[貝田宿~白石宿][白石宿~柴田町[柴田町~槻木宿]


○ 「奥州街道・仙台道No3」見聞録(貝田宿~槻木宿)・(距離 38.6km(今回)/ 152.8km(累計)/391.7km(江戸から累計))

  1.「奥州街道・仙台道」(貝田宿~白石宿・13.0km) 2017.03.08. 10:00~15:10 雪後曇り


仙台道マップ
(揺次郎のウォーキング・ライフ
HPより借用)
仙台道(白河~仙台)宿場一覧
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「貝田宿~白石宿・行程MAP」

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見聞ルートに沿って歩行出来ます。

昨年10月、腰痛のため所期の目的を達することなく、福島県・宮城県の県境「貝田宿」までしか進むことができなかった。次回は「仙台宿」まで行き、 「奥州街道・仙台道」踏破を目標に、計画を楽しんでいた。
冬の間は無理をしないで、早春実施を目途に、遠くなるので如何に進むべきかと考えていた所、毎月「万博会」と称し、万博公園の散策+懇親会を楽しんでいる 5人の仲間のひとりが、「奥州街道」紀行に同行したいとの要請があった。
この方・Hさんは、現役時代の上司で、小生より一回り上の85歳だが、毎日の歩行・ゴルフ等々、お歳には見えない元気さだ。同行を承諾したが、小生の 何時もと同じ夜行バスの行程では無理だろうと思い、飛行機で仙台まで行くことを考えていたところ、LCCのPeachが、バレンタイン割引があるとのメルマガが届き、 4000円程て行けることが分かり、相談の上予約し、往復の飛行機の料金が13000円余りに抑えることができた。
歩行距離も無理せず、一日の歩行は20km程度に抑えようとホテル・民宿を予約する。2泊3日では、仙台までは無理なので、最終日は適当な所まで歩き、 列車で仙台に行き、「仙台道」の最終地点「芭蕉の辻」到達を味わってもらい、仙台空港に戻り帰阪する計画にした。道中、無理は禁物と考え、 エスケープ方法も検討する。

関西空港へのルートを検討すると小生はギリギリ、Hさんは余裕があることが分かり、前日にHさん宅に泊めていただくことになり、前日の21時頃、 お邪魔し、ビールで乾杯の後、ぐっすりと眠る。

朝食

Peach・MM131機

3/8、4時過ぎにHさん宅を出発し、阪急・リムジンバスを乗り継いで、関西空港第2ターミナルに着いたのは5時57分と出発まで余裕がある。
朝食を食べ、混雑する 搭乗手続き・荷物検査の後、仙台行のPeachに搭乗する。機内は満席で、その盛況振りが良く分かる。関空はLCCの恩恵が深いのだと。
定刻7時10分にMM131機は関空を出発し、仙台に向かう。3-3列の真ん中・通路側に座っているので、外は見えないが、直ぐにウトウトと眠ってしまう。
8時25分に到着し、初めての仙台空港で不安だったが、急いで空港連絡線の乗車口に向かい、8時38分発の列車に乗ることができた。1台遅れると約1時間の ロスになるので一安心だ。
名取駅で東北本線福島行に乗換えて、前回の最終地点・貝田駅を目指す。仙台空港到着前に、外気は0℃とアナウンスされていた通り、 外気の冷たさは大阪の比ではない位冷たく、曇り空の仙台平野を南下する。 途中の白石駅付近から雪が降り出し、銀世界が広がる。やがて、前回の最終地点・貝田駅に到着する。
10時、身支度を整え、小雪の降る貝田駅を出発する。直ぐに国道4号線に出て、雪に覆われた国道筋を進むと「東京より293km」の標識が立ち、その先に 「宮城県白石市」と書かれた国道4号の標識が立っている。さあ、福島県から宮城県に進むのだと改めて感慨深く見上げる。Hさんのスタートは県境だと 話しながら緩やかな坂道を上る。
少し先のガードレールの外に雪の帽子を被った「縣界」碑が立っている。右側面に「宮城縣」、左側面に「福島縣」と刻まれている。雪の中の石碑は 見落とし易いので注意が必要だ。

