[小原〜山鹿][山鹿〜熊本][熊本〜宇土]


○ 「薩摩街道No4」見聞録(小原〜宇土)・(距離 59.0km(今回)/ 222.5km(累計))

  1.「薩摩街道」(小原〜山鹿・14.2km) 2013.05.28. 8:25〜15:45 雨時々曇り


門司往還・長崎街道・薩摩街道宿場一覧

「小原〜山鹿・行程MAP」

地図の再生ボタン()を押すと
見聞ルートに沿って歩行出来ます。
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前回の紀行で、「薩摩街道」の福岡県から熊本県に入ることが出来たが、雨の中、道に迷い、「豊前街道」と 呼ばれる熊本城以北の「薩摩街道」の史跡を確認出来なかった。また「南関宿」も反対方向から入り、 その後も道を間違え、散々な紀行だった。
この行程をリベンジする方法も検討し、その後の行程と勘案して、実施するか否かを思案していた。高速バスの 安いルートを見付けたが、予約がなかなか取れず、他の予定との兼ね合いで、2週間前に予約するが、帰路は NGで他の路線を選択しなければならなかった。
夏日が続き、この条件での紀行は大変だと思っていると、一転、梅雨入り模様となり、リベンジ行程(約15km)と 山鹿宿迄の行程が、人里離れた所の紀行になり、距離も約28kmあるのを考えると、リベンジ行程は後日に 延期し、雨模様の中を「山鹿宿」を目指すことにした。
5/27、夜行バスで植木IC迄進み、高速バスで前回の小原バス停まで戻る行程のため、23時出発の夜行バスの発車に 合わせ、21時前に家を出て、何時ものように、梅田の地下街で睡眠薬を飲み、東梅田のバス停に向かい、明日の朝昼食のため、おにぎりを 買い求める。

小原バス停

この夜行バスは近鉄バスの運行だが、熊本までの運賃が、平日5800円、その中で4席程、3900円の割引席がある。4列並びだが、トイレ付きで 安価なのは有難い。乗客は少なく、2席を1人で占有できるのは嬉しい。
途中、トイレ休憩で停まりながら、九州のSAで休憩し、サンドイッチを買い、ウトウトしながら進む。雨が降り出し、これからの紀行が心配だが、 当初の雨の予定通り、前回のリベンジは止め、「山鹿宿」への行程に進むことにする。
前回の最終行程の小原を過ぎ、熊本県の最初の停車駅である植木ICに定刻前の7時40分に到着する。同じ停留所で、福岡空港行の 高速バスに乗り換え、小原まで戻る。予定の1本前のバスに乗れ、8時10分に到着する。雨が激しく降り出したので、レインウェアを着込み、サンドイッチの 朝食を食べ、身支度を整える。
5/28、8時25分、「豊前(薩摩)街道」紀行をスタートする。
前回、車で送ってもらったので、「豊前街道」の入り口まで戻り、本日の紀行を始める。県道から旧街道の入り口には「豊前街道」の 道標が立っているので、戻るように進む。静かな旧街道を進むと右に「歴史街道・参勤交代の道・旅人の道」の案内板が立っている。 豊前街道は、参勤交代のほか吉田松陰、河合継之助、篤姫などが通行し、この辺りは旅人が休憩する「小原茶屋」があったと。
静かで、誰も歩いていない旧街道の道脇には、栗の木が並木のように茂り、雨に濡れた道を進む。

豊前街道・道標

参勤交代の道・旅人の道の案内板

栗林


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

少し進むと左にJAバンクがある所で国道443号線に当たり、南関第三小学校沿いに国道を進む。雨の国道歩きも車が少ないので安全だ。 右に「南関東部工業団地入口」の所から右斜めに下って行く。静かな道の左に「一字一石笠塔婆」の標柱が立ち、その右に「八幡神社」 が鎮座しているので、旧街道だと確認する。誰にも会わないので、ポイントでのチェックは必要だ。
静かな肥猪(こえい)町の集落に入ると右に「肥猪町官軍墓地」があり、たくさんのお墓が祀られている。「西南の役」の戦場が近くなって 来たことを示す墓地だ。
少し進むと「肥猪御茶屋跡」の碑が立っている。ここは休憩所として活用されたのだろう。その先には、「肥猪郵便局跡記念碑」と 「豊前街道」の石碑が立ち、「左九里木跡」「右南関御茶屋跡」と示している。

