(仙台道) [仙台宿~槻木宿]、 (松前道) [仙台宿~吉岡宿][吉岡宿~古川宿]


○ 「奥州街道・仙台道No4①」見聞録(槻木宿~仙台宿)・(距離 26.5km(今回)/ 179.3km(累計)/418.2km(江戸から累計))

  1.「奥州街道・仙台道」(槻木宿~仙台宿・26.5km) 2017.05.23. 10:20~19:20 晴れ時々曇り


仙台道マップ
(揺次郎のウォーキング・ライフ
HPより借用)
仙台道(白河~仙台)宿場一覧
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「槻木宿~仙台宿・行程MAP」

地図の再生ボタン()を押すと
見聞ルートに沿って歩行出来ます。

前回は、85歳の大先輩と雪景色を眺めながら福島県・宮城県の県境から「槻木宿」まで歩き、列車で仙台に向かい「仙台道」の最終地点「芭蕉の辻」を チェックした後「青葉城跡」を見学した。大先輩のパワーを感じながらの紀行は、これからの「日本縦断」への活力をいただいた。
今回は、前回歩けなかった「槻木宿」から「仙台宿」まで歩き、「奥州街道・仙台道」を踏破した後、「芭蕉の辻」から「奥州街道・松前道」のスタートしょうと 計画した。今回は京都~仙台間は夜行バスで往復することにする。

5/22、京都駅八条口・22時15分発のJAMJAMライナーに合わせて、20時過ぎに家を出て、京都に向かう。バス停が駅前に変わり、便利で広くなったのは有難い。 何時ものように、軽く睡眠導入剤を飲み、バス停に向かう。今回は仙台直行のJAMJAMライナーで、バスの前方は3列シートでトイレがあり、後部は4列のゆっくり タイプと初めての車体だ。
3列席は7500円~、4列席は6000円だが、4列席20席は10人で2人席を独り占めでゆっくりできるのは嬉しい。出発すると直ぐに眠りに落ち、 ぐっすりと眠る。バスは北陸自動車道に進み、新潟で磐越自動車道に入り、東北自動車道を通って仙台に向かう。大きな渋滞もなく、スムースに進む。 運転手に何故東名から行かないのかと訪ねると交通量・事故が少ないので、このルートを選んでいるそうだ。
5/23、定刻通り9時30分仙台駅に到着する。朝食場所を探しながら、急いでJR仙台駅に向かうと予定より1本早い9時41分発の列車に飛び乗ることが できた。約20分間の短縮はラッキーだ。

JR槻木駅

逢隈旅館

電車は、今日歩く行程を逆に進んで行くので、車窓から行程をチェックするが、余り分からず、槻木駅に到着し、駅の売店でサンドウィッチと缶コーヒーを買い、 駅のベンチで朝食とする。
10時20分、身支度を整え、曇り空のひんやりとした空気を感じながらスタートする。
槻木駅から直進すると前回Hさんと宿泊した「逢隈旅館」が建っている。
懐かしく挨拶しようと立ち寄るが、応答がないので諦め、角を左折して広くなった旧街道を北に進む。
暑くなりそうだと思いながら、二股は左斜めに進み、広い交叉点を直進すると左に槻木中学校が建ち、やがて国道4号線に合流する。 国道の右側は阿武隈川の堤防になっており、一段下がった左に旧街道が通じている。少し進んだ国道との間に「四日市場一里塚」の案内板が立っている。 一里塚の面影はないが、早々に史跡と出会え、幸先が良いと足取りも軽くなる。
右の国道の標識には、仙台25kmと記されていて、25km歩かねばと気合を入れる。左の田圃には早苗が植えられて、北国の田植えが早いことを教えてくれる。
少し先の民家の横に文字も読めないような小さな「馬頭観音碑」が祀られている。旧街道は国道を渡って阿武隈川と国道の間を進む。少し先、 左の草むらに「西 柴田郡槻木村」「東 名取郡千貫村」と記された道標が立っている。旧街道そのものだ。

