「薩摩川内~市来][市来~チェスト館]「チェスト館~鹿児島]「番外編」,


○ 「薩摩街道No8」見聞録(薩摩川内~鹿児島)・(距離 55.8km(今回)/ 431.2km(累計))

  1.「薩摩街道」(薩摩川内~市来・19.7km) 2015.02.18. 10:50~17:00 曇り


門司往還・長崎街道・薩摩街道宿場一覧
「薩摩川内~市来 MAP」

地図の再生ボタン()を押すと
見聞ルートに沿って歩行出来ます。
クリックすると拡大します。

「薩摩街道」紀行は、残り僅かとなっていたが、その前に 「旧山陽道」紀行を踏破しようと保留していた。昨年11月に「旧山陽道」紀行を完歩したので、所期の目標であった、京都から薩摩までの 旧街道(旧山陽道→門司往還→長崎街道→薩摩街道)踏破を約1年振りに、実施することにする。
「薩摩街道」踏破時には、現役時代の職場に立ち寄ろうと昔の仲間と調整し、最終日に出水市に立ち寄ることにする。
鹿児島にはLCCのPeachを活用するのが、一番安価なので予約すると、バーゲン期間で往路2400円、復路5550円と驚くほどの料金で大喜び。 上手く活用すると通常の1/4以下で往復できることが分かった。ラッキー!!

1/18、関空発7時30分のPeachに搭乗するため、軽く朝食を食べ、4時30分に出発し、始発電車に乗り、大阪駅からシャトルバスで関空に向かう。 始発に乗り、JRで行くと LCCの第2ターミナルに到着するのがギリギリになるため、少し早く着くシャトルバスにした次第だ。この時間でも、シャトルバスは満席で、6時45分に関空・ 第2ターミナルに到着する。(このバスは第2→第1ターミナルに進む)

関空第2ターミナル

Peach MM191 鶏飯

搭乗手続きに向かうが、国内・国際線ともに人でいっぱいなのに驚き、時間が掛ったが、Peach独特の搭乗方式(窓側→中央→通路側)の搭乗で、 満席だが、定刻前に全員搭乗できた。
通路側の席で、外は望めないのでウトウトしていると定刻通り、8時30分に到着したが、9時30分発の薩摩川内行シャトルバスまでの間に、朝食を食べようと レストランを探すと鹿児島名物「鶏飯」のバイキングがある店で、久し振りの鶏飯を食べる。出汁が美味しく、歩行スタートにふさわしい朝食だった。
シャトルバスは春の景観が感じられる薩摩の道を薩摩川内に向かう。道脇の梅が満開で、一足早い春が訪れている風情を楽しみ、定刻通り薩摩川内に 到着する。
10時50分、身支度を整え、曇り空の薩摩川内駅前の謡曲「鳥追舟」の像を見て出発する。今回も「薩摩街道(出水筋)歩行マップ」をベースに、 最終行程を楽しもうと意気込んで前回最終行程の駅前から向田本通りの円柱の「薩摩街道(出水筋)道標」に向かう。懐かしい「道標」を確認して、 駅前通りを左斜めに渡って進むとすぐ平佐川に当たる。堤防の下に「水神」碑が祀られている。

薩摩川内駅と「鳥追舟」の像

薩摩街道(出水筋)道標

水神


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

左・仁王像

福昌禅寺

右・仁王像

堤防沿いに進み、日暮橋を渡ると「福昌禅寺」が建っている。
島津家の菩提寺で鹿児島市から移転したそうで、門の両側に立つ「仁王石像」は 市内最大級の石造だと。立派な仁王像は、野田町の「感応禅寺」と匹敵するほどだ。
左折して進むと、これも懐かしい「熊野古道・道標」が進行方向を示してくれる。静かな旧街道の街並みを進むと右の高台には本国寺が建ち、 その先の右の坂道には「南方神社」の標識が立ち案内板が立っている。「南方神社」は島津氏17代義久、18代義弘によって信濃の諏訪神社から 勧請したそうだ。寺院・神社も島津氏の所縁のあるものが多いのは、さすが薩摩の国だと。
JRの踏切を渡り、旧街道は右折することになっている。ガイドでは行き止りだが、途中に「田の神」が祀られているそうなので、可愛い石像を 見て、踏切まで戻る。

