「宇土~有佐][宮原~日奈久]


○ 「薩摩街道No5」見聞録(宇土~日奈久温泉)・(距離 45.0km(今回)/ 267.5km(累計))

  2.「薩摩街道」(宮原~日奈久・23.2km) 2013.07.04. 6:50~14:20 曇り時々雨


門司往還・長崎街道・薩摩街道宿場一覧

「宮原~日奈久・行程MAP」

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見聞ルートに沿って歩行出来ます。
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昨日は、後半の激しい雨で計画が狂い、疲れたが、楽しかった反省会で疲れも吹っ飛んだ。
5時30分頃に目覚め、外を見ると雨は降っていない。天気予報を見るとやはり雨の予報だ。身支度を整えて、6時前に出発する。

球磨川旅館

JR八代駅

八代駅の 後ろには、昨夜、話題になった妙見祭の看板が大きく描かれている。素晴らしいお祭りだと。
駅中のコンビニが開くと同時に入店し、サンドウィッチと缶コーヒーを買い、ベンチで朝食とする。通学の学生が、親の車で駅まで送られてくるラッシュ風景は 地方都市でしか見られない現象だと面白く眺める。親に礼を云う子供はほとんどいないのも時代か。
6時29分発の松橋行のバスは独り占めで、運転手の横に座り、色々と話しながら、今日歩く行程を遡って行く。国道3号線に並行して旧街道が 通じているが、国道歩きも多く、なかなかの距離がある。歩いた所をバスで戻るのは、思い出しながら眺められるが、これから歩く道をドライブ するのは、長い距離を歩かねばと心理的にきつい。
運転手さんに気を付けてと励まされて、昨日の最終行程で、有佐駅への分岐点である宮原停留所で降りる。
降りると同時に、パラパラと雨が降り出した。近くの車庫を借りて、リュックカバーを付け、昨日着なかったレインウェアも着て、身支度を整える。

氷川橋跡・御高札跡の碑

宮原の集落

6時50分、雨の中、紀行をスタートする。どうも、熊本県に入ってからは、梅雨時でもあるが、雨のスタートが多い。
雨足が強くなってきた。昨日、渡った氷川の橋まで、3号線で戻り、川沿いに上流に向かう。少し先の川沿いに「氷川橋跡」「御高札跡」の 石碑が立ち、この辺りに橋があったことが分かる。
堤防を下り、宮原の集落に入って行く。広い道に合流し、その先の交叉点を渡ると右に「まちつくり酒屋(旧井芹家)」の案内板が置かれている 木造・白壁の趣のある建屋が建っている。家屋の手前にはレンガ積みの防火壁があり、天保三年(1832)の頃建てられた国登録有形文化財だと。 その隣には、井芹家が創始した銀行の洋館が堂々と建っている。現在では「町づくり情報銀行」になっている。
その向かいには、「金海山釈迦院道」の道標が立ち、宮原の集落は古くから栄えていたことが分かる。ある。

旧井芹家の酒屋と銀行跡

まちつくり酒屋

金海山釈迦院道の道標


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

雨が段々と激しくなり、傘を差していても濡れる程になって来た。少し先、右の公園に屋根のある休憩所があるので、急いで雨宿りする。 横には「親地蔵・子地蔵」が祀られている。雨宿りの間に、その由来を見ると、慶応2年(1867)の秋、夫を探す旅人の母娘が、お腹を空かせて 座っているのを見た村人が、ご飯を上げると二人は涙ぐみ合掌していたが、翌朝、川に身を投げた姿を発見した。村人は二人を弔い、供養のため 親子二体の地蔵を建立し、以降、地蔵祭りが行われていると。
雨は降り続き、小降りになりそうもないので、休憩所から出て歩き出す。少し先の右の旧家は「宮原歴史資料館」の看板があがっている。 靴は水が入り、靴下と靴底が摩擦して、前回のマメの辺りに違和感を感じるようになって来た。まずいと思いながら進む。
右に畑が広がり、よく見ると八代特産の畳表用のイグサだ。少し進むとイグサ用のトラクターで刈っている。昔、夏の暑い時期のイグサ刈りは重労働だと 聞いていたが、時代は変わっているのだ。
宮原小学校に通う小学生が、挨拶をしてくれるのを楽しみながら、国道3号線に近付き、今交叉点辺りから再び並行に進む。

