○ 「奥州街道・仙台道No1」見聞録(白河宿追分~二本松宿)・(距離 64.1km/ 64.1km/303.0km) 1.「奥州街道・仙台道」(白河宿追分~須賀川宿・29.8km) 2016.05.24. 8:30~17:40 晴れ時々曇り
2016年2月に「奥州街道」を「白河宿」まで踏破した。
また、先達の話では、宿場間の距離は短く、本陣等の宿場機能も整備されておらず、その史跡は期待できないと のことで、今までの旧街道紀行とは趣きが違うようだ。 「日本縦断」を目標としているため、まずは「奥州街道・仙台道」で福島を経由して仙台を目指すことにする。 今回の紀行には、大きな助っ人を携帯することができた。先達の紀行記から「歴史の道を往く・奥州街道」と銘打つ福島県の地図があることを知り、 郡山国道事務所に問い合わせると4巻の地図を送付していただいた。しっかりと「奥州街道」のルートが示されており、ありがたい助っ人だ。 感謝して、同行の宝としたい。 5/23、前回の帰路で利用した京都~郡山の夜行バスを活用することにし、京都駅発21時15分発の郡山経由仙台行の夜行バスに乗るため、20時前に出発する。 京都駅で睡眠導入剤を仕込み、前回は満席だった夜行バスは、7割程度の乗客で空席もある。横の座席は空席なのはラッキーだ。 夜行バスは名神・東名・東北自動車道を4ケ所トイレ休憩をしながら進む。途中、目覚める時もあったが、ゆっくりと眠ることができた。
8時20分白河駅に到着するとホームからは「小峰城」の雄姿が眺められ、幕府直轄「奥州街道」を踏破したことを実感する。 駅前からタクシーに乗り、「奥州街道」の最終地点「女石追分」まで進む。運転手と「仙台道」を歩くと云うとびっくりしておられ、気を付けての言葉に送られて 「女石追分」で下車する。 8時30分、薄曇りで少し暑い中、追分碑もない「女石追分」の前には「戊辰戦争仙台藩士の墓」が祀られ、その前の「仙台道」をスタートする。 少し進んだ右に「遊女志げ女の墓」が祀られている。案内板によれば、戊辰戦争時、悲劇の死を遂げた遊女しげを祀っている。長州藩士で奥州鎮撫参謀の 世良修蔵が白河城に入城した時に坂田屋で遊女志げと親しくなり、白河の危険を察知し、彼女の助けで脱出したことから会津藩士に憎まれ殺されたと。 これを知った坂田屋の下男が会津藩士を追い、この地で仇を討ったと。
少し進むと国道4号線に合流して進むと左へ旧街道が分かれている。田園風景が広がり、向こうには 東北自動車が見える。左に真っ直ぐな道があり、それが東北自動車道の高架下に続いているようなので、この先に「安珍の墓」が あると確信し、旧街道が国道を横切って通っているのを確認して、田圃の中の道を進む。 田圃には、早くも苗が植えられ気持ち良い 景観を満喫しながら、東北自動車道のトンネルを抜けて進むと山側の小道の先に「安珍の墓」が祀られている。「安珍清姫物語」は、 「熊野古道紀行」時に、「道成寺」や「清姫の墓」を見聞していたので、 こんな所に「安珍の墓」が祀られているのを知り、訪れた次第だ。「道成寺」で、清姫の化身・蛇に焼き殺された安珍は、ここ根田村の出身だそうで、 ここに墓が祀られたと。 東北自動車道のトンネルを抜け、「安珍堂」に向かう。国道4号線の手前左丘の上に「安珍堂」が設置されており、念仏踊りで供養されていると。紀州から 遠く離れたこの地で、新たな歴史を知ることができた。
国道4号線を渡って進むと先程確認した旧街道と合流し「根田宿」に入って行く。
