[玖波〜新岩国][新岩国〜米川][米川〜周防花岡]


○「山陽道No19」見聞録(玖波〜周防花岡)・(距離 52.7km(今回)/ 502.0km(累計))

  1.広島・玖波〜新岩国・(15.3km) 2014.02.12. 7:25〜16:15 晴れ時々曇り


西国・山陽道全行程.Map

「玖波〜新岩国・行程MAP」

地図の再生ボタン()を押すと
見聞ルートに沿って歩行出来ます。
クリックすると拡大します。(街道歩き旅.com HPより借用)

今年第一回目の「山陽道」紀行は、O君、N君と日程を調整し、遠くなるので、初めて2泊3日の行程で行うことになった。O君が前日、広島の 友人と会うとのことで、別行動となるので「こだま往復切符」は使えず、「薩摩街道」紀行でも利用している深夜バスで広島まで行くことにする。
N君も深夜バスで行く予定だったが、所用で行けないことになったが、前回同行したSさんが、新幹線で駆け付けることになり、3人での 歩行となる。
2/11、23時発の深夜バスに合わせて、9時30分頃家を出て、大阪駅に向かう。建国記念日の祭日なので、夜の大阪駅はひっそりしていて、ガード 下の開いている居酒屋で、睡眠導入剤を。
広島行・4列の深夜バスは満席で、通路側ですぐに眠ってしまう。トイレ付きのバスだが、途中のSAでの 休憩も含み、時間調整をしながら、JR西条駅に到着する。 駅前には、数日前の寒波の影響による雪の山が残っている。数ケ所の停留所に停まり、定刻通り、6時20分に広島駅に到着する。
バスを降りた新幹線口に「すき屋」があったので、朝定食でお腹を満たし、コンビニで昼食用のおにぎりとサンドウィッチを買い求め、 ソチ・オリンピックの結果を聞くが分からず、妻に電話し、尋ねる。女子ジャンプの高梨沙羅ちゃんは4位だったと。残念。男子のハーフパイプで10代の 二人が銀・銅メダルを取ったと嬉しいやら悲しいやらの結果だ。
予定通り、 7時06分発の列車で、前回の最終地点・玖波駅に向かう。通勤時間なので、結構満員で、前回歩いた行程を車窓から思い出しながら進み、 玖波駅に到着する。(7:46)
O君、Sさんとは、9時40分に玖波駅集合になっているので、その間に、前回、木々が深くて道が分からず、迷った玖波駅手前の「鉾ケ峠」の 探索を行うことにする。

鳴川の石畳と西国街道跡案内板

7時25分、冷たいので身支度を整え「鉾ケ峠」に向かってスタートする。
前回帰宅後、国土地理院の1/25000の地図を拡大すると、「鉾ケ峠」に それらしき地道が記されていたので、逆から辿って行こうと、まだ早く誰も歩いていない「玖波宿」を東に向かう。
前回通った「角屋釣井」を 確認し、隧道を抜けて、2筋目の細い道を左に上って行くと、やがて地道になり、JRトンネルの入口の上に出て、少し薄くなっている道筋を 辿って行く。冬場なので、下草も枯れていて、道跡ははっきりしているので、辿って行くと前回確認した「鳴川の石畳」と「史跡西国街道跡」 の案内板に到達する。(7:50)
前回、何故、道が分からなくなったかと思う位、スムースに到達したので、ゆっくりと「山陽道」を進むことにする。 朝日が輝き、木漏れ日が射し込む峠道の下草は、露に濡れていて風情がある。前回、この辺りで迷ったと思う地点も、問題なく過ぎ、やがて 下り坂になる。
途中、下草に覆われている所もあるが、順調に下るとトンネル入口の真上に到達し、金網が張ってある道で、トンネルの入口を越え、 JR線路沿いに下って行くと問題なく国道に出る。
隧道を抜け、静かな「玖波宿」の街並みを味わって、本来の旧街道の分岐点に向かう。