肥猪町官軍墓地 八幡神社

肥猪御茶屋跡

豊前街道の石碑


豊前街道・九里木跡

落ち着いた肥猪の街並みを進むと左に「豊前街道―参勤交代の道」の案内板が立っている。江戸時代の肥猪町は、南関と山鹿の 中間に位置し、「間の宿」と云われる「半宿(はんしゅく)」で、先程の「肥猪御茶屋跡」は、参勤交代の 「御小休処」として利用された溝口家だったと。推測は当たっていた。
少し先の左に「旧道 豊前街道」の白い木碑が立ち、方向から左斜めに上って、日露戦争戦没者碑、道路改修碑、「三宝荒神」の祠の前 を右に進むようだ。先程歩いていた道の上を通ることになる。
ここからの道は、杉並木の中を進む気持ちの良い道で、枝葉によって、雨も遮られ気分良く進む。天気であれば最高だと思いながら。 坂を下って、先程の道と合流し、少し広い道にぶつかる右角に「豊前街道・九里木跡」の石碑が立ち、「左山鹿・熊本城」 「右南関御茶屋跡」と記されている。
前回の紀行で、「豊前街道」のスタートである「十一里木跡」や次の「十里木跡」を見落としていたので、初めての「一里木跡」だ。熊本城 まで、後36kmあるのだと思い、この「一里木跡」の数字を減らしていけば良いのだと、気分新たにし、一息入れる。(9:45)

豊前街道―参勤交代の道の案内板

三宝荒神の祠

杉並木の道


雨が激しくなったが、歩を進める。ここで、第1回目の間違いを犯す。先達のHPに次の二股を左に進むと書かれていたのでそれに従って 左に進むと田圃の畦道になり、国道443号線にぶつかってしまった。おかしいと思い、強い雨の中を戻ることにし、20分程ロスして、 「九里木跡」まで戻るとプロパン運搬車が来たので、25000分の1の地図で、現在地点を確認し、左ではなく、右に進むのが、旧街道だと 確信する。運転手が、大阪から歩いてきていると話すと信じられないと。
旧街道は林間の気持ち良い道に入って行く。雨が枝葉で遮られるのは嬉しい。少し先の右に、苔で覆われた「道標」を見つけ、旧街道で あることを再確認し、安心して歩を進める。
養鶏場の特有の臭いを嗅ぎながら進むと左右に栗林が広がり、この辺りは栗の産地なのだと認識する。坂道に差し掛かると、雨水が道に 溢れ、川の状態となり、横の草むらを縫って歩かざるを得ない。栗林の中にも「豊前街道道標」が立ち、その先には「六本松」の案内板 が立っている。この辺りは、高台で広大な畑があり、六本の松があったそうだ。今も代わりに植えられた楠の根元近くに残根があると。

林間の道 苔の道標

栗林

六本松の案内板


林間の道は下り坂になり、県道194号線に突き当たる。(10:25)
県道を横断するように道が続いているが、事前に25000分の1の地図で確認したのは、県道を少し下った所から左折するはずだ。 予習を信じて、県道を下ったのが、第2回目の間違いとなった。
下って行くが左折する道が見つからず、とうとう菊池川の堤防まで下ってしまった。戻るのも癪になり、菊池川沿いに、旧街道との 合流点に向かうことにする。川沿いには「平野船積場跡」の案内板があり、菊池川を通じて、内陸方面との運搬船があったことを 示している。
やがて、菊池川から支流の和仁川の堤沿いに進み、旧街道のポイントである平野橋に到達する。(11:00)
県道を横切り進めば、もっと早く着いたのに、20分余りのロスタイムだっただろう。平野橋を渡り、直ぐ川沿いに右に曲がり、道なりに進むと 狭い農道があり、直進し、丘に上って行く道がある。上っていくと民家に突き当たるようなので、間違ったと思い、橋からの道を トレースするが、分からない。
雨が止み、地図を広げて検討し、道路工事で誘導している人に聞くが分からないと。仕方なく、広い道を山鹿方向に進むと 「参勤交代の道(豊前街道)」の案内板が立ち、道角には「豊前街道」の小さな道標が立っている。道標の方向に従って、坂を上って行くと なんと、先程、民家だと諦めた道に通じていて、「池田右京邸跡」の石碑が立っている。無駄な時間だったと 反省し、石碑を見ると、側面には「薩摩藩主島津家久公泊 細川忠利初入国の街道 吉田松陰通過街道」と記されている。池田邸は 立派な屋敷だったのだろう。
元の案内板に戻り、確認するとこの辺りは、「窪園」と呼ばれ、数軒の旅人宿があり、西南の役の際負傷した人々の手当てをし、 「日本赤十字発祥の地」と云われると。日本赤十字発祥の地がこんな所にあり、発端は西南の役とは知らなかった。