静かな「根田宿」の街並みを 見ても、本陣らしき建物もなく、宿場独特の史跡もないようだ。これからの宿場にも期待できないのだろうか? 小さな川を渡って左折して進むと。右の草むらの中に大きな廿三夜碑とたくさんの板碑と石灯籠が祀られている。 やがて、旧街道は再び国道に合流し、しばらく進むと旧街道は左の泉田集落に入って行く。 旧街道の右には、廿三夜塔や馬頭観音碑が祀られている街道風景が現われる。緩やかな坂の先には、小田川小学校が建っている。その手前の道を 右折し、地道を進むと左に保育園があり、子供たちとおはようとご挨拶。やがて、狭い地道になり国道に合流する。本来の旧街道は、もう少し上の 方を通っていたようだ。 国道は切通しの坂道を上り、下ると右下に細い道が見える。旧街道と確信し、国道横の道を進むと国道に合流し、すぐ、左斜めに入って行く。 「小田川宿」に入ると左に「薬師堂」が祀られ、前に「戊辰戦死供養塔」や二十三夜供養塔とうの石碑が祀られている。 やはり、「小田川宿」にも本陣等の史跡がないようで、立派な家が立ち並ぶ街並みを楽しみながら進む。暑くなってきたので、シャッを脱ぎ、一息入れる。 (9:40-45)
「小田川宿」は泉川を馬橋で渡り、左の東北自動車道高架下のトンネルに「八幡神社入口」の石碑を確認する。
案内板によると仙台藩の武士が、江戸に向かう途中、夜中に美女に出会い、妖怪と思い竹光で 切りつけたと。帰路にこの場所を通ると石地蔵の首が転ろげ落ちていたと。昭和40年代まで、首が落ちていたままであったが、いつの間にか 首が繋がっていたので「首切地蔵」として、地元の方に手厚く祀られていると。 旧街道は、白河市から泉崎村に入り、少し先左に見事な枝垂れ桜が見えてくる。「常願寺」の枝垂れ桜で遠くからも望まれる大きさだ。 境内には、枝垂れ桜の下に「浮彫阿弥陀三尊来迎板碑」が祀られている。 この辺りは「太田川宿」で、静かな街並みが続くが、宿場らしい史跡は見当たらない。正面に丘が見え、それに突き当たると「愛宕神社」の鳥居が立っている。 鳥居まで行き、境内をのぞくが、高台の上に本殿があるのであろう、長い石段があるので参拝は断念する。
「愛宕神社」を右折し、少し先を左折すると気持ち良い林へのの坂道になる。地道でないのが残念だが、緩やかな坂の左に「天王社」の石祠が祀られ、 石仏や石塔・十八夜塔も祀られている。旧街道は、両側の林の中に上って行く。頂上付近では、涼風が気持ち良い。 緩やかに右に曲がる下り坂を進むと左に曲がる家の手前に、地道の旧街道が残っている。家の裏を通って進むと「新池」の畔に出て、草道の旧街道が 続いている。地道や草道に出会い嬉しい。新池沿いに松並木があるはずだが枯れたのか見当たらず、桜が植わっている。池畔に座って一息入れる。(10:50-55)
池畔で一息入れ、国道4号線を横切って「踏瀬(ふませ)宿」に入って行く。すぐ左に「愛宕神社」が鎮座し、鳥居の前に「庚申供養碑」や「廿三夜碑」等の 石碑がたくさん祀られている。 静かな「踏瀬宿」の街並みは、火の見櫓が目立つ位の寂しさで、その左に「慈眼寺」が建ち、ここにも見事な枝垂桜が茂り、門前には「廿三夜碑」が祀られている。 枝垂れ桜と「廿三夜碑」が多い旧街道だ。 地図を見ると国道4号線を越え、東北自動車道付近に「観音山磨崖供養塔婆群」が記されている。近そうなので探しに行くが分からない。国道筋に コンビニがあり、アイスクリームを買い、地図を見せて尋ねるが分からないと。外に出て、小さな川の上流・東北自動車道の橋の下に何かありそうなので行くと まさに橋の下に「観音山磨崖供養塔婆群」が祀られている。東北の中世仏教の貴重な遺跡だそうで、岩肌に仏像等が彫られている。見付けて 良かった、旧街道に戻る。
もう少し行くと「五本松の松並木」だと軽快に進んでいると左の草むらの中に「馬頭観音碑」が顔をのぞかせている。