四日市場一里塚の案内板

馬頭観音碑 田圃

槻木村・千貫村の道標


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

阿武隈川を渡る水道橋を過ぎると旧街道は阿武隈川から離れて行く。左に火の見櫓が立つ辺りで、地元の方に「阿武隈川舟運時代の問屋(とうや)」の 場所を尋ねると玉崎浄水場の横にある渡邊家がそうだと。

舟運問屋・渡邊家

>阿武隈川

阿武隈川の堤防の下に、立派な「渡邉家」が建っている。広い庭園もあり、阿武隈川が交通の重要な機能を 果たしていた頃、米沢藩、仙台藩の御城米やその他物資の運搬の中継所であったそうで、内陸部の川舟を使った物流拠点として栄えたのだ。
阿武隈川の堤防に上がって見ると、水を湛えた阿武隈川がゆったりと流れている。初めて郡山で見た阿武隈川が、ここまで続いているのだと感慨深く 眺める。考えると「奥州街道・仙台道」は、阿武隈川に着かず離れずに通じているのだと改めて思う次第だ。
旧街道に戻り、少し進んだ右に「八声の橋」碑が立ち、横に小さな「道標」が立っている。道標には「八声の橋跡へ 南西七十三米」 「竹駒神社へ 東北二・三粁」と記されている。「八声の橋」碑によると、第54代仁明天皇の御世の承和9年(842) ) 陸奥守小野篁(おのたかむら)卿が国府鎮護のため都より下る途中、ここ南長谷村の橋に来た時、狐が八回鳴いたので八声(やごえ)橋と呼んだのが 始まりとか。そして岩沼に日本三大稲荷の一つ、「竹駒神社」を創建されたと。(後程訪れる)
旧街道は、道なりに左に曲がって行き、国道4号線の高架下を抜けて進む。常磐線の高架下を抜け、右に東洋ゴムの工場見ながら引き込み線を渡った 左に「東武神社」が鎮座する。地元の氏神様のようで、五穀豊穣・水魔病魔除去を願っている。境内には、「馬頭観音碑」も祀られ、旧街道の 一里塚的な役割も担っていたようだ。
ここで一息入れる。暑くなってきたので、水分補給し塩あめを舐める。(11:50-11:55)

八声の橋碑と道標

東武神社

馬頭観音碑


少し進んだ左に朱色の鳥居が立ち、大きな「馬頭観世音碑」と境内の奥には「聖徳太子堂」が祀られている。聖徳太子がここまで来られたとは思えないが、 これまでも「聖徳太子堂」が祀られていたのを考えるとその信仰心は強いのだ。
旧街道は突き当たって右に曲がり、直ぐ左に曲がる枡形になっている。そろそろ「岩沼宿」に入って行くようだ。
右から来る道が「岩城相馬街道」で、この角は追分となっているようだが、それらしき史跡は見当たらない。
少し先左に「竹駒神社」の参道があるので参拝することにする。参道の先には、立派な鳥居が立ち、きれいに清掃された境内に進む。
境内の左に食事処があるので、丁度昼時なので、昼食にざる蕎麦と稲荷寿司を食べ一息入れる。(12:20-12:35)

馬頭観世音碑と聖徳太子堂

枡形

昼食


「日本三大稲荷」と云われる「竹駒神社」に参拝する。

竹駒神社・拝殿 鳥居

承和9年(842)、小倉百人一首で有名な小野篁(おののたかむら)卿が陸奥守として多賀城に赴任した際、奥州鎮護のため京都伏見稲荷の分霊を 勧請して創建したと伝えられています。
伊達政宗公の曾祖父である稙宗公や、仙台藩二代藩主・忠宗公、五代藩主・吉村公など、伊達家歴代から 手厚い庇護を受けました。日本三稲荷のひとつと言われ、産業開発、五穀豊穣、商売繁昌などの御神徳があることで知られています。 例年、全国各地から約160万人の参詣者が訪れます。(岩沼市観光協会HPより)