熊野古道・道標

旧街道の街並み 南方神社

田の神


踏切から県道36号線を真っ直ぐに新幹線の高架下をくぐって進む。緩やかに右に曲がった所に建つ自動車整備工場の先に「薩摩街道・道標」が立ち 右へ進むことを示している。道標があるのは有難い。
道なりに進むと右に新幹線車庫の見える所に二股があり、両方ともに旧街道らしいが、ガイドブックに道標がある左の道を選び進むことにする。 民家の間の静かな坂道を上ると先程の県道36号線に合流する。そこにも「薩摩街道・道標」が立っている。
少しの間県道を進むとスーパーの先の右の塀に「薩摩街道・道標」が掲げられており、右の坂道を下って行く。

県道から右への道標

二股は左へ

塀の道標


緩やかな坂道を下る両側は、静かな住宅街で石垣や生垣の立派な家が立ち並んでいる。旧家の塀にも「道標」が掲げられ、快調に下って行く。
宮崎郷の旧武家屋敷跡と云われる閑静な道には、 満開の紅梅が咲き、心地良い香りが漂っている。素敵な旧街道だ。 道なりに下って行くと新幹線の高架があり。右からの道の角に円柱の「薩摩街道・道標」立っている。この道が、先程の二股の左の道なのだ。

宮崎郷の旧武家屋敷跡 道標

満開の紅梅

薩摩街道・道標


新幹線の高架を抜けると広い道となり、電線に渡り鳥と思ったが、烏がたくさんとまっている。余りの多さに、気持ち悪い位だ。隈之城川を 仏生橋で渡った所に立つ「薩摩街道・道標」に従い、左折して舗装された堤防の道を進む。

坪塚公園 僧侶の石碑

道なりに進み、麓橋に立つ「薩摩街道・道標」に従い左折して隈之城川を渡り、堤防の草道を気持ち良く歩く。やはり、地道は気持ち良い。 川には、鴨が群れをなしているのを見ながら進む。
右に 解体中の建物があるが、まだ「坪塚公園」は先だろうと進む。しかし、行き止まりになっているので、戻って確認すると解体中の建物の塀に 「薩摩街道・道標」が掛り、右に行くとすぐ左に「坪塚公園」がある。
小さな公園には「坪塚の由来」の石碑が立ち、奥の植え込みの中には「石碑」が祀られている。
  「坪」とは、条里制が定められた頃のいわゆる面積の単位で鹿児島では西暦800年頃から使われたといわれます。
1辺が6町(約650m)の四辺形を36分割したもので隈之城ではこの区画が数多く確認されており、水田開拓が進んでいたことを物語っています。 「坪塚」は、そんな広い水田地域の一角にあった丘陵地で、故あって処刑された僧侶等の石碑が建てられています。(ふるさと薩摩川内HPより)

ここで一息入れ、リュックを降ろし水を飲む。(11:55-12:00)

仏生橋の薩摩街道・道標

麓橋からの堤防の草道

坪塚公園への道標


「薩摩街道(薩摩川内~市来)①」の「紀行スライドショー」

「坪塚公園」の石段を下りて、民家の前の細い道を進むと自動車道に出る。右に「団地入口」バス停があり、その先に「薩摩街道・道標」が 立っている。道標の方向の自動車道を渡り、細い道に入って行く。
右にホームセンターを見て進むとパチンコ屋があり、道路を横切り、草深い細道をに入って行く。旧街道そのものの道だ。
右に老人ホームらしき建物が建ち、 国道320号線に当たる。国道を横切り、真っ直ぐに進む角には、円柱の「薩摩街道(出水筋)道標」が立っている。
緩やかな上り坂になり、道脇の満開の梅の木を眺めながら、旧街道の雰囲気を楽しむ。やがて、下り坂になり、国道320号線に合流する所にも 円柱の「薩摩街道(出水筋)道標」が立っている。旧街道は、国道を横切って進んでいたが、消滅しているので、国道を進む。

