[松崎〜羽犬塚][羽犬塚〜小原]


○ 「薩摩街道No3」見聞録(松崎〜小原)・(距離 55.0km(今回)/ 163.5km(累計))

  1.「薩摩街道」(松崎〜羽犬塚・27.3km) 2013.04.19. 9:10〜16:40 晴れ時々曇り


門司往還・長崎街道・薩摩街道宿場一覧

「松崎〜羽犬塚・行程MAP」

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前回2月下旬の紀行で「長崎街道」から「薩摩街道」に入り、一番初めの「松崎宿」の手前まで進んだ。3月・4月初めとお花見等の行事が立て込み、 実施時期を調整出来なかったが、やっとスタート出来るようになる。 夜行バスは春休みで満席状態が続き、空席のある日を選び、雨が降らないことを願うのみだった。
今回は福岡県から熊本県に入る紀行だが、熊本(肥後)では、「薩摩街道」を熊本城以北は「豊前街道」と云い、以南を「薩摩街道」と呼ぶそうだ。
4/18、夜行バス(4300円)で久留米迄進むため、20時過ぎに家を出て、何時ものように、梅田の地下街で睡眠薬を飲み、21時30分に集合場所の駐車場に 向かう。前回よりは女性客は少ないが、満員で就活の学生と隣り合わせの窓側の席で、神戸も知らずに眠ってしまう。

関門大橋と和布刈神社

松崎駅 ステッカー

三木SA、小谷SAデトイレ休憩し、最後は関門海峡を望む壇ノ浦PAで休憩する。外に出るとまだ薄暗い夜明け前の関門大橋と対岸の「和布刈神社」を 望むことが出来る。前々回、ここをスタートしたのだと思いながら、小倉・博多を経由して、8時に久留米に到着する。
前回の紀行時に確認していた 駅前の「すき家」で朝定食を食べ、駅中の売店で弁当の助六寿司を買って、西鉄で小郡に進み、甘木鉄道に乗換え、前回の終了地点・松崎に向かう。
バスレールの1両編成の甘木鉄道の松崎駅は小さな無人駅で、「松崎宿」へのステッカーが、駅前から路上に貼られている。
9時10分、「薩摩街道」最初の宿場である「松崎宿」に向かうべく、前回の最終地点まで戻り、スタートする。
博多付近では黒い雲があり、心配したが、晴れた空の下、旧街道に沿って「松崎宿」に向かう。

松崎宿の旅籠・油屋 説明

旧街道の両側に「北構口」の石塁が築かれ、高さ一間、縦横二間の石塁の上に物見櫓が構えられていたと説明されている。
静かで落ち着いた「松崎宿」を進むと枡型の角には「三原家洋館・土蔵」が建ち、曲がって本通りに出た角には「旅籠・油屋」の古い家屋が 保存されている。
松崎宿に現存する「油屋」は江戸時代の旅籠建築の姿を残しており、その年代は18世紀に遡ります。大きく「主屋」と「角座敷」からなり、 「主屋」には一般の旅人客を、「角座敷」には武士などの身分の高い賓客を泊めたと考えられています。旅籠建築としては非常に大型で、 松崎宿の中でも大名を泊める本陣・脇本陣に次ぐ扱いを受けていたと推定されています。
西郷隆盛が「油屋」に宿泊したという言い伝えが残っているほか、乃木希典が昼食を とったことが、その手記から明らかになっています。(小郡市観光協会HPより)

広い旧街道を進むと白壁の立派な旧本陣である「御茶屋跡」が建ち、その先には江戸時代は旅籠で昭和初期には郵便局にもなった「一松屋」の 建屋が「松崎宿」の街並みの中に溶け込んでいる。

北構口

三原家洋館・土蔵

御茶屋跡 一松屋


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

少し進んだ所から枡型を右に曲がると「下町の恵比寿様」が祀られている。立派な石造りで、これからの旧街道筋にも、小さな「恵比寿様」が 祀られている。「中山道」には「道祖神」が祀られていたが、「薩摩街道」では「恵比寿様」のようだ。
直ぐ、枡型を左に進むと「旅籠鶴小屋」の古い建屋が建ち、その先には石塁が築かれた「南構口」が設けられている。延宝年間 (1673-1680)に開設され、明治5年(1872)の宿駅廃止に至るまで約200年間使われていたと。