親地蔵・子地蔵

宮原歴史資料館

イグサ刈り


小雨降る旧街道を進むと左に「是従原標九里」の石碑が立つ。これは江戸時代に立てられた碑のようで、「九里木跡」と同じように 熊本城から九里に当たるそうだ。本来(?)の「九里木跡」はまだ先のはずだと思いながら、古い道標を観察する。
この辺りから、左右にビニールハウスが多く建ち、中をのぞくと大きくなりそうな「晩白柚(ばんぺいゆ)」が育っている。九州に赴任して 初めて知った柑橘類で、その大きさに驚いたことを思い出す。少し先の左には「護念寺」が建つ静かな、国道と山の間の道を進む。
雨が少し小降りになり、一安心しながら進むと道角に「早尾六地蔵」が祀られている。六地蔵と云うので、お地蔵様が六体並んで祀られ いると想像していたが、見当たらず、燈籠の上が六角柱になっており、それぞれの面に地蔵尊が彫られているのだ。このような 六地蔵は初めて見たと思う。 横の案内板には「薩摩街道と(五木村へ通じる)旧四浦往還の追分の六地蔵だと。

是従原標九里の石碑

山際の道 晩白柚

早尾六地蔵


雨が降り続く旧街道の街並み楽しみながら(?)、淡々と進む。栫(かこい)の集落の中に、「栫区文化財案内図」が立ち、周辺の史跡を 示している。
その先の小さな公園の中にも案内板が立ち、この集落の史跡に対する熱意が分かる。その中に示されていた「栫馬之神」が少し歩いた所に 祀られている。天正15年(1587)豊臣秀吉が島津攻撃に向かう途中、ここ栫の集落で、愛馬村雨が動けなくなり、秀吉は別の馬で 出発した。村雨はこの付近に葬られ、馬之神として祀られたと。秀吉がこんな所まで来ていたとは驚いた。
道なりに旧街道を進むと再び国道3号線に接近し、また離れて行く。この辺りに「九里木跡」があるはずだと探すが見当たらず、諦めて 道なりに進むと少し先の右に「薩摩街道 九里木跡」の木碑が立っている。今までの「薩摩街道の里木跡」は石碑だったが、今回は 「豊前街道」と同じ木碑となっている。行政区分の違いで石・木の違いが出るのだろうかと考えながら、目印を見つけた安堵感で先に進む。
小さな川沿いの道を進むと左の竜峰小学校に通う小学生と挨拶しながら進むと右の川の向こうに祠があり、「板碑や石仏」が祀られている。 元の道に戻り、旧街道を進むと国道3号線に合流する。

旧街道の街並み

栫馬之神

薩摩街道 九里木跡 板碑や石仏


再び、国道歩きとなる。雨が止んだが、水溜りの水を車が飛ばすのに注意しながら進む。足裏のマメは段々大きくなっているようで、痛みが 増してくる。少し先の国道には「門司から223km」と示され、改めて歩いた距離を確認する。
高速道路の高架下を抜け、国道歩きを続けると右に「二体の地蔵尊」が祀られている。地蔵尊はまだ新しく、その後には、古い地蔵尊が 祀られている。少し変な感じをしながら、先に進む。右側に旧街道が残っているそうだが、認識出来ず、そのまま国道を進んでしまった。
やがて、八代JCTの交叉点に出て、大きな錨のモニュメントのベンチに座り、一息入れる。その横の茂みの中に、「方見堂」が祀られ、 中には「板碑」が納められている。(8:45-8:55)

