○ 「西国街道・再紀行B」見聞録(富田〜山崎)・11.2km

  1.富田〜山崎・(11.2km) 2017.04.22.10:10〜14:00 晴れ


西国・山陽道全行程.Map

「富田〜山崎・行程MAP」

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見聞ルートに沿って歩行出来ます。
クリックすると拡大します。(街道歩き旅.com HPより借用)

前回歩いてから1ケ月経過した。お花見の予定も終わったので、次の行程を進もうと調整した結果、土曜日だが実施することにする。前回の最終地点から 紀行のご褒美として、サントリービール京都工場まで歩き、出来立てのビールで乾杯する楽しい計画にした。
9時30分、阪急富田駅集合で、JR富田駅まで歩き、バスで前回の最終地点・土室南まで向かうことにする。バス停の案内の人に教えられたバスに乗るが、 少し方向が違うようで、運転手に確認すると土室南は通らないので、土室で降りて歩くのが良いと。指示通り、広い道を土室南まで歩く。
1時10分、前回の最終地点から紀行をスタートする。旧街道らしい細い道が残っているのを感謝しながら、春の陽射しを浴びて進む。旧街道はうねうねと 曲り、その雰囲気は昔の道筋と同じように感じる。その先の道角に「妙見道」の道標が立ち、横には、高槻独特の「高槻まちかど遺産」の小さな説明碑が 立っているのは有難い。

旧街道

うねうね曲がる旧街道

妙見道道標 説明碑


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

旧街道の雰囲気を味わいながら、楽しく語りながら進むと長屋門のある立派な屋敷も建っている。旧街道だ。
やがて芥川に近付く。橋の袂には「地蔵堂」が祀られ、常夜燈が立っている。北摂の山々を望みながら、揺るかに流れる芥川を渡る。 この川上には毎年鯉のぼりが川を渡って飾られているが、もう直ぐ5月なのに、その姿は見られない。
川を渡った左に「橋詰地蔵尊」が祀られ、「愛宕山献灯」が立っている。「愛宕山信仰」の常夜燈は、これから京都に向かう途中には良く見られる 常夜燈だ。

地蔵堂と常夜燈

芥川

橋詰地蔵尊と愛宕山献


「橋詰地蔵堂」の前には「金毘羅大権現・常夜燈」が立っている。この辺りでも、金毘羅さん信仰が根付いているのに驚く。少し先の道角に、石垣跡が 残っている。標識がないので分からないが、高槻城の出城跡ではないだろうかと推測する。
高槻市の街中に入って来たが、旧街道はそのままの形で残っており、左に立派な屋敷が建っている。その背景には、高槻駅前に建つ高層マンションの姿も見え、 新旧混じった高槻の街並みだ。左に「子安地蔵堂」が祀られ、「愛宕灯篭」が立っている。地蔵堂や常夜燈が多い旧街道「芥川宿」を楽しむ。

金毘羅大権現・常夜燈 石垣

旧家と高層マンション

子安地蔵堂と愛宕灯篭


少し進んだ先は、枡形になっており角には「芥川一里塚」碑が立ち、「地蔵堂」が祀られている

芥川一里塚 説明

今まで歩いて来た旧街道からこの辺りが「芥川宿」の中心であったのだろう。
西国街道は、8世紀の山陽道の後身にあたり、約8.1kmにわたり市域を東西に貫いています。京から大宰府に通じ、淀川とともに三島地域の 政治・経済に大きな影響を及ぼしました。現在の道筋は、14世紀ごろに固定化したとみられ、三好長慶や高山右近、さらには織田信長、 豊臣秀吉らが駆け抜けた道です。
江戸時代には脇街道として「山崎通(やまざきみち)」と呼ばれ、京都・山崎と西宮間を結んで西国大名の参勤などに利用され、 同時に京坂間の交通路として重要な役割を果たしました。
街道沿いには、一里塚が設けられ宿場が整えられていました。一里塚とは、1里ごとに街道の両脇に塚を築き、エノキを植えて、 街道の路程の目印としたものです。市域では梶原と芥川にありましたが、現在は旧芥川宿東口の東側だけに残り、 府の史跡に指定されています。 (高槻市HPより)