自動車道の道標

国道を横切っての道標

緩やかな上り坂の旧街道 道標


少し先の信号を左折し、次の角を右折して進む。この道が、消滅した旧街道だ。やがて、国道に合流し、右に曲がりながら進むと右に分岐する 道があり、円柱の「薩摩街道(出水筋)道標」が立っている。右の旧街道に入って行く。
すぐ先に二股があり、左の道を進むと国道を見下ろしながら、気持ち良い旧街道を楽しんで歩む。やがて、国道に合流する手前左に、 円柱の「薩摩街道(出水筋)道標」が立ち、JR鹿児島本線の高架下を抜けると国道3号線に合流する。 左上にJR木場茶屋(こばんちゃや)駅前が建ち、その前にあるラーメン屋で昼食とする。(12:50-13:05)

静かな旧街道

右斜めへの道 旧街道

高架下への道


これからの旧街道は、JR・国道3号線で分断されており、「薩摩街道(出水筋)歩行マップ」を頼りに進むことにする。
左に円柱の「薩摩街道(出水筋)道標」が立ち、横には「薩摩街道(出水筋)」の案内板も立っている。薩摩川内市のルートや宿泊地等が示されている。 鹿児島城下から肥後との境までの26里25町(約100km)で、小倉までは約400kmだと。これを歩き、もう直ぐゴールだと気持ちも新たにする。
国道3号線を進むと「いちき串木野市」の標識があり、薩摩川内市からいちき串木野市に入る。
堺川の堺橋の左に芹ヶ野川沿いの細い道があり、今までと違った縦型の「出水筋・道標」が立っている。いちき串木野市からは、この道標が誘導して くれるのだ。川沿いの道は途中で途切れているが、行けそうなので迂回しながら進むが、その先は行けそうにないので、矢張橋を渡って国道に 合流する。

薩摩街道(出水筋)の案内板・道標 説明

新しい道標 堺橋横の道

川沿いの道


国道を進むと右の奥まった小屋に「御駕籠茶屋跡・山下家」の案内板が立っている。ここが参勤交代の藩主一行が休憩した木場原御茶屋跡 だったと。少し進むと「芹ヶ野(せりがの)」信号の少し手前左に「出水筋・道標」が立っているが、逆向きから矢印が 畑方向を示している。矢印は先程の消滅した旧街道を示しているようだ。この「出水筋・道標」は本来の旧街道の方向を示しているので、 以降の行程でも迷わされることが多かった。
「芹ヶ野」信号の左角に芹ヶ野公民館があり、その前に「宿駅問屋場の由来」の案内板が立っている。その前から、旧街道は右に入って行く。 入口には「出水筋(薩摩街道)芹ヶ野公民館~境橋(堺橋)」の案内板が立ち、緩やかな坂を上って行く。

御駕籠茶屋跡・山下家

逆向きの出水筋・道標 宿駅問屋場の由来

旧街道は右への案内板


旧街道は、国道を左下に見下ろすように並行して進む。その先の旧街道は消滅しているようで、再び国道に合流するが、右の岩の上に 「出水筋・道標」が立っているが、雑草に覆われて見付けるのに苦労する。
国道を少し進むと南九州西回り自動車道の高架下を抜ける左に「旭初等小学校の跡」の石碑が立っている。その先に「北口屋橋」の案内板が 立ち、横には石橋が残っているが、ガードレールもあり、改造されたようだ?
旧街道は、ここから左方向に進んでいたが、消滅しているので、諦めて国道を進むと「門司から347km」の標識が立っている。国道3号線でも 347kmだから、旧街道はもっと歩いたことになる。

