[二本松宿~福島宿][福島宿~伊達][伊達~貝田宿]


○ 「奥州街道・仙台道No2」見聞録(二本松宿~貝田宿)・(距離 50.1km(今回)/ 114.2km(累計)/353.1km(江戸から累計))

  1.「奥州街道・仙台道」(二本松宿~福島宿・24.1km) 2016.10.18. 9:05~17:45 晴れ時々曇り


仙台道マップ
(揺次郎のウォーキング・ライフ
HPより借用)
仙台道(白河~仙台)宿場一覧
クリックすると拡大します。

「二本松宿~福島宿・行程MAP」

地図の再生ボタン()を押すと
見聞ルートに沿って歩行出来ます。

今年5月に「奥州街道・仙台道」を「白河宿」から「二本松宿」まで紀行した。
幕府直轄の「奥州街道」ではなく、藩管轄の「仙台道」は宿場間も短く、本陣等の史跡も残っていないので、物足りなさは感じていたが、自然は豊かで、 旧街道も舗装道路として残っているのは有難かった。
今回は、「二本松宿」から「福島宿」を経由して、福島県から宮城県に突入する計画で、往路の夜行バスは郡山着、帰路は仙台発を予約した。県境を 越え、「仙台道」終着の「仙台宿」に如何に近付くかにトライしたい。

5/17、前回と同様に京都~郡山の夜行バスを活用することにし、京都駅発21時15分発に合わせて、20時前に家を出る。 何時ものように、京都駅で睡眠導入剤を仕込み、夜行バスに乗ると6割程度の乗客で空席もあり、横の座席は空席なのは嬉しい。 夜行バスは名神・東名・東北自動車道を4ケ所トイレ休憩をしながら進む。途中、目覚める時もあったが、ゆっくりと眠ることができた。

二本松駅

二本松少年藩士隊・霞城の太刀風の像

ただ、浜松SAの出発時刻に女性がバスが分からず20分遅れたので、郡山市内のラッシュと重なり、予定より30分遅く7時45分到着となってしまい、ギリギリ前の 列車に乗れず、1本遅れとなった。
8時39分発の列車に乗る前に、駅の立ち食い蕎麦で朝食とし、ガラガラの列車で二本松駅に向かう。
二本松駅前で前回宿泊した「旅館・大宗」と凛々しい「二本松少年藩士隊・霞城の太刀風」の像を見て、前回の紀行が足のマメによって、中断した 苦々しい思いを想い出してしまう。今回、このようなことがないように、靴下も2枚穿き万全を期したつもりだ。 9時05分、少しひんやりとした青空の下、スタートする。
駅前通りを直進して旧街道に突き当たると「二本松神社」が鎮座する。二本松の丹羽家と領民の守護神として祀られた神社で、本殿までは階段で距離がありそう なので、鳥居の前で旅の安全を祈願して礼拝する。
右折して旧街道に入ると古い「玉嶋屋」和菓子店や蔵造りの家等の古い街並みが「二本松宿」の趣きを残している。城下町特有の和菓子屋さんが多いと思いながら 進むと宿場特有の枡形が左に曲がり、右に曲がっている。

二本松神社

玉嶋屋和菓子店

枡形


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

やがて、亀谷坂入口交叉点を左折すると「亀谷坂」の急な長い上り坂となる。「奥州街道 亀谷まつり坂」の大きな看板が架かり、登り始めると左奥の高台には 稲荷神社の赤い鳥居が見える。
緩やかな坂道の左に「鏡石寺」が建ち、その本堂裏には樹齢400年の枝垂桜が植わっている。立派な枝垂れ桜で、季節が合えば美しいお花見ができるだろうと 思いながら、坂道を上ると酒樽に「露伴亭」と銘打った建物があり、側によって確認すると居酒屋だった。坂の上に立つ「幸田露伴の碑」から銘打ったの だろうが、のぞいてみたい居酒屋の看板だ。

