○ 「西国街道・再紀行C」見聞録(山崎〜京都)・13.0km

  1.山崎〜京都・(13.0km) 2017.05.30. 10:10〜14:00 晴れ


西国・山陽道全行程.Map

「山崎〜京都・行程MAP」

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見聞ルートに沿って歩行出来ます。
クリックすると拡大します。(街道歩き旅.com HPより借用)

「西国街道・再紀行」も最終行程となった。近場なので、ゆっくりと楽しんで進んでいたが、4回目で終えることになる。」 9時30分阪急大山崎駅集合に合わせ、高槻駅に行くとO君と出会い、大山崎駅に。N君も早目に到着し、約1ケ月振りの再会に握手。

安養院

天王山

9時15分、大山崎駅をスタートする。晴天で有難いが、夏日になり暑くなりそうだ。
新幹線沿いの旧街道は、緩やかに左に進むと左に「安養院」の案内板があり、鳥居の向こうJR高架下を抜ける所に建っているようだ。
その先左の青空の下には、「天王山」の雄姿が仰がれる。真っ青な空との対比が見事だ。
少し先右の道角に「東黒門跡」の案内板と「石敢当(いしがんとう)」「高瀬川清兵衛石碑」が立っている。
「石敢当」は魔除けの石板で、沖縄・南九州に 多いそうだが、近畿では珍しいと。「薩摩街道」紀行時に散見したことを想い出す。高瀬川清兵衛は江戸後期の山崎出身の相撲取りだと。
少し先に「山陽道(西国街道)と久我畷」の案内板が立ち、地蔵尊が祀られている。京都から歩いた時は気付かなかった史跡だ。反対方向から歩くと 気付くことがあるのを再確認する。
名神高速道路の高架下を抜けると静かで落ち着いた旧街道の街並みが続く。

東黒門跡

山陽道(西国街道)と久我畷

旧街道の街並み 名神高速道路


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

街並みが途切れて、左後ろに天王山を感じながら小さな川を渡って進むと目の前に京都縦貫自動車道が現われ、その高架下を抜けて阪急・西山天王山駅前に 出る。前回、この駅で降り、サントリービール工場に行った場所だ。
駅前広場には、馬の銅像が飾られている。淀競馬場に近いからなのかと話していると横に「西国街道・調子八角」の石碑が立ち、横には「西国街道」の 絵図の案内板が立っている。ここ調子八角は西国街道と丹波街道の追分だと。
「西国街道」は前方の広い道ではなく、右の狭い道を進むことを確認しながら一息入れる。(10:00-10-05)

天王山

西国街道・調子八角

右の狭い道が西国街道


旧街道の細い道には、案内板にあった「追分碑」が立っている。「右 あたご道、左 たんば道」と記されている。「あたご道」は京都の愛宕神社への 道を表した「西国街道」だそうだ。
旧街道を進むと道角右に道標が立っている。読める面には「右 よど、左 やなぎ谷」と記されている。淀への道と蜥J観音への分岐点だろう。 その先には立派な「中野家住宅」が建っているのを確認し進むと「西国街道」と記された小さな道標が立っている。少し進んだ右に立命館高校が 建っている。以前歩いた時は大阪成蹊大学だったのが変わったようだ。 掲示板には、構内に「長岡京跡の史跡」が残っていると記されている。
学校が変わったことに気を取られ、学校沿いに進んてしまうが、行き止まりになり戻らざるを得ない。間違いだった。

西国街道と丹波街道の追分碑

道標

中野家住宅


元に戻って左方向に進む角に「西国街道」の道路標識が立っているのを見付け、お互い慌て者だと笑う。
少し進むと道の両側が石畳となり、旧街道の雰囲気を残してくれているのは嬉しい。少し先左に「与市兵衛の墓」が祀られている。案内板によれば、 仮名手本忠臣蔵で有名な赤穂浪士・萱野三平の義父で、娘を祇園に身売りさせた 金で三平を赤穂浪士の一員に入れたと。
少し進んだ府道67号線との合流地点には、「与市兵衛の墓」を示す長岡京名物の筍を形取った「筍型道標」が立っている。少しの間、府道を進み右側の 神足商店街に入って行く。その左角に小さな広場があり「常夜燈」が立っている。

両側が石畳の旧街道

与市兵衛の墓 筍型道標

常夜燈


神足商店街を進むと左に立派な「旧石田家住居」が建っている。
この建物は、長岡京市の「神足ふれあい町屋」の観光施設となっている。中に入り 見学しているとソフトクリームを売っているので、暑さ凌ぎをしながら一息入れる。(10:25-10:40)
その先には、その昔、現在のJR長岡京駅が神足駅(こうたり)と呼ばれていた時の駅名標が保存されている。 三人で「旧山陽道」歩いた時、新山口駅の元の名称・小郡の駅標があったことを想い出した。
その先には、門前の生垣が美しい旧家が建ち、やがて 右にJR長岡京駅の見える広い道を渡る。その角には「西国街道」と記された大きな道標が立っている。

