[直方〜天道][天道〜松崎]


○ 「薩摩街道No2」見聞録(直方〜松崎)・(距離 57.2km(今回)/ 108.5km(累計))

  1.「長崎街道」(直方〜天道・24.3km) 2013.02.20. 7:20〜15:15 晴れ時々曇り


門司往還・長崎街道・薩摩街道宿場一覧

「天道〜松崎・行程MAP」

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前回「薩摩街道」紀行の前哨戦として、「山陽道」最終地点・下関から「門司往還」「長崎街道」を経由して、直方まで進んだ。国道歩き、 舗装道路歩きがほとんどで、足腰には面白くなかったが、後半は史跡も適度にあり、九州の旧街道を楽しんだ。
今回も深夜バスで、小倉まで行き、帰路は久留米から深夜バスに乗る計画を立てたが、この時期、バスが満員状態で、日程が確認出来なかった。 やっと、空き席を見つけ、料金は変動性で高くなっていたが、予約して実施することにした。今回は「長崎街道」から「薩摩街道」に進みたいと 計画する。

2/19、前回と同じバスなので、19時30分過ぎに家を出て、梅田の地下街で睡眠薬を飲み、21時に集合場所の駐車場に向かう。満員の座席は女性客が 70%余りと多く、USGのバツグを持っているので、卒業旅行なのだろう。窓際の席で、神戸も知らずに眠ってしまう。 2度休憩時には下車し、ウトウトしながら、下関を経由して、5時50分に小倉に到着する。前回の紀行時に確認していた駅前の「すきや」で朝定食を食べ、 JRで直方に向かう。

直方の商店街 標識

旧福岡銀行南支店

7時20分、今回の紀行をJR直方駅からスタートする。
九州の夜明けは遅いので、やっと日が昇った状態で肌寒い感じだが、ピリッとして気持ち良い。
身支度を整えて、「長崎街道」に向かう。すぐ商店街の中を通るのだが、開店前で全てシャッターが下りている状態だ。商店街の中程に「長崎街道と 筑前六宿」の標識が立ち、「長崎街道」を進んでいることを確認する。
広い道との交叉点角にレンガ造りの「旧福岡銀行南支店」が建っている。炭鉱が隆盛だった頃の名残だろう。 商店街を抜けて右折し、JR線路沿いの道に向かうと、「多賀神社」の大きな鳥居が立ち、線路の向こうに神社が望まれる。参拝はパスして、線路沿いの 県道を進む。
JRの線路の向こうの高台に「直方市石炭記念館」が建ち、前には蒸気機関車が展示されている。石炭=蒸気機関車を想像させる昔の繁栄を伝えて いるのであろう。車の往来が少ない県道の店先に「長崎街道」の標識が飾ってあるのを見ながら、JR南直方御殿口駅に寄り道する。 御殿口と云う駅名に興味を持ち行くと「御殿口地蔵尊」が祀られ、この辺りが直方の城下町の北口であったことを示しているのだと。

多賀神社

直方市石炭記念館 長崎街道の標識

御殿口地蔵尊


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

県道に戻り、しばらく進み、右の細道からJRを越えて、線路わきの道を進み、再び踏切を渡り、県道に戻り、少し先から再び踏切を渡ると云う旧街道 らしいウネウネ道を進むと第二岩鼻踏切の先に「庚申塔」が祀られている。
畑が広がる旧街道を楽しみながら進むと左下にJR勝野駅が望まれる。気持ちの良い旧街道と朝の空気を味わいながら進むと小さな川があり、その下に 「南良津唐戸」が残っている。説明によると、遠賀川の洪水を解消するため、黒田藩は寛永6年(1629年)に 堤防を築く工事を始め、中央の石柱が回転する仕組みにし、この水門により、洪水の際には流れ下るゴミ等をうまく下流に流すことができたそうだ。
黒田藩は治水や農業に力を注いでいたことが良く分かる史跡だ。暑くなって来たので、シャツを1枚脱ぎ、ここで一息入れる。(8:30-8:35)

庚申塔

畑が広がる旧街道

南良津唐戸


石仏と道標

農道を進み、JRの踏切を渡って、遠賀川の堤防に上り、国道200号線を進む。黒崎から20kmの標識を見て、国道の堤防下に設けられている歩道を 進む。車の心配はないが、景観は面白くないが仕方ない。
堤防下に祠が建ち、その横には「石仏」が祀られ「長崎街道跡」の道標も立っている。やがて、小竹町役場に至り、その先の信号を右に折れ、 小竹の街並みに入って行く。

