[下関〜小倉][小倉〜直方]


○ 「薩摩街道No1」見聞録(下関〜直方)・(距離 51.3km(今回)/ 51.3km(累計))

  1.「門司往還」下関〜小倉・(24.3km) 2013.01.29 5:55〜16:50 曇り時々晴れ


門司往還・長崎街道・薩摩街道宿場一覧

「下関〜小倉・行程MAP」

地図の再生ボタン()を押すと
見聞ルートに沿って歩行出来ます。
クリックすると拡大します。

「山陽道」紀行も昨年一年間かけ、小学校以来の友人O君・N君と3人で、京都・大阪から広島市まで踏破した。
下関までの「山陽道」紀行は共通だが、友人2人は「萩往還」を歩き、一人は大宰府まで行きたいとの目標があった。小生は「薩摩街道」を 歩き、5年間単身赴任していた鹿児島県出水市を訪れ、最終的には鹿児島市を越え、鑑真上陸の地・坊津まで行きたいと思っていた。 調べていると「薩摩街道」は「坊津街道」とも云われるとのことなので、目標設定は妥当なものだと納得する。
広島市まで紀行した後、少しアクシデントがあり、下関までの行程は、後日、友人と一緒に歩くことにし、その間に「薩摩街道」紀行を単独で 実施することにした次第だ。

「山陽道」の終点・下関から「薩摩街道」に向かう行程は、門司から小倉までの「門司往還」、小倉から山家までは「長崎街道」で 進むことになる。 下関から門司までは船で渡るのだが、「山陽道」の最終地点を確認して、一度通ったことがある「関門トンネル・歩道」を抜けて九州に進もうと 検討した。
下関までの深夜バスを調べると今まで利用していた3列シートの乗合バスはなく、4列シートのツァーバスしか運行していない。費用も安い(3100円)し、 「青春18きっぷ」の夜行列車の4列席も経験済みなので、利用することにする。
1/28、20時過ぎに家を出て、梅田のガード下で睡眠薬を飲み、21時に集合場所の駐車場に向かう。乗客は若者ばかりで、女性も多いのには 驚く。21時30分、満席の通路側に座り、出発する。
隣の席と接近しているので、窮屈だが、ウトウトとしながら、神戸・姫路で乗客を乗せ、高速道路に入る。トイレがないので、途中のSAで3度休憩 するのだが、灯りが点き、窓側の人も下りるので、起き上がらねばならず、睡眠は中断される。値段と相談すれば、止むを得ない。
1/29、5時45分、下関駅に到着するが、真っ暗で少し寒い。下関駅は改装工事中で、待合室もなく、廊下のベンチで身支度を整え、5時55分、 満月が輝く下、「薩摩街道」への第一歩をスタートする。
まずは「山陽道」最終地点である「永福寺」に向かう。

下関駅

唐戸市場 ふぐ刺定食

誰も通っていない道を進み、少し迷いながら「永福寺」を発見するが、門前に道標も なく、長い階段を上り、本堂近くまで行くが、暗くて分からない。
小高い丘の上からは関門海峡の対岸である門司の灯りが美しい。
暗いので、「山陽道」歩行は日が昇ってから戻ることにして、「唐戸市場」に朝食をとりに行く。4時頃から開店している市場は、 活気があり、2階の食堂に向かう。カウンター席が空いていて、軽い朝食をと頼むが、焼魚定食は売切れなので、豪勢に「ふぐ刺定食」を頼む。 美味しいが、朝食より、夜に「ひれ酒」と一緒に食べる方が良い。本日の歩行のエネルギーを補給する。(6:40-7:10)

「山陽道」最終地点・永福寺

朝日が昇り、対岸の門司の景観を眺めながら、「永福寺」に戻る途中に、「山陽道」から九州に渡る渡船跡「堂崎の渡し場跡」の碑が立ち、 横には「フランシスコ・ザビエル下関上陸の地」の立派な碑も立っている。