亀谷坂

鏡石寺 枝垂れ桜

露伴亭


緩やかだが長い坂道を上っていると息が弾んでくる。頂上近くの左に「観音堂」が祀られており、その境内に
「人も見ぬ 春や鏡の うらの梅」と詠まれた「芭蕉句碑」が立っている。これは安永5年(1776)に二本松藩主の侍医であり文学者遠藤○○によって建てられた碑で、俳句は 元禄5年(1692)に詠まれた市内最古のものだと。
その先「亀谷坂」を上り詰めた左に「文豪幸田露伴 ペンネームゆかりの地」の碑が立ち、そこには
「里遠し いざ露と寝ん 草まくら 露伴」と刻まれている。案内板によれば、 幸田露伴は二十歳になって文学を志し、電信技師として赴任していた北海道余市から上京の旅に出た。明治20年9月28日の夕暮れ近く福島に 到着、ここで一泊すると乗車賃が不足すると、夜中歩いて郡山(当時東北本線は郡山まで開通)まで行こうと決め、飲まず食わずで二本松に来たのは夜 半近く。亀谷坂頂上の阿部川屋で餅を買い、食べながら歩いたものの体力気力とも既に限界、道端に倒れこんで口をついて出たのが、 「里遠し いざ露と寝ん 草まくら」という句だった。この一夜が忘れられず、発奮の意味を込めてペンネームを露伴にしたと。名前の由来については、以前に 聞いたことがあったが、この場所だったのだと感動し、案内文を読み返す。

観音堂

芭蕉句碑

文豪幸田露伴 ペンネームゆかりの地の碑


長い上り坂を上り切り、「竹田坂」を下って行く。この辺りは、家具屋さんが多く、手造りの箪笥等が有名だそうだ。
「竹田坂」を下った交叉点の右角に「竹田見附ポケットパーク」の小さな広場がある。案内板には、慶安年間の街割りにより、旧奥州街道と竹田門へ通じる 三叉路が設置された。ここは、城の最も外郭に当たるため見張りをする見附だったと。
ここを右折して県道129号線を進むと左に「かげのまち 職人横丁」の看板が架かっているが、意味が分からない。
その先には「奥州二本松藩御用蔵」の 「天明蔵」「天保蔵」が建っている。「天明蔵」は天明5年(1785)、「天保蔵」は天保14年(1843)の建立で、歴史的建造物だと。裏に流れる鯉川を利用し、 阿武隈川と結ぶ舟運のため設けられたと。
県道129号線は街灯も撤去され、真っ直ぐに通じる新しい道で、旧街道のイメージはない。

竹田坂

竹田見附ポケットパーク

天明蔵と天保蔵 県道129号線


根崎の信号を左折して、鯉川を鯉川橋で渡る。

鯉川

連子格子の古い街並み

鯉川を活用した枡形のようで、すぐ右折して川沿いの旧街道を進む。
旧街道は、先程の県道から一変して、連子格子の古い街並みが続いている。その対比は面白い。
右に「旧一番町」の新しい石碑が立っているのを確認し、緩やかに左右に曲がる旧街道を進む。
青空の下、快調に進んでいると「智恵子の生家100m先 安達町」という表示に出会い「智恵子の生家」が近いことが分かり、期待に胸が膨らむ。 旧街道沿いの土産物店の看板にも「智恵子」の文字が見られる。少し進んだ左に、立派な造り酒屋「智恵子の生家」が建っている。