静かで落ち着いた境内の先には、立派な「随身門(楼門)」が迎えてくれる。江戸時代後期の彫刻のある門をくぐって中に向かうと丸みの屋根の「唐門」があり、 「拝殿」に向かい、旅の安全を願って参拝する。
境内の片隅には、句碑や歌碑が立っている。その一つ仙台の文人・土井晩翠の「晩翠歌碑」には 「竹駒の神のみやもうで来るて綻びそめし初桜見る」と 記されている。
日本三大稲荷とは「伏見稲荷」「豊川稲荷」は良く知られている「竹駒神社」は知らなかった。「笠間稲荷」「祐徳稲荷」等々三大と名乗っている神社 多いようだ。ある人が云っていた「三大○○は、No1以外は何処でも云える」と。しかし、「竹駒神社」は立派な神社だ。

昼食

随身門(楼門)

唐門 晩翠歌碑


武隈の松

「竹駒神社」の裏側を行くと一本の松が二股に分かれ二本の松のように見えることから「二木(ふたき)の松」と呼ばれている「武隈の松」が あるそうなので、裏側から行けるかと参拝の方に尋ねると横からの道から行けると。駐車場を抜けて進むと広い道に出て、左を見ると高く松が茂っている。
「二木の松」とも呼ばれ、陸奥にある歌枕の中でも詠まれていた詩歌の多さでは屈指の松。源氏物語の中にも登場しています。
 “桜より松は二木を三月越し”と詠んだのは、俳聖松尾芭蕉。元禄2年(1689)に この地を訪れ、江戸から三月にかけて旅し、ようやくこの松を見ることができたとの感慨を詠んだと言われています。

芭蕉句碑

平成26年3月には、往時の威風を現在に伝える貴重な景観が評価され国名勝に指定されました (岩沼市観光協会HPより)

松の方向に進むと小さな公園になっており、「武隈の松」が堂々とそびえている。確かに松は、根元から幹が二本に分かれてそびえているのが確認できる。
小さな公園はきれいに整備されており、片隅に「芭蕉句碑」が建っている。昔から訪れた有名な歌人・俳人の代表として句碑が設けられているのだ。
旧街道に戻り「岩沼宿」の街並みを楽しみながら進むと右に「高橋醤油屋」の蔵造りの建物が建っている。その先左に長屋のあり、その中央に長屋門がある 所が「南町検断屋敷跡」で治安、交通運輸の要だったと。また、この「南町検断屋敷」は「岩沼宿本陣」も兼ねていたそうだ。
その先の岩沼小学校の前に小さな「街道説明図」と案内板が立っている。岩沼は街道が交叉する交通の要所だったことが分かる。「岩沼宿」は古い家屋が 残っており、興味深く眺めながらすすむと左に文政4年創業の看板が架かった奈良漬屋「相傳商店」も開業しておられる。

高橋醤油屋

南町検断屋敷跡

街道説明図 相傳商店


「岩沼宿」を抜けると国道4号線に合流すると道路標識は「東京から336km」となっている。その先、国道から左に離れて進むと東北本線 「奥州街道(本郷)踏切」で渡ると田園風景が広がる。道の左に石碑が立っているか、文字も読めないので分からない。
その先、川内沢川の手前左に「笠島塚」が立っている。碑の正面には「道祖神路(どうそじんろ)」と記され、裏にも文字が記されているが読めない。 横の木碑には「芭蕉句碑」と記され「笠島はいづこ皐月のぬかり道 はせを(芭蕉)」と記されている。 その横に、小さな道標が立ち、「笠嶋道」と記されている。
少し進んだ左に「館腰神社」が鎮座する。ここの燈籠を支えているのは犬でもなく狐でもなく鬼なのだ。面白い。石段に腰を降ろして一息つく。 (14:15-14:25)

奥州街道(本郷)踏切

笠島塚

館腰神社 鬼の台座


旧街道の左には古墳があるようだが、立ち寄ることはせずに進むことにする。

石碑・石塔群

>東北本線の地下道

この辺りは飯野坂と呼ばれるらしく、左側の山沿いに進む気持ち良い旧街道だ。少し先左に「石碑・石塔」が祀られている「薬師堂」が石段の上に 鎮座している。石段が長そうなのでパスする。
その先で東北本線に当たるが踏切はなく、少し戸惑ったが地下道が通じているようなので、地下道を抜けて進む。その先、仙台空港線の高架下を抜けて 「増田宿」に入って行く。
「増田宿」はJR名取駅の一筋東が旧街道で、新しい街になり、昔の面影は残っていない。増田交叉点を過ぎた左庄司家の庭に「明治天皇増田御膳水」の 碑が立っているのを門の外からパチリと。
少し先左の小公園に樹齢600年の「衣笠の松」が植わっている。横に張った枝ぶりは見事だ。横には「明治天皇巡幸の御小休所」の碑が立っている。 その先左に「増田神社」が鎮座し、拡幅されて広くなった旧街道を進むと車道側に「村田道」の道標が立っている。

