○ 「山陽道No7」見聞録(有年〜備前片上)・(距離 24.3km(今回)/ 222.4km(累計))

  1.有年〜備前片上・(24.3km) 2012.05.16 9:10〜16:50 晴れ時々曇り


西国・山陽道全行程.Map

「有年〜備前片上・行程MAP」

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見聞ルートに沿って歩行出来ます。
クリックすると拡大します。(街道歩き旅.com HPより借用)

「山陽道」7回目の紀行は遠くなって来たので、如何に安い運賃で行けないかと考え、「1dayパスポート」2900円を購入して 実施することにする。計画では前日の5/15予定であったが、雨の予報で1日延期した。前日は終日降ったり止んだりの天候で延期は正解 だったと。
晴天となった朝、今回は昼食場所がないと予想して、弁当を買って、前回と同じように、尼崎駅でO君と待ち合わせる予定だったが、 大阪始発の新快速に彼も来ており、大阪から新快速で姫路まで進む。

駅そば

有年駅

乗換えの間に、前回と同じく名物の「駅そば」で腹ごしらえをする。これで、昼食が少し遅くなっても大丈夫だと。姫路から相生まで行き、黄色い 山陽線の列車に乗換えて有年駅に向かう。
9時10分、有年駅から「山陽道」紀行をスタートする。薄曇りの快適な天気で、暑くはなりそうだが気持ち良い歩行になりそうだと。 駅前から旧街道に戻り、前回最後に確認した「有年村道路元標」を見て、有年横尾の静かな落ち着いた町並みを進む。正面左に山が迫って 気持ち良い旧街道だ。
集落はやがて国道2号に出会い、横断して進むと「道標」が立っている。「右・上郡鳥取道、左・岡山廣嶋道」と刻まれている。 「廣島」と旧漢字で書かれているのに時代を感じる。
少し進むと、左の水路の向こうに「池魚塚」が見える。道路改修資金のために売られた池の魚への感謝と供養の塚だと。地元の方の感謝の 気持ちの碑なのだろう。池の魚に対する情の深さを感じさせる碑だ。隣には地蔵立像が祀られている。

有年横尾の街並み

道標

池魚塚


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

国道2号線を進み、小さな川を渡り、その先の千種川を渡り、直ぐの道を左に入って行く。
東有年集落を進み、二股野道は国道に沿った右を選び、静かな集落の中を進む。 有年中学の近くにしせきがあるとのことで、少し離れた左に学校らしき建物を見つけ、路地を入ると「明治天皇駐輦記念碑」が建ち、 横には「有年宿本陣跡(旧柳原家宅)」の標柱が立っている。史跡に標柱が立っているのは嬉しい。この辺りが「有年宿」なのだ。
旧街道に戻ると立派な家が立ち並んでいる。その家の2階にはに家紋と幾何学模様があるのがこの辺りの特徴とか。 集落の景観を楽しみながら進んでいると、何か鳴いているような声がする。静かに聞き耳を立てると「蛙の声」だ。今年初めて聞く 声に夏が近いことを感じる。
集落の端近くに「有年宿番所跡(旧松下家宅跡)」と書かれた標柱が立っている。赤穂藩役人は出張の際にここに宿泊し、前庭を白洲にして 番所として利用したと。

明治天皇駐輦記念碑

立派な家

有年宿番所跡 説明


高瀬舟の灯台

青空の下、快調に進み、広い道にぶつかり右に曲がると国道2号線だ。渡った直ぐ右に「八幡神社」の鳥居が建ち、、 入口に「明治天皇聖徳碑」が建っている。
先程の案内板に「高瀬舟の灯台」の説明があり、この境内にあるので丘を上ろうとするが、ネットが張ってあり、崩落危険のため立ち入り 禁止とある。しかし、上ろうとネットの横から急な坂を上り始める。滑り易い道も途中から車も通れる道になり、頂上付近に「木製の灯台」か 建っている。
上っている時は気付かなかったが、灯台から下を見ると千種川が蛇行しているのが良く分かる。蛇行する川の安全のためここに灯台を 設けたのだろうと。
その奥には「八幡神社」の本殿が鎮座し、狛犬も祀られているが、本殿の中には狛犬の絵馬が掲げられている。今日の旅の安全を祈願する。
灯台の下に戻り、雄大な千種川を眺めながら一息入れる。高瀬舟は赤穂から塩を上流に運んでいたのだろうかと話しながら、少し汗ばんだ 肌に当たる川風を堪能する。気持ち良い。(9:55-10:00)