貝田駅

「東京より293km」「宮城県白石市」の標識

縣界碑


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

国道の右側に柵に囲われた「下紐の石」が祀られている。案内板には、
「平安時代、和歌の歌枕としても都人に親しまれていた。白石市越河の県堺は古く坂上田村麻呂が関所を置いて以来、下紐の関として歌枕に挙げられて有名になった。
この下紐の石は用明天皇の 皇妃玉世姫がこの石の上でお産の紐を解かれたという伝説が、乳神様と共に伝わっている。藩政時代には路傍にあって「石大仏」と呼ばれていた。
立かえり 又やへだてん こよいさへ 心もとけぬ 下紐の関  左大将公名
現とも 夢とも見えぬ 程ばかり かよはばゆるせ 下紐の関  大中臣能宜朝臣」
と記されている。
雪の国道を上って行くと東北自動車道の高架と左の東北本線に挟まれた草むらの中に「越河番所跡」の白い標識が立っている。分からずに通り過ぎたが、 戻って雪の枝と標識を区別することができた。この辺りに仙台藩の藩境の警護や出入りの監視が行われていたのだろう。正に藩の境目だ。
雪は降り止まず、周りは煙って来た。この辺りから緩やかな下りになり、左に「安産ダルマ石像→」の案内表示が 立ち、少し先の石段の下に「庚申供養碑」等の石塔群が立っている。

下紐の石

越河番所跡

庚申供養碑等の石塔群


雪が舞う国道を下ると左に旧街道があり入って行く。この辺りから「越河(こすごう)宿」になるようで、大きな家が立ち並んでいるが、 雪のためか誰にも出会わない。雪が激しくなってきたので、民家のガレージを借りて、レインウェアを着用し、リックカバーも着けて降雪対策を万全にする。 民家の椿の垣根に雪が積もり、風情のある雪模様を観ながら進む。
少し先の道角に「越河宿」の木の標識が立ち、宿場だと教えてくれるが、本陣等の史跡は残っていないようだ。右下には真っ白な雪原の中を通る 国道4号線の車が見える。

左の旧街道へ

越河宿の街並み 椿と雪

越河宿の標識 雪景色


雪が降り続く「越河宿」を屋根に積もる雪を眺めながら進む。左JR線路の向こうに「定光寺」の道標があるが、パスしてJR沿いの旧街道を進み、その先、 JRのガードくぐって右折する。
反対側のJR沿いの旧街道を進んでいると前から消防自動車が来て、拡声器で「火の用心」と黄色い子供の声が聞こえてくる。近くの幼稚園児が乗って、防火訓練の デモンストレーションだ。その後にも数台の消防自動車が連なり、この地域の防火意識の高さが分かる。子供たちが一生懸命声を張り上げているのは可愛い。
雪が激しい旧街道の横に雪を被った石碑が立っているが、文字が読めない。
吹雪で眼鏡が曇る中を進んでいると左に小道が通じている。これは旧街道だと右に進む。狭い旧街道らしい小道を楽しむと直ぐに広くなり、緩やかな 坂を上って行くと左の平野は雪で何も見えない状態だ。その先に「白鳥神社」の石段があるが、雪が激しいので参拝をパスする。 少し進むと左に「覚永寺」が建っているのを見て、緩やかな坂を下って行くと右にJR越河駅が見える。雪が降るので、休憩する所がなく、踏切を渡って 越河駅に行き、一息入れることにする。(11:15-11:25)

防火訓練 石碑

旧街道の細い道 吹雪

白鳥神社 JR越河駅


空が明るくなり、少し青空も見えるようになって来た。少し道に迷ったが、踏切を渡り、直進した後、突き当たりを左折し、小さな川を渡って進む。 少し先左の草むらに「距仙䑓元標十五里」の道標が立っている。仙台まで15里=60kmを示している。「奥州街道・仙台道」のゴールまで、まだ60kmある のだと気持ちを高める。
雪が止んだ旧街道の左には良く読めないが「金毘羅大権現碑」が立っている。金毘羅さんの範囲も広いのだと認識する。更に進むと右に「馬頭観世音碑」 が立っている。
国道4号線と合流する所にラーメン屋があるので、昼時でもあるので昼食とする。レインウェアを脱いで、ラーメン定食を頼み、一息入れる。(11:50-12:20)

