○ 「奥州街道・松前道No1」見聞録(仙台宿~古川宿)・(距離 34.6km/ 34.6km/512.8km) 1.「奥州街道・松前道」(仙台宿~吉岡宿・25.4km) 2017.05.24. 7:15~17:30 曇り後雨
昨日、「奥州街道・仙台道」を「芭蕉の辻」まで踏破した。江戸から幕府直轄の「奥州街道」を郡山まで歩き、藩管轄の「奥州街道・仙台道」を 歩いたのだ。江戸から418km、薩摩から2217kmの距離を進み、杜の都・仙台まで進んだ。 次は、藩管轄の「奥州街道・松前道」別名「奥道中」を津軽半島まで約420kmを進んで「旧街道・日本縦断」を達成すべく、その第一歩を踏み出す。 冬の東北は厳しいので、何時の日に到達するか楽しみだ。 心地良い疲れと酔いでぐっすりと眠り、5時前に目が覚める。カーテンを開けると北国の夜明けは早く、明るくなっている。
外気は冷たく、広瀬通りの車も流れていない。横の国分町通りも夜の喧騒はなくなり静かなものだ。 緑豊かな広瀬通りを渡ってホテルグランテラス仙台国分町の立派な建物も写しておく。 「芭蕉の辻」付近は誰も居ない静かな空間が広がる。明るい所で写真を写し、道標の側面を確認する。 「奥州街道・松前道」は「奥道中」と呼ばれて いることが記されている。さあ、この「奥道中」を津軽半島「三厩(みんまや)宿」まで「四十五次 百七里二十二丁」約423kmを進むのだ。 そして、竜飛岬から北海道を眺め、薩摩~長門~京~江戸~白河~仙台~津軽の「旧街道・日本縦断」踏破に向けいよいよ出発するのだと心新たに 決意する。 ホテルに戻る途中、歯科医師会の前に「歯の塚」が立っている。歯科医師会らしい碑だ。
ホテルに戻り、天気予報を観ると午後から雨が降りそうだと。雨具の用意も出し易くリュックに詰めて、身支度を整える。
ただ、午後から雨模様なので、寄り道を少なくして進もうと。 7時15分、「奥道中」をスタートする。 夜は仙台一の繁華街である国分町が旧街道で、昨夜の雰囲気が残る道を北に向かう。 その先、定禅寺通りの街路樹は見事で、中央の遊歩道を覆うように茂っている。さすが杜の都の風情を味わいながら横断する。仙台の東西に通る青葉・ 広瀬・定禅寺通りの街路樹は本当に素晴らしい。 道が狭くなり、通勤の車で歩き難い。左に店のシャッターに古風な絵が描かれた「元祖仙台駄菓子・熊谷屋」の旧家が建っている。「創業元禄八年(1695年)」 と記されている。古い店も残っているのだ。 その先左に「熊野神社」が鎮座しているのを確認して真っ直ぐに進む。
突き当たりに「青葉神社」が鎮座する。
「青葉神社」の大鳥居の前まで行き、石段を見上げると結構高そうだ。先は長いのと午後からの雨を心配し、本殿に参拝することをパスして、鳥居の 前から礼拝する。 ここを右折して旧街道は続くが、左は小高い山が続いている。その先左に、伊達家4代目政依の菩提寺「東昌寺」の長い石段があり、 その横には「地蔵堂」が祀られている。 その先左にも「光明寺」の落ち着いた石段が見られる。この辺りの神社・仏閣は山の上にあるので、参拝はパスするが「光明寺」には、「支倉常長の墓」と 案内人「ソテロの碑」があるそうだ。 その横には「鹿島神社」鎮座し、入口にはたくさんの石塔・石仏が祀られている。大きな「観世音」の石碑が目立つが、石段が高そうなので、ここも 本殿への参拝はパスして、石段に座り、東北大学在学中に訪れたM君の携帯に、仙台に来ていること、昨日昔の住所を見付けたこと、東北大学の構内に 迷い込んだこと等、報告する。彼は、奥吉野で「東吉野山荘の造園」に携わっていることで、その創作意欲に拍手する。ここで一息入れる。 (8:00-8:05)
旧街道は仙山線の踏切を渡り、緩やかな坂を上って行くと左に「奥州街道堤町」と記された石碑が立っている。ここでは「奥道中」ではなく「奥州街道」 なのだと思いながら上る。左高台に「日浄寺」があるのを確認し進む。 坂を下る左に「佐大商店」の古い建屋が建っており、その手前を左に入って行くと「堤焼の登り窯」がでんと設置されている。この辺りの地名である 堤焼が焼かれている窯元のようだ。 少し進んだ左に「堤町まちかど博物館」と記された案内板が立ち、「御仲下改所跡(おすあいどころあと)」の説明が記されている。 「御仲下改所」とは、仙台藩の城下に持ち込まれる商品から税金を取る番所で東西南北にあり、ここは北の改所だったと。少し進むと国道4号線と 合流する。