八幡神社の鳥居 明治天皇聖徳碑

木製の灯台

八幡神社 絵馬


景観を堪能して、車が通る道を下ると「地蔵堂」が祀られ、下り切ると旧街道に戻る。
静かな片山集落を進むと右手に立派な白壁と長屋門のある「有年(ありとし)家」が建っている。門の中をのぞくと手入れの行き届いた庭が 広がっている。ある。大きな白壁と見事な長屋門が目を引く。案内板によると、有年家は大庄屋で、、赤穂市に残存する長屋門は 大石良雄宅、近藤源八宅とここの三軒だけだと。集落は有年(うね)と呼ぶが、庄屋は有年(ありとし)なのだと。
少し進んだ有年診療所を左に曲がるとその先右の山裾には大きな「地蔵立像」が祀られている。更に進むと 左手に「石塔群」が祀られ、旧街道の雰囲気を残している。田園風景が広がり気持ちの良い歩行だ。

有年家 説明

地蔵立像

石塔群


田園風景を楽しみながら進むと有年小学校が建ち、その先をひだりに進む。「淳泰寺」の前を過ぎ、小さな川を渡り、気持ちの良い旧街道 を進むと所々に「麦畑」が広がっている。この辺りも麦が植わっているのだ。昨年、O君と「伊勢本街道」を歩いた時も麦畑があったなぁと 話しながら歩を進める。
集落の右手に「大避(おおざけ)神社」が鎮座する。本殿左の社の前には狛犬が祀られているが、何と「備前焼の狛犬」だ。備前の国に近いことが 良く分かる建造物に思わずパチリと。
その社の中には「赤穂義士」の絵馬がたくさん掲げられ、さすが赤穂の神社と納得する。ここで一息入れる。(10:30-10:35)

大避神社

狛犬の建つ社 絵馬

備前焼の狛犬 狛犬


やがて旧街道は、国道2号線を斜めに横断して田園風景を楽しみながら進む。
田園地帯を進むと左の金網ごしに「西有年向山五輪塔」が立っている。説明碑を読むと「西国街道」は「筑紫大道(つくしおおみち)」と 呼ばれていたと。「山陽道」「西国街道」「筑紫大道」と時代の変遷で呼び名も変わっているようだ。この辺りは「西国街道」の 名称が多い。
墓地に当たり、左折して進むと左手の畑の前に「一里塚跡」の標柱が立つ。赤穂市は標柱で史跡を示しているので分かり易いのは有難い。
旧街道は少しづつ上り坂になり、青空と麦畑の緑が美しい。集落の中に茅葺をトタンで覆った古民家が建ち、その先右には「立場跡・三村家」の 古い建屋が建っている。「有年峠」を越える前に駕籠の人足を交代させる所だ。

西有年向山五輪塔

一里塚跡 麦畑

立場跡・三村家 古民家



「山陽道No7@」の「紀行スライドショー」

有年峠の道標

緩やかな上り坂を進むと目の前に金網が現れた。鹿や猪除けの金網で、いよいよ「有年峠」越えだと気持ちを引き締める。先達の方の紀行記 では、旧街道は荒れていて、越えられず迂回した方も多いが、今年3月の方の紀行記では問題なかったと。まだ、2ケ月しか経っていないので 大丈夫だろうと期待して通り抜ける。
すぐ左に大きな「坂折池」があり、横には「西国街道の案内板」が立つ。読んでみると「西国街道(旧山陽道)」は京の都から太宰府に 通じる道で、元寇の時(「文永の役」1274年)、元軍の攻め入った報が、京都に届いたのが約10日後だった反省から整備され、次の「弘安の役」では 6日に短縮したと。元寇まで絡んでいるとは知らなかった。その後「参勤交代」等で賑わったが、明治になって、明治天皇西国行幸の折り、 北方に現在の国道2号が造られ、通る人もいなくなって、廃道になってしまったと。
「坂折池」畔の芝生の上にリュックを投げ出し、池を抜ける涼風を浴びながら、峠越えのための英気を養う。(10:55-11:00)
峠道には車の轍があり、久し振りの地道の感覚を楽しみながら上って行く。