高速道路に向かって

二体の地蔵尊 後の地蔵尊

方見堂 錨のモニュメント


「薩摩街道(宮原~日奈久)①」の「紀行スライドショー」

八代JCTの東片町交叉点を右折して、「八代宿」方向に進む。
旧街道は国道3号線やJR鹿児島本線と離れて、「八代城」方面に進むので、JR八代駅とは大きく離れる方向に進むことになる。 国道歩きから一転して、静かな旧街道の歩行となる。道は広いが、車も通らず、左の溝沿いの道を進むと水路の向こう側の茂みの中に 「十里木跡」の木碑が立っている。この辺りは、石碑ではなく木碑になっているのだ。木碑の側面に書かれた説明には、篤姫もここを 通ったと。
少し進んだ二股は左に進み、日本製紙の煙突を見ながら、工場脇を進む。さすが大きくて広い工場だ。

静かな旧街道

十里木跡

日本製紙の煙突


日本製紙の工場に沿った道を進み、JR鹿児島本線の高架下を抜ると県道14号線の交叉点に至る。その手前の細い道を左に入り、県道を横切って 進むのが旧街道だ。
なかなか趣のある街並みで、「八代宿」の風情を残しているようだ。 雨がポツポツと降り出した。傘を差し進んでいると急に激しい雨となったので、右の「光徳寺」かの山門に逃げ込む。

光徳寺

山門の横には「官軍(衝背軍)本陣跡」の木碑が立ち、境内には「彦一塚」も祀られている。
彦一のとんちばなしは、八代地方民話の代表である。はなしの中心人物「彦一」は、江戸時代八代城下の出町に居住したといわれ、 出町の光徳寺境内には彦一塚が残っている。
塚のかたわらに立つ建立趣意書の文句には、「・・・伝ふらく彦一は奇才縦横、頓智自在、 狐狸をたぶらかし天狗を友とし、庶民等しく之を親愛し 、その朝夕の話題に供して天地を明朗にす。・・・彦一は現在日本民話の総元締にして、その名つとに高し。」と記されている。
とにかく、無学な彦一は、知恵や才覚があり、伝えによれば、小さな雑穀屋、かさ屋、百姓であったりして一定しない。狡猾者 (こうかつもの)でもあり、細君は毎晩、酒買いにとっくりをもって出かけたり、貧乏な暮らしゆえ、生活全般に苦労しながら、 とんちをはたらかせている点は面白い。また、八代人気質にも殿様をからかい、窮地をトンチで切りぬける「彦一話」から、 八代人独得のユーモアなレジスタンスの精神が汲み取られるようである。 (とんち彦一ばなしHPより)

雨が激しく、しばらくの間、雨宿りせざるを得ない。(10:00-10:10)

趣のある街並み

官軍(衝背軍)本陣跡の木碑

彦一塚


いつまでも雨宿りしていられないので、少し小降りになったので出発する。休んでからの歩き始めは、足裏のマメの水が移動するので、痛みが 激しい。そろりそろりと歩き始める。
県道沿いの歩道には、何故だか有名人の手形が並んで立っている。それも各方面の人たちで面白い・何故と思いながら進むと交叉点右角に 立派な梵鐘を持つ「光圓寺」が建っている。雨が降っていなくて、足が痛くなければ、「八代城」見学に行く予定だったが、この条件では 無理だと考え、左折して旧街道を進む。
少し先の左に「妙見祭笠鉾」の絵入りの案内板が立ち、その奥には「妙見社」の祠が祀られている。昨夜、聞いていた「妙見祭」の笠鉾の 様子も見られたのは嬉しい。

有名人の手形

光圓寺の梵鐘

妙見社 案内板


ここからの旧街道は、八代市の夜の繁華街の様相を示しているが、この時間は静かだ。

大きな河童

ネオン街を想像しながら進むと商店街に当たり、右折して 商店街の中を進む。シャッターが降りている店も多く、少し寂しいが、七夕祭りの笹を用意していて賑わいを見せている。
県道42号線に当たる一つ手前の薬局が建つ角を左折して進む。商店街のアーケードで雨が遮られていたが、外れると雨が激しくなり、その先の 飲食店の横には大きな河童の像が建ち、面白いと眺めながら進むと前川の堤防に当たる。
その手前右に「大きな河童」のモニュメントが立ち、その横には「十一木跡」の木碑が立っている。
河童伝説は方々にあるようだが、ここは、仁徳天皇時代(313~399)に中国から九千匹の河童が揚子江を下り、黄海を経て八代に上陸したと。 先程の大きな河童もこの伝説に由来しているのだろう。八代と河童は結びつかなかったので、新しい発見だった。
水かさが増す前川を国道の橋の手前の歩道橋で渡るが、雨風が強くなり、折り畳み傘の骨が折れ、半分が使えない状態になってしまう。半分の 傘で雨を避けながら、痛い足で急いで渡る。