国道歩きとなるが、道路も広く程もあるので苦痛ではない。
国道を「仙台文学館」を右に見て進むと、旧街道は北根歩道橋の所から、右斜めに入って行く。 築道川を左に見ながら並行して進むと左の黒松南入口信号で再び国道4号線に合流する。拡幅された国道の横に、旧街道が残っていたのだ。 雨がポツポツ降って来たので、一息入れる。少しの間、旧街道楽しめたのは幸いだ。(9:05-9:10) 再び、国道歩きが始まる。やはり旧街道の雰囲気が良いと思いながら進むと虹の丘入口信号から左に旧街道が並行に通じている。旧街道は、 日向坂の坂道を上って行くと国道4号線を見下ろす高台を進むことになる。 「仙台藩七北田刑場跡」があるはずだと探しながら結構進むと左に「仙台藩七北田刑場跡」があり、地蔵尊や墓石が祀られている。先程の「青笹不動尊」は ここへ送られる囚人に末期の水を与えたのだと思い出す。 すぐ先の階段を国道に下り、国道から右の細い道に進むと地下鉄八乙女駅の高架下に至り、先に進む。
降りそうだった雨も降らず、七北田川を渡って「七北田宿」に入って行く。
少し先の左に「二柱神社」が鎮座し、赤い幟が立っている。更に進むと広い道路を横切り、市名坂の緩やかな上り坂を上って行く。 交叉点の角にコンビニがあったので、用を足し、冷たい飲み物で咽喉を潤し、一息入れる。(10:10-10:15) 雨も小降りになった「七北田宿」を進むと古い家屋が建っているので宿場の名残を感じるが、本陣等の史跡は残っていないようだ。 少し先左の白壁の櫻井家屋敷の 庭に「明治天皇御駐輦址碑」が立っている。先程、明治天皇の史跡がこれからもあるだろうかと思っていたのが、すぐ見付けたのだ。 「七北田宿」には古い屋敷はあるが、史跡は見当たらず残念に思いながら進むと左に「浄満寺」が建っている。
旧街道は、この先の二股を左に進む。 ここで、大きなミスを犯してしまう。多分、「薩摩街道」紀行時の「南関宿」で道に迷った時と同じ位のミスだ。本来なら、もう少し先の二股を左に進む のだが、何を勘違いしたのか手前を左折して進んでしまったのだ。 間違ったと思っていないので、緩やかな坂道を上り、新興住宅街を進むと国道4号線に合流すると小雨の中快調に進む。合流までの距離が少し長いかと 懸念はしたが、前に広い道が見えたので、国道だと。 しかし、車の往来が少なく、国道ではないと思い、ヤクルトレディーに尋ねると国道は反対方向だと。 交叉点の交番で国道への道筋を尋ね、坂道をアップダウンしながら進むが分からず、高校生に尋ねて、やっとのことで国道4号線に合流した。 約30分余りのロスタイムだったが、目的地点に到達しホッとする。その間には、大きな史跡もないため、通常通り歩いたことにする。これからの行程でも、 注意しなければと思った次第だ。 泉消防署横のコンビニで冷たいコーヒーを買って一息入れる。無駄な時間を潰したものだと。(11:15-11:25) 気分新たに、ロスタイムを取り戻そうと国道を進む。左側に旧国道が並行に通じているので、その道を進み、トンネルで国道を抜け、今度は右側の旧街道を進む。 東北自動車道・泉ICへの道路の下を2度抜けて、国道4号線に合流する。 その先、東北自動車道の高架下を抜け、そろそろ昼食を食べねばと国道沿いのラーメン屋に入って昼食とする。道を間違えて、大きなロスになったが、 後半戦に備えて腹ごしらえだ。(11:50-12:15)
昼食を終え、外に出ると本格的な雨になっている。軒先でレインウェアを出し、上下共に完全武装する。