距仙䑓元標十五里の道標

金毘羅大権現碑 馬頭観世音碑

ラーメン定食


昼食を終え、店を出ると薄っすらと青空も見える天候になった。北国の天候は変わり易いものだ。国道4号線を北に向かうと前には青空も見える。

馬牛沼・鯉供養の碑

歩道があるので快調に進んでいると、空は真っ暗に曇りだし、雪が激しく降り出した。左に大きな 「馬牛沼」が見えてきた。案内板の説明を要約すると
9世紀の初め頃、征夷大将軍坂上田村麻呂の馬がこの沼に落ちて死んだので「馬入沼」としたと。
このほかに、沼の中の弧(こ)洲が馬 に似ているので「馬形沼」とした、また、この沼に馬首牛身の異獣が泳ぎ回っていたので「馬牛沼」と名付けたなどの謂れのあるらしい。 馬牛沼では明治30年ごろから鯉の養殖が盛んで、晩秋に行われる「沼乾し(水を抜く)」の行事は秋の風物詩となっていると。

沼の中には「鯉供養」の碑が立ち、対岸は吹雪ではっきりと見えないが、沼の広さが良く分かる。
冬には白鳥が飛来するらしいが、それらしき姿を見ることはできなかった。春には、沼周辺の桜も美しく、近隣の桜見物の観光名所だと。
国道を隔てた反対側に「明治天皇御駐蹕之碑」が立っている。前回もそうだったが、明治天皇の行幸の史跡が方々に残っているのだ。 その先の沼沿いに、大きな自然石の石碑が立っているが、文字ははっきりと読めない。

国道歩き

明治天皇御駐蹕之碑

自然石の石碑


雪が激しくなり、沼沿いの小屋を見付けて、再びレインスーツを着用する。先程以上の吹雪の中、国道4号線を歩き始める。 左にレストランを確認し、予定ではここで昼食にしても良いと考えていたとHさんと話しながら進むと左に「奥州斎川孫太郎餅」の食事処があるが 休みのようで、どちらも休みの可能性があったので、先程のラーメン屋で昼食したのは正解だったと話しながら、吹雪の国道を進む。

東京から300kmの標識

ここで、大失敗を犯してしまった。
本来の旧街道は、少し先から右に入り「斎川宿」に向かうのだが、吹雪で地図も見れず、また国道の標識が298.Xkmを見付けたので、東京から300kmまで頑張ろうと 話しながら国道歩きを続けた。100mも長いと話しながら進み、ふと気付いた所は300kmの手前付近で、戻るには距離・時間もロスになるので、 引き返すことなくこのまま国道を進むことにする。
何処かで右に入る道が無いかと探しながら進むが、国道の下には東北本線が走り、旧街道はその下に当たるため、右折の小道もない。
諦めて歩道のない 国道歩きをするが、トラックが横を通過する時は身体が浮くような衝撃があり、恐ろしい限りだ。
やっと、「東京から300km」の標識に到達したが、300kmも来たのだと云う感動より、道を間違えた後悔の方が強く、残念至極の気持ちだった。
まだ 「奥州街道」の行程は長いので、機会を見付けて今回通過できなかった「斎川宿」の史跡を訪ねたい。「鐙擦坂(あぶみすりさか)」「田村神社」 「斎川宿」等の史跡は探索しなければならないと。 右から本来の旧街道が見え、国道4号線に合流した。「馬牛沼」からこの地点まで、約2.5kmは次の課題としてチャレンジしようと改めて決意する。
国道にも歩道が通り、一安心の気持ちで進むと東北新幹線の高架が見え、左に「馬頭観音石碑」と「距仙䑓元標十六里」の道標が立っている。 昼食前に「距仙䑓元標十五里」の道標を観たので、あそこから一里歩いたのだ。

距仙䑓元標十六里の道標

道祖神社 男根

この道標は、これからも仙台まで続くのだろうと。
新幹線の高架下を抜けると田畑が広がり、左の畑を見ると「ふきのとう」がたくさん頭を出している。宮城にも春の訪れを知らせているような姿に微笑む。
その先左の石段の上に「道祖神社」が鎮座する。本殿の床の下には、道祖神とも云われる見事な 男根が祀られている。今回の紀行で初めて観る道祖神だ。雪も止んだので石段の上でレインウェアを脱いで一息入れる。(13:25-13:30)
東北自動車道の高架下を抜け、少し進むと国道から右に旧街道が通じている。 先達の紀行記によれば、「白石宿」に入る旧街道が所々残っているようだ。左の白石署の先から左の旧街道に入って行く。静かな旧街道は右に 曲がって行き元の道に合流する。更に少し進んだコンビニの先からも左に通じる旧街道が続いている。
少しの間、旧街道を楽しみ、再び合流した後、いよいよ「白石宿」に入って行く。新幹線の白石蔵王駅に通じる道を通過し、次の交叉点を右折する のが旧街道であるが、この角にあった道標が左の白石中学校正門前に移転されているので、探索に行く。校門の前まで行くが見つからず、ベンチで休憩する Hさんを置いて探し回ると中学校に入る道角に「東京街道道標」が立っている。何処かで「奥州街道」を「東京街道」と書かれた道標があったことを 想い出す。