商店街

十一木跡

前川の歩道橋


強風雨の前川を渡り、堤防を左に進み、対岸の旧街道の延長戦に当たる次の道を右に堤防を降りると角に「恵比寿様」の祠が祀られている。 旧街道だと確認して、静かな集落を進むと、歩道橋からの道と合流して、球磨川の堤防方向に向かう。
県道の植柳橋で、球磨川を渡るのだが、ここでも強風雨で、傘の役割を果たせない状態で、水量が増している有名な球磨川を急ぎ足で渡り切る。

恵比寿様

静かな雨の旧街道

球磨川


球磨川を渡り、堤防を左に行き、対岸の旧街道の延長線を目印に堤防を下り、民家の中の道を迷いながら、植柳小学校の校庭沿いに進み、 次の角を右に南下する。

昼食のつけ麺

少し迷ったが、道なりに進めば国道3号線に当たると狙って、少し小雨になった旧街道を進む。やがて、国道に合流して、車の往来が激しい 国道歩きとなる。半分が使えない傘の交換をしようとコンビニを探すがこんな時には見当たらない。まだ時間は早いが、国道で昼食場所を 探すのがbetterと考え、コンビニと食堂を探しながら、国道歩きを続ける。 右にやっとラーメン屋を見つけたので、入ってレインウェアを脱ぎ、汗まみれの体を拭く。冷たいラーメンがないので、つゆが冷たいつけ麺を頼み、 一息入れる。(11:15-11:35)
「八代宿」はJR八代駅を迂回するように、八代城の近くを通ってここに至るのだと、改めて認識し、昨夜の旅館とも随分離れているのだと。 ラーメン屋の方に、コンビニがあるかと尋ねると少し先の左側にあると聞き、休んでいると落ち着いていた足裏のマルの水が、動くのを確認しつつ 午後の紀行を始める。足が痛い。

「薩摩街道(宮原~日奈久)②」の「紀行スライドショー」

国道の左側にコンビニを見つけ、ビニール傘を購入する。家には余った傘は何本もあるが、止むを得ない。 少し先に国道から左に入る道があるので、国道から旧街道に進んで行く。
広い道に合流して進むと「肥後おれんじ鉄道・肥後高田駅」に至る。以前はJRだったが、九州新幹線の開通と共に第3セクターの「肥後おれんじ鉄道」 になったのだ。 出水市に単身赴任している時、まだ新幹線が開通していなかったので、この路線を何度となく通った。リタアしてからも「青春18きっぷ」を 使って、よく乗ったが、「肥後おれんじ鉄道」になってからは、別料金になり、JRを恨んだものだ。
駅の待合室で、前回、山鹿温泉で呑み楽しく懇談した小学校以来の友人A君に電話し、元気で歩いていることを報告する。そして、帰阪した時には、 仲間と一緒に呑もうと。(11:50)
旧街道は線路の向こう側に通じているので、無人駅の陸橋を渡り、ホームの端から外に出る。墓地の中の道を進むと「観音堂」が祀られ。その横に 「十二里木跡」の木碑が立っている。

旧街道への分岐

十二里木跡

観音堂


「肥後おれんじ鉄道」を右に見て、山側の細い道を進む。雨が降っているが、新しい傘で安心して進める。少し先の踏切を渡り、線路の右側を 進み、突き当たりを右折すると平田新町信号で、国道3号線に合流する。
ここからは、延々と単調な国道歩きとなる。自動車学校の横を通り、八代南ICの高架下を過ぎた左に「万葉遺跡 野坂の浦」の木碑が 立っている。こんな所にも、万葉集の史跡があるのだと驚きながら南に進む。
単調な国道歩きの癒しポイントは「門司から234km」の標識等、距離を示す道路標識だ。234kmと語呂の良い標識を見て、次々に延びる距離を 楽しみながら進む。やがて、「鹿児島155km、水俣43km、芦北24km」と目標への距離も示されている。門司からはよく歩いたものと思い、 水俣・鹿児島までの距離に、まだまだ遠いと思いながら、足裏のマメと闘いながら進む。
左に八代市立金剛小学校敷川内分校を確認して進むと「日奈久温泉2km」の標識に出会い、嬉しく思いながら歩むと「つわぶき地蔵」が祀られている。