「日光街道」の松並木のような重厚さはないが、素晴らしい景観を満喫する。 案内板によると、松平定信の時、領内の街道に2300本の松の苗を植えたのが始まりで、現在の松並木は、 明治18年頃補植したものだそうだ。これほど長い区間で街道の雰囲気を漂わせているのは福島県内の奥州街道ではほかにないと。 松並木の途中で、泉崎村から矢吹町に入り、松並木が途切れる右に「卯右衛門茶屋」と「文七茶屋」の案内板が設置されている。松並木を過ぎてのお茶と団子は 風情があると思いながら、残っている「井戸」を確認する。
旧街道は「あぶくま高原道路」を跨線橋を渡って進む。先達の紀行記で林間の舗装道路の右上に旧街道が残っていると記されている。東北電力No69電柱から 右の崖を上るとのことで、電柱を探しながら進む。 少し進むと右に「戊辰戦争関門跡」の案内板があり、石段が通じている。この上に旧街道があるのかと石段を上るが、草むらが茂るのみで、道らしき道はない。 諦めて石段を下り、少し進むとNo69電柱を見付けるが、崖を上るのは難しい。先程の石段と10m位しか離れていないので、「戊辰戦争関門跡」まで戻り、 石段を上って、草むらを分けて進むと「祠」があるが、中は空洞だ。 草むらは藪になるが、下の舗装道路沿いに藪扱きで進むと何と旧街道らしい道に到達した。下には、No69があるので、先達の紀行記通りだ。苦労したが、 旧街道を見付け、思わず微笑んでしまう。 しばらくの間、林間の地道の旧街道の感触を堪能しながら歩む。気持ち良い。下の舗装道路は曲がって行くが、旧街道の道がなくなった。そのまま続いているのか 分からないので、舗装道路まで崖を滑りながら下り、つかの間の旧街道・地道歩きを終える。満足感最高!!
舗装道路の旧街道は「大和久宿」に入って行く。大きな家は建っているが、本陣等は見当たらない。少し先の右に「大和久宿」と記された木製の標識が 立っている。今回の紀行で初めて見る「宿場標識」だ。その横に「→踏瀬宿」と記され、その方向に細い道が通じている。もしや、この延長線が、先程の 林の旧街道に続いているのかと思ったが、戻って確かめるまではしなかった。あの地道が、ここまで通じているのか? 少し先左の「山王寺」前に「大和内の天道念仏踊り」と記された案内板が立っている。天道念仏踊りは、太陽の暖かい恵みと豊作を祈願する踊りだと。
少し進むと右に「大山祗神社」が鎮座し、その鳥居の前に「中畑新田宿」の標識が立っている。宿場間の距離は短いのに驚く。その向かいには「幸福寺」が 建ち、何時ものような「中畑新田宿」の街並みが続く。短い距離に同じような宿場が点在するのは何故と思いながら進む。 その先、左に道があるT字路の角に「旧水戸街道常夜灯」が立っている。ここが「水戸街道」の起点だと。
県道の高架下を抜けると「矢吹宿」だ。
「矢吹宿」は、本陣・脇本陣・検断・問屋等が置かれていた繁栄した宿場だったそうだ。 食事を終え、ご主人に「大木代吉本店」や「大正ロマン館」の場所を教えてもらうと食堂の直ぐ手前だ。古風な酒屋「大木代吉本店」の前に改装中の 「大正ロマン館」がブルーシートで覆われて建っているのは残念だ。 その先、左の駐車場奥に「本陣跡の門」が残っているはずだが、食堂のご主人の話では、遠方の息子が相続したが、門は潰してしまったそうで、広場の 入口に「最後の本陣跡」の標識が立っている。初めての「本陣跡」だが、標識が残っているだけでもハッピーと考える。 更に進むと左に「北町地蔵尊」の赤い頭巾を被った立派な地蔵尊が祀られている。この辺りの地蔵尊は大きく、赤い頭巾を被っているのが特徴のようだ。
旧街道は国道4号線に合流し、少し先の標識には「東京より205km」と記されている。