石塀の旧街道

コンビニから左へ 旧街道

東京街道道標


計画では、ここから「白石城」を見学し、「白石宿」を巡って、白石川を渡って少し先まで進んだ後、バスで白石駅前のホテルに戻ることにしていたが、 Hさんの疲労度からホテルに向かうことに変更する。
先程の交叉点に戻り、「白石宿」を進む。白石の名物として「白石温麺(うーめん)」の店が点在している。その一つに入り尋ねると「素麺のようだが、 油分はなく、長さは1/3程で、胃腸に優しい麺だと。孝行息子が、病弱の母に食べさせて快復させたそうだ。」 この店の食事時間を過ぎていたので食べられなかったが、魅力ある料理だと。

当信寺

枡形になった次の交叉点を左折すると右に「当信寺」が建っている。
当信寺の創建は慶長2年(1597)に開山され、関ヶ原の戦い後、 白石城には伊達家の重臣である片倉小十郎が配され、白石城の城下町が整備される。
慶長20年(1615)の大坂夏の陣の際、真田幸村から子供(阿梅、阿菖蒲、おかね、大八)が片倉家に預けられ、その後、 阿梅は片倉重長の後妻となり、当信寺が菩提寺となりました。
当信寺の山門は白石城の二の丸大手門の2の門だったもので、境内には白石老人の墓や真田阿梅・大八の墓があります。
大坂方の名将、真田幸村は 自分の最期を覚悟し、敵将片倉重長に、阿梅、大八を託した。重長は彼らを白石城の二の丸で密かに教養し、 阿梅は重長の後妻に、大八は片倉四郎兵衛守信と名のり伊達家に召抱えられた。(宮城県の町並みと歴史建築HPより抜粋)

境内に入り、真田幸村の遺児のお墓を探すと道標もあり、簡単に分かる。NHKの大河ドラマ「真田丸」でも描かれていた遺児の墓が、伊達家の重臣に預け られ、ここに祀られているのだと感慨深くなる。Hさんが屋根の上に飾られている「六文銭」を見付け、東北の地にも真田印が飾られているのは嬉しい。

白石温麺

真田阿梅・大八の墓

六文銭


「白石宿」の街並みを進むが史跡は残っていないようで、白石駅方向に向かう。曲がり角には「すまいる広場」があり、奥には立派な「壽丸屋敷」 が建っている。食べ物屋か?
右折して進むと左に「専念寺」が建ち、正面にはJR白石駅が迎えてくれる。その左奥に建つ「パシフィックホテル」に向かい、少し早いが、15時10分に チェックインする。雪の中の歩行は疲れを増し、「斎川宿」を飛ばしたことは残念至極だ。
17時に夕食に出掛けることにし、バスに湯を張って、ゆっくりと身体をマッサージし、疲れを癒す。テレビを見ながら、早朝からの出発、吹雪の紀行の 疲れか、ウトウトする。

壽丸屋敷

専念寺

JR白石駅


17時にホテルで紹介された居酒屋「ささき」に向かう。

乾杯

冷えた温麺

まずは生ビールで乾杯し、お通しが色々ととあり、日本酒で反省会。
親父さん・女将さんも楽しい方で、隣の地元の方とも交流を深める。白石の名所を色々と教えてもらいながら杯を重ねる。地元の方との交流は楽しい。
Hさんの疲れも取れたようで、明日は大丈夫そうだ。
居酒屋でも「白石温麺」が食べられるかと尋ねるとOKなので、仕上げは、名物の「白石温麺」を味わう。冷たい方がお奨めとのことで、冷えた温麺を いただく。短くて歯ごたえがあり、なかなかの口当たり、咽喉越しだ。美味しくいただいてホテルに戻る。
Hさんとの初めての紀行は、早朝出発・吹雪の紀行・行程間違い等、なかなか厳しいものだったが、良く歩いたものだと感心する。明日は、6時30分から の朝食を食べて出発するが、余り無理はしないこととする。本日の歩行歩数は、23000歩だった。


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