下町の恵比寿様

旅籠鶴小屋

南構口


ここで、「薩摩街道」最初の宿場町を通過し、気持ちの良い田園風景が広がる旧街道を進む。天気は良いが、風がきつい。一面に広がる麦畑が 風になびいて、美しい模様を描いている。天気で良かった。
少し進んだ所に「下岩田の一里塚」碑が立ち、麦畑の中を進む。ひばりが青空でさえずっているのどかな旧街道を快調に進むと農家の庭には 鯉のぼりが風に吹かれて泳いでいる。
その先には、日本赤十字精神の 祖と云われる「高松凌雲の碑」がある。全く知らない方だが、この地に生まれ、江戸で医学の修養に励んで、15代将軍徳川慶喜の奥詰医師となり、 その後フランスで医術の研究を続けたが、戊辰戦争の報を受けて帰国、榎本武楊らと行動を共にし、箱館では敵味方の区別なく傷病兵1300余人の治療に あたったと。ここで、一息入れる。(10:20)

麦畑

下岩田の一里塚

高松凌雲の碑


広い県道を越えて進むと、道横には象徴的な「恵比寿様」が祀られている。その先には、当時の御原郡と御井郡の境を示す「郡境石」が 立っている。両郡の境は山や川といった自然の地形によってではなく、人工的に決められたものなので境界が分かり難いので、 境界石が各所に立てられたそうだ。石には「北 御原郡、南 御井郡」と刻まれている。
「天満神社」の横から右折して、道なりに左に廻るように進み、右に曲がって直進すると国道322号線にぶつかる。国道を越えて、もう一度国道に 戻るのが旧道だそうだが、手前で間違って直進してしまったようで、戻って国道にぶつかる道に出てしまった。仕方がないので、戻ることを 断念して、国道沿いに進むことにする。
国道には歩道がなく、トラックの風圧に圧倒されるので、横の用水路沿いの道に避難して進む。用水路と国道の間には桜並木があり、少し前だと満開だった だろうと思いながら、進む。

恵比寿様

郡境石

用水路の桜並木


用水路の道から国道に戻り進むと右側の畑の中の道を進む。直進すると県道に当たり、左に進むと西鉄甘木線の古賀茶屋駅横の踏切を渡ると 「天満宮」が鎮座するので、ここで一息入れ入れる。(11:35-11:40)

史跡神代浮橋之碑

県道を真っ直ぐ南下すると筑後川に当たり、神代橋を渡る。筑後川の水源は阿蘇山で有明川に注ぐ、筑紫次郎と別名で呼ばれている 九州最大の河川だと。因みに、利根川は坂東太郎、吉野川は四国三郎と呼ばれている。
強い風を受けながら、広い筑後川を渡ると堤防の左上に「史跡神代浮橋之碑」が立ってる。説明板によれば、
文永11年(1274)元・高麗の連合軍の襲来にあたり、鎌倉幕府の執権北条時宗は薩摩・大隈・日向・肥後など 南九州の御家人などに出兵を命じた。当地の神代良忠はこれらの軍勢の北上に際し、工夫を凝らして九州第一の難所といわれた 筑後川神代浮橋(舟橋)の通行の便を計らい、諸軍を速やかに博多に赴かせたと。
元寇の史跡は今まで見たことがなかったので、こんな所に歴史の一端があったことに驚く。
風がきついが、暖かい陽射しを浴びながら河原で、昼食の助六を食べ、英気を養う。雄大な筑後川を眺めての昼食は気持ち良い。(12:05-12:20)

天満宮

筑後川

昼食



「薩摩街道(松崎宿〜羽犬塚宿)@」の「紀行スライドショー」

筑後川の堤防を降りた所から右に進むと「神代天満宮」が鎮座する。「身浴びの天満宮」とも云われ、菅原道真公がここで沐浴をされたことから、 村人がこの地に天満宮を建てたそうだ。
道なりに進む街道脇には「地蔵尊」や「水神」が祀られたりと旧街道の趣きを残している。国道220号線に当たると右に行き、直ぐ左の道に入って 行くと九州自動車道の高架下に通じ、その先のJR久大線の踏切を渡り、緩やかな坂を上って行くと次の「府中宿」となる。

高良大社大鳥居

府中宿は筑後国府の近くにあって、古代から「薩摩(坊の津)街道・柳川往還・府中道・日田街道」が合流する交通の要衝地でした。 府中宿はまた、高良大社(高良玉垂命・八幡大神・住吉大神)の門前町として栄えた町でもあり、 高良大社は中世に最も栄え、筑後国一の宮・九州総社・鎮西11か国の宗廟と称えられました。
戦国時代に一時衰退するものの、江戸時代には歴代久留米藩主の手厚い保護を受け、現在の石造大鳥居や御社殿などが造営寄進されたのです。 文化9年(1812)の記録には、253軒の家があったことが記されており、大きい宿場町だったことがわかります。(久留米市観光協会HP他より)