智恵子の生家 酒樽

詩人・彫刻家として著名な高村光太郎との純愛に生きた妻・智恵子。女流画家として一時代を駆け抜け、晩年に熱中した 美しい紙絵の世界は、光太郎とともに追い求めた人間の真実や美、そして愛を反映して奇跡のような輝きを放つ。
旧国道に面した一見宿場を思わせる2階建ての家。表には格子戸が巡らされ、新酒の出来上がりを伝えた大きな杉玉が下がる。 屋号は「米屋」、酒銘「花霞」。53歳という短い生涯を閉じた智恵子の生家は、智恵子が愛してやまなかったふるさとの地に、当時の面影そのままに、 ひっそりとたたずんでいる。
智恵子は1886(明治19)、造り酒屋の長女として出生。洋画家の道を選んで、女性による最初の雑誌「青鞜」創刊号の表紙絵を描くなど才能を開花させ、 そして運命の人・光太郎と出会った。
自殺未遂と波乱が続いた知恵子の生涯。鞍石山は智惠子の杜公園として整備され、
「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川。 ここはあなたの生れたふるさと、あの小さな白壁の点々があなたのうちの酒蔵。」 という 「智恵子抄」の「樹下の二人」を生んだ場所でもある。(ふくしまの風景HPより抜粋)

生家の前には「花霞」の酒樽が積まれ、杉玉が吊るされ、造り酒屋そのもので、親しみを感じる。横の細道を入ると「智恵子記念館」が建ち、記念の品が 展示されているらしいが、団体客が入場しているのでバスして次に進む。
少し先に「智恵子純愛通り」の石碑が立っている。その前で一息入れる。(10:15-10:20)
その先の交叉点の道路標識には、智恵子の森団地の地名が表示され、少し先左の油井小学校角に大きな看板が飾られており、壁画のように 「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川 ここはあなたの生れたふるさと(智恵子抄「樹下の二人」より)ここは智恵子純愛通りです」と記されている。 この油井の集落は「智恵子」一色なのだ。偉大な人と共に繁栄する地方創生の見本のようだ。

土産物店の看板

智恵子純愛通り石碑

油井小学校角の壁画


油井集落を抜けると田園風景が広がり持ちが良い。稲刈り後の稲の乾燥方法も地方によって違うのを観察しながら、これで地道であれば旧街道そのものだ と思いながら進む。

稲刈り後の稲

安達太良山

左に「空の護 和田青年之碑」と記された大きな石碑が立っている。空軍の戦争の殉職者だろうか。
快調に油井川を渡り、左に曲がり、右に曲がりと 道なりに進むと左に立派な火の見櫓が立っている。田舎の風情そのものだと落ち着いた気分を楽しむ。
左の黄金色に輝く田圃の向こうに「安達太良山」が見えるが、頂上付近は雲に覆われている。智恵子が見た山々だ。
緩やかな坂道を上り、二股の道は左へ。左の「安達太良山」が追うように付いて来るのを楽しみながら「二本柳宿」に向かう。広い道とのY字路は左に進むと゜ 直ぐ左に「奥の細道二本柳宿 鍛冶屋」の屋号の表示が架かっている。その右に「観音堂」が祀られている。
「二本柳宿」のシンボルである「二本柳」の場所は何処かと行ったり来たりと探すが見つからない。
仕方なく、玄関の開いている家の呼鈴を押すと若奥さんが 出て来られ、二本松は何処ですか?と尋ねるとお爺さんが出て来られ、わざわざ道まで出て、真っ直ぐ進み県道との合流地点にあると。
しかし、枯れているので、台風で倒れたら危ないので切ってしまったと丁寧に教えていただく。お礼を云ってその方向に進むと国道との接点に「二本柳」が 一本だけ残って植わっているが、枯れて寂しい姿だ。
横には「二本柳之由来」と「記念碑」が立っているが、判読できない。やっと史跡を見つけて満足感いっぱいで、一息入れる。(11:15-11:20)

鍛冶屋の屋号

観音堂

二本柳宿の二本柳 二本柳之由来碑


旧街道に戻り「二本柳宿」を進む。宿場の中には「材木屋」「問屋」「竹屋」等の屋号を掲げた家もあり、宿場風景を残しているのは嬉しい。
宿場の突き当たりに「円東寺」が建ち、その門前には「火伏地蔵」が祀られている。「円東寺」の前を右折して、急な坂道を下って行く。直ぐ左に「柳清水」の 祠が祀られている。弘法清水とも呼ばれ、弘法大師が円東寺の前で柳の杖を突き立てると清水が湧き出したとの伝説があると。