有年峠の金網

坂折池 説明

轍のある峠道


地道の感覚と新緑の中を気持ち良く上る。勾配も緩やかで、峠道の横には、地元小学生が植えた椿の木が等間隔に並んでいる。絶好の ハイキングコースの雰囲気だ。
峠道が分岐している。道標もないので、どちらに進むか検討した結果、左の道奥に建物が見えるので進むと「うねみどりハウス」の看板が 掛かった椿の木を植えた赤穂市の施設のようで、その先には進めそうもない。諦めて、元の分岐点に戻る。約15分ロスタイムとなった。
右の道を進むと轍は無くなり、落葉が積もった膝にも優しい峠道で快調に進める。先達が苦労された藪こきもする必要がない位、 整備されている。切り取った枝が積まれている所もあり、地元の方に感謝したい。
落葉の積もった峠道をには鶯が鳴き、蛇とも遭遇するが、楽しく上る。細いせせらぎには丸木橋も掛けられ、迷うことはなく進む ことが出来る。

緑の有年峠

落葉の道

丸木橋


竹が折れ曲がった道もあったが、全体には整備された峠道で、当初の心配は嘘のようだ。
木に「西国街道・有年⇔梨ケ原」の道標が掛か っている。嬉しい道標で「有年峠」の頂上が近いと思っていると、直ぐに先が下り坂となっているので、頂上らしき場所に到達する。(11:50)
頂上で一息入れ、あの道標が間違った分岐点にあれば良いのにと話していると赤穂市から上郡町に入ったので、上郡町が作った道標だろうと。 (後で正解だったこと判明)赤穂市は標柱はあったが、道標はなかったと。行政の観点の違いが良く分かる道標だった。
下り道も落葉が積もり、滑り易いが気持ち良い歩行が出来る。快調に下っていると梨ケ原側の金網があり、針金を外して抜ける。「山陽道」 紀行で初めての地道を満喫して「有年峠」越えを終える。(12:00)

竹が折れ曲がった道

落葉の下り道

梨ケ原側の金網



「山陽道No7A・有年峠」の「紀行スライドショー」

気分良く「有年峠」を越え、地道を進むと左の道端に「地蔵尊」が祀られている。
峠の下の集落はのどかで、のんびりとした風景を眺めながら進むと「近世の山陽道(西国街道)」の案内板が立っている。街道は時代によって 変遷しているのが分かる。「有年峠」の使命は明治天皇の西国巡幸時から北側に移ったようだ。
たんぽぽの花が綿になり、たくさん茂っている旧街道は国道2号線とぶつかる。交通量が多くて、横断するのに苦労して渡ると道角に 立派な家が建っている。その前のカーブミラーに先程「有年峠」で見た「西国街道・道標」が左に進むよう示している。上郡町に入っているので、 町の行政の努力の賜と感謝する。

道端の地蔵尊

近世の山陽道の案内板 集落

立派な旧家と道標


集落を進み田園風景が広がるが途絶えて左右に田畑が広がる左手に「梨ヶ原・宿遺跡」の案内板が立つ。中世〜近世の集落の跡で、 「梨原宿」として、山陽道を行きかう人々でにぎわったものとおもわれると。
その先の梨ヶ原川畔は枝垂桜の並木があり、満開時の光景を想像しながら過ぎると ふるさと創生一億円事業で桜苗80本を植えたと。風土に合った使い道だと感心した次第だ。
少し進んだ右側に「船坂神社」が鎮座する。狛犬が4頭(?)立ち、その半数は「備前焼の狛犬」だ。石造りの狛犬は親子なのか 子狛犬を抱いているようだ。 本殿には「赤穂義士の絵馬」が奉納されているのは有年側の「大避神社」と同じだ。備前と赤穂の特徴を有年峠の両側で見られるのは面白い。