旧石田家住居

神足駅の駅名標

生垣のある旧家 道標


旧街道には石畳が敷かれ、陽射しの強い中進んで行く。石畳の道を行くと左からの広い道に合流し、直進し、広い道の左に細い道が並行に通っている。 自動車道から旧街道を進むと小さな祠も祀られ、落ち着いた旧街道の風情が残っている。
やがて、小畑川に架かる「一文橋」に当たり、一文銭をモチーフした橋を渡ると対岸の広場にその由来の碑が立っている。室町時代に架けられた橋は、大雨で 流されることも多いため、架け替え費用として一文の通行料を支払ったのが由来だと。

石畳の道

旧街道の祠

一文橋


橋を渡って左の細い道が旧街道で入って行く。道角に「西国街道」の石碑が立ち、一面石畳が敷かれた旧街道を進むと立派な家が建ち並ぶ街並みが 現われる。旧街道の雰囲気だ。
通りには、昔の面影を残す街灯が立っている。その街灯が立ち並ぶ風情は見事だ。電気かガスか分からないが、異空間に迷い込んだ気持ちになる。 その先には「常夜燈」も立ち、気持ち良く進むと阪急電車の高架下を抜ける。

西国街道の石碑

静かな街並み 街灯

阪急電車高架


阪急電車の高架下を抜け、直ぐ右の細い道に入って行く。少し進むと赤い鳥居の「鈴吉大明神」が祀られている。
少し進むと養鶏場があるのか、店先に卵を売る店があり、ゆで卵を売っていたので買い求める。 その先右に「石塔寺」が建っている。 この寺では 京都府指定無形民俗文化財の「鶏冠井題目踊(かいでだいもくおどり)」と云われる日蓮宗に関連する奉納踊りがあるそうだ。
この辺りは、家並みも落着き、寺社が多いのだと感じながら進むと左に「向日神社」の大きな鳥居が立っている。向日市の氏神だろうが、参道が 長いのでパスして進むと「長岡宮・大極殿跡」の標識があったので、寄り道することにする。

右の細い道へ

石塔寺 鈴吉大明神

向日神社


標識に従って右の住宅街に入って行く。
丘の藪の中に「鶏冠井興隆」と下の見えない石碑が埋まっている。「鶏冠井興隆」の碑は「鶏冠井興隆寺跡」と思われ、ここ鶏冠井(かいで)町のお寺で 廃寺となった寺の碑だろうか?

長岡宮・大極殿跡

少し進むと小さな公園になっている「長岡宮・大極殿跡」に到着する。 静かな住宅街の中の公園には高い石碑が立ち、 説明碑もたくさん設けられている。ここが「長岡京」の中心だったのだ。
桓武天皇は、延暦3年(784年)に平城京から乙訓郡(向日市、長岡京市、大山崎町、京都市の一部)に都を遷しました。
それが長岡京で、東西4.3キロ、南北5.3キロで平城京よりも大きく、ほぼ平安京に匹敵する規模の都でした。
長岡京は京都盆地の南西部にあたる丘陵地帯にあり、付近には桂川、宇治川、木津川、淀川などの大河川が流れ、水陸交通の至便な地でした。
長岡京は、延暦13年(西暦794年)に平安京に遷都されるまでのわずか10年間でしたが、日本の歴史上、重要な時代を築いた都で、 その政治・文化の中心が向日市にありました。 (向日市HPより)

前回初めてここに訪れ、「長岡京」の歴史上の知識に加えて実地に見学できたこと嬉しく思ったのを思い出す。
O君・N君も初めてだったそうで、 良かったと。
木陰で、先程買ったゆで卵を食べながら一息入れる。(11:35-11:45)

鶏冠井興隆の碑

長岡京跡

説明板


旧街道に戻り、しばらく進むと広い道との五辻の交叉点となる。その角には、「西国街道」の道標もあり、近くに筍を売る店があるので覗いてみる。 普通の筍のシーズンは終わり、淡竹(はちく)の季節になっている。O君が、昔この店で買ったことがあるそうだが、荷物になるので諦める。
広い道を直進し、少し先から右の細い道に入って行く。狭い静かな道の左に「地蔵尊」が祀られ、その先の広い道との合流地点には、石碑がたくさん 立ち、道標には「西国街道」の道標も混じっている。
阪急電車の踏切が見える角には大きな「太神宮常夜燈」が立ち、東向日駅を左に見ながら踏切を渡る。そろそろ昼食の時間だと昼食処を探すが見つからず、やっと 少し先に見付けて昼食とする。冷麺を頼み、冷たい水を何杯も飲む。熱くなってきた。(12:15-12:45)