鉾ケ峠の地道

トンネルの上の道 JR沿いに下る

玖波宿の街並み


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

集合時間まで、十分時間があるので、「山陽道」の先を事前に探索することにする。
「角屋釣井」を過ぎ、右のJA玖波支店の向かい辺りに「玖波宿本陣跡」だそうだが、何も残っていない先を右折して進むと山陽本線のガードが あり、くぐって進むと右に「称名寺」が建ち、川を渡って、広島岩国道路下の道路に向かうため、住宅街の中を縫って進む。
高速道路下の道路に上る道を探していると、その土手に「土筆」が一杯生えている。この辺りは春真っ盛りなのだと。上の道路に上るルートを 確認して、その先は後程3人で進むことにし、玖波駅に戻る。
駅の待合室で、行程をトレースしていると、1台早い列車に乗れたO君とSさんが到着し、今年初めての紀行に向かうご挨拶を交わす。

9時40分、少し肌寒い外気の中、「山陽道」紀行をスタートする。
前回歩いた道路に戻り、旧街道に戻る。何も残っていない「玖波宿本陣跡」の角を左折し、山陽本線の高架下を抜け、「称名寺」の前を通り、 先程、探索した住宅街の道を進み、高速道路下の道路に通じる土手の下まで行く。
ここで、2人に見つけいた「土筆」の群生を見せると大驚き。瀬戸内海の海に近く、南向きの 土手だから生えているのだろうが、2月上旬に「土筆」が生えているのは感激だ。春は近い!!
土手のコンクリートで補強された所を上って、広島岩国道路高架下の道路に上り切り、高速道路の下を進む。高台になっている道路からは、朝日に 輝く、瀬戸内海が望まれる。

称名寺

高速道路下の道路 土筆

瀬戸内海を望む


暖かい陽射しを浴びながら進み、左の玖波中学の先から左に下って行き、広い道と合流し、道なりに左に下って行くと川を渡る。 しばらく直進し、黒川2丁目の信号で左折し、山陽本線の踏切を渡り、高速道路の高架下を右折する。
左にICに向かう高速道路を見ながら、黒川会館の前を進み、突き当たりを右折し、直ぐ左折して進む。道なりに静かな旧街道を進むと 自然石の芭蕉の「けごろもの句碑」が立っている。芭蕉の150年忌に俳句同好の人によって建てられたものだと。
突き当たりの左には国道2号線が走っているが、国道から反対の右に進み、再び、山陽本線の高架下を抜け、左折して線路沿いに進む。 新町川に突き当たり、右折して新町川沿いに進むと山陽自動車道の高速道路の高架があり、その手前の橋を渡り、右折し、高架下を抜け、 左折すると緩やかな坂道となる。
山陽自動車道に沿って、坂を上って行くと右に「橋姫神社」が鎮座する。山陽自動車道の建設のため移設されたと。

静かな旧街道

けごろもの句碑 高速沿いの坂道

橋姫神社


坂道を上る途中から、山陽自動車道はトンネルに入って行く。トンネルの上で、左からの道路と合流する所に「歴史の散歩道」の地図と案内板が立ち、「書かれた 地図入りの大きな案内板が「苦の坂」や「山陽道」の説明が記されている。

苦の坂の頂上

その先に「全面通行止」の看板が立ち、右側に階段が設置されている。先達の紀行記に「苦の坂」の歩行は、行き止まりがあり、 私有地を通らねばならないので、大竹市役所に了解を得たとのことで、昨年、大竹市役所に問い合わせていた。 回答をいただき、階段が設置されているので、それを昇ると地道が続き、「苦の坂」に至るとのことで、安心していた。ここで 一息入れる。(10:50-11:00)

苦の坂への階段















今回の紀行では、何か所も難関の道があるが、その一つの課題の入口に来た訳だ。
3段に分かれた急な階段を昇ると地道になり、金網が張ってある横の緩やかな坂道を上って行く。横の山肌には、先日の残雪が残り、 気持ち良い峠道は、やがて竹林となって来る。やがて、前方に案内板が見え、「苦の坂」の頂上に到着する。
案内板には、推古天皇時代、厳島神社の祭神の市杵嶋姫命が、筑紫から安芸へ移る時、二歳の嬰児を連れて この坂に差し掛かった。あまりの急坂で「えらや苦しやこの苦の坂は金のちきりも要らぬものを」と呟かれ、大切に持っていたちきり (機織りの縦糸を巻く道具)を投げられたら、麓の池に飛んで行った。 後にその池を埋めて社殿を建てたのが今のちきり池神社だ。そうして坂の名前も「苦の坂」と言われるようになったと。 そんなに厳しい坂とは思えないが、子供連れでは辛かったのだろうと想像する。