平野船積場跡

窪園への道 池田右京邸跡

参勤交代の道(豊前街道)の案内板


ここから広い道を横断して、「ヒジ曲り」を通って「光行寺」に向かうのだが、先程の小さな道標の方向がはっきりせず、そのまま 横切ると民家に行きそうなので、他の道がないか探すが見つからない。仕方なく、丘に向かう細い道を上ると民家があり、行き止まりの ようで、犬が猛烈に吠えてくる。しかし、よく見ると奥に続いているようなので、犬に怯えながら、民家の前を通過する。
山道になり、半信半疑で上って行くと分岐する所に小さな「豊前街道」の道標が立っているので、一安心する。広い道は真っ直ぐ突き 切るのが正解だと2回の失敗で心に留めておく。
山道は急に下り坂になり、これが「肘曲がり」だと思いながら、下り切って広い道に出ると「八里木跡とヒジ曲り」の案内板が立って いる。この辺りが「八里木跡」でもあったのだと一息入れる。(11:55)

ヒジ曲りへの山道

小さな道標

八里木跡とヒジ曲りの案内板 説明


広い道に降り、左右どちらに進むべきか迷う。地図上では左だが、説明版の位置が、右から来る人に目立つようになっている。 「中山道」では、東から旅する人の道標が主で、西から歩いていると間違うことが多かった。
丁度、車で通りかかった方に尋ねると左だと。広い道を進むと川があり、橋を渡って進むと寺院らしき屋根が見える。道標に従って 右の高台に進むと「光行寺」の山門に至り、道に迷った長時間のロスタイムを乗り越えたことにホッとする。
ここ「光行寺」は、入口に「豊前街道岩村 細川家御休憩の光行寺」と石碑が立っているように、細川家の参勤交代の休憩所だったと。 雨は止んでいたが、山門の下を借りて昼食とする。昨夜買っておいたおにぎりで一息入れる。
休憩していると、住職の奥様らしき方が、「豊前街道の郷」の絵図をいただいた。よく見ると「六本松」から山鹿の郡境までの地図が 描かれている。これがあれば、間違わずに済んだのにと。改めて感謝する。(12:05-12:20)

光行寺への道標

光行寺

光行寺本堂


「薩摩街道(小原〜山鹿宿)@」の「紀行スライドショー」

「光行寺」に並んで「下岩官軍墓地」が祀られている。墓地には多数の墓碑がきれいに並んでいる。「西南の役」の史跡が散見される 地域なのだ。少し先の二股は「歴史の道」の青い表示に従って右に進むと坂道になり、左に「豊前街道 郡境碑〜六本松」の案内板が立ち 「腹切坂」に進んで行く。

腹切坂

和水町の岩地区(永ノ原台地から寺本の集落に下る約570m)には、昔から「腹切り坂」と呼ばれているところがあります。 平成17年3月に国指定史跡として指定を受けました。
「腹切り坂」の名は、慶安4年(1651)の「御帳控」に見ることができるほか、『小倉路(個人蔵)』には「下り急長し」と記載されており、周りを杉の木や雑木に覆われ、巾員約3〜5mの両側は急崖で、屈指の難所であったことが知られています。 参勤交代の際は、地元民がかり出され竹箒で清掃したと言い伝えられています。
2つの逸話があり、その一つは、源平合戦に敗れた平氏の落ち武者が、壇ノ浦とおぼしき方角を伏し拝み、西方浄土への来迎にあずか らんと、西に向かって念仏を唱え、見事腹を切って果てたという。
二つ目は、江戸時代細川家の大事な書状を預かった飛脚が、腹が痛くなり、野良帰りの農夫に頂上までの距離を尋ねた所、坂の中間付近で あったので、歩いて来た距離の中間位だと答えると、江戸からの距離と勘違いして、もはや今日中にこの書状を熊本まで届けることが 絶望となったことを悟り、、農夫から鎌を借りるやいなや自分の腹を切って死んだという。 (和水町HPより)
急坂だが、手入れが行き届いた「腹切坂」を上って行く。木立の山道は、芝生の広い道になり、気持ち良いが、なかなか厳しい。途中、 一息入れ、頂上に到着すると「案内板」が立ち、高台に上り切ったのだ。