梨ヶ原・宿遺跡の案内板

船坂神社 赤穂義士の絵馬

親子の狛犬? 備前焼狛犬


田園風景が広がる梨ヶ原の集落を気持ち良く進むと、右手の空き地に「明治天皇駐輦之碑」が建つ。陸軍大将田中義一書だと。
少し進むと「梨ヶ原大師堂」が建っているが、普通の民家風で、お地蔵様が祀られてないと通り過ぎてしまいそうだった。 旧街道は国道2号線に合流し、しばらく進み、右を走る山陽本線の踏切を渡る。ここにも「西国街道・道標」が立ち、間違いなく 進めるのは嬉しい。旧街道は少しづづ上り坂になり「船坂峠」に向かって行くのを感じる勾配だ。

明治天皇駐輦之碑 梨ヶ原の集落

梨ヶ原大師堂

山陽本線の踏切 船坂峠の道


県境碑

緩やかな舗装道路の「船坂峠」の上り坂の横にはヤマツツジが咲き、道路には苔も生えている。
もう直ぐ県境だと上り坂を嬉々と進んでいると「岡山県・備前市」の道路標識が立ち、兵庫県から岡山県に突入したことが分かる。

岡山県・備前市の道路標識

その先の右に「縣界 東宮殿下行啓記念 岡山縣」と刻まれた県境碑が立つ。
大阪府から兵庫県を横断しい岡山県に入った瞬間に感動し、 O君と県境越えの記念写真を撮り合い、一瞬の感動を分かち合う。

「船坂峠」は元来もっと高い地点にあったが、、明治天皇行幸の時に10m余り削られて、現在の地点になったそうで、崖の上の従来の場所には 「播備国境の標石」が立っているとことなので、そこに向かおうと峠を下り始める。
右の山裾に「雲水の井戸」の石碑があり、小さな泉があるが、水は湧いていないようだ。昔はここに茶店が建ち、旅人の喉を潤したのだろう。

播備国境の標石 標石拡大

少し峠を下った右に「船坂山義挙の碑について」と書かれた大きな碑が立っている。
更に少し下った所に「船坂山いこいの広場」と書かれた新しい石碑が立ち、戻るように坂道があるので上って行くと立派な 「船坂山義擧之趾」碑が立っている。
先程の「船坂山義挙の碑について」の解説では、
元弘2年(1332)、後醍醐天皇が隠岐に配流される途中、備前の国の武将児島高徳は、船坂山で待ち伏せしてこれを奪おうとしたが果たせず、 行在所に潜入して桜の木に「天莫空勾践 時非無范蠡」(天勾践を空しうするなかれ 時に范蠡の無きにしも非ず)という十字の漢詩を 彫り書き入れ、その意志と共に天皇を勇気付けたと。 「山陽道」には南北時代の史跡が所々に点在しているのだと改めて認識する。
更に坂を上ると当時の「船坂峠」の県境である「従是西備前國」と刻まれれた石碑が堂々と立っている。
横には「播備国境の標石」と備前市が建てた碑があり、当時の頂上に立ったのだと認識する。
写真を撮ろうとするも、崖の上に立っているので、滑らないようにするのも大変だ。 国境越えをゆっくりと味わうため、遅くなった昼食を石碑を眺めながら食べ、初めての自然の中での昼食を堪能する。(13:05-13:30)

雲水の井戸

船坂山義挙の碑の解説

船坂山義挙の碑


岡山県に入り「船坂峠」の下り坂を進む。峠の下には山陽本線と国道2号線のトンネルの上を走っているのだ。やがて、 左下に国道が見え、ウネウネと下って行くと国道に合流する。しばらく国道を下り、右に見える山陽本線がトンネルを抜けた第一船坂踏切を渡って 旧街道を進む。
岡山県に入った風景を楽しみながら進むと右に石垣があり「三石一里塚跡」と書かれた標柱が立っているが碑だけだ。 その先右に「深谷瀧道」と書かれた道標が立ち、緑豊かな旧街道を進んでいると、前方に備前焼独特の煙突が立っているのを見て、 備前に来たなぁと話しながら進む。
JR三石駅の前の角にも「旧山陽道三石一里塚跡」と刻まれた石碑が立つ。先程の標柱との関係は?と。
当初の計画では「有年峠」越えが難航するとも考え、ここJR三石駅までとも考えていたが、まだ時間が早いので、次のJR備前片上駅まで 行こうかと検討する。途中、バスの便も少ないので、ギブアップ出来ないが、先へ進もうと決断する。(14:00)

