○ 「山陽道No5」見聞録(御着〜斑鳩寺)・(距離 19.8km(今回)/ 178.8km(累計))

  1.御着〜斑鳩寺・(19.8km) 2012.03.21 9:10〜16:40 晴れ時々曇り


西国・山陽道全行程.Map

「御着〜斑鳩寺・行程MAP」

地図の再生ボタン()を押すと
見聞ルートに沿って歩行出来ます。
クリックすると拡大します。(街道歩き旅.com HPより借用)

「山陽道」5回目の紀行も前回と同様の穏やかで気持ち良い天気の中、O君と2人でJR御着駅から実施する。
尼崎駅でO君と新快速に合流し、加古川で鈍行に乗換えて、御着駅まで進む。
9時10分、前回の旧街道に戻り、スタートする。旧街道を進むと山陽本線の踏切を渡るが、その先にも踏切があり、高架橋に上っている。線路の 幅を確認すると広軌なので、新幹線の工事車の待避線だろうと話しながら進む。
少し先の道角に「山陽道道標」が立っている。ペンキも禿げているが、大阪から初めて見る姫路市が立てた「山陽道道標」に姫路からは 「山陽道」なのだろうと。所々に旧家が残る静かな道を進むと「山陽道一里塚跡」の標識が立つ。「一里塚」跡の標識もいつ見たか思い 出せない位だ。

山陽道道標

旧家が残る静かな道

山陽道一里塚跡


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

空は晴れているが、風か冷たく感じられる旧街道を進むと「仏像が彫られた道標」が立ち、「右やかじぞう 是より一リ」と彫られている。 左の山沿いの高台に観音坐像を上に置く「廻国塔」が祀られ、その横には祠も祀られている。山裾に建つ史跡は旧街道の趣きがある。
その先左手山裾に大きな「題目石」が立ち、すぐ先には、「溺死者供養塔」が立っている。市川洪水による犠牲者を祀るもので、 408人もの犠牲者を出した大洪水だったと。数年前、市川の上流ではないが、作用町が大洪水で犠牲者を出したことを思い出し、 古来より、この地域は洪水があったのだと。

仏像が彫られた道標

廻国塔 説明

溺死者供養塔 説明


道なりに進み、JRの高架下を抜け、国道2号線に出る。本来の渡し跡はないようなので、市川を市川橋で渡り、堤防を降りた所で右に進む。 道が広くて間違ったようだが、スーパーで確認し、大型電気店のから左の小道を進むと「地蔵院」が建っている。境内には「石棺仏」が 祀られているとのことだが、境内に入れず、未確認だった。
旧街道を進み、JR播但線の高架下を抜け、右に進むと京口駅となり、その前の道を左折すると姫路城の細い外堀を京口橋で渡ると 東光中学校のフェンスに「外京口門跡」の案内板が立っている。ここが「姫路宿」の東の入口に当たるのだと。  

市川

地蔵院

外京口門跡 説明


西に向かい、姫路城中濠に突き当たる手前の道を左折し、大手門に通じる広い道と国道2号線を横切って一つ目のT字路を右折する。 2筋目を右折して進むと商店街のアーケードになり、まだ朝が早いが賑わっている商店街を抜ける。姫路駅前の商店街は駅から城に向かって 南北に3本もあり、旧街道の東西の道も賑やかで、シャッター街となっていないのは見事だ。
旧街道は姫路城に通じる広い道を渡る。現在、姫路城は改修中で、白鷺城の優美な姿は見られないのは残念だ。今回は見学をパスして 西二階町商店街を進むと可愛い「千姫」のマスコット人形が交通安全を訴えている。そう云えば、姫路城の回廊に「千姫」の大きな人形が 飾ってあり、驚いたのを思い出す。商店街には落語の寄席も設けられ、入口に人だかりが出来ているのにも驚く。