下岩官軍墓地

郡境碑〜六本松の案内板 腹切坂

腹切坂・頂上


高台の道を進むと「豊前街道永ノ原」の石碑が立ち、この辺りは永ノ原台地と云うようだ。
少し進んだ所にも「豊前街道 永ノ原」の白い木碑が立ち、さらに台地を進むと、右に「西南の役薩軍の墓」の白い木碑が立っている。 今まで、官軍の墓地等、官軍の史跡があったが、薩摩軍の史跡が示されているのは初めてだ。熊本では薩摩は無視されているのかと 思っていた位だった。奥をのぞくが、分からないので、そのまま進む。
雨が止んだ台地の道を進むと右に「西南の役古戦場跡」と「ハゼ並木」の案内板が立っている。ここで、山鹿に本陣を構えた薩軍とこれを 攻撃する政府軍との間で激しい戦闘が繰り広げられたのだ。ハゼの木はロウの需要の増大に伴い細川藩が植えさせたと。
栗林の間の旧街道を進むと左に「従是西北玉名郡」と刻む「玉名・山鹿郡境碑」が立っている。いよいよ、山鹿に入るのだ。

豊前街道永ノ原の碑 薩軍の墓

西南の役古戦場跡

玉名・山鹿郡境碑


雨が止んだ蒸し暑い旧街道を進むと草むらに隠れて「豊前街道」の道標と、横には「参勤交代と西南戦争」の説明板が立っている。 史跡の説明が詳しく記されている行政に感謝だ。
広い台地の道の二股の所で一息入れ、左の林の方向に進む。(13:05)

西南の役政府軍の台場跡

史跡西南の役鍋田戦跡 車坂

この辺りから茶畑が広がり、気持ち良く進むとその先は急な下り坂となり、台地を下り始める。「車坂」と云われる急坂の右に 「西南の役政府軍の台場跡」の木碑が立ち、ここに政府軍の台場が置かれ、斜面を利用して襲いかかる 薩軍を猛射したと。
急坂を下りきると、国道443号に当たり、手前角に「史跡西南の役鍋田戦跡(車坂)」の木碑が立っている。国道横の小屋で一息入れ、 玉名に住む小学校以来の友人A君に電話する。今夜、山鹿温泉に泊まることを話すと車で山鹿まで行くと云ってくれ、嬉しいことに 山鹿温泉で会うことになる。嬉しいコメントに、疲れも吹っ飛び、次に進む。(13:20-13:30)
国道443号を横切り、進むと畑の草抜きしていた方が、何処へ行くのかと。豊前街道を歩いていて、山鹿へ向かうと答えると気を付けてと 激励される。嬉しい出会いだ。
林の中の旧街道を進むと左に「一里木(七里木)」の白い木碑が立っている。「九里木」を見てから2里歩いたのだと思うと共に、熊本城 まで28kmあるのだと、気を引き締める。
県道に出る手前右に「平和之碑」、左に「西南の役戦歿者慰霊碑」と「追分石」が立っている。「右國道兼松道」「左南関道」と 深く刻まれている立派な石だ。
近くに山鹿市立博物館があるが、パスして進むと広場に「チブサン古墳の石人」のモニュメントが飾られており、この辺りの歴史が感じられる。 坂を下って行くと「豊前街道」の道標もあり、岩野川の手前左には「国指定史跡鍋田横穴古墳」の横穴が見られる。

一里木(七里木)跡

追分石 戦歿者慰霊碑

鍋田横穴古墳 石人


国道443号に合流して、岩野川を鍋田橋で渡る。橋桁には、「山鹿踊り」のシンボルである、頭に載せる燈籠のモニュメントが飾られているので、 いよいよ「山鹿宿」が近いと実感する。橋を渡った所で、一息入れる。(14:00)
R443を進むと国道3号線の広い交差点に当たり、交差点を渡った所には大きな「豊前街道」の道標が立ち、右の旧街道に入り、「山鹿宿」 の落ち着いた街並みを楽しみなながら進むと左に有名な「八千代座」の幟が立ち、それを目印に正面に向かう。