少し先の左斜めの道を進むと「久来石(きゅらいし)宿」となる。 この宿場も静かで、何の史跡も残っていない寂しい旧街道を進み、国道4号線を横切って「笠石宿」に向かう。 それにしても、宿場間の距離の短さには 驚く。「久来石宿」と「笠石宿」の間は、13丁(約1.4km)しかないと。 「笠石宿」に入ると右に「熊野神社」が鎮座し、「笠石宿」の静かな街並みを進むと左に「宝泉院」が建っている。境内には「大日自然石板碑」が立ち、 横にブルーシートで覆われて保護されている板碑があるが、見ることができない。また、その周りには、双体道祖神や庚申塔や如意輪観音像が祀られている。 境内の水道で、顔を洗い、頭から水を浴びて暑さを払う。久し振りの暑気払いの行事をし、一息入れる。(14:10-20)
歩く度に、足裏に痛みを感じるようになった。どうもマメができたようで、歩き難く歩幅が狭くなりスピードが落ちている。 薬屋があれば、絆創膏を購入しなければと思いながら出発する。 「宝泉院」の先右の家の中に「明治天皇御駐輦之所」碑が立っている。明治天皇行幸も広範囲に及ぶのだと改めて思う。 ゆっくりと歩きながら進むと宿場はずれの左に「笠地蔵」が祀られている。中は見られないが、国内でも珍しい笠のある板碑が 祀られていると。地元では「和田 長の供養塔か」とある拓本から明暦47年(1658)頃のものと推定され、里人の信仰に結び付いたと。 また、ここの枝垂桜は、天然記念物だと。 少し足を引きづりながら、真っ直ぐな道を進むと左に「西光寺」が建っている。境内には、二十三夜塔や如意輪観音像がたくさん祀られている。 また、境内の推定樹齢250年の「たらよう」は天然記念物に指定されている。
旧街道は、国道4号線に接し、複雑な道路状況に戸惑いながら、常に右の道を進んで行く。鏡石町から須賀川市に入ると旧街道は、国道から離れ、 緩やかな坂道を下って行くと 右に「史跡 須賀川一里塚 100m先」の碑が立ち、その先に、今回の紀行初めての「須賀川一里塚」が旧街道の両側に残っている。 案内板によると江戸から59番目の一里塚で、東側は15mx12m、西側は15mx10mと相対する国指定史跡だと。 双対の一里塚が残っているのも珍しいが、美しく保存されているのは素晴らしいと見上げる。
坂を下り切ると国道118号線にぶつかる。旧街道は横切ってその先の東北本線の踏切を渡るようだが、その踏切がないそうなので、右の東北本線のガードを抜け、 直ぐ左折して、踏切があると思われる所から右斜めの旧街道を進む。 「須賀川宿」が近付いて来たと痛む足に気合を入れて進むと左に「須賀川絵のぼり」の幟が立っている。「須賀川絵のぼり」は、230年から伝わる和紙や布地に 鍾軌を描き、端午の節句に男子の成長を祝って、庭先に立てたのが始まりだと。店先に「鍾軌様」を描く看板が掲げられている。 段々と街並みが賑やかになり、南町の信号の二股は右に進む。その先右の東北電力の前に、「南の黒門(木戸)跡」の標識が立っている。 横に立つ「南の黒門坂」と「三丁目町内会」の案内板によれば、朝夕に開閉され、門内番屋前で鈎の手に曲り、町に入ったと。 「南の黒門跡」から「須賀川宿」に入って行く。昔の面影は残っていない近代的な街並みだが、所々に史跡が残っているようだ。 少し先の交叉点左手前に「軒の栗庭園」の緑の広場がある。植え込みの中には、「芭蕉と曾良」や彼らが須賀川で宿泊した「相楽等躬」の可愛い石像が 飾られている。可愛い像は微笑ましい。
少し離れた「須賀川市芭蕉記念館」を訪れる。