山陽本線のトンネル

三石一里塚跡 深谷瀧道・道標

旧山陽道三石一里塚跡 JR三石駅



「山陽道No7B」の「紀行スライドショー」

心新たに、備前市の旧街道を進む。ここ「三石宿」は「船坂峠」を越えて来た旅人、これから越えようとする旅人で賑わったようだ。 「備前焼」で象徴されるように陶器の街として栄えたのは何時頃かは分からないが、いまでも耐火煉瓦工場が数軒並んでいる。 煙突がきれいだ。
「三石宿」の街並みを楽しみながら歩いていると右に「三石明神社」が鎮座する。孕石(はらみいし)神社とも云われ、子宝祈願の参詣者が 多いと。神功皇后が懐妊の身で境内の大きな岩の上で休息したと云われる「孕石」を見ながら一息入れる。(14:10-14:15)
旧街道筋にはレンガ造り古い建物も残っていて、雰囲気を残しているのを味わっていると左に立派な家が建ち「本陣跡」らしいが、 何の標識もないのは残念だ。

耐火煉瓦工場

三石明神社 孕石 説明

本陣跡 レンガ造りの建物


旧街道を進むと正面の山は禿山となっている。陶器を作る土を産出しているのだろうと想像しながら、金剛川を渡ると JRの高架線路の手前右に「光明寺」のひと際目立つ山門が建っている。境内には「明治天皇三石行在所」碑が立つのを見ると昔から 由緒のある寺院なのだろう。
小さな川を渡り旧街道にある戻る時、川の水を見て驚く。水が赤く染まっているのだ。前の禿山から流れ出しているのであろう 鉄分を含んだ備前焼の陶土の色なのだろうと。

陶土産出の山

光明寺

赤く染まった水


JRの高架線路の下をレンガ造りのトンネルで抜け、緩やかな坂道を上ると国道2号線に合流する。
交通量の多い国道の緩やかな坂を上って行く。この坂道は「弟坂」と云われるらしく、少し蛇行しながら上る。右側の道を歩いていたので、 左に祀られている「清水地蔵」を見落としてしまったが、戻ることはパスした次第だ。
坂道はピークを迎え、下り坂になる。これが「兄坂」と呼ばれているらしく、西から東に向かうと「兄弟坂」を進むのだ。 「兄坂」を淡々と進むと山陽自動車道の備前ICに近付き、右の旧街道に如何に進むのか迷いながら進むと国道の下を抜けるトンネルがあり、 くぐって八木山集落に入って行く。
その入口右に「薬師如来」「五輪の塔」が祀られているのを確認して、国道から外れて静かな旧街道に向かう。

弟坂

薬師如来

八木山集落の街並み


八木山集落の静かな街並みを楽しみながら進む。集落の端に「地蔵尊」が二基祀られている。旧街道の雰囲気を感じるのは嬉しい。 少し進むと国道2号線に山陽自動車道の高架下に向かうと高架下にも「地蔵尊」が二基祀られている。どちらの地蔵尊も一基は古く、 一基は新しい地蔵尊だった。
国道の道路標識には広島202km、福山96km、岡山35kmと広島や福山も現れて来た。岡山まで35km。近くまで近付いたと話しながら 進むと左に小公園があり、石碑が立っている。車に注意して横断して確認する。
公園の真ん中に「明治天皇八木山御小休所阯」碑が立ち、西端には「旧山陽道八木山一里塚跡」碑立っている。 「三石一里塚」から4km進んだことを確認して、ここで一息入れる。(15:20-15:25)