国道上の旧街道

旭初等小学校の跡の石碑

北口屋橋 門司から347km標識


分断された旧街道歩きを諦め、国道3号線を進む。左の山の上に鳥居が見える。旧街道が通じている「山之神神社」ではなかろうかと 思いながら進む。

十里塚

しばらく、単調な国道歩きが続くが、歩道があり安心だ。右に芹ヶ野郵便局が建ち、右の旧街道に入って行く。右の旭中学校跡に 「出水筋(薩摩街道)金山峠~芹ヶ野公民館前」の案内板が立っている。この辺りの史跡への説明が親切なのには驚く。 旧街道は国道3号線(明治20年完成)と鉄道線路(大正3年完成)によって複雑に分断されていると。
緩やかな下り坂の金山集落の街並みを進むと、右には旭小学校があり、左には金山公民館が建っている。先程の案内板によれば、 ここが島津家所有の「御座跡」という役所だったと。また、薩摩川内の町々に見られた「標高○m、川内原発○km」の標識が、ここにも 設置されている。原発問題は地元の課題だろう。
上り坂になり、左折して跨線橋を渡って下って行くと国道との合流地点左に「十里塚」があり、榎が植わっている。
案内板によると 一里塚の制度は鹿児島下町札辻を起点として、「一里塚」を設け、この榎は、1600年代を初代の塚木 とし、世代交代樹齢100年と仮定するならば四代目、樹齢130年と推定されると。
鹿児島からの「一里塚」は初めてで、これから減って行くことを期待したが、この「十里塚」以外、出会わなかった。こでこで、一息入れる。 (13:45)

山之神神社?

旧街道の分岐点 案内板

十里塚の榎 金山公民館


「薩摩街道(薩摩川内~市来)②」の「紀行スライドショー」

再び、国道歩きとなるが、少し先で国道を左に入り、南九州西回り自動車道の橋脚に接近する。水仙や菜の花が植えられ、色感溢れるた旧街道を 通り、角石バス停付近で国道に合流する。薩摩は春だと思いながら。
更に国道を進むと「中馬 砕石串木野工場入口」の看板がある所から左斜め前方の旧街道に入って行く。高速道路に接する手前の細い道を 下って行くと「出水筋・道標」が立っている。白梅が満開ののどかで趣のある道を進むと、二股があり、右の坂道を下って行く。やがて、白梅を 観ながら民家の間を抜け、橋を渡って国道に合流する。その角にも「出水筋・道標」が立ち、鹿児島方面から歩く人への道標となっている。

国道を左へ 菜の花

旧街道は左へ 静かな旧街道と道標

二股は右へ 白梅の咲く旧街道


再び、国道3号線を進む。薩摩山バス停を過ぎ、左に曲がる道を探しながら進むと薩摩山下バス停まで来てしまい、行き過ぎたと戻り、手前の建物の 角を左に折れる。「門司から351km」の標識のある手前の道だ。
左折した左にも「出水筋・道標」が立ち、間違っていないことを確認し、橋を渡り右の旧街道を道なりに進む。広い道に当たり、左折して進むと 「出水筋・道標」が右に進めと示している。直ぐに五反田川があり、五反田橋を渡る。
橋を渡った左に「水神」碑と「出水筋・道標」が立っている。ここから先の道が迷い易いので、ここで一息入れ「歩行マッブ」を確認する。 川沿いのそよ風は気持ち良く、薩摩の春を満喫する。(14:35)

国道から左への道 道標

出水筋・道標

五反田橋の水神碑と道標


橋を渡った道を真っ直ぐに進むと前に広場が現れる。これが「旧郵便局跡」だと思い、周囲を見回すと「旧郵便局跡・案内板」が立っている。 この地域で初めての郵便局だったと。跡地を右折して進むと「歩行マップ」では旧街道は消滅しているが、車は通れないが、歩行はできる道が 建物の間に通じているので、その道を進み、迂回した道に合流する。
針原公園の横を通り、広い道を進むと緩やかな上り坂となる。まだ不安を残しながら上って行くと左に「出水筋(薩摩街道)麓~十里塚榎」の 案内板があり、旧街道だと安心する。やがて、民家の立ち並んだ旧街道を進むと右に串木野中学校が見え、丁度15時のチャイムが鳴っている。
旧街道は、急な下り坂になり、下り切った所にも「出水筋・道標」が立ち、進路を示してくれる。
その先、道なりに「星越坂」と云われる急な上り坂を抜けるとみかんの無人販売所・自動販売機があり、その横に「出水筋・道標」が立っている。

