○ 「奥州街道・松前道No2.」見聞録(古川宿~一関宿)・(距離 54.0km/ 98.6km/566.8km) 1.「奥州街道・松前道」(古川宿~築舘宿・23.3km) 2017.10.17. 10:10~17:45 晴れ
前回は、「仙台道」を仙台の「芭蕉の辻」まで踏破し、「松前道」の第一歩をスタートした。 「松前道」の二回目は、宮城県を踏破し、岩手県に突入したいと計画する。「古川宿」から「築舘宿」の間は、栗原市の行政・地元の方のご努力で、 旧街道が復元され、昔の趣きを残す地道・草道が残っているそうなので楽しみだ。 宮城・岩手県境にも旧街道が復元されているようで、今までの国道・県道歩きから解放され、江戸時代の雰囲気を体感したいものだ。 10/16、前回利用した京都駅八条口・22時15分発のJAMJAMライナーに乗ることにする。20時過ぎに家を出て、京都に向かい、 何時ものように、軽く睡眠導入剤を飲み、バス停に向かう。JAMJAMライナーは、バスの前方は3列シートでトイレがあり、後部は4列のゆっくり タイプの前回と同じ車体だ。 3列席は7500円~、4列席は6000円だが、4列席20席は8人位で、2人席を独り占めでゆっくりできるのは嬉しい。
最終休憩地・国見SAで 熱い「きのこ汁」とおにぎりを朝食とする。「きのこ汁」がお腹に沁みて、が美味しい。 道路工事での渋滞があり、定刻より少し遅れて7時40分に仙台駅に到着し、東口から西口に急いで、10時発・古川行の高速バスに乗込む。 高速バスは前回歩いた行程に沿って進むが、何処が「奥州街道」なのか分からない。前回の最終地点に近い十日町バス停で下車し、暖かい陽射しを 浴びながら、旧街道の出発点に向かう。 10/17、11時10分、「西宮神社」から「奥州街道・松前道」紀行をスタートする。 「西宮神社」は、福男競争で有名なの西宮神社から勧請されと記されているのに驚いた。また、本殿の左に注連縄で飾られた「馬頭観音碑」が祀られて おり、「古川宿安全」と刻まれている。ここが「古川宿」だと示しているのだ。 その横に「瑞川寺」が建っている。この山門は、風格もあり立派な造りだが、先を急ぐので、黙礼をして次に進む。 その先右に三日月町公園があり、 奥州街道の説明と地図が記された案内碑が立っている。さあ、「奥州街道」紀行の出発だと意気込み、暖かいので、ジャンパーを脱いで進む。
少し先右に、柳の木が美しい「緒絶(おだえ)橋」が架かっている。昔から歌枕として有名だと。
中古三十六歌仙の1人藤原道雅 「みちのくの をだえの橋や これならむ ふみみふまずみ 心まどはす」と伊勢の斎宮当子内親王に歌を送った事から、 勅撰和歌集に選ばれ、緒絶の橋は第一級の歌枕として認識されていきました。 江戸時代の俳聖松尾芭蕉は奥の細道の際、緒絶の橋を訪れる事は できなかったものの「平和泉と心ざし、あねはの松、緒だえの橋など聞伝て、人跡希に雉兎蒭蕘の往かふ道そこともわかず、終に路ふみたがえ 石の巻といふ湊に出。」と思いを記しています。 (大崎市観光協会HPより) 隣に建つ居酒屋「笑食楽・福ろう」の家屋も年代物で趣があり、柳の緑と調和し、宿場の雰囲気を残している。 その先左に大崎市役所があり、交叉点を右折しして近代的な七日町通りに入る。「古川宿」の昔の面影が残らない街並みは、次の信号を左折して、 十日町通りを進むと左に「仙台から十一里」と記された「道路元標」が立っている。「芭蕉の辻」から44km来たのだと感じ入る。その先にコンビニがあり、 昼食用におにぎりを買っておく。