歴史の散歩道の案内板

階段を昇った所

竹林の道


落葉や笹の葉が積もる地道は、やがて下り坂になり、快調に下って行く。下り坂から下を見ると高速道路や集落が望まれる。「苦の坂」の 名前とは違った坂を下り切ると、右に「ちきり池神社」が鎮座する。鳥居をくぐり、本殿に今回の紀行の安全を祈願する。
案内板によると、本殿の横に「汐湧石」があるとのことで探し確認する。ここから汐水が湧き出るとのことだ。「苦の坂」の頂上の案内板に 記されていた「ちぎり」はここなのだと。

苦の坂の下り坂 展望

ちきり池神社

汐湧石


「苦の坂」の下った地点には蝋梅が満開で、さわやかな香りを発している。県道との入口に「史跡長州の戦跡・苦の坂」の案内板が立ち、 この「苦の坂」で、幕府と長州軍が対峙し、長州軍が幕府軍の側面を攻撃し、勝利したと。ここにも、知らなかった幕末の歴史があるのだと 再認識する。
しばらくの間、広島県と山口県の県境である小瀬川に沿った県道を進む。うららかな陽射しで気持ち良い。
県道が右に曲がって行く左のガードレールの下「太閤の振る舞い井戸」が残っている。太閤秀吉が朝鮮出兵で名護屋からの帰途、村人がこの水で お茶を点てて差し出したところご満喫され、大変喜ばれたと。
その先、左の山中に「大元神社」が鎮座が鎮座し、長い県道には所々に「地蔵尊」が祀られている。

長州の戦跡の案内板 小瀬川沿いの県道

太閤の振る舞い井戸

大元神社 地蔵尊


遥か先に小瀬川(木野川)に架かる「両国橋」が見えてきた。

広島県・山口県境の両国橋と小林三角和久跡

橋の下流に「木野川渡し場跡」があるとのことで、「両国橋」の下流まで進むと堤の上に「旧山陽道木野川渡し場跡入口」の石碑が立っている。
西国街道の要所で、安芸・周防の国境である。古代から大和の国と九州太宰府までを大路といわれ、中世から近世に 入り、日本の往還道として重要な役割を果たした。
この木野川の渡し場は、交通も頻繁で、渡し守は木野・小瀬両村から2人づつ昼夜交代で出仕した。人は2文、牛馬は4文、そしてお役人は 無料であった。今も昔日の姿をとどめている。(大竹市HP他より)

広場の真ん中に、石造りの「ごじんじ」と云われる駕籠置場として利用された史跡があるのは初めて見た。渡し船を待つ間、駕籠を置いた のであろうと。
また、小瀬川はよく氾濫するため、治水対策として流れを弱める「小林三角和久(こばやしさんかくわく)や「まき石護岸」が造られ、その史跡も 残っている。
国境の要所としての機能と護岸に留意した跡が残っているのには驚く。
整備された広場で、グランドゴルフの準備をしておられる方に、ここで昼食を食べても良いとの許可をもらい、Sさんが持ってきてもらったコンロで お茶を沸かし昼食とする。河原で少し風があるが、暖かい陽射しを浴びながら、一息入れる。(12:10-12:40)。

