○ 「山陽道No12」見聞録(糸崎〜本郷)・(距離 14.6km/ 368.9km) 1.糸崎〜本郷・(14.6km) 2012.10.18. 10:45〜16:15 曇り
今後の「山陽道」の行程を検討していると本郷から西条までの間は、山陽本線から離れ、国道2号線沿いの旧街道を進むようで、その間には ブッシュで道が分からない箇所が3ケ所もあり、距離も25km以上あると。 我々の歩行スピードと日照時間の短さを勘案すると1日で歩くのは難しいと考え、途中で泊まることにすると、その前に本郷まで進んで おきたいと考え、「鉄道記念きっぷ」(1日・3000円)の使用期間に糸崎から本郷を日帰りで進もうと日程調整をした。
5時の始発に乗り、姫路で座席を確保し、O君と合流し、岡山乗換えで、途中、前回歩いた尾道から糸崎までの瀬戸内海を眺めながら進む。 「しまなみ海道」の因島大橋を確認して、前回の終了地点糸崎駅に到着したのが、10時40分。 5時間以上も乗っての到着は、「中山道」で経験しているが、なかなか厳しいものだ。 10時45分、ジャンパーを脱いで、本日の紀行を開始する。国道2号線に合流して進むと、国道の温度表示が18℃を示している。結構冷たく 感じる。左にあるガソリンスタンドから左斜め前方の旧街道に入って行く。 バイパスの高架下を抜けて進むと右に稲荷神社が鎮座するのを見て、山陽本線の東町踏切を渡る。国道2号線の高架下を抜けると二股になって いる。右の山陽本線沿いの左に「三原城 東惣門跡」の碑が立っている。早くも「三原城」の史跡が現れたことは、三原城下に入った ようだ。 二股の左の道を進むと右に「大師堂」が祀られている。道なりに進み、山陽本線の高架下を抜け、更に、山陽新幹線の下をくぐり、広い道を 進むと右に「太神宮」の祠が祀られ、「熊野神社」の参道が山の方に向かっている。
広い道は左に曲がり、左には立派な「酔心酒造」の本店が建っている。扉を開けて中を見学させてもらう。展示室でお酒やポスターが展示されて おり、見ているとお茶の接待と説明を受ける。横山大観が清酒・酔心をこよなく愛したとの記事があるので、O君が「酔心に心酔していたのだ」 と話すが、説明の女性は直ぐにその洒落が分からず、しばらくして大笑い。これから使ってください。 広い道を進むと左に達磨が飾られた自治会館があり、「胡神社」と看板が掲げられている。面白い神社だ。 広い道路の右には「三原宿本陣跡」と云われる古い酒屋が建っている。趣きが残っていないのは残念だ。
和久原川を渡り進むと左には三原城の濠が現れ、その濠の横には草に囲まれて「水刎(はね)」の説明板が立っている。「刎」とは 城郭を守るため、水の流れを緩和する鋸状の構造物だそうで、和久原川の流れを調整するものだそうだ。今まで知らなかった建造物だ。 広い道の右に「恵比寿神社」が鎮座し、その横の広島大学附属小・中学校の角に「三原城東大手門跡」の石碑が立つっている。 「東惣門跡」「東大手門跡」と三原城が立派な城郭だったことを示しているようだ。
少し進むと「三原城跡」の石垣と濠が現れる。
当時は、その姿がまるで、海に浮いているように見えたため「浮城」と呼ばれ、豊臣秀吉、徳川家康もここに泊まったと言われています。 三原を代表する祭り「やっさ祭り」で披露されるやっさ踊りは、この築城完成を祝って老若男女を問わず、三味線、太鼓、笛などを 打ちならし、祝酒に酔って思い思いの歌を口ずさみながら踊り出たのがはじまりと言われ、それ以来、大衆のなかに祝ごとは "やっさ"に始まり"やっさ"に終わる習わしになったと伝えられています。(三原観光協会HPより)
駅の中を横断して、南口に出て「船入櫓」を探しに行く。「浮城」と云われるように南は瀬戸内海に面していて、潮の干満に耐えられるよう 工夫されているとのことだ。ジャスコの横の街中に濠と石垣が「船入櫓」で、その横には「聖トマス小崎像」が建っている。 聖トマス小崎は、 1597年、豊臣秀吉のキリシタン弾圧において長崎で処刑された殉教者26人の中に14歳のトマス小崎少年がいた。この小崎少年が、 京都から長崎に護送される途中三原城にて伊勢の母に書いた別れの手紙が処刑後父ミゲルの襟元から発見された。 その訳がローマに保管され、1862年小崎少年は、教皇ビウス9世により日本二十六聖人の1人として列聖された。(まち歩き中国ナビHPより) 夜になれば賑やかになるであろうと思われる街中を進み、目に付いた洋食屋で、少し早目の昼食とする。広島に来たので、ここでも カキフライ定食をしっかりといただく。同席したご夫婦や店の主人と「山陽道」紀行の話で盛り上がり、気を付けての言葉で送り出される。 (11:45-12:15)