満開の白梅 紅梅

小竹の街並みは落ち着いた雰囲気で、旧街道の趣きを残しており、家の庭には、関西ではまだ咲いていない紅梅・白梅が満開だ。やはり、 九州の春は早いと思いながら進む。
静かな街並みの中には白壁のうだつのある立派な家も建ち、その先には「貴船神社」の大きな鳥居も立っている。少し先には「小休所跡」の 石碑も立ち、小竹の町は「飯塚宿」と「小屋敷宿」の間の休憩所として栄えていたのだろうと思いながら進むと「小竹地蔵堂」が祀られ、境内には 石仏や芭蕉句碑も立っている。
「郡境石」が立っている。新しい石碑の後ろに当時の「郡境石」が立っているが、文字ははっきり分からない。史跡があるのは嬉しい。旧街道を 進むと右に立派なレンガ塀の家があり、その前には何か祀られているが、分からない。

小竹の旧家 貴船神社

小休所跡 小竹地蔵堂

郡境石 レンガ塀の家


JRの高架下

遠賀川の堤防

小竹の街並みを過ぎ、JRの高架下を抜けると遠賀川の堤防に当たり、堤防の上を進む。
陽射しも暖かくて気持ち良い。しばらくは堤防を歩くので、 舗装道路歩きを止めて、河原の草道を歩く。景観が広がり、草むらに腰をおろし、一休みする。(10:20-10:30)
近くに土筆が出ていないか探すが、見つからない。ここで土筆を見つければ、梅・土筆と春を感じることが出来るのに・・・・
目尾小学校が見える手前から堤防を降りて進むと国道200号線に当たり、右側に「地蔵堂」を確認して国道歩きとなる。

旧伊藤伝右衛門邸 応接間

国道はやがて遠賀川の 堤防の上になるので、河原歩きを楽しみ、水門のある辺りから国道と離れ、堤防を歩き、道なりに下って行くと立派な「旧伊藤伝右衛門邸」が 建っている。塀に当たってから門までの距離も半端ではない大きさだ。
旧伊藤伝右衛門邸は、筑豊の炭鉱王と呼ばれた伊藤伝右衛門と歌人柳原白蓮が過ごした邸宅です。
アールヌーヴォー調のマントルピース、イギリス製のひし形のステンドグラスのある応接間、一畳たたみを敷き詰めた長い廊下等様々な芸術的技法を取り入れ、 伊藤伝右衛門が妻白蓮の為にと改築を続けた歴史的建造物です。(飯塚市観光ポータルHPより)

丁度「雛祭り」の展示会が開かれているようなので、見学することにする。見物客も多く、立派なお屋敷の玄関を入ると江戸時代からの時代毎の 雛人形が飾られて いる。年代物であることは一見して分かるものや、各種の雛人形がたくさん集められた部屋や初めて見る「明治天皇の雛人形」等、女性客は賑やかに 愛でている。
シックな応接間や庭園や蔵も見学し、当時の石炭王の優雅な暮らしぶりを実感する。(11:20-11:50)
受付の方に食事処の情報を得て、邸宅を出て国道200号線に出る角にも立派な家が建ち、飯塚の繁栄ぶりが分かる。少し進むと「許斐神社」の 大きな鳥居を確認して進む。 食事処に気を付けながら歩いていると教えられた食堂があったので、うどん定食を食べる。(12:05-12:30)

雛人形 雛の集まり

明治天皇雛

許斐神社の鳥居 旧家



「長崎街道(直方〜飯塚宿)」の「紀行スライドショー」

今回は「長崎街道」から「薩摩街道」に入ろうと計画しているので、初日に出来るだけ距離を稼ぎたいが、先程からどうも足の調子が良くない。 何時もより疲れが早いのは気になるが、午後の紀行を「飯塚宿」に向かってスタートする。
国道200号線から右の旧街道に向かう。「高林寺」の前を通り、道なりに広い道を横切り、小川を渡り、左に国道を眺めながら進む。この辺りから 方向感覚がおかしくなり、旧街道が川で遮られているので、国道に迂回して橋を渡ると国道200号線のバイパスが走り、迷ってしまう。
自転車に乗っている男性に尋ねると水江交叉点は向こうだと。少し進むがどうもおかしい。元に戻り、若い男性に、飯塚宿の方向を聞くとここも飯塚 なので、分からないが中心街はあちらだと。
足の痛みもダメージになったのか、頭が廻らず、取り敢えず真っ直ぐに広い道を教えられた方向に向かう。後で確認した所、国道に迂回した場所が、 本来の旧街道より随分先に進み、水江交叉点の先の勝盛交叉点まで来てしまっていたのだ。初めに尋ねた人の指摘も正しく、行き過ぎていたのだ。
冷静に考えれば分かったののに、その時は混乱していたのだろう。