十日町通りを少し進んだ左のガソリンスタンド隣の広場に「明治天皇行幸記念碑」が立っている。今までも何度も観た明治天皇の記念碑だが、天皇の行動範囲 の広いのには驚く。当時の交通機関は不自由だったのにと。 少し先左に、源義家が奥州征伐をし、凱旋した時に創建した「八幡神社」が鎮座している。その先の江合(えあい)川渡って左折して、 堤防伝いに進むと遠くの山々も見え、気持ち良い歩行となる。直ぐの道を右折して、県道を渡って東北新幹線の高架まで進む。
新幹線の高架沿いに進むと新幹線高架のの右に赤い鳥居の「熊野・春日神社」が鎮座するのを確認して進むと二股になり、その真ん中に 「聖骨傳眞居士」と刻まれた石塔が立っているが、意味は分からない。 二股は左に進み、少し先左に、鎌倉時代後期に造られた「延慶(えんぎょう)の碑」が立っている。更に進むと左に「天満宮」が鎮座し、その狛犬は 牛の姿をしているのを珍しく眺め、昼食のおにぎりを食べ、一息入れる。(12:35-50)
旧街道は、国道4号線と合流し、その道路標識を見ると「東京から398km」と記されている。もう直ぐ400kmなのだと。 国道沿いに「仙台まで十二里」の道路元標があり、旧街道は左に入って行く。この辺りから「荒谷宿」たが、古い家屋は残っておらず、宿場の中程右に 「明治天皇聖蹟之碑」が立っているが、上部が折れて、横に置かれている。初めは、何の碑か分からなかった位だ。 少し先左に、「斗瑩稲荷神社参道入口」の標識があるが、少し離れれているのでパスする。源義経が創建したという説があるそうだ。田尻川を渡り進むと 再び国道4号線に合流すると左に羽黒山公園の丘がある。
旧街道を分断して、国道が開通したのだ。 他の旧街道でも良くあるパターンだと思いながら進み、2ケ所の旧街道を楽しんで国道に合流する。 国道が緩やかに右に曲がると栗原市に入る。 今回のハイライトである栗原市の旧街道復元のマップがないかを栗原市役所にメールで尋ねると、田園観光課のNさんから丁寧な案内文と「栗原の魅力 奥州街道」の 冊子が送られて来た。 地域の方々と共同作業された旧街道復元の様子やツーリズムの要所が記されている優れものだ。 この冊子と先達の紀行記を参考にに歩んでいこうと準備していたが、復元のピッチが速いので、新たな旧街道が復元されているのを体感できれば嬉しい 限りだか、どうだろうと期待して歩を進める。 国道を少し進んだ左の畑の中に黒い「明治天皇御野立所」碑が立っている。更に進むと二股があり「ようこそ泉のふるさと高清水へ 日本名水百選 桂葉清水のまち」という大きな看板が立っている。旧街道は右の「高清水宿」に入って行く。 国道から離れると舗装道路だが、喧騒はなく静かな旧街道となり、周囲には田園風景が広がり、遠くの山並みが美しい。
少し進んだ右にため池を見て、高清水台町の三叉路を左に向かう。透川橋を渡って行くと左の民家の前に「七清水 本町裏清水」の石碑が立っている。 高清水には、「七清水」と呼ばれる泉があるらしいので、その一つだろうが場所が分からずパスする。 その先、街道から左に入って行くと赤い鳥居の「八幡神社」が鎮座し、その横に「牟良佐喜神社」も並んで鎮座している。 その間の切り通しになった道には、大きな欅が植わっており、静かな空間が広がっているのを味わう。 「牟良佐喜神社」は、京都の紫野から分座したそうで、境内の奥には「鷹の杉」と呼ばれる杉が植わっている。また、「庚申塔」も祀られている。
