[古川宿~築舘宿][築舘宿~有壁宿][有壁宿~一関駅]


○ 「奥州街道・松前道No2.」見聞録(古川宿~一関宿)・(距離 54.0km(今回)/ 98.6km(累計)/566.8km(江戸から累計))

  3.「奥州街道・松前道」(有壁宿~一関駅・10.7km) 2017.10.19. 7:55~12:00 曇り


仙台道マップ
(揺次郎のウォーキング・ライフ
HPより借用)
松前道(仙台~三厩)宿場一覧
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「有壁宿~一関駅・行程MAP」

地図の再生ボタン()を押すと
見聞ルートに沿って歩行出来ます。

腰痛による途中中断の悔しさも忘れ、ぐっすりと眠る。4時前に目覚め、丹前を着て、炬燵に入り、今日の作戦を練る。
昨日のリベンジのため、朝食後、タクシーで中断地点まで戻り、「十万坂」を越えて「有壁宿」まで進み、昨日の予定をクリアした後、宮城県から岩手県の 県境を「肘曲がり坂」で越えて、一関まで進むことにする。県境の峠越えも一部復元されているようだが、果たして計画通り通過できるか心配だ。
当初の計画では、平泉まで進み、「中尊寺」見学は次回にするとし、銭湯に入って仙台に向かうことにしていたが、一関駅まで進み、仙台に向かう ことにする。アクシデントがあったので、無理せず変更した次第だ。
7時からの朝食の前に「有壁宿」の散策をすることにする。

佐藤旅館

有壁宿への標識 有壁宿の幟

6時前には、明るくなったので宿を出ると寒い。手袋も着け、少し霧が出いる宮城県最北端の「有壁宿」に向かう。
県道を「奥州街道」方向に向かうと旧街道との交叉点に「有壁宿の標識と案内板」が立っている。「十万坂」を越えて進むとここに来るのだと 確認し、「有壁宿」の中心に向かう。
街道沿いには「有壁宿」と記された幟が立ち、地元の宿場に対する愛着が感じられるのは嬉しい。
これからの詳細については、本番で歩いた時に記述することにする。
何処からか、鐘の音が聞こえてくる。趣のある雰囲気を感じながら、川を渡ると右に「有壁宿・本陣」が建ち、その存在感に圧倒される。 本陣のの門には「明治天皇有壁小休止所」跡の碑も立っているのを確認し、緩やかな坂を上って行く。少し先、左に「観音寺」が建っている。先程の 鐘の音は、この寺から発せられたのだろうと想像しながら、薄い霧が煙る田圃の道を進む。
静かな道を上って行くと二股があり、「奥州街道道標」が立ち、左方向に進むよう示している。ここからが、県境越えの峠道「肘曲がり坂」への 分岐点だ。この分岐点を確認し、朝の散策はここまでとし、戻ることにする。
昨日の腰痛の後遺症もないようなので、

有壁宿・本陣 本陣のの門

観音寺

肘曲がり坂への分岐点


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

気持ち良く「有壁宿」の街並みを楽しみながら戻っていると地元のご婦人と出会い、ご挨拶。ジャンパー姿を見て、旅行者だと思ったのだろうか、 寒いでしょうと。北国は寒いですねと話して下って行く。

JR有壁宿

朝食

身体が冷たくなる位の寒さと霧の中を旅館に戻る。宿がJR有壁駅前なので、無人の駅を見学して戻る。
7時前から朝食となる。とろろ汁や笹蒲鉾もあり、美味しくいただく。朝食に笹蒲鉾が付いているのは初めてで、歯ごたえが嬉しい。
朝食を終え、身支度を整えて、タクシー呼んでもらう。お勘定を支払おうとすると、昼食用の弁当を出していただく。頼んでいなかったので驚いたが、 持って行ってくださいと。また、昨夜のビール代も含め、6000円と申し訳ない位だ。
「奥州街道 有壁・一関間 散策マップ」をいただき、宿代も大サービスしてもらい、気を付けての言葉に送られて、感謝の挨拶をしてタクシーで出発する。
昨日のタクシーは「十万坂」を廻るように国道を進んだが、今朝のタクシーは「奥州街道」に沿って「十万坂」を越えて進んでくれた。運転手と話しながら 坂を上り、何処かに復元した旧街道があること話すが、知らないと。峠の坂道を下って、昨日中断した種子センターまで戻る。料金は、1300円と 峠越えの方が安かった。