地蔵尊

高架下の地蔵尊

旧山陽道八木山一里塚跡


国道を進むと、二軒屋の歩道橋から右の旧街道に入るが、この旧街道は直ぐに国道に合流して進むのだが、歩道もなく、トラック等大型車が 激しく行き交うので危険と感じ、早々に右の小道に避難して、国道と並行に畑・山沿いの道を進む。
本来の旧街道ではないが、雰囲気は旧街道と感じながら鳥の鳴き声を聞きながら進むと国道から旧街道に分かれて来る本来の旧街道に 合流して、川沿いの道を進む。

国道から旧街道へ

エスケープした静かな道

旧街道と合流


しずかな畑の中の旧街道を進み、伊里川を渡ると右に閑谷学校へ通じる道があり、小さな祠が祀られ、その前に「閑谷神社」 「従是丗壱丁十四間」と書かれた道標が立っている。ここから昔訪れたことがある閑谷学校に行くのだと思いながら 左の伊里中の集落に入って行く。
伊里中集落を進み右の「小さな祠」が祀られている所で右に向かう。備前焼の窯元と思われる立派な家の前を通り、淡々と西に向かう。

閑谷神社

伊里中集落の街並み

小さな祠


左に水を湛える西池を見て、緩やかな坂道を上ると火の見櫓があり、その下の一本松公会堂の前に「地蔵堂」が祀られている。 ここから下り坂になり、左の備前焼桂花園の立派な塀の下に「藤之棚茶屋跡」と書かれた白い標柱が立っている。
そろそろ足の疲労度はピークに近付いて来ているのが、歩幅が短くなって来たので分かる。JR備前片上駅までもう直ぐだと気分新たに 坂を下り下りると再び国道2号線と合流する。少し進んだ反対側の道端に「片上一里塚跡」碑が立っているが、国道を横断して行く 気力もなく、望遠でパチリと。
国道を西に向かうと前方に山陽新幹線の高架が見え、その手前で右に向かうのが旧街道の様だが、駅への道を優先して、国道から 左側に入って、17時18分の列車に間に合わそうとJR備前片上駅に急ぐ。

地蔵堂

藤之棚茶屋跡

片上一里塚跡


山陽本線の線路に沿って歩くが、駅舎は線路の反対側で、踏切もなさそうだ。女学生が来たので、駅への道を尋ねると少し先にトンネルが あるので、抜けると向こう側に行けると。

備前片上駅

遠回りをしてやっとのことでJR備前片上駅に到着する。今日の歩行歩数は43600歩だった。(16:50)
時刻表を確認し、駅前の店屋を探すが、1軒しかなく、そこにはビールは売っていない。15分ほど歩けば酒屋があるらしいが、 その元気はない。
ソフトクリームを売っていたので、悲しいがソフトクリームで今日の健闘を称えて乾杯(?)。疲れた体にソフトクリームの甘さと冷たさが心地良い。
「1dayパスポート」なので、赤穂までの切符を買うが、駅員は委託された人で、17時が定時とのことで、急いでおられる。2枚買って、今日の 営業は終了だと。有年から良く歩いたねと賞賛されてバイバイする。
17時18分発の列車で赤穂駅で乗換えの間に、売店でビールを買って、車内で乾杯する。やはり、ビールの乾杯がgoodだ。
三宮か大阪で一杯やろうと、直通列車の利点を活かして、2人とも疲れでウトウトと眠るが、三宮の手前で目覚め、毎回行っている居酒屋で 乾杯し、尼崎でO君と別れ、21時過ぎに帰宅する。

「山陽道No7C」の「紀行スライドショー」

「山陽道」紀行も岡山県に突入して、進んで来た実感を感じることが出来た。
前半は難航すると予想した「有年峠」越えも問題なく、地道の感覚を楽しみ、田園風景の広がる旧街道歩行は気持ちの良いものだった。 「船坂峠」の国境は新旧の碑を確認し、その下で昼食をすることによって、播磨の国から備前の国へ進んだことを実感した。
岡山県に入ってからは、気持ち良い旧街道と国道歩きが混在して疲れた。三石駅で止めるか、次に進むか迷ったが、備前片上駅まで 進むことが出来、良かったと思う次第だ。
次回は、1泊2日の予定で、備前片上駅から岡山宿泊で計画したい。広島県には何時の日に突入出来るだろうか!?

(工事中)




    
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