旧山陽道木野川渡し場跡入口の碑

ごじんじ

まき石護岸


「山陽道・玖波〜新岩国@」の「紀行スライドショー」

昼食を終え、「両国橋」のまで戻り、歩道橋を渡ると中央付近に「山口県・岩国市」の標識があり、山口県に入る。
橋を渡って左折し、堤防沿いに対岸の渡し場跡付近まで進むと道角に「吉田松陰歌碑」と横には「旧山陽道跡」の案内板が立っている。 歌碑は、松蔭が幕府の召還を受け、駕籠で江戸へ護送される時、二度と故郷に戻れない覚悟の「夢路にもかえらぬ関を打ち越えて  いまをかぎりと渡る小瀬川」と記されている。
ここを右折し、「小瀬峠」に向かって、緩やかな坂を上って行く。少し先の右に白壁の「小瀬の茶屋」が建っているが、中には入られず、 右下に川が流れる舗装道路を上って行くと道横には残雪が残っていて、外気が冷たくなってくる。

吉田松陰歌碑と旧山陽道跡の案内板

小瀬の茶屋

小瀬峠への舗装道路


今回の行程で、難関となっている「小瀬峠」越えが近付き、気を引き締めて進む。

小瀬峠の頂上付近

舗装道路がヘアピンカーブになる手前左に「旧山陽道跡」の道標が立っている。
舗装道路から、道標に従って左の地道に入って行く。
草の道は土の道になり、雪が残る旧街道を上って行くと、先程、別れた舗装道路に合流するガードレール下にも、小さな道標が、今来た道を下る ように示している。
「旧山陽道跡」の道標等は地元の方が、旧街道を開拓・整備していただいとのことで、有難い。
道標を見逃さないようにしなければと確認して進む。
ウネウネした舗装道路を上って行くと、後ろを歩いていたSさんが、道標が倒れていると教えてくれる。気付かなかったが、右に 「旧山陽道跡」道標が倒れていて、細い地道が上っているのを発見する。
戻って、右側の地道を上って行く。細い道は、右に左に曲がりながら、上って行く。左下には、木立の間から舗装道路が見え、所々に 「旧山陽道」道標が立ち、方向を示してくれる。
竹林の中の道は快適で、古人に戻ったように、旧街道を楽しみながら進むと下りになり、再び、舗装道路に降りる。
舗装道路の道は少し上っているようだが、その中に下りになるので、この辺りが「小瀬峠」の頂上だろうと思いながら、道横に積もるカチカチに 凍った雪を見ながら下って行く。(13:30)

旧山陽道跡道標を左に

雪の残る旧街道

舗装道路に戻る


小瀬峠への舗装道路

道標から右上の地道へ

旧街道の道標


竹林が美しい「小瀬峠」を下り始める。少し下ったガードレールが切れる左に「旧山陽道」の道標を見落としそうになるが、見付ける。左下に ロープが張っている急な坂道があり、その下にも道標が立っているのを確認し、これが旧街道だと確信し、ロープを伝って下に降りる。
坂の下には、地道が切り開かれ、地元の方の努力が感じられる旧街道が残っている。今度は、右上に舗装道路を感じながら、地道を進む。 視界が開け、左には高速道路の高架橋が見える。林の中の地道を進み小さな橋を渡る。少し先で、細い舗装道路と交差するが、道標に 従い、直進すると元の和舗装道路に合流し、そこに立つ「旧山陽道跡」道標を確認して「小瀬峠」越えを無事終える。

急坂の道標・左下へ 旧街道道標

木立の旧街道

舗装道路と合流 道標


関戸宿本陣跡

集落がの中を進む。この辺りから「関戸宿」に入ったのだろうと思いながら進むと右に「地蔵尊」が祀られ、その先右高台に 「客(まろうど)神社が鎮座する。長い石段があるので、参拝はパスする。
「客神社」の参道入口に崩れかけた土塀が残っているのが「関戸宿本陣跡」で、横には「旧山陽道と関戸宿本陣跡」の案内板が立っている。 案内板には、
山陽道は、大和朝廷成立の初期に開かれ、大化の改新(645)により都(奈良)から大宰府までの官道と して整備され、七道中唯一の大路だった。
安芸国遠管(大竹市小方)の駅家を過ぎ、小瀬川を渡って周防国小瀬(岩国市小瀬)から山道を越えて石国(いわくに)駅家(岩国市関戸付近)から 野口(玖珂郡玖珂町野口)に至る道で、ここにはに駅家が置かれ、20頭の駅馬が常置されていた。 また、江戸時代には、関戸宿には参勤交代用の本陣や脇本陣などがあった。