「山陽道No15@」の「紀行スライドショー」 お腹を満たして、三原駅を抜けて「三原城天守閣跡」に向かう。駅の裏の天守閣跡は公園となっており、静かな空間が広がり、間近の 濠越しに新幹線のホームが見られる。 駅の西側の隆景広場には「小早川隆景銅像」が建ち、近くの「開明橋跡」の碑を見て、西方向の「山陽道」に進んで行く。 広場からJR線沿いに向かい、「西大手門跡」の碑を確認した後、一つ北の旧街道を進む。左には「格子造りの医院」や「うだつのある旧家」 が建ち、宿場町の風情を残している街並みを楽しむ。。
少し進むと右に「ヤッサ饅頭本舗」があるので、土産にと店に入り、小箱を注文する。三原のやっさ祭りに因んだ饅頭で、美味しい。
1557年小早川隆景が親の毛利元就夫婦を弔うため高山城内に建てたものですが、策上の際、城下の西側を守る砦も兼ね、この地に 移されました。 右門を入り土壁に囲まれた広い石段を登ると、桃山風の重厚圧、豪快な構えの山門があります。この山門は小早川家代々の居城であった 本郷町新高山城の城門をここに移築したものと伝えられ、四足門の切妻造り、本瓦ぶきの桃山時代の建築で、昭和28年に国の重要文化財に 指定されています。(三原観光協会HPより) 坂道の途中から「宗光寺の山門」が望まれ、石段を上る所に、幕末に山陽道において最初の種痘を施した「吉田石痴墓」の案内板が 立つ。石段を上り、立派な山門をくぐり、境内に入ると、本殿や鐘楼が建っている。しばし、境内の静寂を楽しむ。 三原の街も尾道と同じように、海と山が近いので坂道があり、その間を縫うように小路が繋がっている。地図に沿って「笑うブロック塀」がある 小路を抜ける。ブロックが笑顔模様に積まれており、古風な雰囲気の街中で、雰囲気が違って面白い。 広い道に出て、少し上ると左に「浄念寺」があり、境内に入ると左隅に「武内俊子生誕の地」の碑と案内板が立っている。O君が事前に 三原の有名人を調べていて、その中に武内俊子があったそうだ。どんな人か知らなかったが、童謡詩人で、我々の年代では良く歌っていた 「かもめの水兵さん、船頭さん、赤い帽子・白い帽子」等の童謡を残されたそうだ。童謡を唄いながら、坂道を旧街道に戻る。 旧街道を西に向かうと右に立派な山門のある「順勝寺」が建っている。山門は昔の三原城作事奉行所の門たと。三原は歴史のある街だと 改めて思った次第だ。
旧街道は郵便局の所から緩やかに左に曲がって行き、広い道の左には「西惣門跡」の石標が立っている。 少し進むと道横に「西之宮壱里塚跡」の新しい碑が立っている。今回の紀行で初めて見る一里塚で、広い道路の歩道に立っているので、 趣きはないが、史跡として残っているのは嬉しい。 少し進んだ右には「三原八幡宮」の参道があり、長い階段がありそうなので、諦めてパスする。
旧街道は西野川に当たるが、宮浦橋を渡らずに右折して少し狭くなった道を進む。左に「小さな祠」が祀られ、真っ直ぐ進むと右に 「八阪神社」の鳥居を見て左折して行く。先程の西野川を渡ると川の堤防の上に祠が祀られ、横には頌徳碑が立っている。 旧街道は緩やかに右に曲がり、三原バイパスの橋脚に沿って進む。ガード下では、グランドゴルフに興じるシニアの方々を見ながら進むと広い道と 交叉し、交番の横を進む。 真っ直ぐに歩み、道なりに左に曲がる所には頼兼公園があり、廻り込むように進む。