旧郵便局跡 出水筋(薩摩街道)案内板

急な下り坂 出水筋・道標

無人販売所横の道標


ここからの道に迷ってしまった。「歩行マップ」によると、道標を直進し、突き当たりで旧街道が消滅したいるため、右に迂回し、その先の2筋目 を左に進むように示している。野中の道を直進すると突き当たり、右に2筋目を左にと進むが、何かおかしい。地元の方に聞くにも誰も見当たらず、先に 進むと墓の近くに男性が居られ「薩摩街道」を歩いているが、道に迷ったと話す。 その方は、この道は違うから、元の場所に軽トラに乗せていただき戻る。自動販売機の道標まで戻り、直進して突き当たりにまで進むと、 「薩摩街道」は右ではなく左で、もう少し先に道標が立っていると教えていただく。お礼を云ってお別れする。感謝。

薩摩焼発祥の地

「歩行マップ」と方向が違うので、納得はできないが、左に行くと「出水筋・道標」が立っているので、旧街道に間違いない。何処で間違ったのか 分からないが、元の地点まで戻るのは止め、先に進もうとすると「薩摩焼発祥の地」の案内板が立っているので、立ち寄ることにする。 左の坂を上って行くと「薩摩焼発祥の地」の石碑が立ち、説明板もある。
慶長3年(西暦1598年)12月, 島津義弘・忠恒親子は文禄, 慶長の役後, 朝鮮の陶工70余名を連れて凱旋した。そのうち鹿児島に行くことを こばんだ 男女43名は ここ島平に上陸し, 当所において, 焼き物を作り生活をささえたのである。
当時島津家の内乱や, 関ヶ原の戦により, 藩庁の保護がじゅうぶんでなかったこと, 加えて服装・習慣・ことばの違いなどから, 土地の人々 との関係がうまくいかなかったため. 5年(一説には6年)の後, 安住の地を求めて, 苗代川(美山)に移住したといわれている(いちき串木野市HP他より)

道に迷って、20分余りのロスタイムが生じたが、先に進と、右下に、神村学園の校舎が見える。計画では、JRで神村学園駅から宿泊地の伊集院駅に 向かう予定だが、今後の進め方を検討するため、道端で一息入れる。(14:45-15:55)
次の市来駅と旧街道とは、1km程距離があるが、17時9分発の列車には乗れるであろうと決断し進むことにする。
道なりに、緩やかな坂を下ると二股があり、左の道を進むと左に八房公民館が建ち、その先には「秋葉神社入口」の標識か立っている。 更に下ると左に「出水筋(薩摩街道)案内板」が立ち、JR踏切を渡ると国道3号線に合流する。その角に「出水筋・道標」が立っている。

迷って出会った道標

出水筋(薩摩街道)案内板 秋葉神社入口

国道角の道標


国道3号線は、海に近く入江状に川幅が広い八房川を八房橋で渡る。ここからの旧街道も分断されていて、歩き難いが「歩行マップ」に沿って 進むことにする。

八房川

八房神社

川沿いの道に面し「八房神社」が鎮座し、その先の「菅原天神」の生垣の上に「川口番所跡」の案内板が立っている。薩摩藩では重要な港には、 御船奉行を置き、密貿易を取り締まった。当時の市来港は、九州各地からの船が出入りする栄えた港であり、薩摩藩もここに番所を置いて 取り締まったと。
「菅原天神」の正面には、赤い鳥居が立ち、小さい社が祀られている。 その先に「いちき串木野市役所」が建ち、正面に「出水筋(薩摩街道)」の案内板が立っている。この周辺に「お仮屋跡」があるはずだと、 生垣の周りを探すとの高い垣根の上に案内板が立っているのを発見。 お仮屋は、市来郷の長官であった地頭の役所で、藩主が参勤交代の時宿泊したり、休憩したりすることもあったと。