問屋の屋号

円東寺

柳清水


坂道を下り切ると細い松川が流れ、緩やかな上り坂になる。その先に左に「鹿の鳴石」がでんと構えている。案内板によれば、近くの大きな沼に 住んでいた沼の主(竜神)が、沼が決壊した時、水がなくなり、自分の相手とはぐれてしまった。竜神は鹿に化身し、この石の上で鳴き相手を呼んだが 見つからず、山を越えて土湯の女沼に移り住んだと。この「鹿の鳴き石」の周囲を左に3回廻ると、鹿の鳴き声が聞かれると。
緩やかで長い坂道が続き、やがて下り坂となる。その左に「戦死七人之碑」が立っている。戊辰戦争に関係がある史跡だろう。下り坂も長く、この辺りの アップダウンは緩やかだが長く、ボディーブローのように利いてくるのはこの時は分からなかった。
緩やかな上り坂を上り詰めた左の日向集会所の前に「馬頭観音」や「庚申塔」等の石仏群が祀られている。旧街道の趣きを満喫しながら歩を進める。

鹿の鳴石

旧街道の坂道 戦死七人之碑

馬頭観音・庚申塔


緩やかな上り坂はまだまだ続き、上り詰めた二股は左へ、すぐ先の二股は右に進んで行く。長い舗装道路の田舎道をゆったりと楽しみながら進むと右の稲穂の 向こうに「諏訪神社」の鳥居が見られる。田園風景と鳥居はなかなかのものだ。 「諏訪神社」の参道の前を過ぎると小さな境川が流れている。
この境川を境界として、福島市に入る。境橋を渡って直ぐ左に「立正院」が建ち、その前に「橋供養碑」と「信夫隠の歌碑」が立っている。案内板によれば、 境川を境に松川地域は幕府領、安達地域は二本松領で、戦略上の理由で丈夫な橋を架けられず、木橋だったが、洪水で流され、文化年間に丈夫な橋に 架け替えられたたと。
「信夫隠の歌碑」は、すべて漢字で詠まれているが、案内板に
「思い遣る心の奥をもらさじと 忍ぶ隠しは袖か袂か」という記されている。ここで一息入れる。(12:10-12:15)

諏訪神社の鳥居

境川

橋供養碑と信夫隠の歌碑 立正院


福島市に入っても気持ち良い旧街道が続く。少し先左に「奥洲八丁目天満宮」が鎮座する。立派な拝殿には、見事な彫刻が彫られている。いよいよ「八丁目宿」 に入って行くようだ。因みに、「八丁目宿」の由来は、境川から八丁にあるからだと。面白い。
更に進むと眼鏡橋として有名な「松川橋」が架かっている。水原川に架かる明治18年完成の長さ18mのアーチ型の橋で、後ほど向かう福島の「信夫橋」と同時期に 同じ石材使って建設されたそうだ。明治初期の石橋が、旧街道に残っているのは珍しい。
橋を渡って左に「西光寺」が建ち、紅葉が少し進んでいる。カメラ愛好家が、眼鏡橋や紅葉を狙って走り回っている。

奥洲八丁目天満宮 拝殿

眼鏡橋の松川橋

西光寺


少し先左に「稲荷神社」が鎮座し、奥まった境内には「明治天皇御駐輦之地」碑が立っている。明治天皇の奥州巡幸も「仙台道」を通られたのであろうと 想像する。その向かいに「奥州街道八丁目宿場ますや旅館」が建っている。「奥州街道・仙台道」の旅籠跡だろうと思われる。宿泊は、こんな旅籠跡に するのが一番だと思うが、タイミングが合わなかったのは残念だ。
その先の突き当たりを右折するが、その正面の松川町商工会館の前に「常念寺」の「巨大な南無阿弥陀仏像」が祀られている。その横には「八丁目見て歩き」の 案内板が掲げられている。右折した右に中華料理屋があり、少し遅くなったが昼食とする。近くの工事作業者で満杯で、早そうな中華丼を注文し、 一息入れる。(12:45-13:20)