坂道を上る途中に、府中宿場の北の出入り口「北構口跡」の碑が立っている。坂を上り切ると賑やかな通りとなり、左に大きい「高良大社大鳥居」が 立っている。その方向に向かうと鳥居の左に御井小学校があり、校門の前に「坊津街道府中宿本陣跡」の碑が立っている。ここが「府中宿本陣」 だったのだ。

神代天満宮

北構口跡

坊津街道府中宿本陣跡の碑


旧街道に戻る角には古い旧家が建ち、本陣跡近くの賑わいを示しているようだ。街道筋の家の前には、当時の屋号「米屋」「新家」等の標識が 立てられて、宿場の保存を図っている。
少し先には「高良下宮社」が鎮座し、案内板に「上宮と同じ履中天皇元年(400)or天武天皇の白鳳二年(664)の創建」と云われる古さだ。この地域の 歴史が古いのには驚く。真っ直ぐ続く街道の左に「大鍋屋」と表示された立派ななめこ壁の蔵造りの旧家が建っている。その向かいには、 狛犬と石段の上に「恵比寿様」が祀られている。

旧街道の古い旧家

高良下宮社

大鍋屋 狛犬と恵比寿様


旧街道の先には「愛宕神社の石鳥居」が立ち、県道の矢取交叉点の手前にも「恵比寿様」が祀られている。本当に「恵比寿様」の多い街道だ。
久留米信愛女学院を過ぎ、狭くなった旧街道の右の市民センターの前に「田中久重鑄砲所址」の石碑と「久留米藩鑄砲所跡」と題する案内板が 立っている。田中久重の名前も初めてで、「からくり儀右衛門」と呼ばれた著名な発明家だと知り、久留米藩のためにアームストロング砲を作っていた とのことだ。
道なりに進むと陸上自衛隊駐屯地に突き当たり、迂回せざるを得ない。左側の道を進み半周する途中にも大きな「恵比寿様」が祀られている。 左に曲がり、久留米大学医療センターの建物を見ながら直進する。道なりに右カーブを進むと浦山公園のがあり、小学生の 遠足の列に当たり、挨拶をしながら進む。
その先の二股を右に曲がり、次の広い道を左折すると、少しきつい上り坂となり、左の公園の周辺をうねうねと上り、そして下ると別の小学生の 団体とも出会い、国道3号線に合流する。久し振りの3号線だ。振り返ると大きな「白衣観音像」が赤ん坊を抱いている。公園の片隅で一息入れる。 (13:55-14:00)

恵比寿様

田中久重鑄砲所址の石碑

白衣観音像 恵比寿様


3号線の二軒茶屋交叉点から右折し、静かな上り坂になり、両側は陸上自衛隊高良台演習場となる。
暖かい陽射しを浴び、新緑に囲まれた演習場の中の坂道を進む。藤の花が咲いていたり、小鳥のさえずりを楽しみながら上り坂を楽しむ。これが 地道であれば最高なのにと。舗装道路は蛇行しながら下って行く。川を渡り、前方のグループホームが建つ、カーブ゙ミラーの所を左折して下って行く。 旧街道沿いの家の庭にはサツキが色とりどりに咲き誇っている。大阪ではまだだが、福岡は季節が一歩早い。
道なりに進むと六叉路になり、前方の左の道を進み、突き当たりを左折して下って行くと国道209号線に合流する。その手前に「石の祠」が 祀られており、中には「恵比寿様」が鎮座している。大きな「恵比寿様」の像とこの石の祠に入った像が、これからも散見される。

演習場の中の坂道

色とりどりのサツキ

恵比寿様の石の祠


ここからは国道209号線を進むが、歩道があるので安心だ。永代橋を渡って進むと筑後市の標識があり、久留米市から筑後市に入る。
車の往来が激しい国道にも「地蔵尊」が祀られ、旧街道の趣きを残しているのは嬉しい。淡々と国道歩きが続き、うんざりとしていると左に 「秋葉社」の鳥居を確認し、中ノ堤信号の所から右斜めの旧街道に入る。やっと静かな旧街道でホッとする。

国道沿いの地蔵尊

秋葉社

旧街道への分岐点


落ち着いた旧街道の右に「この道は薩摩街道(坊の津街道)の一部です」の案内板が立っている。参勤交代で使われたこと、伊能忠敬がこの 赤坂で休憩したと伝えられ、種田山頭火もこの道を歩いたと。
旧街道は直ぐに国道に合流し、再び、国道歩きとなる。上原々向山(かんばらばらむかいやま)交叉点を左折し、直ぐ理髪店を右折して旧街道に入る。 国道を縫うように旧街道が残っているのだ。
左の高台の下に「旧坊津街道(薩摩街道)」の道標が立っている。この辺りは「坊津街道」の名称が主として 残っているのだ。「山陽道」でも、「西国街道」と入り交じっていた。これが熊本県に入ると「豊前街道」と呼ばれるのだ。
旧街道の雰囲気を味わいながら進むと「熊野神社」が鎮座する。境内に入り参拝すると中には「観世音菩薩」を祀るお堂があり、お地蔵様が たくさん祀られている。神仏ともにが祀られているのだ。

