗りが美しい本殿に参拝し、境内を散策すると二本の根がつながっている珍しい太くて高いクスノキが生えている。

えびす神社の柳原総門跡

長田神社の石碑

クスノキ


「長田神社」から川沿いに戻り、村野工業高校の横の小道を入ると「監物太郎の碑」が祀られている。監物太郎は平知盛の家臣で、 一の谷合戦で敗れ、落のびながら敵と奮戦し、討ち死にしたが、その間に知盛は逃げることが出来たと云う忠臣だと。
  新湊川橋の手前には「源平合戦勇士の碑」が祀られ、一の谷合戦で戦死した平通盛や源氏の木村源吾重章らの碑が ここに敵味方のへだてなく祀っている。源平の戦いの中心だったのだ。隣には、「阪神淡路大震災慰霊碑」が立っている。
新湊川橋を渡り、本来の「長田神社」の参道の入口には足に布を巻いた「狛犬」が祀られ、横には阪神大震災で倒れた鳥居の根元が記念として 保存されている。震災の激しさを思い起こさせる遺跡だ。

監物太郎の碑 説明

源平合戦勇士の碑 説明

足に布を巻いた狛犬 鳥居の根元


広い国道を進む。日本の道とは思えない広い歩道を持ち、街灯まで立っている。ここ長田地区は震災時、火災が発生し、被害がひどかった 地域だったと思い出し、震災から道を拡幅したことが良く分かる。
蓮池公園の中に「旧西国街道案内板」が設置されたている。やはり、「山陽道」ではなく「西国街道」と表示されている。神戸市は 「西国街道」で統一されているようだ。広い道を淡々と進むと山陽電鉄月見山駅に向かう交差点に「厄除八幡神社」の道標が立つのを見て 西に進む。

新しい街並み

蓮池公園 旧西国街道案内板

厄除八幡神社の道標


山陽電鉄・須磨寺駅から旧街道を離れて「須磨寺」に向かう。
須磨寺駅の改札口前に「平重衡とらわれの松跡」の社が建っている。源平合戦の時、生田の森から副大将平重衡は須磨まで逃れてきたが、 この地で源氏の捕虜となった。住民が哀れに思い、酒を勧めたところ、大変喜んで、一首歌を詠み、後に鎌倉に送られて処刑されたと。
「須磨寺」参道の商店街の緩やかな坂を上って行く。商店の店先には「智慧の道」と書かれた幟が立てられているが人通りは少ない。 広い道との角には「須磨霊泉」の石碑の下には水がコンコンと流れているのを見ながら、最後の坂道を上る。

平重衡とらわれの松跡 説明

参道の商店街

須磨霊泉


O君と小学校時代に須磨に遠足に来たのではと話す。お互いに記憶は薄いが、彼が「青葉の笛」の歌を思い出し歌う。小生は全く覚えていず、 小学生の記憶は個人によって様々であることが分かる。当時は貸切バスなどなかったので、多分市電で大阪駅に行き、JRで来たのだろうが、 その記憶は二人ともなかった。

須磨寺・本堂

須磨寺・五重塔

真言宗須磨寺派の大本山。本尊の聖観世音菩薩をはじめ、無官の太夫・平敦盛の首塚や、敦盛首洗いの池、義経腰掛けの松など、 源平ゆかりの史蹟が多く見られます。
在原行平が創始したとされる一絃琴(須磨琴)が伝えられ、歴史・文化的にも価値のあるお寺です。(神戸市観光協会HPより)

「仁王門」から境内に入ると「源平の庭」には平敦盛と熊谷直実の一騎討ちの場面を再現された銅像が飾られている。「本堂」に 旅の安全をお願いし、遠くにそびえる「五重塔」を眺め一息付く。
「宝物殿」に行くと「須磨寺」に関連する宝物が展示されている。たくさんあり、目移りするが「青葉の笛」も展示されており、 O君が歌った「一の谷の軍破れ・・・・」がバックグラウンドで流れている。