線路沿いの道

万葉遺跡・野坂の浦の木碑 道路標識

つわぶき地蔵


雨が止んだが、足の痛みでスローペースで進む。

十三里木跡と地蔵堂 十三里木跡

日奈久阿蘇神社

少し先の日奈久大坪町信号の手前の茂みに隠れるように、「十三里木跡」の木碑が立っている。 文字が木の葉に隠れて読めないが、熊本城から13里=52km歩いたのだと満足する。その横には小さな「地蔵堂」が祀られている。
その先左には「日奈久阿蘇神社」が鎮座するが、足が痛いので境内にまで進めず、外からの撮影で済ます。その先も淡々と国道歩きが 続くがベースが上がらず、今日の目的地である「肥後おれんじ鉄道・肥後二見駅」までは厳しいのではと思えてきた。国道沿いに、水俣行の バス停があるので、時間を確認すると、上手く行けば、日奈久温泉からバスに乗り、肥後二見まで行き、逆打ちで日奈久温泉に戻り、 温泉で汗を流すことを思い付き、痛い足を引きづりながら、日奈久温泉バス停に急ぐ。
当初の計画では、「薩摩街道」最大の難所と云われる「三太郎峠」越えの手前である肥後二見駅まで歩き、電車orバスで日奈久温泉まで戻り、 温泉で汗を流した後、熊本に戻って、夜行バスで帰阪する予定だった。

肥後二見駅

不知火海から天草を望む

雨で初日の計画が短縮されたが、日奈久温泉到着14時とまだ余裕がある。しかし、足裏のマメがつぶれ、 歩くスピードは遅々としたものになった。
日奈久温泉のバス停で時刻を確認すると、直ぐに水俣行が来るようなので、バスで肥後二見までの行程を車窓から確認し、肥後二見から 日奈久温泉まで逆打ちで戻り、温泉入浴しようと変更した次第だ。 しかし、車窓から、「薩摩街道」の約5km程の行程を確認すると、結構長く感じ、今の足の状態では無理だと結論付ける。肥後二見でバスを 下車し、少し 待って「肥後おれんじ鉄道」で一駅戻り、日奈久温泉駅から「薩摩街道」沿いにある日奈久温泉・共同浴場まで進み、汗を流して、本日の 紀行を終了することにする。
無人の肥後二見駅は不知火海に面し、曇り空だが、海の向こうには天草島が望まれる。日奈久温泉までの車窓から、真下に不知火海の 波が打ち寄せる抜群の景観を楽しむ。

15時前に日奈久温泉駅に到着して、「薩摩街道」紀行を再開する。痛い足を引きづりながら、少しの間、国道3号線を歩き、歩道橋のある所 から左の旧街道に入って行く。 道幅が狭くなり、「日奈久宿」と温泉街の雰囲気を感じさせる。案内板の横には「薩摩街道」の木燈籠の道標も立ち、疲れを癒してくれる。