堂崎の渡し場跡

偶然だが、史跡に出会えてgoodだった。
朝日を受ける「永福寺」の門前に到着する。周辺を探しても、「山陽道」関連の碑がない。何かあると思っていたのが間違いだったのだ。 真っ暗な中、階段を上って探したのは無駄だった。
次回は友人たちとここに到達することを祈念して、「山陽道」を逆打ちして進む。
少し先に石造りの立派な「山口銀行旧本店」が建っている。大正時代の優雅な建築様式のようだ。その先に「馬関越荷方役所跡」碑が立つ。 江戸時代から越後方面からの北前船の寄港地として赤間関が大いに繁盛していたことから、莫大な利益を得ていたらしい。
東に進むと小さな公園があり「金子みすゞと上山文英堂」の案内板が立つ。金子みすゞは、長門市仙崎の出身と思っていたが、下関市 の上山文英堂書店で、働きながら創作を続けていたそうだ。下関と金子みすゞの結び付きも親密なようで、その先にも名前が出て来た。 少し進んだ左の家の前に「名池の井戸水」の案内があり、竹筒から水が流れるようになっている平安時代からの飲料水として用いられたと。

山口銀行旧本店

馬関越荷方役所跡 説明

金子みすゞ案内板 名池の井戸水


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

広い道を渡り、「亀山八幡宮」の大鳥居の前に進むと石段下の鳥居の横に「山陽道」の石碑が建っている。形として残っている「山陽道」 最終地点の石碑だ。「ここは山陽道の基点九州渡航の起地なり山陽道第一番塚なり(長門国志)」と書かれた案内板も立っている。起点・ 終点とは云わず、基点と表現しているのはスタートorエンドにもなる上手い表現だ。広島から下関までは飛ばしたが、最終地点の碑に到達 したのだと感慨深く朝日を浴びながら一息入れる。次は3人で踏破だ。(7:50)

亀山八幡宮の大鳥居

山陽道の石碑


赤間神宮

国道を進むと左に「本陣伊藤邸跡」の標識を見付け、 少し左に入って行くと小さな広場に石碑と案内板が立ち、下関の旧家で貿易で 栄えたことが記されている。元に戻り、少し先に日清戦争の講和会議の舞台となった「春帆楼」が高台の上に建ち、その隣には朱色の 「赤間神宮」の社殿が鎮座する。
源平壇之浦の合戦に敗れ、わずか8歳で関門海峡に入水された安徳天皇を祀っています。壇之浦を望む水天門は鮮やかな竜宮造り。 「海の中にも都はある」という二位の尼の願いを映したものといわれています。
境内には小泉八雲の怪談で有名な「耳なし芳一」を奉る 「芳一堂」、平家一門の墓「七盛塚」、貴重な資料を展示した宝物殿等があります。(下関観光協会HPより)

中国風の水天門から本殿に向かい、「薩摩街道」紀行の無事と踏破を願って礼拝する。
横にある安徳天皇を祀ってある陵の重厚な門を拝し、境内に戻り、平家一門の墓「七盛塚」に礼拝し、「耳なし芳一」を奉る 「芳一堂」を見学する。平家滅亡の地には、それにまつわる史跡がたくさんあることを改めて知る。
ここで、昔のことを思い出した。20年近く前、会社のサッカー部の男性と部下の女性の結婚式が下関で行われ、参列した。座敷の披露宴会場 から、関門海峡が望まれ、「赤間神宮」も近くにあったので、披露宴は「春帆楼」だったのではと。機会があれば確かめないと。

本陣伊藤邸跡 春帆楼

安徳天皇陵の門

平家一門の墓 芳一堂


「赤間神宮」の前には海に向かって鳥居が立っている。対岸の「和布刈(めかり)神社」を眺めようと海岸に進むと、右に 「朝鮮通信使上陸淹留之地」の大きな碑が立っている。「中山道」を歩いている時、「朝鮮人街道」があったことを思い出す。朝鮮通信使が ここに上陸し、あの道を歩いたのだと。
海岸の国道を関門大橋に向かって進む。関門大橋の大きさを感じながら下をくぐって進むと右側に「みもすそ川公園」があり、 「壇の浦古戦場址」碑が立ち、その先には「源義経八艘飛びの像」「平知盛の碇を担いで入水する像」が飾られている。源平合戦の最後の 戦場がリアルに描かれている。しばし、関門海峡を眺めながら、一息入れる。(9:00)