淡竹 地蔵尊

太神宮常夜燈 石碑

昼食


昼食を食べ、水分を十分補給して出発する。旧街道はJR東海道線方向に向かい、線路の手前に高い「光明寺道」の石塔が立っている。秋の紅葉で有名な 光明寺への参道になるのだ。その先、東海道線に当たり向町駅を過ぎた所から地下道で反対側に渡る。
地下道の先には、細い旧街道が続いている。今回の紀行でも、広い国道・府道ではなく、狭い旧街道が並行して残っているのは嬉しいことだ。 新幹線の高架下を抜け、更に国道171号線を横断すると左にこんもりとした森に囲まれた「嚴嶌神社」が鎮座するのを確認して進む。
右に桂川の堤防が 見え、堤防沿いに進み、やがて堤防に上る。
交通量の多い道を桂川の流れを見ながら進むと左川下に料理旅館「いずみや」が建っている。川魚料理を出す店らのだろうと想像しながら、久世橋で 広い桂川を渡る。

光明寺道の石塔

旧街道 嚴嶌神社

桂川 いずみや


桂川沿いの旧街道

いよいよゴールが間近になって来たと気分新たに桂川を渡り、川沿いに左の細い道を進む。
しばらく進んだ所から右折して、国道171号線を渡って進んだ。
これが大きなミスで、小生もM君も以前、京都から西に歩いたが、東に歩くのは 初めてなので、曲がる道を間違えたのだ。正確には、川沿いの道を直進すると道なりに国道に当たり、横断して進めば良かったのだが・・・
正しいと信じて歩いているが、国道171号線が見当たらないので少し焦り出す。
なおも信じて進むと広い道に当たったので一安心するが、これは国道1号線だ。後で分かったが、国道171号線はこの国道1号線と交わると国道1号線に 吸収されるのだ。
さて、何処に居るのか分からなくなり、近くの店の方に「東寺」の方向を尋ねると思っていた反対側を示された。驚いてその方向に向かうと「東寺」の 五重塔の屋根が見え、一安心だ。

羅生門跡

取り敢えず、最終ゴール地点の「羅生門跡」に向かうことにし、国道1号線と171号線の交叉点から左折する。右には「東寺」の塀がある所だ。約30分余り のロスタイムの後、国道から右に入った「羅生門跡」に到着する。(15:05)
小さな公園の中に鉄柵で囲まれた石碑が立っている。ここが「羅生門跡」なのだ。
794年(延暦13)に建設した平安京の正門。
東西4.5km、南北5.3kmの京域中央部の南端に羅城門がそびえ、北端の朱雀門と相対していた。
門は正面33m、奥行8m。二重閣瓦屋根造で棟両端に金色の鴟尾を置く。鬼の腕切りなど能・小説・映画「羅生門」で有名。 (京都観光NaviHPより)

これで、西宮から京都までの「西国街道」逆打ちを踏破した。三人で京都から下関までの「西国街道・旧山陽道」を踏破したことになる。
約620kmの行程を楽しく元気に語りながらの紀行は有意義なものだった。小学校以来の友人の絆が強まった次第だ。 ベンチに座って一息入れた後、「東寺」に行くのは止めて、京都駅・京都タワー下の銭湯に行くことにする。

踏破祝いの乾杯


国道のバス停から京都駅に向かい、京都タワー下の銭湯で入浴する。汗を流し、広い湯船で足腰を伸ばして身体を癒す。
この銭湯には思い出がある。現役時代、東京から寝台列車・銀河に乗り、ここで汗を流して出勤した。その銀河もなくなり、深夜バスに変わっている。
風呂上りは乾杯だ。ビルの中には飲食店がオープンしているが、今一なので、隣のビルの居酒屋に向かい、冷たいビールで乾杯!!
「西国街道・旧山陽道」紀行の想い出話をしながら楽しい時間を過ごす。今回もそうだったが、国道や県道に並行して旧街道が残っているのは良かった との感想は一致している。
それに加えて、自然の地道が多く残っているのも魅力だったと。たくさんの面白いエピソードも残した紀行だった。
今後のことに話題が移り、やはり西の方向・日本海に向かい、最後はもう一度下関で「ふぐ料理」を食べようと意見が一致し「出雲街道」で出雲まで進み、 何処かで「石見神楽」を鑑賞し、O君の希望である「萩往還」も進もうと。
無理な計画は立てず、ゆっくりと進むことにしてお開きとなる。京都駅で分かれて満足な気持ちで帰宅する。今日の歩行歩数は、34000歩だった。






    
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