○ 「西国街道・再紀行A」見聞録(石橋〜富田)・14.7km

  1.石橋〜富田・(14.7km) 2017.03.22. 10:00〜16:45 曇り時々晴れ


西国・山陽道全行程.Map

「石橋〜富田・行程MAP」

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見聞ルートに沿って歩行出来ます。
クリックすると拡大します。(街道歩き旅.com HPより借用)

昨年6月に、「旧山陽道」を踏破した小学校以来の友人O君・N君と「西国街道」を西宮から京都まで逆打ちしようと西宮〜石橋まで歩いた。 次は秋に実施しようと話していたが、それぞれに事情が発生し、遅れ遅れとなったが、一段落したので久し振りに続きを歩くことにした。

阪急石橋駅

住宅街の旧街道

10時、前回終了地点・阪急石橋駅集合で、まだ肌寒い中、第二回目の「西国街道・再紀行」をスタートする。
久し振りの再会で、お互いの近況報告をしながら阪大下交叉点 を渡って「西国街道」の細い道に入って行く。
前回もそうだったが、「西国街道」は国道171号線に沿った旧街道として残っているのは嬉しい限りだ。
少し進んだ右に「春日弁財天社」の祠が祀られている。旧街道の風情を残す史跡だ。その先、国道に出て、再び住宅街の旧街道に入って行く。
阪急箕面線を渡り、国道171号線の高架下を抜けると静かな住宅街が連なり、梅かと思ったら早咲きの桜が満開だ。春は近い。
風は冷たく感じるが、歩き始めると身体は徐々に暖かくなり、旧家の残る旧街道を進む。前回歩いた時には気付かなかった「←昆陽宿・郡山宿→」の 道標が立っている。行政も史跡の整備に力を入れ始めたのか。

春日弁財天社

旧家の残る旧街道 早咲きの桜

←昆陽宿・郡山宿→ 道標


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

道なりに進むと左の箕面自動車教習所の横に「瀬川・半町立会駅所と本陣跡」の案内板が立っているが、本陣跡の面影は残っていない。教習所の広い 敷地が、その名残かと。
古い家が立ち並ぶ旧街道を進むと左に「歴史の道 西国街道」の標識が立っている。これも以前にはなかった標識で、前回2012年1月に歩いているので、 5年間で整備されたようだ。旧街道歩きには嬉しい指標だと喜ぶ。

瀬川・半町立会駅所と本陣跡の案内板

古い家が立ち並ぶ旧街道

歴史の道 西国街道の標識


道なりに進み、阪急箕面線の踏切を渡る。右に大きな木が植わっている。「一番通りの保護樹木」に指定されている楠のだと。その先左に大きな 「八幡宮」の石鳥居が立っている。
更に進むと四辻に「牧落の旧札場と道標」の案内板と道標が立っている。「西国街道」と「箕面・大坂道」の交わる四辻だと。大阪から箕面へは この道を進んだようだ。やがて、旧街道は国道171号線に合流し、牧落交叉点を越えた所から右の細い道に入って行く。

一番通りの保護樹木

八幡宮の石鳥居

牧落の旧札場と道標


国道沿いに旧街道が真っ直ぐに通じている。道沿いには「西国街道」の標識が所々に立ち、道標となっている。箕面に住むN君が、少し寄り道を しようと右の細い道に入って行く。
道の奥に「教学寺」が建ち、境内には 「三島海雲翁頌徳碑」が立っている。三島海雲氏は、明治時代蒙古に渡り、酸乳よりカルピスを発明した方だと。カルピス発明の父なる人だ。カルピス発明の 歴史に触れらるとは思わなかったので、新鮮な紀行となった。

真っ直ぐに続く旧街道

西国街道の標識

教学寺 頌徳碑


旧街道に戻り、西に進む。道横には、小さなお地蔵様がたくさん祀られている祠も建ち、旧街道の趣いっぱいだ。
右に田園風景が開け、今までの旧街道と違った景色を楽しみながら、遠くにそびえる千里中央付近のビル街を眺める。「西国街道」の道標設置で 分かり易い旧街道を進む。 この辺りの家は、豪邸ばかりが並んでいる。その一角に標識を見付け、確認すると「芝村の高札場跡」で、放火・キリカト教・偽金銀の使用禁止等の お触書が掲示していたと。