菅原天神 川口番所跡

いちき串木野市役所前の案内板

お仮屋跡


市役所の正面に戻り、その前を少し進むと右に「西村寺」が建ち、左に「八阪神社」が鎮座する角を左折する。市来の信号で、国道3号線を 横切り、静かな街並みの旧街道を進むと二股になり、右に折れる。本来の旧街道は、もう少し先から曲がっていたようだ。
この先左に、「鹿児島道道標」と祠が祀られているはずだか、分からず、突き当たりの浜田酒蔵まで行ってしまった。

八阪神社

鹿児島道道標があったと思われる空地

おかしいと思い戻って 探すが分からず、消滅した旧街道の方かと探し回る。
家から奥さんが出て来られたので、道標があったはずだがと尋ねると、引っ越しした方が 持って行ったのでないかと、隣の家の方にも聞いていただく。「歩行マップ」の写真から、○○さんの家の横だと云われ、今は跡地が残っている はずだと。
先程探した道に戻ると確かに四角い跡地らしき空地が残っている。何処に行ったのか、帰宅後、いちき串木野市役所に問い合わせるが、 まだ回答は得られていない。

残念に思いながら立派な浜田酒蔵に突き当たると「出水筋(薩摩街道)」の案内板が立っている。消滅した旧街道も記されており、分かり易い。 浜田酒蔵の前を右折して、国道に合流し、少し進んだ先から右斜めの旧街道に入って行く。串木野市は、焼酎工場が多く、色々なメーカーが 点在しており、「白石酒蔵」等、趣のある酒蔵が紀行を楽しませてくれる。試飲もしたい所だが諦めて進むと酒蔵の壁に天狗の面が飾られ ている。芋焼酎「天狗櫻」に因んだ飾りなのだろうと思いながら進む。
その先の十字路の真ん中に円筒形の「井戸跡」が残っている。道の真ん中に史跡を残している姿勢は嬉しい。左折して進み、再び国道に合流し、 市来農芸高前の信号から右折する。

浜田酒蔵の案内板 説明

白石酒蔵 天狗の飾り

井戸跡


下潟街道・道標

大里川

交差点を渡った角に「下潟街道・道標」が立っている。読み難い文字だが、正面に「下方街道分岐点」と示されているようだ。
少し先には、大里川があり薩摩渡瀬橋を渡り、本日の「薩摩街道」紀行はここまでとする。
次の角を左折してJR市来駅方向に向かう。 駅までは、真っ直ぐな道が続くが、結構距離がありそうだ。列車の時刻まで、10分余りなので、急ぎ足で進むが、疲労度があり、 足が重い。無事、発車時刻前に到着し、17時8分発の列車に乗る。

地元の芋焼酎

約20分余りで、伊集院駅に到着し、駅前の「島津義弘公の騎馬像」(逆光で後日掲載)を見て、今日の宿泊場所・玉利屋旅館に向かう。

「薩摩街道(薩摩川内~市来)③」の「紀行スライドショー」

旅館にチェックインし、早速風呂で足腰をマッサージし、疲れを癒す。アップダウンはなかったが、道に迷ったり、史跡を探したりと疲れた紀行だった。
夕食場所を御主人に尋ねると「誠家」が良いと紹介されたので、そこに行き、ビールで乾杯。若い主人は、学生時代サッカーをしていて、鹿児島では 有名だったが、学校は違うが、同期の日本代表・遠藤は、更に凄かったと。
お奨めの地元の芋焼酎を選んでもらい、楽しく賞味する。連泊するので、明日も来ると話し、昔、数回行った鹿児島市内の「魚福」と云う 味処にも行きたいと云うと、あそこは最高ですと賞賛するので、疲れていなければ「魚福」に行くかも知れないと話し、お開きとする。 なかなか良い店だった。
旅館に帰り、明日の用意をして、ぐっすりと眠る。今日の歩行歩数は、41000歩だった。


「薩摩川内~市来][市来~チェスト館]「チェスト館~鹿児島]「番外編」,







    
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