仁王門

源平の庭

平敦盛像

青葉の笛 説明


「須磨寺」を後にして、山を下りながらもう少し源平の史跡を巡ることにする。
西に向かって坂を降りていると光源氏がわび住まいをしていたと云われる「現光寺」が建ち、入口には「源氏寺」と彫られた大きな石碑が 立っている。
山陽電鉄の高架下を抜けて国道2号線との合流点に「村上帝社」が鎮座する。琵琶の名手であった藤原師長が、 入唐して奥義を極めたいという志を持って、須磨まで来た時に、村上天皇の精霊が老夫婦の姿となって現れて、師長に琵琶の神技を聞かせ、 渡唐を思いとどまらせたという伝説がある神社であると。ガードを抜けて北に進むと「琵琶塚」が立っているので、 神社は線路に分断 されたようだ。

源氏寺の石碑 現光寺

村上帝社

琵琶塚


「琵琶塚」から急な坂を上って行くと「関守稲荷神社」が鎮座する。「須磨の関跡」といわれてきた場所で、境内に「長田宮」 と刻まれた大きな石碑が立つ。百人一首でも有名な「あはじしま かよふちどりの なくこゑに  いくよねざめぬ すまのせきもり」の碑も立っている。
再び、旧街道に戻り、国道2号線を西に向かう。須磨浦が広がり、JR山陽線・国道2号線・山陽電鉄が須磨山の間にひしめいている。 「須磨浦公園」の中に入ると「安徳宮」の案内に従って、山側に山陽電鉄のガードをくぐって進むと山肌にジグザグの階段があり、 半信半疑で上って行くと穏やかな須磨浦海岸が曇り空の中に広がっている。

関守稲荷神社 説明

長田宮の石碑

須磨浦海岸


階段を上り切った所に「安徳帝内裏跡伝説地」の小公園となっていて「安徳宮」が鎮座する。安徳帝は平家一門に奉じられて西走の途中、 一ノ谷に内裏を置かれたと伝えられている所だ。
横には昭和9年、中村直吉氏が3つの女学校に寄贈した「皇女和宮像」の一体がある。「中山道」を歩いていると再三目にする皇女和宮の 史跡がこんな所にあるとは思わず驚いた。 階段を降り、元の場所に戻ると「源平史蹟 戦の濱」碑がある。源平一ノ谷の合戦跡で、平家の陣があった場所だと。まだ桜の蕾も固い 静かな「須磨浦公園」の中を西に向かう。

安徳宮 説明

皇女和宮像

須磨浦公園 源平史蹟碑


敦盛塚 説明

須磨浦ロープウェイの乗場を過ぎ、国道に戻り、少し進んだ右手の奥に「敦盛塚」が祀られている。花崗岩製で、総高4m近い大きさで、 中世の五輪塔としては石清水八幡宮五輪塔に次ぎ、全国で2番目の大きさだと。平敦盛の供養塔という伝承から敦盛塚といわれている。
狭い歩道の国道を淡々と進む。曇り空で段々と寒さを感じて来て、疲労が増して来る。
JR塩屋の駅が近くなり、次の駅まで進むかと検討するが、本日はここまでとして紀行を終えることにする。今日の歩行歩数は31000歩だった。 「山陽道」の紀行よりも「平清盛」「源平合戦」の史跡巡りが多かったが、有意義な紀行だったと満足する。(16:20)

「山陽道No2」の「紀行スライドショー」

塩屋駅付近には店がないので、三宮のO君が知ってる店があるので、三宮に向かう。ビルの地下にある「市場の居酒屋・丸吉」を探して乾杯する。 中島らもの「せんべろ・・・」にも載った店で、親父と楽しく話しながら「せんべろ」(千円でベロベロになる位安くて旨い店)を楽しむ。
気分良く、JR尼崎駅でO君と別れ、19時過ぎに帰宅する。






    
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