枡形を曲がり、その先右に曲がる枡形の角に祠が祀られ、横に「芥川仇討の辻」の案内板が立っている。
賎ヶ岳七本槍の一人加藤嘉明の曾孫14歳の 助三郎がこの辻で親の仇討をしたと。歴史のある「芥川宿」だ。
その先には「うだつ」のある旧家が建っているのを観ると高槻は古い街だと実感する。この辺りは、高崎駅前の高層マンション建設時、拡幅工事が行われ、 広い道が設置されて車の往来も便利になった。JR高槻駅に通じる道の反対側には「上宮天満宮」の大きな鳥居が立っている。

芥川仇討の辻

うだつのある旧家

上宮天満宮の大きな鳥居


この先の旧街道には食堂がないので、西武百貨店で昼食にするかも検討したが、まだ早いので、コンビニで弁当を買っても良いのでは話し合い、 西武百貨店、高槻病院の前を通って、京都方面に向かう。

能因塚墳

安満遺跡

新しく関西大学の校舎が建ち、大きく変貌した旧街道の右に「能因塚墳」と「地蔵堂」が立っている。
街並みは変わっても旧街道の道幅や雰囲気が 残っているのは嬉しい。少し進んだ左にコンビニがあり、そこで昼食の弁当・おにぎりを調達して、JRの線路をくぐって、「安満遺跡」の広場に向かう。
考古学に詳しいN君は、「安満遺跡」の発掘調査の説明会にも参加するほどの熱心さだ。この遺跡は、日本で初めて稲作が行われた場所との説もある 有名な弥生時代の遺跡だと。地元に居ても、詳しく知らないのは恥ずかしい。
元京大農場の洋風事務所の前で、遺跡の話を聞きながら昼食にする。甲子園球場5個分の広さを持つ「安満遺跡」は公園にする工事中で、その先には 高槻駅の高層マンションを眺めながら、話ながら昼食を楽しむ。(11:30-12:00)
昼食後、公園になる田圃道を進み、JRの踏切を渡って旧街道に戻る。何時も買物で車に乗っている狭い旧街道を進むと右に「山手町薬師堂」が祀られている。
檜尾川を越え、山沿いの細い旧街道を進むと梶原集落の立派な旧家が立ち並ち並んでいる。小型のバスが通過する狭い道の前方に、高架道路が通じている。この道路は 新名神高速道路開通に合わせて、高槻JCT・高槻ICと結ぶ接続道路だ。高槻JCT工事の影響で、長年やってきた家庭菜園が閉園となった道路なのだ。 新名神高速は、今年の秋に一部開通する予定なので、高槻ICから京都方面への国道171号線と結ぶ道路となるのだ。

山手町薬師堂

梶原集落の立派な旧家

高槻ICへの接続道


暖かい陽射しを浴びながら、安満山・名神道路沿いの旧街道を進むと左に「畑山神社」が鎮座し、「一乗寺」が建っている。狭い道は、車の往来も多く、 R171の抜け道となっている旧街道だ。
その先左に「梶原一里塚跡」の「地蔵堂」が祀られているのを確認し、JRの高架下をくぐって上牧に向かう。

畑山神社

一乗寺 狭い旧街道

梶原一里塚跡・地蔵堂


上牧・水無瀬の住宅街を抜けると新しいJR島本駅が建ち、その前に「桜井の駅跡」の広場がある。

桜井の駅跡

現役の時、この「桜井の駅跡」の森の中にあった「青年の家」で合宿した想い出もある森は、島本駅や公園になり、昔の面影はなくなっている。
奈良時代の駅跡。また「太平記」にみられる桜井の子別れの舞台となった地でも知られています。
「建武の新政」に不満を持つものたちが足利尊氏のもとに集まり、挙兵しました。これに対し天皇は正成の策を入れず兵庫で 迎え撃つことを命じました。
正成は少ない手勢を率いて下向し、途中桜井において嫡子正行に「父が討ち死にした後もいつ族をまとめて 戦い続けることが忠孝である」と遺訓して別れました。 その後、正成は湊川において壮絶な最期を遂げました (島本町HPより)