峠の頂上の道の両側に備後と安藝の国境石が立っている。 右の国境石には「従是東 備後國 従是西 安藝國」、左の国境石には「従是 西安藝國・・・ 東備後國・・・」刻まれているが 読み難い。 備前と備中、備中と備後の国境石は立派なものだったので、ここの国境石も立派なものだと期待していたのが、裏切られた。 一里塚碑と同じ位の大きさで、国境としてはお粗末な感じがした。 また、尾道の防地峠で見た「広島藩と福山藩」の国境石を考えると国と藩の違いは何だろうと話し、国は律令時代から、藩は江戸時代から のもので、国の中にも藩が複数あるのだろうと。 大学の入口の石に座って一息入れる。(13:50-14:00)
「仏ケ峠」の緩やかな坂道を下ると久し振りに国道2号線に合流する。合流地点に「地蔵尊」が祀られ、ここからは沼田(ぬた)川沿いの国道を 進むことになるが、歩道がなく危ないので、河川敷が遊歩道となっているので、そこを進むことにする。 三原バイパスの高架下から国道を右に入り、山沿いの道を進むと左の小屋の横に「木之浜壱里塚跡」の碑が立っている。
左に国道2号線を見ながら西に向かう。道なりに進むと国道2号線に合流し、再び国道歩きが始まる。 しばらく進むと七宝橋のバス停の先から右に入り、伯母ヶ崎第一踏切を渡る。少し進んだ排水機場の所で左折して小さな橋を渡と田園風景が 開け、遠くには新幹線が走っている。気持ち良い旧街道だ。 快適な田舎道を進むと神社があるが、名前が分からない。何処かで踏切を渡り、国道に出るのだが・・・。近くで作業している方に尋ねると あの神社が「八重垣神社」だと。もう少し進んだ所から踏切を渡り、国道に出るが、歩道がないので、元の道に戻って進む。 再び、国道と合流し、長谷橋の歩道橋で、仏通寺川を渡って右の仏通寺川沿いに進む。 川沿いの旧街道は気持ち良く、快調に進むとホテル街があり、二股を左にすすみ、やがて国道に合流する。
再び、単調な国道歩きが始まるが、歩道の幅が広いので安心だ。天気予報では晴れだったが、ずっと曇り空が続いていた。しかし、前方に 青空が見えて来たので、一安心だが、行程は終盤に向かっている。木々津バス停のベンチで一息入れる。(15:30) 納所橋北詰の交叉点の角に「川向米山寺道」の道標を確認して、国道から右に入って行く。広い道の左側は造成地の工事で広々としている。 広い道が左に曲がる1つ手前の細い道を左折すると「三太刀穀神社」の社が道横に鎮座し、その横の丘には「みたち第3号古墳」の案内板が 立っている。この辺りにも古墳が多いようだ。 細い道を進むと左からの道に合流したので、確認のため、左の道に入ると丘の上に「吉国神社」が鎮座するので、間違いないと確信し、元に 戻り、右に進んで行く。
道なりに進むと「本郷宿」の街中に入って行く。右に「西念寺」の立派な門や本堂の屋根を確認し、斜め前には「地蔵尊」が祀られている。 少し先には右に「稲荷道・佛通寺道」の道標が立ち、旧街道の雰囲気を残す本郷宿を進む。 右に珍しい形をした「うだつの家」も残っており、少し進んだ左角に「恵比須神社」が鎮座する。その鳥居の扁額には「二匹の鯛」が 掲げられている。今まで見たことのない鳥居だ。
諦めて、今日の紀行はこれで終えることにして、改札口に向かう。今日の歩行歩数は28700歩と半日の歩行としては上出来だ。(16:15) 16時22分発の岡山行に乗り、ゆっくりとくつろぎながら、今日歩いた行程を車中から眺める。 「山陽道No15A」の「紀行スライドショー」 今日は真夏の歩行と違って、汗もかかなかったので、当初予定していた尾道での銭湯入浴は止めることにし、もう一つの懸案事項であった 倉敷の居酒屋に向かうことにする。 O君が大阪・本町で立ち寄る居酒屋の姉妹店(?)で、前回覗いた時はまだ開店しておらず、「青春18きっぷ」の帰りに、小生一人が立ち寄り、 次回はO君と一緒に来ると約束していた店だ。 倉敷まで次回の予定を検討したり、ウトウトしたりとし、倉敷駅前地下の「天友」に行く。親父さんは覚えていて、早速、O君との話が盛り 上がる。ビールで乾杯し、美味しい肴で芋焼酎の杯を重ねる。 19時発の姫路行だと岡山乗換えがないので、その時刻に合わせて、また機会があれば立ち寄ると話して退席する。列車では疲れと酔いで 二人ともぐっすり。姫路で乗換え、大阪駅でO君と別れて24時前に帰宅する。楽しい紀行だった。
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