商店街のアーケード

姫路城

千姫のマスコット人形


商店街を抜け、船場川の橋を渡って右折して川沿いに国道2号線を渡って進むと、姫路城の中堀の公園につながり、そこで一息入れる。 (11:00-11:10)
横の空掘の桜は、まだ蕾も固く、ピンク色は見られず、春は遠いと感じる。ここの小径は「千姫の小径」と云われているようで、少し地道を 楽しみ、「西国街道」と書かれた大きな道標に従って左折する。御着の所には「山陽道」となっていた道標がまたもや「西国街道」に 戻ってしまったと話しながら道を渡る。

船場川

中堀の公園

西国街道の道標


道の右角の家に「船つなぎ石」があると案内板に書かれているので、庭をのぞいて見ようとするが、どの石だか分からず、それらしき石を パチリと。
龍野町の雰囲気のある街並みに入る。左の立派な旧家は江戸時代の建物で、市指定景観重要建築物となっており、北原白秋に師事した 「初井しづ枝」の家でもあると。表札に「初井しづ枝」と書かれているが、詳しくは知らない。
古い街並みを楽しみながら、西に向かうと丘に突き当たり左折する。昔、ここに飾磨県庁があったと。

船つなぎ石(?) 説明

立派な旧家

龍野町の街並み


左折した旧街道は右折し、さらに左斜めに進むと右手に「表忠碑道」の石碑が立つ。
西に向かい、水尾川に架かる車崎橋を渡って進むと植樹とカラー舗装された遊歩道があり、「手づくり郷土賞」を受賞した道のようだ。
道なりに進むと「題目石」があり、「高岡村道路元標」と「御大典記念碑」が立っている。史跡が点在しているので、楽しく歩けるのは 嬉しい。
更に「式内高岳神社」への石碑が立ち、すぐ先左手には「双体地蔵尊」が祀られている。「中山道」で見る「双体道祖神」とは違っているが 「双体地蔵尊」は珍しいかと。
今宿西の信号で国道2号線に合流する。そろそろ昼食場所を探さねばと国道筋を見るが見当たらず、JR高岡駅前に食堂を見つけ立ち寄る ことにする。名物の「かき定食」を頼み、テレビで高校野球を観戦する。出て来た定食を見て豪華なのに驚く。刺身も付いていて、播磨湾で 養殖された「かき」も美味しくパクパクと食べ、一息入れる。(12:00-12:30)

表忠碑道」の石碑 手づくり郷土賞

双体地蔵尊祠 拡大

かき定食



「山陽道No5@」の「紀行スライドショー」

満ち足りた気分で国道に戻り、JR姫新線を高架で越える。高架を越えて右斜め前方の旧街道に進む。
下毛野の集落にも古い民家が落ち着いた街並みを造っている。道なりに進むと水路の右に「圓光大師二十五番霊場」道標が立つ。 「右第一番みまさか誕生寺道」「左たつの道」等と刻まれ、竜野の地名が出て来た。
少し進んだ所に「一里塚跡」の案内板が立っている。「山陽道一里塚」と記されているので、「山陽道」が一般になったのかと。
更に進むと左手民家横には大きな「金毘羅山常夜燈」が立つ。ここが「夢前(ゆめさき)川の渡し場」だったと。左に曲がり、国道2号線で 夢前川を渡る。

下毛野の街並み 圓光大師の道標

一里塚跡

金毘羅山常夜燈 夢前川


夢前川を渡っていると涼風が気持ち良い。この上流に「書写山園経寺」があるのだと話しながら渡り切り、直ぐの道を右に曲がり、 先程の「金毘羅山常夜燈」が立っていた位置まで戻る。この辺りに、渡し跡の史跡があるかと河原まで降りて探すがないようだ。
旧街道の延長線となる角に「大きな道標」か立つ。備前・金毘羅、姫路・大坂等への里程を刻んでいる。
む。「圓光大師二十五番霊場 美作國・誕生寺道」と刻むので特に法然の巡礼を意識した道標と考えられる。 その向かいに「立派な旧家」が3軒並んでいる。その1軒には「かめや」の屋号が掲げられている。旧街道の静かな道には、菜の花も植えられ、 黄色い花が祖き誇っている。春だ。
少し進むと「稲岡神社」の大きな石の鳥居が迎えてくれる。春の息吹を感じながら西に向かう。