小さなお地蔵様

田園風景

芝村の高札場跡 豪邸


豪邸の旧街道を進むと右に「萱野三平旧邸」が建っている。

萱野三平旧邸

西国街道沿いに萱野三平が自害したと伝えられる長屋門と土塀の一部が、萱野家と地元の人々の努力により伝え残されています。
三平の父重利が代官の推挙により播州赤穂の浅野家に仕官しました。 ところが元禄14年(1701)江戸城松之廊下で浅野内匠頭の刃傷事件があり、 厳しい幕府の処分を受けました。
赤穂事件後、三平は大石内蔵助を中心とした仇討ちの同士に加わり、三平を推挙した大嶋氏へ迷惑がかかることを心配した父が仇討ちに 反対し、 三平は同士との板挟みに苦しみました。
そして、討ち入り前の元禄15年(1702)1月14日同士の目的達成を念じつつ自宅長屋門の一室で自害し、 27年の生涯を閉じました。 (箕面市HPより)

この萱野に生まれた萱野三平が、忠臣蔵で有名な刃傷事件の仇討に参加するかで、仲間と父親との板挟みで自害した場所だと。
立派な門から入ると 受付もあり、邸内を見学する。
庭園の中には「義士萱野三平」の碑も立ち、座敷には「萱野三平像」が祀られている。地元の英雄なのだと思いながら、一息入れる。

萱野三平旧邸の白壁

萱野三平旧邸屋敷

義士萱野三平の碑


旧街道は緩やかに左に曲がり、国道171号線に合流する。萱野交叉点を渡って少し先から右の細い道に入って行く。
国道から離れるので、そろそろ昼食場所を探さねばならないと思いながら進む。この辺りの家並みも立派な屋敷が多く、裕福な集落だったのだろうと 想像する。左に小さな神社が祀られているのを見て、並行する国道をチェックすると「すきや」があるので、国道に出て昼食とする。
丁度昼時で、店内は満席だ。4人掛けのテーブルに座り、豚汁定食を美味しくいただく。(11:50-12:20)

右に入る旧街道

小さな神社

豚汁定食


旧街道に戻り、静かな道を進むと「→勝尾寺大鳥居」の標識を確認する。その先には「箕面墓地公園」の墓地の間に旧街道が通っている。少し先左には、 「勝尾寺の大鳥居」が立ち、北に向かって勝尾寺の参道が続いている。
右の家の軒下に、木の手桶が10個程吊るされている珍しい光景に、何のためだろうと話すが分からない。少し先の右に「金比羅常夜燈」が立ち、旧街道の 風情を残しているのを確認して進む。

→勝尾寺大鳥居の標識

勝尾寺の大鳥居

金比羅常夜燈 軒下の手桶


この辺りの街並みは旧街道の風情が残り、気持ち良く進むと道角に「楠水龍王宮」の祠が祀られ、前には「伊勢神宮常夜燈」や 「左 京ふしみ道」と記された道標が立っている。「伊勢神宮常夜燈」は、「伊勢本街道」を歩いた時、立派な常夜燈を見たことをO君と話し合う。 その先左には「春日神社御旅所」があり、道なりに進むとモノレールの高架下を抜けて、豊川駅に至る。