その横には「吉田松陰先生東遊記念碑」が立っている。「小瀬峠」の前後に吉田松陰の碑が立っているのだ。
「山陽道」紀行で残念なのは、宿場の史跡が残っていない場合が多く、何処が宿場なのか分からないこともあった。「関戸宿」は、まだ 「本陣跡」の面影が残り、案内板があったのは嬉しい。
「関戸宿」の街並みを進むと古い旧家が建っている。庄屋屋敷だったそうだ。(13:55)

客神社 地蔵尊

吉田松陰先生東遊記念碑

関戸宿の街並み


少し進むと国道2号線に当たり、右折して国道歩きとなる。道横に「岩国往来」の道標が立ち、この辺りでは「岩国往来」と云うことを知る。 山陽自動車道の高架下を抜け「下関151km」の標識を確認し、淡々と進む。

岩国往来の道標

迷った道標

道なりに大きく左に曲がると、左に岩国コンクリート工場がある。その前の道路脇のクリートコンの割れ目から、旧街道があるそうだが、見落として しまい、後から気付いたが、そのまま進む。
その先に郵便局があり、手前に鳥居と「岩国往来」道標が立っている。鳥居の先に上り坂があり、先程、見落とした岩国コンクリート前に続く 旧街道があったそうだが、戻って確認することは諦める。ここで、大きな間違いをしてしまう。「岩国往来」道標の裏側に、「旧山陽道跡」の 今まで頼りにしてきた道標があり、国道から右に入る道を示している。道標に従い、右の道を進むが、何かおかしい。作業している方に 尋ねると国道をそのまま進むのが、次の史跡に向かう道だと教えられ、泣く泣く戻らざるを得なくなる。今まで信用していたのにと。
再び国道を進むが、迷った疲れで、多田交叉点のバス停のベンチで一息入れる。(15:00-15:10)

本庄八幡宮

錦川

国道2号線は右に曲がって行く右角の高台に「本庄八幡宮」が鎮座するが、石段が高そうなのでパスする。
歩道橋で国道を渡り、直進すると 直ぐ、きれいな錦川を御庄大橋で渡り、右折して堤防を上流に向かって歩む。
この下流には、錦帯橋があるのだと話しながら、竹藪が茂る堤防を進むと前方に新幹線が見え、堤防を下る。
新幹線を右に見ながら進むと たくさん人が集まっている。視線の先を見ると、新幹線の高架向こうの山肌に猿の集団が、野草を食べているのだ。20匹はいるだろう。 奥さん達は、こんな集団は見たことがないと、子供に早く家に戻りなさいと。写真を写そうとしたが、山に戻ってしまいNGだった。
新幹線の高架下を抜け、少し先に右に入って行く旧街道がある。右に「蓮乗寺」が建ち、静かな「御庄宿」の街並みを楽しみながら進むと 「御庄宿本陣跡」と云われる広場があるが、その面影を残すものはない。
旧街道を進むと右に「多賀神社」が鎮座し、境内でコーヒータイムとする。疲労度も激しいので、次の柱野駅まで進むか、新岩国で終わるか相談し、 まだ2日間の紀行があるので、無理せずにここで終えることにする。ここて、一息入れる。(15:50-16:10)

蓮乗寺 御庄宿の街並み

御庄宿本陣跡

多賀神社


「山陽道・玖波〜新岩国A」の「紀行スライドショー」

本日の紀行はここまでとし、新岩国駅に向かう。宿泊地は岩国駅近くに予約しているので、岩国に行かねばならない。列車の時刻までは、 50分ほどあり、バスの時刻を調べると良いのがあったので、16時37分発のバス利用とする。
バスは今日歩いた所も通り、錦帯橋も車窓から見学し、岩国グリーンホテルにチェックインする。早速、大浴場で足腰を癒し、リフレッシュする。夕食は岩国駅 近くの地産地消の店で、ビールで乾杯した後、鶏料理や野菜をしっかりいただく。
ホテルに戻り、ぐっすりと眠る。今日の歩行歩数は38800歩でした。


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