大きな道標 拡大

立派な旧家

稲岡神社の鳥居


道なりに進むと右手民家の裏に「薬師堂」が祀られている。少し分かりにくかったが、「史蹟宗全寺跡」で山名宗全と関係があると。 西に向かって進むと立派な松が塀に這っているのを見たりと快調に進むと国道2号線と合流する。
しばらくは国道を歩くが、この辺りは車も少なく危険はない。次に「山田峠」越えと初めての峠越えになるので期待していたが、道を 間違えて右の道に入ってしまう。人に聞き、反対側の国道の左側の坂道を上って行く。
期待した地道ではなく、舗装道路だが、静かで気持ち良い。右下の青山ゴルフ場が見なから上ると「順海寺」への参道があり、 「播磨四国第十二番霊場」碑と「順海寺」石碑が立っている。緩やか上り坂を上り切ると「山田峠」の頂で、太子町に入る。 「山陽道山田峠」の標識には「山陽道」と記されていたのを見ると、これからは本格的な「山陽道」となるのだろう。

薬師堂

山田峠の坂道 順海寺石碑

山陽道山田峠


初めての峠越えはあっと云う間に終わり、坂道を下ると道は二股になり、右に進む。山田集落に入り、左手の旧家の前に 「明治天皇山田御小休所」の碑が立つ。
国道2号線バイパスの高架下をくぐって進むと再び、国道2号と合流する。その直前の道の左右の高台に「南無妙法蓮華経」と刻む「題目碑」 が向かい合って立っている。 歩道が複雑になっている国道を進む。次の目標「桜井乃水」を目指すが、分からず墓地の傍で一息入れて作戦会議。(14:15-14:20)
少し国道を進み、「きたやま公園」沿いに右への旧街道を進むと、再び国道に合流し、「原西」の信号から右に入って行くと立派な家があり、ご主人が 草抜きをしておられ、挨拶をして坂道を上ると竹藪の中に「桜井乃水」の碑がある。「播磨十水の一」だと。

明治天皇山田御小休所の碑

題目碑

桜井乃水の碑 井戸


少し進んだ墓地入口には「廻国供養塔」等が立っているのを確認して、のどかな原坂集落を下って行く。
田園風景を楽しみながら進むと「黒岡神社」の鳥居が立ち、その先には行基作と伝える「子授け延命地蔵尊」が祀られている。 少し疲れて来たので、地蔵堂の前のベンチで一息入れ、今日の行程をどうするか相談する。(14:30-14:40)

鵤荘ぼう示石 説明

道なりに進み、大津茂川を渡り、太田小学校の前を通る。この辺りに「鵤(いかるが)荘ぼう示石」があると云われているので、探すが 分からず、保育園の先生が出て来られたので尋ねると保育園と小学校の間の道を上るとあると。教えられた通り進むと「鵤荘ぼう示石」と 祠が祀られている。
聖徳太子は、35歳の時、推古天皇の前で、勝鬘経というお経を解説するお話をされ、よろこんだ天皇に、播磨のこの地をいただき、 法隆寺に納めました。その地が鵤荘で、中世播磨の地誌『峯相記』によると、太子はこの地に下って、荘園の四方の境にぼう示の石を置き、 寺を造って斑鳩寺と名づけ、行道の峯(檀特山)に御馬をつながれたとあります。
やがて、このお話は、太子が檀特山から石を投げ、その範囲の土地をいただいたという話に変わって伝えられました。その檀特山の上から 投げた石、「投げ石」と伝えられている石のうちの2ヶ所が、これらの石です。平方の 投げ石(平方のぼう示石)・鵤北山根の投げ石(福田のぼう示石)とともに、鵤荘ぼう示石として、兵庫県指定文化財に指定されました。 (太子町HPより)