右の山裾に案内板が見えたので行くと「大清水石盥(せっかん)」の案内板で、横には、水は 湛えていないが「大清水石盥」が置かれている。 案内板によると、ここには1960年頃まで四季を通じ、冷たい水が湧き出し、街道を歩く旅人の心身を 癒していたと。 伝える所によれば、新妻豊前と云う武士が病気で倒れた家臣の咽喉を潤すために、 持っていた槍の先で岩を掘ったところ冷水が湧き出たといわれている。 また、伊達吉村公が狩の途中でこの清水をしばしば利用したと。水が流れていれば、 汗を拭うにと思いながら先に進む。 雨の中の国道歩きは、大型トラックが通る時の水しぶきとの戦いでもある。傘を車道側に傾け、防御するも掛ってしまう。 更に国道を進むと右のトヨタカローラの先に右に入って行く道が旧街道だ。国道から離れて緩やかな坂を上ると小さな公園もあり、左下に国道を見下ろしながら 気持ち良く進む。やがて、下りになり国道と合流し、反対側に渡ると左の川沿いに草道の旧街道が残っている。久し振りの地道・草道を楽しみながら 北に向かう。 やがて、旧街道は国道に合流し、しばらく行くと左に少しの間だけ旧街道が並行していて、再び国道に合流する。ウネウネと連なる旧街道の真ん中に、 国道が建設されたのだろうと思いながら歩を進める。
国道歩きは、富谷町一枚沖信号から、右斜め前方の旧街道に入って行く。 旧街道に入った所の石垣に「富谷宿」の案内板が架けられている。いよいよ「富谷宿」だと、雨の中を進むと直ぐ右の高台に「八雲神社」が鎮座する。 天保大飢饉のころ疫病がはやったので、槻木から勧請したと案内板が示している。本殿までは行かなかったが、入口近くに「馬○神」と記された 大きな碑が立っているが、文字は分からない。 旧街道は、旧家を見ながら「熊野神社」に当たり、右折して進むが、雨が激しくなったので、神社なのに鐘楼がある屋根の下で雨宿りを兼ね、 一息入れる。境内には、先程と同じ「馬○神」の碑が立っている。(14:15-14:25)
激しくなった雨の中、「富谷宿」の風情ある街並みを眺めながら進む。霧に霞む様は、余計に風情を感じさせる。 右に細い路地があり、木製の行燈風の道標が立ち「恋路の坂」と記されている。ここは、与謝野晶子に師事した歌人原阿佐緒と相対性理論を日本に 紹介した理論物理学者石原純が、ひと目を避けて通った小道から付けられたと。当時の「アララギ派」を揺るがす事件になったと。 その向かいには「奥州街道富谷新町八景 中宿」と記された立派なお屋敷が建っている。風格のある街並みが続く。
その先左に「本陣跡」の標識が立ち、立派な「内ヶ﨑家」の屋敷が迎えてくれる。
家業は寛文元年(1661)、2代目作右衛門が創業した内ヶ崎酒造店で、今も営業している。(案内板より) その先左に、大きな杉玉を吊るした「内ヶ崎酒造店」が建っている。記念に「宮城の地酒鳳陽」を買おうかとも思ったが、これからの道中を 考えると荷物になるので断念する。
ガラス戸越しに、参勤交代で通った諸大名の宿札のレプリカが並べられている。 各藩が宿泊していることをこの宿札で、PRしていたのだろう。これだけの数をそろえたのを観るのは初めてで、松前藩、南部藩等の宿札を 興味深くガラス戸越しに眺める。 「富谷宿」は昔の風情を忠実に残しているのは嬉しいし、行政の努力には大拍手だ。これからも継続して欲しいものだ。 その先右に「脇本陣・名望家気仙屋」が建っている。明治9年と14年の明治天皇東北北海道行幸の時の御小休の場所だったと。旧街道沿いの古い建物を 眺めながら進むと突き当たりに「内ヶ﨑家別邸庭園」の立派な建屋が建っている。この建物の裏には、 立派な回遊式庭園が造られていると。 激しく降る雨の中、ここを左折して西川に架かる御所橋を渡って二股を左に進むと広い道に突き当たる。 小学生の集団下校と出会い、こんにちわの大合唱を聞くと、地方の良さを感じる。何処から、何処へ行くのとの問いに答えるのも大変だ。少し進んた 左の高台に「八雲神社」が鎮座する。「富谷宿」の入口と出口に祀られているのだ。疫病除けの神社だそうだ。