朝鮮通信使上陸淹留之地の碑

関門大橋と壇の浦古戦場址の碑

源義経八艘飛びの像と平知盛入水する像


「山陽道」の最終地点を確認し、いよいよ本州から九州に向かうのだ。

関門トンネルの歩道

山口県・福岡県の県境

本来なら、先程の唐戸港から渡船で門司に渡るのだが、今回は「関門トンネル」の歩道を通ることにする。
エレベーターで下ってトンネルの中に降りる。人は無料で、静かな空間が真っ直ぐに伸びている。
誰もいないのではと思っていたが、歩いている人、ジョギングしている人と結構たくさんの人がいる。
静かな空間を楽しみながら進むと山口県・福岡県の県境の標識が記されている。さあ、九州突入だ!!
全長470mのトンネル内をジョギングしている女性に聞くと毎日4往復していると。470mx8=3760mを走っているのには驚く。そんな人が 10数人、楽しくジョギングしているのだ。天気に関係なく運動できる最適な場所だ。 門司側に着き、エレベーターで地上に上り、九州の地に到着だ。

「山陽道(下関〜関門トンネル)」の「紀行スライドショー」

和布刈神社 説明

九州に上陸した。いよいよ「門司往還」「長崎街道」を経由し、「薩摩街道」に向かうのだ。
すぐ横に「和布刈(めかり)神社」が鎮座する。
和布刈神社は九州最北端に位置する神社で、社記によると、仲哀天皇9年(200年)に創建されました。
新平家物語では壇ノ浦の合戦前夜に平家一門が勝利を祈願して、願文を奏上したと伝えられています。
社名となっている和布刈(めかり)とは「ワカメを刈る」の意であり、毎年旧暦元旦の未明に三人の神職がそれぞれ松明、手桶、鎌を持って 神社の前の関門海峡に入り、海岸でワカメを刈り採って、神前に供える和布刈神事(が行われます。

関門海峡を目の前に鎮座する「和布刈神社」の本殿に、これからの九州行程の無事を願って礼拝する。
潮の香りを感じながら海峡を望むと関門大橋の下に「常夜燈」が波に洗われながら立っている。神事の時には灯明で照らしているのだろうと 思いながら戻ると釣り人がたくさん竿を出している。何が釣れるのかと聞くとアイナメ狙いだが、全然ダメだと。 関門海峡の潮の流れは早く、小船が潮に逆らって走っている。対岸の下関の町も朝日に輝き、「薩摩街道」のスタートを祝ってくれているようだ。
9時15分、「門司往還」への第一歩を踏み出す。道なりに坂道を下って行くと右に「門司関址」の石碑が立っている。大宰府への道に対し、関所が 設けられていたのだ。

海峡に立つ常夜燈

関門海峡と下関

門司関址の石碑


左の細い道に入って下って行くと自動車の関門トンネル出口になり、道路標識には、もう少し行くと国道3号線に接続されていることを示している。 「山陽道」スタートの時、大阪・梅田新道の国道1号・2号線の「大阪市里程元標」を確認していたので、2号線と3号線の里程標を確認に向かう。
若松公園交叉点に、国道2号線が大阪から537lmの標識が立っていて、3号線は右に曲がって行くのだが、それらしき里程標は見つからない。 周辺を探すが分からず、 近くの人に聞くと3号線の分岐はもっと向こうだと。そこまで行くが分からず、タクシーの運転手に聞くと若松公園から分かれるが、里程標は 知らないと。もう一度、戻って探すが分からず、写真で分岐点をパチリと。
旧街道を進み、国道3号線に当たり、本来は3号線を行くのだが、以前に訪れた門司港駅付近のレトロな街並みを見物しようと駅方面に向かう。 駅の観光案内所で「門司往還」の地図がないか尋ねるがないと。往還と云ったのを門司羊羹と聞き返される程、名前が通っていないのだ。 駅前の「旧門司三井倶楽部」のレトロな建物を見て、改装中の「門司港駅」の前のベンチで一息入れる。(10:00-10:10)