八千代座

肥後・熊本を起点として北上し、植木・山鹿から南関を経て豊前・小倉に至る道を熊本では「豊前街道」と呼んでいます。
近世になってこれらの道は参勤交代道として栄え、大名行列の宿場町として栄えるなどその土地固有の産業や文化が育ってきました。 昔から湯のまちであった山鹿は宿場町、文化の中心として栄え、重厚な貫禄が町並みに残っています。
天璋院篤姫様が嘉永6年(1853)に鹿児島を出立し、山鹿の御茶屋に宿泊したと云われている。
江戸時代の建築様式を受け継いだ職人たちが、その粋を尽くして築き上げた芝居小屋の 八千代座や、白壁の伝統的建造物が残る 豊前街道周辺の下町の惣門〜西上町までの約1.3kmが平成19年度『美しいまちなみ大賞』を 受賞しました。 (山鹿市HPより)
堂々とした中に粋な風情の「八千代座」を眺める。当時の山鹿の繁栄振りが分かる建物だ。内部の見学はパスして、小雨が降り出した 「山鹿宿」を巡る。

岩野川

豊前街道の道標

山鹿宿の街並み


雨が激しくなり、軒下に雨宿りする程になって来た。「豊前街道山鹿宿・人馬継所跡」の碑を確認して、左の「豊前街道」と書かれた 木製の燈籠が立ち、その横の休憩所で雨宿りする。
前に軒先に燈籠を飾った「山鹿燈籠屋」があり、その由来の説明がある。山鹿燈籠は、昔景行天皇の巡幸が霧で阻まれた際、 山鹿の里人がたいまつを掲げてお迎えし、以降、毎年大宮神社にたいまつを献上したのが由来だと。テレビでしか見ていないが、優雅な 「山鹿踊り」を見てみたいと思った次第だ。
少し進んだ右の路地奥に「金剛乗寺」が建ち、参道に珍しい「石の山門」が迎えてくれる。珍しい形の山門をチェックして、次に進む。

人馬継所跡 木製の燈籠

軒先の燈籠 山鹿燈籠屋

金剛乗寺の石の山門


雨の中を進むと右に旧安田銀行山鹿支店のレトロな建物が建ち、「灯篭民芸館」となっている。玄関には象徴の燈籠が飾られている。 その先の左側は広場となっており、「足湯」もある。さすが、温泉町だ。
雨で靴の中まで水浸しになっているので、靴を脱いで、足湯に入る気もしないので、一息入れて、A君に電話する。18時30分位に 山鹿温泉に行くと。車なので、同じ宿屋に泊れないか尋ねて欲しいと嬉しい依頼があり、雨も激しいので、今日の歩行はここまでとし、 旅館末広に向かう。
その途中に、「西南の役・山鹿口の戦い薩摩本陣跡」の案内板が立ち、旅館に向かう。

灯篭民芸館 玄関の燈籠

足湯

西南の役・薩摩本陣跡


「薩摩街道(小原〜山鹿宿)A」の「紀行スライドショー」

15時45分、予定より早かったが、旅館末広に到着する。歩行歩数は31500歩だった。道に迷ったり、間違ったりと雨の中の歩行は 厳しかったが、無事、到着出来、ホッとする。「南関宿」のリベンジをしていると、時間的に厳しかったと変更したことは良かった。 「西南の役」の史跡がたくさん現れ、肥後の歴史の一端に触れることが出来た。
チェックイン時に、空き部屋があることを確認し、A君の予約をする。部屋で濡れた下着も取り替え、早速温泉に急ぐ。外湯にもなっている 浴場で汗を流し、ゆっくりと足腰をマッサージする。少しぬるめの湯だが、ぬめりがあり良い泉質だ。 部屋に戻り、ゆっくりとくつろぎ、A君の到着を待つ。
19時前に、玉名から1時間余りかけて、A君が駆け付けてくれた。3年前の小学校の同窓会以来の再会だ。旅館の方にお奨めの居酒屋を 尋ね、雨の中を居酒屋へ。ビールで乾杯し、地元の名物料理に舌鼓。
仲間と一緒に呑むことはあっても、二人だけで呑むのは初めてで、日頃の生活、健康等々について呑みながら、食べながら楽しく話す。 女将さんも、小学校以来の友人の再会にエールを送ってもらう。しっかりと呑み、23時前に旅館に戻り、それぞれの部屋でバタンキュー。
遠くまで訪ねて来てくれたA君に感謝して、ぐっすりと眠る。ありがとう!!



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