「小山下清水公園」の案内もあったが、時間の関係でパスする。旧街道に戻り、少し先右に入ると、高清水中学校があり、高清水城跡だが、 ここもパスして次に進む。 その先、「高清水宿」の街並みを眺めながら進むと「火の見櫓」のあった所が「本陣跡」だが、火の見櫓は撤去され、 消防倉庫と駐車場となっている。ここに「史跡明治天皇御休憩所」の記された木柱が立っているが、文字が判別し難くなっている。 その先に、日本名水百選の「桂葉清水」の案内があったが、少し距離があるのでパスする。日暮れの時間が早いので、安全策を取った次第だ。 新町の交叉点を過ぎると旧街道は、緩やかな上り坂になってくる。左に愛宕山公園の丘陵を見て進むと「奥州善光寺」が建っている。 奥州藤原氏第二代の基衡が父清衡を弔う為に創建した寺で、本堂には、信濃善光寺の分身「阿弥陀如来像」 が祀られているが、参道に並ぶ石塔と板碑を眺めて先に進む。
善光寺橋を渡り、進んで行くと国道4号線と合流する。
その次の道を右に曲がるのだが、間違ってはいけないので、その先に道かないかと探すが、この道らしいと確信して、国道から右の細い県道に向かう。 さあ、いよいよハイライトの旧街道復元の道に近付いたと急な上り坂を快調に進む。 急な坂道を上り切る手前左に幅の広い草道があり、入口に小さな「奥州街道道標」が草道の上り方向を指している。 間違いなく、ここが地元の方が復元された「奥州街道」なのだと小躍りする。 入口の草原に座って、復元された旧街道草道上りの英気を養うべく一息入れる。(5:45-50)
草道は、舗装道路と違って、膝への体重の反発がなく、吸収してくれるのは嬉しい。快適だ。 もっと、雑草が生え、膝辺りまで伸びているのかと思ったが、足首が隠れる程度の下草には驚く。整備が行き届いているのに感謝・感謝だ!! 古人は、もう少し荒れた道を上っていたのだろうと想像しながら、道幅の広さにも驚く。平地と同じ道幅が、峠の山道にも続いていたのだと。 楽しみながら、木漏れ日の草道を上って行くと「奥州街道」と記された石碑が迎えてくれる。その立派な道標は、草道にひったりだ。 周りの木々の落葉のサクサクと云う足音も楽しい。 緩やかな草道を上って行くと、木の間から夕陽に照らされた山々が望まれ美しい。古人も疲れた中で、夕日を楽しんだだろうと想像しながら進むと 左に「奥州街道道標」が立っており、快調に歩を進める。
時々、熊除け鈴を大きく鳴らしたり、ホイスルをピーピーと吹いたりしながら、緩やかな草道を上って行く。
農道に向かって上り切った左、木立に囲まれた塚になった所に、立派な「力石」の碑が立ち、横に大きな岩が置かれている。ポイントの「力石」に 到達だ。
旧奥州街道力石 は、1083年から1087年の後三年の役の際、源義家の家来、鎌倉権五郎影政が二つあった大石の一つを谷底に投げ込み、味方を力づけた 話や、松浦佐夜姫が旅の途中にこの石に腰掛けて休んだという話など、伝説が多く残っています。 旧奥州街道の道路傍にあって旅人の目じるしでも あり、腰を下ろして旅の疲れを休める格好の石だったかもしれません。(栗原市観光案内HPより) 先達の紀行記の写真では、紅葉が美しい「力石」が写っていたが、紅葉には少し早いようだ。その紀行記には、この先は藪漕ぎとなり、通行不能のため、 農道を迂回したと示していたが、農道脇に「ジオポイント ←奥州街道→」の道標が立っており、前に道が広がっているので、旧街道は 通じているので歩を進める。 少し幅のある砂利道は、直ぐに狭い草道に変わるが、前に続いている。ぬかるみに足を取られながら進むと「奥州街道道標」が立っている。平坦な 草道は、先程の上り坂ほど、刈り込まれていないが広くなり、快適に進むと左に、稲刈りの終わった田圃が広がり、夕日を浴びながら、気持ち良く進む。