稲荷神社 明治天皇碑

ますや旅館 南無阿弥陀仏像

昼食


満員で配膳が遅くなった昼食を終え、元気回復して出発する。突き当たりにガソリンスタンドがあり、その前に「八丁目宿本陣跡」「大名家専用の休泊所」の 白い標識が立っている。ここが本陣跡だったのだと。
この角を左折して進むと左に「検断問屋」跡があるらしいが、標識もなく分からない。少し先左の民家の中に大きな「馬頭観音像」が祀られている。 更に進み変形交叉点の右角に「奥州・相馬道の分岐点」「六地蔵道標」の標識が立っている。珍しい「六地蔵道標」で石塔の六面に地蔵が刻まれ、 見難いが「相馬道」と記されている。ここから相馬地方に通じる分岐点となるのだ。道標に缶がぶら下がっているので、こんな所に煙草吸殻入れを 付けるなんて・・・と思い、近寄ると賽銭入れだ。もう少しスマートなものにすれば良いのにと苦笑する。
その道はJR松川駅付近に通じ、有名な「松川事件」の現場となるが、パスして左の「奥州街道」に向かう。

八丁目宿本陣跡

馬頭観音像

六地蔵道標


緩やかな坂を上る途中の左の草むらに「石仏」を見付けて旧街道だと確信し、新興住宅地に入って行く。
緩やかな坂を下る道の街路樹が、紅葉・黄葉 している。北国には秋が深くなっているのだ。坂を下り切って右折し、少し先のJR東北本線の踏切を渡る。単線なので、この辺りは単線なのだと思ったが、 上り下り線が離れているのだ。
緩やかな上り坂を進むと左からの県道114号線と合流する角に「金谷川村道路元標」があると「奥州街道」地図に示されているが、更地にする工事で 見当たらない。その先右に「りんごの自動販売機」が置いてあるのは地元らしい施設だと微笑ましく思う。
その先の東北本線高架下手前にから右に旧街道が残っているので、県道から離れて旧街道に向かう。

草むらの石仏

紅葉・黄葉の街路樹 りんご自動販売機

残っている旧街道


旧街道で東北本線の高架下を抜けると右に「お堂」が祀られており、その前に見難いが「永代太々講」等と記された石碑が点在する。
再び県道114号線と合流する草むらの中に「馬頭観音」が祀られている。県道が旧街道であることが分かるのは嬉しい。県道は緩やかな上り坂となり、 上り切った所右に小さな祠が建っている。緩やかなアップダウンを進むと左の林の中に福島大学の校舎が少し見える。
福島大学バス停を過ぎた右に頭巾を被った「お地蔵様」が祀られている。旧街道だと再認識する。