土曜日なので、説明をするボランィアガイドが居られ、歴史的な説明をしていただく。熱心な説明を聞き、そろそろ終わりと云う時にO君が独特の駄洒落を 発する。
「ナンチョウなんだ・・・」と云うとガイドは「難聴なんですか?」と「南朝のこと」だと訳してあげると理解して大笑い。これからの説明に 使ってはと。
「桜井の駅跡」には、数種類の石碑・石像が残っている。それぞれの説明を聞き、次に向かう。
この辺りの竹林は、今が筍の出荷の盛りなのだが、露天は出ていなかったが、道脇には「筍の区分碑」が立ち並んでいるのは微笑ましい。 さすが、筍の町・島本町だ。
このHPを作成している時、関西の情報番組「ちちんぷいぷい」の「駅メロ物語」のコーナーで、島本駅の駅メロを扱っていた。駅メロは、サントリーウイスキーのCMで 耳にする曲で、小林亜星氏の作曲だと。サントリーウイスキー工場は京都だと認識されているのを島本町にあることを強調するため、町役場が推し進めたと。 島本駅で乗降する時には注意しようと。
また、「筍の町」として、HPに掲載した写真と同じ道路碑も写っていたので、嬉しくなった。

楠正成・正行父子の像

菊水紋の碑

筍の区分碑


ビール工場の見学時間が近付いて来たので、本来は工場まで歩く予定が難しくなった。手前の大山崎駅から一駅電車で進むことにし、歩行を早めるが、 見学しておかねばならない「水瀬神宮」に参拝することにする。

桜井の駅跡

旧街道から右に外れて「水瀬神宮」に向かう。
水無瀬神宮は、後鳥羽天皇・土御門天皇・順徳天皇を祭る神社です。
特に後鳥羽天皇はこの水無瀬の地を好んでいたらしく、配流された隠岐にあっても「水無瀬山わがふるさとは あれぬらん まがきは野らと 人もかよわで」というように水無瀬をしのんだ歌を残しています。
客殿は豊臣秀吉からの寄進で、造営奉行は福島正則と伝えられています。全体の形式手法は書院形式で、 規模、形式ともに標準的で比較的簡素な造りになってます。 また、昭和60年、大阪府下で唯一環境庁認定の「全国名水百選」に選ばれた離宮の水は古くから名水とされていました。 (島本町HPより)

参拝した後、離宮の水を求めてペットボトルに汲んでいる方の列に入り、美味しい水で咽喉を潤す。
この水は、地元の高校でラグビーをしていた二男の試合中の力水として、係の方が毎回汲んで、試合会場に持ってきてくださった有難い水だ。花園の全国 大会に出場した時も、息子たちはこの力水で元気をもらい、元旦のベスト16まで進めた思い出が湧いてくる。
楠正成・後醍醐天皇と南北朝時代の史跡が残る。この「西国街道」を京都まで踏破した後、三人で「出雲街道」を歩こうと話していた所なので、 後醍醐天皇の隠岐の島への配流の史跡もあるのではないかと話しながら進むと水無瀬川が流れている。
その先には、JR東海道本線の向こう側にサントリーウイスキー蒸留所がでんと構えている。

水瀬神宮・鳥居

水瀬神宮・山門

サントリーウイスキー蒸留所 水無瀬川


時間が迫って来たので、急ぎ足で大山崎駅に向かう。右に曲がる手前に「関大明神社」が祀られ、その横には「西国街道」の木製の道標と 「従是東山城國」と刻まれた石標が 立ち、ここから摂津国から山城の国の境界線となっていたことが分かる。現在でも、大阪府と京都府の 境界線となっているのだ。
右に曲がった左角には「離宮八幡宮」が鎮座しているが、時間がないので駅に急ぐ。13時55分に阪急・大山崎駅に到着し、本日の紀行は ここまでする。最後はあわただしい紀行だった。

関大明神社

従是東山城國の石標

離宮八幡宮 阪急・大山崎駅


一駅電車に乗り、西山天王山駅で降りる。駅前は「西国街道」となっており、計画ではここまで歩くことにしていたが、手前でタイムオーバーになったのだ。 サントリービール京都工場まで歩き、工場見学・試飲に臨む。
土曜日なので見学者が多く、2班に分かれての見学となり、稼働しているビール工場を巡る。前回来た時とは、説明内容も変わり快適だ。試飲では 3種類のビールを味わい、最高の紀行の締めくくりとなる。

サントリービール工場の展示室

ビール工場見学

工場内のシャクナゲ


シャトルバスで西山天王山駅に戻り、高槻駅で下車し、構内の居酒屋で二次会。最後のビールが美味しかったと話しながら、焼酎で今後の予定を話し合う。 まずは「西国街道」を東寺まで踏破した後、以前歩いた「旧山陽道」の姫路から姫新線に乗り、一つ目の播磨高岡駅から佐用・津山を通る「出雲街道」に トライしようと決定した。
良き友との紀行は、楽しく充実したものだと改めて実感する。






    
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