国道2号・3号線の分岐点

旧門司三井倶楽部

門司港駅


3号線に戻らず、海岸線の国道を進み、高架橋でJRを越えて、3号線に合流して進む。
国道歩きが多いので、面白くもなく淡々と進み、風師2丁目信号の次の筋を右折し、2筋目を左折し、旧街道を進む。真っ直ぐな道は適当に アップダウンし、左に「蛭子神社」の鳥居を見て、右に関門海峡を時々望みながら進むが単調だ。 旧街道は再び3号線に合流し、しばらくの間は国道歩きが続く。JR小森江駅への道を通り越し、大里東口の交叉点を右折し、JRの踏切を渡り、 国道199号線の手前の筋を左折すると右側に「西生寺」が建っている。 ここからの真っ直ぐな旧街道が「大里(だいり)宿」で、九州の街道の起点となっているのだ。
「西生寺」か右に見て進むと交叉点には古いレンガ造りの家が建ち、旧街道の趣きが残っている。庄屋跡・御番所跡・○○家屋敷跡・ 人馬継所跡等々の史跡の標識があるが、史跡は残っていない。

西生寺

古いレンガ造りの家

大里宿の街並み


少し進むとレンガ造りの建物が左右に連なる。建物の一角に「豊前大里宿址」の碑が立ち、近くには当時の宿場絵図が立てられている。

豊前大里宿址の碑 絵図

慶長17年(1612)、冷水峠が開通して、長崎街道が短縮されたので、九州諸大名はこの路を参勤に利用するようになりました。 筑前六宿はこの時成立しました。細川藩もこれに関連し、本土渡海の為に、短距離で潮の都合のよい大里を選び、 ここに宿駅を設置したようです。
大里宿は九州最北部に位置し、上り赤間関には海上約一里半(5.9km)、下り小倉へは一里十九町十七間余(約6km)となる宿駅です。 宿駅は村の中央部を町区(田畑川と水無川の間)とし、両端を南北区とする、全長646mの街道沿いに軒を連ねた小さな宿駅でした。 (北九州市観光協会HPより)

旧街道はレンガ造りの建物からは視界が広がり、新開拓地となっている。レンガ造りの建物はサッポロビール工場だったが、その建物を残し、今では 「門司麦酒煉瓦館」として、歴史を伝えている。また、前の建物はレストランとなり、ランチを楽しむ婦人達がたくさん集まって来ている。
昼飯時になったので、この雰囲気のあるレストランの中、一番安そうな店を選んで昼食とする。室内も雰囲気が良く、ハヤシライスを頼み、 江戸時代ではなく大正時代の雰囲気の中で昼食を楽しむ。(11:45-12:05)

レンガ造りの建物

門司麦酒煉瓦館

レストラン


レンガ造りのレストランでの昼食に満足し、新しいマンションが立ち並ぶ開拓地の道を進む。

水かけ地蔵

途中からは昔の道なったが、単調な道を進み、高架橋でJRを 越えて3号線に合流して、国道歩きとなる。手向山公園のトンネルの所に「水かけ地蔵」が祀られている。
しばらく国道歩きをし、赤坂1丁目東の交叉点を右折し、JRの踏切を渡り、先程と同じように国道199号線の手前の道を左に進む。しかし、 随分先で、道がなくなり、戻らざるを得なくなり、15分程ロスして、国道199号線を進むことになる。海岸沿いの国道からは製鉄所の煙突も 見られ、暖かい陽射しを浴びながら、舗装道路を進む。
道がなくなった辺りから左に入る道を探すが見当たらず、末広町の交叉点から左折し、次の角を右折して小倉方面に向かう。
少し進むと右に「閻魔堂」が鎮座する。堂内には「地獄・極楽絵図」が奉納されていると。エンマさんが舌を抜くの話だ。
その先には「岩松助佐衛門生誕の家跡」の碑が立つ古い家が建っている。地元に貢献された庄屋だったのだろう。その先には「貴船神社」が 鎮座し、小倉に近付いて来た雰囲気が感じられる。