日奈久温泉駅

旧街道への分岐 木燈籠の道標

日奈久宿の街並み


左になまこ壁の立派な商家であった「村津家住宅」が建っている。

日奈久温泉の広場

醤油屋の建屋屋小さな旅館を通って行くと「日奈久温泉温泉センター・ばんぺい湯」の 施設が建ち、その前には、小さな広場があり、「日奈久温泉発祥の地」や「六郎の湯」像と温泉の池、「温泉発見の由来」碑が立っている。
時は南北朝時代肥後の守菊池武重の部下に濱田右近あり、延元3年(1338)、鞍岳一帯(阿蘇と合志の郡境)の戦にて数々の刀創を負い八代の 小島にたどりつき、疵を養う中漁村の娘と結ばれ一子六郎左衛門をもうける。
18歳の春を迎えた六郎左衛門は父の持病を憂いて安芸の 市柿島姫命に父の平癒を祈願すれば、満願の夜衣冠を正した女神が夢枕に現われ「汝父の病患を憂い我を信じること久し汝の孝心に対し 霊薬を授くべし。
即ちこの干潟の中に平石ありそれより百歩にして奇石ありその下こそ正しく温泉なれ父をして十七日浴せしめなば必ず平癒すべし」 とのお告げに六郎左衛門夢の地形をたどり奇石を発見、 掘り下ぐれば果して温泉がこんこんと湧き出した。
時に応永16年(1409)のことで世に之を孝感泉と推頌されている。(日奈久温泉HPより)

この「ばんぺい湯」は八代名物の大きな柑橘類「晩白柚」にかけたネーミングでここで汗を流す予定だが、土産物屋が立ち並ぶ商店街を通り、 日奈久温泉で有名な明治時代に建てられた旅館「金波楼」に向かう。なるほど、立派な建物だと。

村津家住宅

ばんぺい湯

金波楼


八代に戻るためのバスの時刻調べるために、3号線に向かうと、国道の横に大きな広場があり、「からくり時計」が立ち、「山頭火の像」が 立っている。山頭火の行動力は凄いといつも思う。ベンチもあり、日奈久温泉の入口なのだろう。

からくり時計

山頭火の像

バスの時刻を確認し、土産に買おうと思っている、名物「日奈久ちくわ」をチェックして「ばんぺい湯」に戻る。入浴料を支払おうと料金表を見ると 70歳以上は半額の300円と嬉しい。
2階の浴場に向かい、 雨と汗に濡れた下着を脱ぎ、広い浴場に行くが、左足のマメがつぶれているので、沁みる、露天風呂で、足腰をマッサージするが、足裏の痛みは あるが足腰の疲れは少ない。柔らかい泉質を楽しむ。
ゆっくりと汗を流し、広い休憩所で、生ビールで厳しかった行程を踏破したことに乾杯する。足がふやけて、両足のマメが白く浮き上がっている。 痛いはずだと思いながら、バス停に向かう途中、「日奈久ちくわ」を買う。大阪まで変えるのだと話すとタマネギの天婦羅をたくさんサービス してくれた。感謝。今日の歩行歩数は40600歩だったが、足の痛さは5万歩以上だった。

「薩摩街道(宮原~日奈久)③」の「紀行スライドショー」

八代行のバスは歩いて来た道を戻るので、思い出しながら車窓を楽しむ。八代駅に17時前に到着しので、熊本発の深夜バスまでの時間を、 前日楽しく飲んだ居酒屋に行くことにする。居酒屋「小松」の親父はしっかり覚えてくれていて、改めて乾杯する。
雨の中の紀行だったこと、肥後二見まで行けなかった等を話しながら、地元の方とも楽しく懇談する。地元の方に愛されている店で 馴染み客が次々と訪れるので、話題が豊富になる。時間が来たので、「三太郎峠」紀行時には、また立ち寄ることを約束して熊本に向かう。
21時15分発の深夜バスは、7割位の乗客だが、隣は空席なので、高速道路に乗る前からぐっすり眠り、目覚めることもなくウトウトと姫路辺りまで 眠り、7時前に大阪駅に到着し、8時前に帰宅する。

今回の紀行は、前回に引き続き、雨の中の紀行が多かった。史跡はそれなりに残り、「里木跡」もスタンプラリーのように辿ることが出来た。 計画通りには出来なかったが、次の「薩摩街道」最大の難所「三太郎峠」の手前まで到達出来たのは嬉しい。
8月末の元会社のビアパーティーに合わせるため、夏場の厳しい季節の「三太郎峠」越えはパスして、次は新水俣から出水まで歩き、昔の仲間と 再会を楽しみたいものだ。


「宇土~有佐][宮原~日奈久]


(工事中)




    
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