広い道から左に曲がって行くのが旧街道で、車の往来もない道を進む。先程の道を間違った例もあるので、通りかかった方に、この先に大きな池があり、 国道4号線に合流するかと尋ねると大丈夫だと。安心して、少し小雨になった旧街道を快調に進む。 左に大きな池を観て進むと国道と接近し、再び離れて行く。その先左に「太子堂跡」の祠が祀られている。祠の中に「聖徳太子」と 記された石塔が安置され、前に「いぼ取り太子堂」の案内板が立っている。案内板によれば、供えてある小石でいぼを擦ればたちどころにいぼが消え、 治った人は石を二倍にして返す習慣があると。 その先、右からの広い道に合流し、川を渡って国道4号線に合流する。国道歩きをするが、歩道も広く水を浴びる恐れもないのは助かる。周辺の田圃は 田植えが終わり、薄緑の早苗の波が続いている。気持ち良い風景だ。 志戸田バス停の下に道があるので下りると「三ヶ森遺跡」の案内板があり、縄文時代・平安時代・中世・近世にかけての複合遺跡あるそうだ。
吉田川を渡って大和町に入る。小雨の降る国道歩きを続けると道下バス停の先右の焼肉屋の前に、立派な「一里塚」が残っている。 塚には松の木も植えられており、久々の「吉岡一里塚跡」だ。 案内板によると、一本杉という愛称で親しまれていたが落雷等で損傷していたのを、国道拡幅工事にあたり移設整備したものだと。
いよいよ、本日最後の宿場「吉岡宿」に近付いた。国道を進み、吉岡吉田町交叉点を左折して、「吉岡宿」に入って行く。旧街道の街並みには、 「吉岡宿」の幟が掛けられ宿場町の雰囲気が感じられる。右に「九品寺」が建ち、門前に石仏・石碑がたくさん祀られている。その一つが、道標を 兼ねているものだそうだが、どれか分からなかった。 その先の店屋のシャッターには「ようこそ 吉岡宿へ」と描かれている。街の熱気を感じるアピールだ。その先には「龍泉院]が建っている。 石畳の奥に山門があるので、パスして次に進む。
少し進むと突き当たりになり、右に向かう。枡形になっており、直ぐ左折して「吉岡宿」の上町に進んで行く。 旧街道には、古い酒屋が建ち、一瞬奥行きがあるお茶屋と思う程、上手く描かれた「なべや」が目に入る。「吉岡宿」は絵を描くのが上手く、昔の景観を 残しているのには驚く。その先にも古い趣のある建屋が残っている。
雨がまだ降り止まず、薄暗くなった旧街道を進むと左に「上州屋」の立派な板塀と門が建っている。ここにも旧家が残っているのを確認し、 その先左折して 下町に入って行く。 左に「創業元禄八年 早坂薬局」と記された薬局が建っている。その先に、木造の古い家が建ち、板塀の前に「早坂屋跡」の標識が 立ち、昔の「酒類醸造所」跡だと示している。 思ったより長い「吉岡宿」の旧街道を進むと石塀のモダンな家も建っている。
旧街道の雰囲気を楽しみながら、真っ直ぐな道を進むと三叉路があり、その右奥の角に「奥州街道 出羽海道中山越え」と記された「追分碑」と 案内板が立っている。案内板には、街道の絵図と奥州街道の説明が記されている。直進すれば、「出羽海道」で山形に通じ、右折すると三厩まで 通じていると示している。 「追分碑」を右折して緩やかな坂道を下って行く。左に大きな池があり、廻った端から石段が下に続いている。これが旧街道で、石段を滑りながら 下りると右に本日の宿泊地・ホテル新ばしが建っている。 石段を下りる時、写真を写すがピンボケだった。石段を下り切ると国道4号線に当たり、ホテルに向かい、ここで本日の紀行を終える。
17時30分、長かった紀行を終え、ホテル新ばしにチェックインする。
部屋に入り、レインウェア等を乾かすべくスペースを確保しながら、バスに入り、足腰をマッサージする。汗をかいているが、身体が冷えているのが分かる。 近くに食堂もないようなので、今回は二食付きとしたので、一息入れて夕食とする。ビールで乾杯し、ゆっくりと食事を楽しむが、一人ぼっちの食事は 寂しい。 部屋に戻り、明日の準備をする。明日の行程は、大衡(おおひら)村を通過して古川駅に向かうのだが、大衡村の旧街道が残っていないので、藪漕ぎも 覚悟しなければならない。明日も雨が降りそうなので、大変だと覚悟する。 心地良い疲れと酔いで直ぐ眠ってしまう。本日の歩行歩数は、49900歩だった。
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