閻魔堂

岩松助佐衛門生誕の家跡

貴船神社


その先で川に当たり、新幹線の高架下に「門司口門跡」の案内板が立つ。ここは九州諸藩が参勤交代で通るため、小倉でも最も重要な道 だったため昼夜常に開門しており番所には常に数名の番士が勤めていたと。
JRの踏切を渡り、次の広い道を右折、直ぐの道を左折して、小倉の中心街に進む。右に「西顕寺」が建ち、門前に 「岩松助佐衛門の墓の碑」が立っている。先程、生家を見た庄屋さんのお墓が祀られているのだ。境内に入り、お墓を探すが分からず、 繁華街に向かう旧街道に戻り、進む。
目の前にデパートがあり、迂回しなければならないが、デパートの中の通路が旧街道とする先達もおられたので、中の通路を進む。以前歩いた 「中山道・熊谷宿」にも同じように、デパートの中に旧街道が通じていたのを思い出す。

門司口門跡 説明

西顕寺

デパートの中の旧街道


デパートを抜けるとJR小倉駅の前に出る。観光案内所に、これから進む「長崎街道」の資料がないか尋ねることにし、構内に進むと歩道橋の 上に「祇園太鼓の人形」が飾られている。さすが小倉だと。
観光案内所に行くが、「長崎街道」全体の史料はなく、明日進む予定の「小屋瀬宿」周辺の史料をもらい、「長崎街道」スタート地点である 「常盤橋」に通じる商店街の旧街道を進み、今夜泊まる「スーパーホテル」を確認して「門司往還」の紀行を終える。(13:50)

JR小倉駅

祇園太鼓の人形

商店街の旧街道


「門司往還(門司〜小倉)」の「紀行スライドショー」


商店街を抜けると目の前に紫川に架かる木製の「常盤橋」が迎えてくれる。いよいよ「長崎街道」のスタートだ。

常盤橋 説明

常盤橋は、細川時代(江戸時代初期)に紫川の東側を東曲輪として開発したときに、以前からの城下町であった西側(西曲輪)とを結ぶ橋と して架設されたといわれています。当時は大橋と呼ばれ、元禄5年〜7年に架け替えられてから、常盤橋と呼ばれるようになったようです。
江戸時代、常盤橋は、小倉から九州各地にのびる諸街道の起点であり終点でもありました。長崎街道、中津街道、秋月街道、唐津街道、 門司往還の5つを「小倉の五街道」と呼びますが、そのすべてがこの橋につながっていました。
当時、紫川の西と東を結ぶ橋は2つしかなく、城下町小倉の中心地は室町・京町筋だったことから、常盤橋は非常に重要な橋であった ことが推察できます。 (北九州市観光協会HPより)

広告塔

ここから「門司往還」を通ることなく、船で下関に渡るルートもあったらしい。
また、この橋を渡った人々の中にはシーボルトや幕末の志士に加えて、長崎から南蛮人に連れられた象が江戸まで行ったと。「中山道」でも 何処かで、この話を聞いた覚えがある。
橋桁の横には「伊能忠敬顕彰碑」が立ち、伊能忠敬が九州の地図作成の基点としたことを示している。 また、橋の横には古い「広告塔」が立っている。明治23年頃の建てられた広告塔を復元したもので、赤レンガを使用しヨーロッパの影響を そのまま形にしたものだと。
木製の橋が復元されたのは嬉しい気持ちで、「常盤橋」を渡り、「長崎街道」の第一歩を記す。
対岸にも、当時の橋桁の石杭が展示されている。歴史的な「常盤橋」を対する地元の意気は「長崎街道」を継承しようとする気持ちの 表れだろうと嬉しく思う。
橋の横には「長崎街道」の案内板が掲げられ、その前に「茶屋ときわばし」が店を開いている。茶店に入って甘いものをいただき、 今日の行程を考える。 まだ時間が早いので、先に進むが、その前に「小倉城」の見学をすることにし、一息入れる。(14:00-14:15)