明治天皇増田御膳水の碑

衣笠の松 増田神社

増田宿の街並み 村田道


拡幅された旧街道には史跡もなく、単調な歩行が続く。

名取川

芭蕉の句

「中田宿」がある辺りも何もなく、左にJR南仙台駅を見て通り過ぎざるを得ない。
旧街道は、広い名取川を名取橋で渡る。夕暮れに近付き、川面に夕日が眩しく反射している。そろそろ急がなくてはならないと気を引き締める。
名取川を渡った堤防の左外側に「芭蕉の句」があやめの絵と俳句が壁面に描かれている。
「名取川を渡て仙台に入 あやめふく日也 芭蕉」と絵入りなので新鮮だ。
新都市開発計画で拡幅された旧街道を進むと右に立派な旧家が建ち、ほっとする程単調な道だ。やがて、JR太子堂駅が見え、JRの高架下を抜けて 反対側に進む。
その先JR長町駅辺りが「仙台宿」の一つ前の「長町宿」だが、ビルが立ち並ぶビジネス街となっていて、史跡は見当たらない。広瀬川が近付いた左に 「十八夜観世音堂」が鎮座している。やっと史跡を見付けた感じだ。

旧家

JR長町駅

十八夜観世音堂


広瀬川を渡る手前の交叉点左に二基の道標が立っている。「多賀神社道案内と「門前道」の道標だ。
広瀬川の堤防の上に「橋姫明神」の小さな祠が建ち、説明石碑には、橋姫を供養するために、木場で働く人々が、文政6年(1823)に建立されたと。 橋姫伝説とは、ここに橋を架けようとするも広瀬川の氾濫で架けられず、竜神様の怒りと信じられ、その時、長者の娘が志願して人柱となったと。 ここで一息入れ、仙台突入の英気を養う。(17:30-17:35)
広くてゆったりと流れる広瀬川を渡る。いよいよ仙台の中心に向かうのだと意気を高める。

多賀神社道案と門前道の道標

橋姫明神

広瀬川


広瀬川を渡り、最終地・「芭蕉の辻」に向かうが、市街地の旧街道は分かり難く、慎重に歩もうと心掛ける。
広瀬川を渡り、道なりに左に進み、河原町に入り、七十七銀行河原町支店の角を右折し、直ぐ左折して南材木町小学校にぶつかる。 その先を右折しって左折。その先を右折して南材木町の通りに入る。迷路のような街並みの中には、立派な旧家もあり、「金刀比羅神社」の 鳥居も確認できる。
その先、左折・右折の枡形になっており、少し先には「穀町」と記された石標が立っている。仙台の街角には、町の名前を記した標識が立っているのは なかなかのものだ。

仙台市街の旧家

金刀比羅神社

穀町の標識 枡形


真っ直ぐに進むと「南鍛冶町」「三百人町」の標識も立っている。更に直進すると「三宝神社」が鎮座し、左折する。少し賑やかになって来た街並みを 進むと左に「毘沙門天王」の石の鳥居が立っている。
少し進んだ左に創業嘉永二年(1849)の「森民酒造本家」が建ち、横から見ると奥行きが広い造り酒屋なのが分かる。賑やかな街中で、「東七番丁」のバス停を 見付けた。記憶が正確ではないが、学生時代東北大学に行った中高校の友人M君を訪ねて、彼の下宿で一週間程逗留し、その後、青森・竜飛岬から日本海側を 大阪まで駅の待合室で泊まったりしながら旅行した。その彼の下宿の住所が「東七番丁」だったと思い、彼に送ろうとその周辺の写真を写す。
国道4号線の交叉点の手前左の広場に軍人の顕彰碑が立っているのを確認し、国道を渡りると道幅が狭くなり「清水小路」の標識が立っている。