「いかるが」の漢字は「斑鳩」と思っていたのが、「鵤」と云う字もあることを知ると共に地名にもなっていることも知った次第だ。 また、「聖徳太子」の名前が現れたのも太子町だからだと。大阪府にも太子町があり、「聖徳太子」所縁の地は散らばっていることも 理解する。

廻国供養塔 黒岡神社の鳥居

子授け延命地蔵尊 地蔵尊

鵤荘ぼう示石の祠


少し進むと、またまた国道2号線と合流して東保の信号の次の辻を左斜めに入って行くと「鵤宿」となる。
「鵤宿」の街並みを進むが、史跡らしいものは何もなく、「山陽道」の宿場は「中山道」と比べると寂しい限りだと。雰囲気のある 旧街道の県道を渡った所に「斑鳩村道路元標」が立っている。
少し進んだ道角両方に「聖徳皇太子」と刻まれた「常夜燈」があり、「斑鳩寺」への参道となっている。
反対の山裾には「大師堂」と「地蔵堂」が祀られている。

鵤宿の街並み 道路元標

常夜燈

大師堂 地蔵尊


今回の紀行計画では相生まで行こうとしていたが、エスケープルートとして「斑鳩寺」からバスでJR網干駅に行く行程を検討していた。 ここから相生までは約6kmあるので、無理はしないでおくことにして、「斑鳩寺」に参拝して、バスで帰ることにする。バスの時刻までは 余りないので、急いで参道を通り、「斑鳩寺」に向かう。

斑鳩寺・仁王門

1,400有余年前の推古天皇の時代、聖徳太子が勝鬘経、法華経などを天皇に講じられ、これに御感あった天皇より播磨国の水田を賜り、 太子はこれを仏法興隆のため法隆寺に寄進されました。
後の平安時代に、この地は法隆寺の荘園「法隆寺領播磨国鵤荘(いかるがのしょう)」へと発展し、その中心に荘園経営の中核的存在として、 政所とともに斑鳩寺が建立されました。

斑鳩寺・三重塔

この創建以後、鵤の地はながく、この地方の太子信仰の中心としても栄え、播磨の国の中における特異な文化興隆地域を形成することに なりました。
斑鳩寺は、往古には七堂伽藍、数十の坊庵が甍を並べ壮麗を極めましたが、出雲の尼子氏の侵攻で播磨が混乱していた天文10年 (1541年)、不慮の火災により、諸堂が灰燼に帰しました。その後、講堂、三重塔、太子御堂(聖徳殿)、仁王門などの伽藍が復興され、 現在に至っています。 また、木造聖徳太子立像をはじめ、木造日光・月光菩薩立像など多くの重要文化財が残されています。 (太子町HPより)

「仁王門」の仁王様に目礼して境内に入ると「三重塔」が青空にそびえて美しい。本堂に参拝しする。本堂の中の外れに 「賓頭盧尊者像」が祀られている。釈迦の弟子だが、破門されたため堂内に祀られていないと。

仁王・左 仁王・右

賓頭盧尊者像 説明

斑鳩寺・本堂


もう少しゆっくりと参拝・見学したい所だが、バスの時刻が迫っているので、急いで鵤バス停に向かう。

「山陽道No5A」の「紀行スライドショー」

今回の紀行はそんなに史跡もなく、国道歩きが前回より多くて疲れも大きかった。しかし、姫路から太子町に至り、随分遠くまで 来た感じだ。初めての峠越えもあったが、地道ではなく、次の機会を期待したい。

1時間に1本のバスに乗ることが出来、網干駅に到着して、次回のバス野時刻を確認する。朝の適切な時間のバスがないようだ。 駅前は何もなく、15時43分発の列車で三宮に向かう。今日の歩行歩数は33000歩だったが、舗装道路ばかりで、結構足に疲れが残る。 三宮の居酒屋で乾杯し、次回の約束をして尼崎で別れる。






    
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