7時55分、曇り空の下、三日目の紀行をスタートする。昨日歩いた県道と広い県道の交叉点に「奥州街道道標」が右方向を指している。少し進んだ先を左折する 道標が立ち、その先に「旧奥州街道と十万坂」の案内板が立っている。
案内板には、当時のルートの集落と源義家が、前九年の役に、この坂で十万梃の弓矢を造って衣川柵の安部貞任との戦に向かったことからその地名が 生まれ、有名な「雁の乱れに伏兵を知る」の伝説も生まれたと。
道標に従って、民家に続く細い道を上ると民家の手前に「奥州街道道標」が右を示し、その先で左への道標が立っている。民家の横の草道を上ると 木立の間の復元された旧街道が続いている。

道標と十万坂の案内板 民家の道標

民家の横の旧街道

復元された旧街道


復元された「十万坂」の坂道は、木立の中を急勾配で上って行く。ひんやりとした森の中の道は静かで、不気味な感じがする。熊除けの鈴を鳴らし、 時々ホイッスルを吹きながら進む。昨日、腰痛で歩行を止めたことは正解だったと。
山鳥の鳴き声を聞きながら、倒木を避けながら、地道・草道を堪能しながら上って行く。草道の真ん中に石碑が立っているが、文字は判別し難いが 「法華経宝塔」と記されているのか?  横には「有壁宿」で見た幟が立っているのは親切な心意気だ
気持ち良く上って行くと所々に道標も立ち、方向を示してくれるのは嬉しい心遣いだ。やがて、復元された旧街道は、県道に当たり、左折して県道を 進むことになるが、本来は、まだ直進しているのだろうと想像する。(8:10)

木立の中の草道

草道の真ん中の石碑 道標

県道に当たり左折


県道を進むと先程タクシーで通った県道に当たり、右折して「有壁宿」方面に向かう。
県道の舗装道路は下り坂となり、右に「有壁宿の幟」が立っている所に「明治天皇東北御巡幸御野立休憩所」の標識が立っている。「十万坂」を越えて、 ここで休憩されたのだと。下り坂が急になると街並みが見え初め、遠くには、次に越える宮城県と岩手県の県境にある「肘曲がり坂」の山並みが 望まれる。結構高そうだ。
更に下って、民家の街並みの中右に「小桜清水」の標識がある井戸があるが、その由縁は分からない。街並みを下り切ると東北本線の踏切があり、 左には有壁駅が見える。少し進み県道を渡ると朝の散策の時見た「奥州街道道標」が立ち、その奥に萩野酒造の煙突が見える。昨日中断した行程をクリア したのだ。

明治天皇東北御巡幸御野立休憩所 県道

小桜清水 肘曲がり坂を望む

奥州街道道標と萩野酒造


ここからは早朝に散策したコースとなる。小さなきれいな水が流れる川を渡ると「有壁宿・本陣」が堂々と建っている。本陣が残っている宿場も少ない中、 当時の姿を残しているのは嬉しい。