伊能忠敬顕彰碑

常盤橋の石杭

茶屋ときわばし 案内板


流川沿いに進むと5分余りで、「小倉城」の天守閣が望まれ、城内に進む。濠も立派で、こじんまりしているが立派なお城だ。

小倉城

細川忠興が慶長7年(1602)に築造した城で、勝山城・湧金城とも呼ばれており、当時の天守閣は、五重六層で屋根には破風もなく、 特に五重目の上段は張り出しとなっており、初期天守の望楼に通じる珍しい外観構造《唐造り》でした。
細川氏の後に入居した小笠原氏は、慶応2年(1866)第二次長州征伐で長州軍に攻め入られ田川に撤退する際に、自ら城に火を放ち、 小倉城は灰燼に帰しました。
現在の天守閣(四重五層)は昭和34年に建てられたものです。平成2年、外観はそのまま残し、ハイテクを駆使して新しい小倉城に生まれ 変わりました。小倉の城下町をジオラマで再現している歴史ゾーン・映像体験ゾーン・小倉の街を一望できる展望ゾーンなどで構成されて います。 (北九州市観光協会HPより)
城内は桜の木も多く、お花見には賑わうようだ。天守閣に入場し、階段を上って行く途中に「虎」の額が掛かってる。何処から見ても眼を 合わせる絵で、なかなかの迫力だ。展示物を見ながら天守閣の最上階に上り、景観を楽しむが、周りの建物が高くて、展望は良くない。 観光客も多く、中国人と思われる人が何人が来ておられる。
展望台のベンチでこれからの「長崎街道」のチェックをし、何処まで歩けるか検討する。17時まで歩き、ホテルに戻る方針で、天守閣を降りると 下り階段にも「虎」の額が掛かってる。姿は違うが、なかなか迫力のある額だった。
城内に出て、改めて「小倉城」を眺め、満足して、「常盤橋」に戻る。

小倉城

虎の額

虎の額

小倉城


15時30分、「常盤橋」から「長崎街道」紀行をスタートする。
室町の商店街を進むと直ぐ左に「小倉県庁址」の石碑が立ち、その奥には当時の水色の木造の建物が建つ。県庁の一部だとか。商店街を 進むと右に郵便局があり、前には黒色のポストが立っている。昔は黒色だったようで、「中山道」の「馬篭宿」でもあったことを思い出す。
商店街を抜けるとJR西小倉駅前の広場に通じる。信号を渡り、駅前の広い道を進むが、「大門遺跡」があるのが見つからない。信号まで 戻って探すと信号を渡った左下にガラス張りで保存されている。ガラスが曇って見えない。

小倉県庁 石碑

郵便局の黒ポスト

大門遺跡


広い道を縫うように南に向かって進むと高速道路の高架下に至り、細い道を進むと「到津口門跡」の案内板が立つ。 ここも「長崎街道」の出入口として、先程歩いた「門司口」とともに昼夜を問わず開門しており常時20人が勤めていたと。
小倉西郵便局を廻るように進み、金田交叉点を通り、適当に迷いながら原町交叉点を右折するとJR日豊本線の踏切を渡る。直ぐ左に 清水小学校ががあり、その校庭の中に「長崎街道」案内板が立つ。道標があるので、一安心だ。校庭に沿って進むと、国道3号線に当たる。 時間は17時前なので、バス停を見付けて今日の行程は清水(きよみず)町で終えることにする。(16:55)

小倉の旧街道

到津口門跡

長崎街道案内板


「長崎街道(常盤橋〜小倉・清水町)」の「紀行スライドショー」

バスに乗り、小倉駅に戻り、先程歩いた商店街の中にある「スーパーホテル」にチェックインする。スーパーホテルは「中山道」紀行時に予約するも満室で ダメだったので、初めての宿泊だ。大浴場・朝食付きで4980円。キャッシュデイスペンサーで前払いでチェックインすると部屋番号・暗証番号が印字された レシートをもらい、部屋に行くと鍵はなく番号を打ち込む様式になっていて、入室する。人手は受付のみでだ。
大浴場で疲れを癒し、フロントでお奨めの居酒屋を聞き、ビールで乾杯し、美味しい魚を食べる。ホテルに戻り、20時過ぎに眠ってしまう。 昨夜のバスでは睡眠不足だったのと約25kmの歩行で疲れたのだろう。今日の歩行は54700歩だった。

久し振りの単独歩行で、「山陽道」の最終地点を確認し、九州に渡り、「門司往還」を踏破し、「長崎街道」の第一歩を記すことが出来た。 国道歩行が多く、史跡も少なかったので、楽しい紀行ではなかったが、着実に「薩摩街道」に向かって進んでいるのを実感する。
明日は直方までは行きたいと思いながら眠る。

[下関〜小倉][小倉〜直方]







    
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