広い道を進むと片島1丁目を過ぎ、片島交叉点で、改めてガードマンに尋ねると、手前の片島1丁目を左に行けば良いと。教えられた旧街道に入る。

曩祖八幡宮

長崎街道・飯塚宿は筑前六宿の中で最も変貌を遂げています。 飯塚宿は縄文・弥生時代から開け、前漢との交流もあった先進地で、穀倉地帯でもありました。江戸時代は遠賀川水運の河岸と長崎街道の宿場町と して栄え、明治になってからは筑豊炭田の中心地としても繁栄してきました。
しかし、宝永7年(1710)と宝暦9年(1795)に大火に見舞われており、現在では完全に商店街化している為、宿場町の面影をとどめておりません。 先年飯塚文化連合会によって石碑が建てられています。 (飯塚市観光ポータルHPより)

少し進むと右に「白藤醤油醸造元」の古い建屋が建ち、その先に「オランダ屋敷跡」の碑が立っている。建物が残っていると期待していたが、石碑だけなのは 大火等で焼失してしまったのであろう。ここに長崎オランダ商館に勤め、江戸まで往来した医師ケンベルやシーボルトたちが泊まったのだ。
当時の道の広さを示す狭い「飯塚宿」の街並みを進むと「曩祖八幡宮」の鳥居が迎えてくれる。やっと「飯塚宿」を巡っている感じだ。
旧街道は商店街に入って行く。店も開店し、人出も多く、寂れた様子がないのは嬉しい。入口に「飯塚宿北構口」の碑が立ち、宿場町を示している。 途中に「問屋場跡」の碑や「黒いポスト」が立っていると昔の趣きを残そうと努力されている。

オランダ屋敷跡の碑 白藤醤油醸造元

街並み 商店街の入口

飯塚宿北構口 問屋場跡 黒いポスト


脚の付け根の外側の痛みが段々と激しくなり、商店街の途中の石垣に座ったりしながら進む。旧街道の商店街は枡形になり、直角に右に曲がっている。 正面には「長崎街道・飯塚宿」の壁画が描かれ、風情を感じさせる。
直角に曲がり、少し進むと「大神宮跡」の碑が立ち、本来なら、次の筋を左に曲がらねばならないのを直進し、広い道に突き当たり、左に進む。 一筋間違ったので「西構口跡」の碑を見落とし、穂波川に架かる徳前大橋まで来てしまった。間違いを気付いたが、戻る気力が薄れ、そのまま 徳前大橋を渡って進む。

商店街の枡形

大神宮跡の碑

穂波川


橋を渡った堤防の上で、一息入れ、今後の行程を考え、次のJR天道駅まで行こうと決意する。(13:45-13:55)
ゆっくりとしたベースで歩き始め、右の細い旧街道に向かう。道なりに進むと「貴船神社」があり、そこで再び休憩する。水を飲み、チョコレートを口に入れ、 足腰の屈伸をして備える。(14:05-14:15)
スローペースで、国道201号線の広いバイパスを越えて進む。楽市小学校の前には「長崎街道」の石碑が立っているのを見ながら、道なりに進むとやっと JR天道駅に到着した。(15:15)
後半はバテバテで、所期の計画に比べると2駅手前で終えてしまったのは残念だが、早目に休息して、明日に備えようと。今日の歩行歩数は、道に 迷ったロスもあるが、37500歩と何時もの紀行に比べて短かった。

貴船神社

楽市の街並み

JR天道駅


「長崎街道(飯塚宿〜JR天道駅)」の「紀行スライドショー」

今日の宿泊地は「飯塚宿」の近くのJR新飯塚駅に予約しているので、JRで歩いた行程を振り返りながら戻る。16時前にセンチュリーホテルにチェックインする。 大浴場がないので、部屋の小さなバスにお湯を張り、ゆっくりと足腰をマッサージし、疲れを癒し、足腰にシップを貼り、明日に備える。少し楽になった。
ホテルのフロントで食事処を聞き、向かいの惣菜屋さんに行く。ビールで乾杯し、適当に惣菜をいただく。目的地の一つである鹿児島県・出水しの焼酎 「木挽」が置いてあるので、お湯割りを飲み、女将さんと話しながら疲れを癒す。ホテルに戻り、20時過ぎには眠ってしまう。
今日は今まで経験したことのない足の痛みで、予定の行程を達成出来なかった。明日、このハンデイをカバーして、「長崎街道」から「薩摩街道」に 進みたいと思いながら、ぐっすりと。

[直方〜天道][天道〜松崎]







    
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