お堂

福島大学

お地蔵様


少し進んだ右に「馬頭観音碑」が立っている。珍しい形の「馬頭観音」だ。

馬頭観音碑

若宮八幡神社

県道は緩やかな下り坂となり、そろそろ「浅川新町宿」に入って行く。
右の石段の上に「若宮八幡神社」が鎮座する。「浅川新町宿」の鎮守のような神社で、当時「若宮宿」とも呼ばれたらしい間宿だが、街並みもそれらしき建屋がない のは寂しい。
ポツポツと雨が降り出したが、傘を出さずに進めそうなので、道なりに進む。
県道は右に曲がりながら、正面に国道4号線と当たる。国道の下に地下道があるはずだが、 右に曲がる道もあるので、犬の散歩している方に、国道の下に地下道があるかと尋ねると右の道を行く方が良いとのアドバイス。右の道を進んで、国道の下を抜け 再び県道114号線に合流する。 少し進んだ右に「南無阿弥陀仏」や「庚申供養」等の石仏群が祀られている。
その少し先左に「出雲大神宮」が鎮座する。「奥州街道・白河宿」の手前に 義経を奥州・藤原氏に送り届けたと云う「金売吉次の墓」があった。その吉次の父親と云われる炭焼藤太(すみやきとうた)が氏神として祀ったと伝えられ、 炭焼籐太は出雲の神の加護で、京の都の阿姑姫と結ばれ、有名な金売吉次ら4人の息子をもうけたと。
やはり、奥州に入ると源義経に係わる史跡が多くなってくる。関西にいると余り知らないことも歩いていると知識として得られるのは嬉しいことだ。
道なりに進むと左に「仲興寺」が建ち、境内には大きな「馬頭観音碑」とたくさんの「お地蔵様」が祀られている 横に安永3年、水鳥図を描いた藤原宗興卿がこの宿場で倒れ亡くなる時に詠んだ歌
「とても身の旅路に消えば塩釜の浦のあたりの煙ともなれ」の歌碑が立っている。
「仲興寺」の手前の細い道を左折して進む。この辺りから「清水町宿」になるようだが、余り宿場の雰囲気は残っていないのは残念だ。 少し進んだ右の家の塀一面に「清水町一里塚跡」と記されている。標識ではない看板の一里塚跡は初めてだが、地元の熱意は嬉しい。

出雲大神宮 石仏群

仲興寺の石碑・石仏

清水町一里塚跡 清水町宿の街並み


道なりに進み「東北自動車道」の跨道橋を渡り、ラブホテルの右の細い道に入って行く。
林の中を通る緩やかな上り坂で両側の緑を楽しみながら進んでいると、現実に戻される。何と「除染工事」の作業をしておられるのだ。10数人の方が、 両側の林を伐採し、両側5m余り地肌が出て、除染した 木や土を袋に詰め、所々に山となって積まれている。原発事故の後遺症は消えることがないのだ。細い旧街道の両側が広くなっているのは異様な光景だ。
この辺りから「共楽公園」となり「忠魂碑入口」や「共楽園記碑入口」の標識がたっており、その先には「クマに注意」の標識もたっているので、 リュックから熊除け鈴を取り出して振りながら進む。

林間の細道 除染工事

除染後の細道

クマに注意の標識


除染作業の人が時々通るので、熊の心配はないようなので一安心だ。少し先に「共楽公園案内図」の案内板が立ち、「伏拝石」の位置を確認するが、 記述はないが左の高台だろうと急な坂を上って行く。
高台に上って行くと「弘法大師堂」が祀られ、その前に「明治天皇伏拝御野立所」碑が立っている。お堂の左奥に「伏拝石」が鎮座する。 横に立つ「拝石」の案内標柱には「むかし、信達平野が湖水であった頃、信夫三山、羽黒山、月山、湯殿山の参 拝は湖水を渡ることができず、ここより伏し拝んだといわれる」と記されている。この辺りが湖になっていたとは驚きだ。
その奥には「羽山嶽の遺群」の案内板が立ち、9種類の石仏石塔群が祀られている。
右奥に展望台があり、これから訪れる福島市が展望できる。まだ遠いようだ。ここで一息入れる(16:00-16:10)

弘法大師堂

伏拝石 羽山嶽の遺群

福島市展望


北国の夕暮れは早く、少し薄暗くなってきた。。今までの長い緩やかなアップダウンの疲れが出て来たのか、足がだるくなってきた。急に坂道を下るスピードが遅 くなる。
「共楽園」の坂道を 下り出口付近左高台に「馬頭観世音碑」が祀られている。 更に急な坂道を下り切ると旧国道4号線に当たり、左折して福島市街に向かう。下り坂で、足の疲れは厳しくなり、スピードは落ちてくる。 直ぐ左に「須川南宮諏訪神社」が鎮座しているを見ながら旧国道をゆっくりと歩んで行く。