旧街道の街並み

楠水龍王宮 道標

春日神社御旅所


静かな旧街道を進むと「春日神社の常夜燈」が立ち、その奥には神社が鎮座している。

郡山宿本陣跡

街並みを楽しみながら進むと左の宿川原西会場の前に「勝尾寺への道標」が立つ。箕面の滝の近くにある勝尾寺への道標なのだ。
石畳の道を進むと「郡山宿」の本陣跡「椿の本陣」と云われる立派な屋敷が建つ。享保3年(1718)火災にあったが、建て直されて 江戸時代の本陣の ほぼ原形をとどめている建物として、国指定史跡となっている。
浅野内匠頭も宿泊し、宿場の面影を残す郡山宿本陣。参勤交代の往時のにぎわいが感じられる江戸の世界へご案内いたします。 西国街道は、京都と西国を結ぶ重要な道であり、江戸時代には西国の大名が参勤交代の時によく利用しました。 京都から西宮までの街道沿いには、 山崎・芥川・郡山・瀬川・昆陽の五つの宿場があり、 郡山宿本陣は、そのまん中にある宿駅として、 重要な役割を果たしてきました。 また御成門のそばにあった椿の木が、毎年五色の花を咲かせたことから、「椿の本陣」とよばれ、 人々に親しまれています。(茨木市HPより)
「西国街道」の中でも、立派な本陣跡が残っているのは、この辺りでは「郡山宿」だけであり、屋敷の横の椿の木から「椿本陣」と呼ばれることが 分かる。
まだ咲いている椿の花を愛で、反対の本陣横の柱には「馬つなぎの鎖」が残っているのは旧街道の本陣らしい。

春日神社の常夜燈

勝尾寺への道標

椿の本陣 馬つなぎの鎖


「郡山宿本陣跡」から進むと国道171号線を渡って勝尾寺川沿いに進むと古い街並みが続く。
府道110号線との交叉点手前左に「中河原の道標」が立っている。 東へは芥川一里、山崎二里 、京都七里等示されている。西国街道と亀山街道の交叉点なのだ。横には茨木城主であった「中川清秀由緒地」の 碑も立っている。
交叉点を渡り、道なりに進むと茨木川に当たり、渡った所の小さな公園の中に「白井河原の合戦場跡」の案内板が立っている。摂津の国の内紛のようだがで、 合戦の名前も知らなかったが、茨木・伊丹と池田が 戦ったのだと。今の市町村が当時争っていたのには知らなかった。 内板の横にたくさんの地蔵尊が祀られている。

中河原の道標 道標

茨木川

白井河原の合戦場跡


道なりに進むと左に「法華寺」を確認し、旧家の門構えの素晴らしさを見ながら進むと「阿為神社御旅所」が鎮座する。この辺りも史跡が点在して いるのは嬉しい。三人で色々なことを語り合いながらの紀行は、「旧山陽道」紀行時の想い出も含め、楽しい時間だ。 この「西国街道」を京都まで行った後はどうするかとも話し合う。「山陰道」も一つの考え方だと、姫路から北or西に進み、鳥取・島根方面に行こうと 計画は膨らむ。
文字の詠めない古い「道標」を確認し、名神高速道路の高架下を抜け、安威川に架かる太田橋の横の歩道専用の太田橋を渡って進む。

法華寺

阿為神社御旅所 道標

安威川


更に進むと立派な「地蔵堂」を見て、古い家並みの旧街道を進むと右に広い東芝の工場跡の広場が広がっている。この付近が「雲見坂」 と云われる緩やかな坂道を上って行くと「太田神社の常夜燈」が迎えてくれる。
そろそろ疲れが出て来たので、高槻まで進むのは厳しく、適当な所でバスていがあれば、JR摂津富田に向かおうと決めて、藍野大学を 抜けて進むと広い道があり、土室南バス停があったので、本日の紀行はここまでとする。(14:45)

地蔵堂

雲見坂

太田神社の常夜燈


富田の居酒屋

久し振りの三人の紀行に満足して、バス停のベンチで一息入れる。
バスでJR富田駅に向かうが、まだ時間が早いので、乾杯する居酒屋が開いていないので、探しながら阪急富田駅に向かう。
駅の近くに居酒屋を見付け、ガラガラの店内で生ビールで、乾杯する。前回から半年以上過ぎているので、本当に久し振りの乾杯だ。
「旧山陽道」紀行の最終地点・下関での「ふぐ料理」、「京街道」踏破時の京都の行列のできる居酒屋での乾杯等々、長い間の付き合いは楽しい ものだ。
秋に開く予定の小学校の同窓会についても情報交換し、楽しい時間を過ごす。
N君とは阪急富田駅で別れ、同じ方向に進むO君と高槻に行き、駅構内の居酒屋で二次会。しっかりと乾杯してお別れする。

次回は、今回の続きで適当な所まで歩くとともに、「山陰道」の情報を仕入れで計画を練ることにする。今日の歩行歩数は、28800歩だった。






    
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