やがて、田圃沿いの旧街道は、農道に当たる。その手前にも「奥州街道」の石の道標が立っている。農道を左折して、心地良い夕日を浴びながら進むと 珍しい稲干しの光景が続く。最近見られなくなった稲干し風景をパチリと。 農道を進むと道脇に「奥州街道」の道標が立ち、間違いないことを教えてくれるのは嬉しい。少し先、右に「明治天皇行幸記念碑」が立っている。 見晴らしも良く気持ち良い稲刈りが終わった田圃と山々を眺める。
夕日を浴びながら農道を進むと右に「育苗センター出入口」の看板が立ち、その下に「奥州街道道標」が右の細い道に向かえと示している。 このルートも先達の方がトライし、断念されたこともある道だ。
木製の「奥州街道」道標も所々に立っているので、迷うこともなく快適に進む。下り坂になり、これが栗原市の冊子に載せられている「はた織坂」だと 思いながら下って行く。 木々の間からは、夕暮れの原野が望まれ美しいが、日没が心配になってくる。 少し速足で「はた織坂」を下ると道標も立っており、その先では、高速道路を通る車の音も聞こえてくる。峠越えは近いと。さらに下ると下に 国道4号線が見え、東北自動車道も見えてくる。いよいよ、栗原市の旧街道復元草道のゴールだ。 国道4号線に到達し、素晴らしかった復元された「奥州街道」草道を踏破した。約50分の行程だったが、大満足の紀行だった。行政・地元の方たちの 熱意の賜のお裾分けをいただき感謝・感謝だ。 「奥州街道」復元の草道を踏破した所で、栗原市役所田園観光課のNさんにお礼と報告の電話をする。Nさんは会議中だったが、女性の方にお礼を云い、 行政・地元の方の共同作業の成果が凄いことを伝える。(16:35)
北国の夕暮れは早い。国道4号線を渡って、八ッ沢バス停で時刻を見るが、エスケープ案として調べていた、16時23分発のバスは出た後だ。取り敢えず、築舘の 宿屋まで歩いて行くことにする。 東北自動車道の築舘IC入口に通じる道路のトンネルの手前で、地元の方から「奥州街道を歩いているのか」と尋ねられ、古川から 築舘に行くと応えるとまだ5kmはあるので、気を付けてと。 トンネルを三つ抜けて、道なりに進み、高速道路の高架下を抜けて進むが、暗闇が迫ってくる。 栗原市の冊子にある「赤坂山神社」に訪れたいと思っていたが、 場所も分からず、尋ねる人もいないので諦め、緩やかな坂道を下り、広い道に当たるが、方向が分からず、車を止めようとするが、止まってくれない。 やっと、自転車に乗った学生に、市役所の位置を尋ね、教えられた道を進む。 「築舘宿」は丘の上にあるようで、真っ暗な中、アップダウンを繰り返し、市役所を探しだし、史跡の見学は、明日にすることにし、「すずはる旅館」に 急ぐ。やっとのことで、旅館に到着する。(17:45) 直ぐに風呂に入り、足腰をマッサージし疲れを癒して、夕食とするが、疲れたのか食欲がなく、ビールを飲み、少しだけ食べて部屋に向かう。
旅館のご主人と「奥州街道」について話したり、いろいろな資料を見たり、いただいたりと交流を深める。 部屋に戻って、反省する。真っ暗闇の道での迷子は困ったものだった。結果としては、もう少し先まで進み、国道4号線を北に進んで、細い旧街道を左折して、旧国道4号線に 向かうのが正解だったと分かる。 やはり、午前11時出発で、約23km歩くのは難しいことが分かり、反省する。タクシーの電話番号もメモしていたが、真っ暗で呼び出す場所も分からない ことが勉強できた紀行だった。今日の歩行歩数は、41900歩だった。
|