三宝神社

森民酒造本家

東七番丁のバス停 清水小路」の標識


日が暮れて暗くなってきた道を進み、右折して少し広くなった通りを進む。

東北大学正門

東北大学構内

ここで、大きな間違いを犯してしまう。
この通りを左折するのだが、少し 手前で左折してしまい、東北大学の正門に行ってしまった。
学生らしき人に、国分町通りを尋ねると構内を行けば近道だと。この辺りの史跡はないだろうと、間違いついでに東北大学探訪も兼ねて大学構内に 入って行く。犬の散歩・ジョギングする人も構内には居て、なかなか開放的だ。
もう暗くなった東北大学の構内を散策しながら、M君と来た時は、駐留軍のカマボコ型の校舎があったことを想い出しながら、立派な校舎や研究所の 間を縫って反対側の広い道に出る。
国分町通りを確認し、真っ直ぐ北上すると青葉通りの賑やかな道に当たり、横断して次の道角左に「芭蕉の辻」の碑が立っている。前回、大先輩の Hさんと訪れているが「奥州街道・仙台道」踏破した喜びは比較にならない。
19時10分、無事「奥州街道・仙台道」を踏破した。!!

芭蕉の辻の碑 (ピンボケ)

薄暗くなった「芭蕉の辻」で写真を写し、碑に記された文字を読む。松尾芭蕉に関係すると思っていたが、違うことが分かった。
「芭蕉の辻」碑によると、名前の由来には諸説あるようで、①芭蕉樹が植えていたとか、②繁華な場所が訛ったとか、③伊達政宗が 重用した芭蕉という名の虚無僧が一時住居を構えていたとの説があるが、定かではない。

青葉通り

正式には「札の辻」と呼ばれ、仙台藩の威信を示す為、この四つ角総てに城郭風の高楼を備えた同じ形状の建物が 造られ、建物の一階部分は普通の商家の造りとなっていたと。
横に立つ「道標」は道路元標で、「南江戸日本橋迄 六十九次 九十三里 奥州街道」「北 津軽三厩迄 四十五次  百七里二十二丁 奥道中」と記されている。
「奥州街道」は江戸から約366km、「松前道」の最終地点・津軽半島まで423kmあるのだと。

ホヤ付の刺身

暗くなったので、細部は明朝確認することにし、広瀬通りにある「ホテルグランテラス仙台国分寺」に向かい、チェックインするとアップグレードでツインの部屋に 通される。ラッキー!!
早速、バスに浸かり、足腰をマッサージしながら疲れを癒す。道を間違えたりしながらの行程だったので、思ったより時間もかかり、陽射しの強さで 疲れも増した。しかし、到達した感激は何よりだ。
「日光街道」のスタートを一緒に歩いたT君が、仙台に転勤で住んでいたので、国分町周辺の居酒屋を教えてもらっていたが、探すのも疲れたので、 ホテル推奨の隣のビルの居酒屋「わん」に行く。 カウンターに座り、板長さんと話しながら、刺身とホテルサービスのタン塩を注文し、ビールで「奥州街道・仙台道」踏破の乾杯。
刺身には、「ホヤ」も付いていて、忘れていた味を楽しみながら話していると営業エリア長も来られ「奥州街道」を歩き、竜飛岬まで向かうのだと話し が弾み、推奨される伯楽星・日高見の冷酒をゆっくりと味わい楽しむ。
ホテルに戻り、踏破した充実感と心地良い疲れと酔いでぐっすり眠る。

「白河宿」からの「奥州街道・仙台道」は、4回・10日間で。踏破した。その距離は、179.3kmで、2015年5月に日本橋を出発してから2年間で、 「日光街道・奥州街道」を進み、累計は418.2kmとなった。良く歩いたものだと感心する。まだ津軽半島・竜飛岬までは400km以上あるのだ。 江戸から津軽までの中間地点を踏破したことに感謝し、次に繋げていきたいものだ。 本日の歩行歩数は、51700歩だった。


(仙台道) [仙台宿~槻木宿]、 (松前道) [仙台宿~吉岡宿][吉岡宿~古川宿]


 





    
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