旧街道 案内板

旧坊津街道(薩摩街道)の道標

熊野神社 お地蔵様


薩摩街道の道標

社日神社と種田山頭火の碑

旧街道は再び国道に当たり、横切って進む。 その手前にも「薩摩街道」の道標が立ち、嬉しい気持ちで歩を進めるが、ゆっくり楽しむ間もなく国道に 合流して南下する。
国道の左に「社日神社」が鎮座し、鳥居の横には「種田山頭火の碑」が立っている。山頭火は「山陽道」でも足跡を残していたが、これからも 遭遇するであろうと思いながら国道歩きを続けるが、段々と疲れが増して来る。
免許試験場交叉点の右角に「宗岳寺」が建ちがある。境内に「町名・羽犬塚」の由来が説明され、その「犬塚」と「六地蔵尊」が祀られている。

羽犬像

「羽犬伝説」のひとつは、昔この地に羽の生えたどう猛な犬がいたというものです。「羽犬は旅人を襲ったり家畜を食い殺したりして住民から 恐れられていた。
天正15年(1587年)4月、天下統一をめざす豊臣秀吉は薩摩の島津氏討伐のため九州に遠征、この時羽犬によって行く手を阻まれた。 大軍を繰り出しやっとの思いでそれを退治した秀吉は、羽犬の賢さと強さに感心し、この犬のために塚をつくり丁寧に葬った」。
もうひとつは、九州遠征に羽が生えたように跳び回る犬を秀吉が連れて来たというものです。「その犬は、この地で病気にかかり死んでしまった。 大変かわいがっていた秀吉は悲しみに暮れ、それを見かねた家来たちは、その犬のために塚をつくり葬った」。
この「羽犬伝説」から「羽犬塚」という地名が生まれたとされています(筑後市観光協会HPより)

その先の羽犬塚小学校の校門の前には「薩摩街道(坊津街道)薩摩←羽犬塚宿→江戸」と書かれた道標と、久留米藩の「御茶屋跡」の標識が立ち、 秀吉が描かれた台座の上に「羽犬の像」が飾られている。ここが「羽犬塚宿」の中心だったのだ。
羽犬と云う伝説をシンボルトとし、宿場名にまでしたことは面白いと思いながら、「羽犬像」を眺める。市内に数ヶ所あるそうなので、楽しみだ。

宗岳寺

犬塚と六地蔵尊 六地蔵尊

御茶屋跡


その先、六所宮前の信号を左入ると「六所宮」が鎮座する。境内に「羽犬塚恵比須像」が五体祀られている。各町が祀っているようだ。ここで 一息入れて今後の進め方を考える。16時20分でまだ日は高いので、もう少し進むことが出来るが、既に45000歩余り歩いているので、疲れは ピークとなっている。今日は無理せず、予約した羽犬塚のホテルまでとする。(16:20-16:25)
旧街道に戻って国道を進み、右の川村医院から右折し、旧街道に入る。枡型になっていて、直ぐの道を左折すると「旧坊津街道(薩摩街道)」の道標と 「山頭火の歌碑」が立ち、町の中に進んで行く。広い通りに当たり、JR羽犬塚駅前に行くとここにも「羽犬像」が飾られている。駅前のシンボルとして 飾られているのだ。
16時40分、駅のすぐ近くの明治屋ホテルにチェックインする。今日の歩行歩数は47200歩だった。少し道を間違えたが、ほぼ順調に紀行出来たのは良かった。

羽犬塚恵比須像

旧坊津街道の道標と山頭火歌碑

駅前の羽犬像



「薩摩街道(松崎宿〜羽犬塚宿)A」の「紀行スライドショー」

チェックインして、バスに湯を入れ、足腰をマッサージし、湿布薬を貼り、明日への備えをバッチリした後、近くの焼鳥屋で乾杯する。福岡で初めて焼鳥を頼んだが、 大阪の串カツと同じように、キャベツが皿一杯出て来て、特製酢をかけて食べるのだと。この習慣は知らなかった。 また、キープしている焼酎の90%は芋焼酎なのは意外だった。ビール・芋焼酎で疲れを癒し、ホテルに帰り、昨夜の深夜バスの睡眠不足からか、直ぐに 眠ってしまう。
今日は「松崎宿」「府中宿」「羽犬塚宿」と予定通り、紀行で来たことに満足して、ぐっすりと。

[松崎〜羽犬塚][羽犬塚〜小原]







    
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