次に「十念寺」に行こうと、記念館の先の角に広場があり「芭蕉七泊八日の旅日記」と記された大きな案内板が立っている。「須賀川宿」に7泊した 芭蕉の行動・俳句等が細かく記されている。「須賀川宿」と芭蕉の結びつきの強さを感じた。 街並みを縫って奥まった所に建つ「十念寺」に辿り着く。 芭蕉が「奥の細道」の旅で須賀川に滞在した時にこの寺に参拝している。その後、 安政2年(1855)須賀川の女流歌人市原多代女により、芭蕉田植唄「風流のはしめや奥の田うゑ唄」の句碑が境内に立てられ ている。また、本堂の前には、樹齢500年のイチイの木が見事な姿を見せている。「福島県緑の文化財」に登録されていると。
本日の宿は「須賀川宿」と考え、足腰が伸ばせる大浴場のあるホテルを探したが、適当な所が見付からず、範囲を広げて検索すると約4km先に「ひばり温泉」が あるのが分かり予約していたので、そこまで行かねばならない。「須賀川宿」には、まだ史跡があるが足裏のマメが痛いのでパスし、先に進むことにする。
釈迦堂川近辺は護岸工事で、通行規制等で複雑だったが。 階段を降りたりしながら、釈迦堂川の堤防に上る。旧街道は、須賀川橋と中宿橋の間を渡しや橋で渡っていたようだが、現在の中宿橋を渡らずを得ない。 堤防を進み、常夜灯が立つ中宿橋を渡って進むが、右折する道を通り過ぎ「鎌足神社」を見過ごしてしまった。 左方向にはJR須賀川駅が見える。足が痛く戻るのを止め直進する。高架道路にぶつかり、左折して地下道を抜けて進む。 静かな街並みの緩やかな坂道を、ゆっくりと上って行く。歩幅が短くなり、スピードがでない。 坂道の途中、広い道の角に石仏群が祀られている。大きな「廿三夜塔」を中心に「如意輪観音」「庚申塔」「馬頭観音」等の石仏・石碑が祀られている。 その先には「森宿一里塚跡」の木が植わっている。江戸から60番目の一里塚だと。
坂道が急になり、足への負担が厳しく、スピードは落ちてくる。「白石坂」と云うらしい。 地元の方に声を掛けられた。何処までとの問いに、 「ひばり温泉」に泊まると。その方はこの近辺の「奥州街道」を仙台まで歩いたそうで、津軽半島まで行きたく思っていると話すと頑張れと激励される。 「白石坂」を下り、二股の所に「筑後塚供養塔」が祀られている。ここにも大きな「廿三夜塔」や「如意輪観音」「庚申塔」「馬頭観音」が集まっているのは 壮観だ。峠の坂道の旧街道の趣きが残っている。 二股を左に進み、坂を下って行くと左の崖の下に「廿三夜塔」等の石塔や石碑が祀られている。足はそろそろ限界に近付いているが、宿は遠い。
やっと、「白石坂」は県道355号との合流する。この合流地点に道標があるはずなので探すが、角の敷地が更地になっとおり、道標は見つからない。 何処かに移設されたかもしれないが? 県道で滑川を渡った所で、本日の旧街道歩きを終え、左折して「ひばり温泉」に向かう。(17:40) 温泉への道を進んでいると滑川の対岸にお堂が見られる。地図に示している「大聖不動明王堂」だと思われるが、寄り道する気力もなく、 明日の宿題として、「ひばり温泉」に急ぐ。
夕食は食事処で、ご馳走が並ぶ。生ビールで乾杯する。嬉しいことに、1杯目の生ビールには、日本酒1合がサービスとのことで、日本酒もいただく。 フロントで、マメの治療用の針とライターを借り、マメの水を抜き、絆創膏を貼っておく。明日、痛みが少なくなれば良いが・・・・・ 幕府直轄の「奥州街道」を踏破し、藩管轄の「奥州街道・仙台道」をスタートした。宿場間が短く、本陣等の史跡はなく、従来の旧街道歩きとの違いに戸惑うが、 自然豊かで、地道も探しての紀行は楽しかった。ただ、足裏のマメに悩まされて、パスした史跡もあったのは残念だ。 心地良い疲労と温泉効果と酔いで、ぐっすりと眠る。 歩幅が短くなったので、今日の歩行歩数は、54800歩と多い。
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