馬頭観世音碑

急な坂道

須川南宮諏訪神社


早く今夜のホテルに行かねばと重くなった足にハッバをかけて進む。交通量も激しくなり、黙々と進むと大きな交叉点を迷いながら地下道で渡る。 更に淡々と進むと信夫橋に当たる。
信夫橋には道標があり、近くの福島市立第一中学校に移設されているそうだが、学校らしき建物が分からないので、パスすることにする。 信夫橋は先程渡って来た眼鏡橋の松川橋と同じ石材で造られそうだが、立派な鉄骨の橋に変わっており、広い荒川の向こうには阿武隈川が望まれる。
信夫橋を渡ると右袂に「柳稲荷」が鎮座する。案内板によれば、貞享年間(1684-1688)荒川氾濫で町が流失寸前のときに稲荷の御神体が流れてきて人々を 救ったと。
反対の左袂に「福島城と城下町 江戸口」の案内板が立ち、横には信夫橋の昔の親柱と「奥州街道」碑が立っている。立派な親柱で信夫橋の大きさが 想像できる。「福島宿」に入って来たのだ。

荒川と阿武隈川 信夫橋

柳稲荷

昔の親柱と奥州街道碑


段々と薄暗くなってきたので、疲れ切った足を懸命に運ぶ。少し先に小さな枡形がある所には「福島城と城下町 がぎ形」と記されて案内板が立っている。 さすが福島市、史跡の標識が整っているのは嬉しい。
荒町左に古い建屋が建ち「す枡屋」の案内板が立っている。江戸時代末期から今に残る細工物の老舗で、建物は文久3年(1863)の建立だと。その先右に、 江戸時代創業で、明治天皇東北御巡幸時に和菓子を献上した「駒田屋本舗」の立派な建屋も残っている。
賑やかな市街地に入り、車の往来も多く、辺りは暗くなり史跡の確認は難しくなってきた。通りの左に「藤金旅館」が建っている。計画では、明治元年開業 で木戸孝允や大正時代には竹久夢二も泊まったこの旅館に泊まる予定にしていた。しかし、予約の電話を入れると10月は団体が多いので個人はNGとのことで 予約できなかった。記念に写真を写すが、暗くてピンボケとなる。(恥ずかしいが、記念として掲載する)

福島城と城下町がぎ形の案内板

す枡屋 駒田屋本舗

藤金旅館


その先、広い平和通りは横断歩道がなく、地下道で渡らねばならず、階段は無理なので、エレベーターで向こう側に渡り、その次の筋を右折する。 その角に「福島城と城下町 本陣」の案内板が立ち、ここが本陣跡と確認する。
右折して、次の筋の手前の公園らしき角に「福島城と城下町 米沢口」の案内板が立っている。ここが、「米沢街道」との追分と確認するが、 周辺はビル街で薄暗くて良く分からない。暗くて史跡の探索は無理と考え、早くホテルに行こうと探しながら進む。
ホテルは大浴場があり、出来るだけ旧街道沿いを選択していて、「藤金旅館」がダメだったので、ホテル福島ヒルズとした。やっと見つけてチェックインして 直ぐ大浴場で足腰のケアに励む。マッサージをし、足腰を伸ばし、風呂上りには湿布薬を塗布して夕食に出掛ける。近くに養老乃瀧があったので、ビールで乾杯し、 地元福島の地酒で復興に少し寄与する。気持ち良くなり、ホテルに戻り、夜行バスと紀行の疲れで、ぐっすりと眠る。

福島宿・本陣跡

奥州街道・米沢街道追分

養老乃瀧 地酒で乾杯



前回、5月の紀行では足裏マメの影響で途中リタイアしてしまった。靴下を2枚掃いた影響か問題なく歩けたが、後半は足の疲れで、参ってしまった。 緩やかで長い坂道のアップダウンがボデイブローのように利いて来たようだ。
しかし、旧街道が残り、史跡も点在していて充実した紀行となったのは嬉しい。福島市まで来たので、明日・明後日で県境を越え、宮城県に 突入したいものだと。


[二本松宿~福島宿][福島宿~伊達][伊達~貝田宿]


 




    
広告 無料レンタルサーバー ブログ blog