有壁宿・本陣

早朝の散策時は、薄く霧が立ち込めていたのが消え、荘厳な建屋が眺められる。
旧有壁宿本陣は、1619年(元和五年)に奥州街道の宿駅として創設され、参勤交代制度が確立後は、松前・八戸・盛岡・一関の藩主や各藩重臣が 通行の際に宿泊した場所として知られています。
現存する建造物は、1744年(延享元年)に改築されたもので、まず目につくのは道路に面して建つ二階建長屋とその脇にある御成門です。 どちらも江戸の武士社会の息づかいを今に伝える趣深い建造物となっています。
なお、藩公や重要役人が利用した御成門は、明治天皇が出入りされて以来、現在まで堅く閉じられ、諸人の利用が禁じられています。
また、藩主たちが利用したのが、本陣の心臓部となる「上段の間」で、 床がほかの部屋よりも一段高くなっています。造りは、天井が高い竿縁天井で、縁に面した書院窓がつくという典型的な書院造りでありながらも 厳粛な佇まいをみせてくれます。ちなみに、こうした典型的な書院造りがみられるのは東北では当本陣だけとなっています。 この旧有壁宿本陣は、主要街道の重要な遺構として、国の重要な史跡として指定されました。(栗原市観光協会HPより)

やはり、本物の本陣が残っている宿場は、荘厳であり、落ち着いた趣が凛として残っている。本陣の一部である「御成門」も重厚で、その前には 「明治天皇有壁小休所」の碑が立っている。この御成門は、明治天皇がお通りになって以来、開かずの門なのだと認識する。
本陣から、静かな「有壁宿」の街並みが続いている。この御成門の前で、感慨に耽りながら一息入れる。(8:45-55)

有壁宿・本陣

御成門

有壁宿の街並み


昨日のロスを取戻し、いよいよ宮城県と岩手県の県境の「肘曲がり坂」に向かう。
ここからは、佐藤旅館のご主人からいただいた「奥州街道 有壁・一関間 散策マップ」を頼りに、厳しそうな県境の峠道を進むことにする。 地図は手に入れたが、旧街道の整備状況に不安がある。先達の紀行記によれば、途中で藪が深く進めなかった記録もあるので、行ってみないと 分からない。その場で、判断しようと、歩を進める。
朝の散策で歩いた「観音寺」を過ぎると街並みはなくなり、横に広がる稲刈りの終わった田圃を観ながら進むと稲穂を干している。きれいに螺旋形に 積まれているのだ。

奥州街道 有壁・一関間 散策マップ

稲穂干し

宿のご主人が、この辺りの稲穂積みは独特で、風通しを良くするための積み方だと。しかし、この積み方で干した稲は、市場には出ず、美味しい米は 自分の家で食べるのだと。なるほど。
更に上って行くと二股となり、「奥州街道道標」が左方向を示してている。林道の細くなった舗装道路を上って行く。
少し先左に「有壁宿・幟」が立っているのが見える。 あそこから上って行くのだろうと、歩を進める。いよいよ、岩手県に近付いたのだと。

二股は左へ

有壁宿・幟













「有壁宿・幟」の所まで進むと農道から左の山道に上るべく「奥州街道道標」が立ち、その横には「旧奥州街道 肘曲がり坂」の案内板が立っている。

肘曲がり坂・入口

案内板には、この坂道の頂上付近が肘曲り坂と呼ばれており、安永年間の記録にも「肘曲がり坂 長三十間」(約50m)と書かれている。 江戸時代からの名称のようで、肘曲がり坂、大沢田坂を越え、磐井郡鬼死骸村を通り田村氏の城下町であった一関に至ると記されている。
山道への入口付近は、細くて急勾配でぬかるんでいて歩き難い。滑らないように上って行くと、地道は広くなって、「十万坂」のように、草道が 続く、気持ちの良い旧街道となる。
野鳥の鳴き声を聞きながら、熊除けの鈴を鳴らし、ホイッスルを時々吹きながらの快適な歩行を楽しむ。所々にあるぬかるみに足を踏み入れ、足首近くまで 泥に埋まってしまうこともあるが、地道・草道の歩行は楽しい。
やがて、平坦な道になったので、この辺りが「肘曲がり坂」だろうと思いながら、緩やかな下り坂の草道を快調に下る。
古人もこの道を歩いたのだと感慨深く進んでいると「奥州街道道標」が設置されているので、安心して進むことができる。
農道を横切る右前に農業用倉庫が建っているのが目印となっている。地図によるとその前を上って行くのだ。

肘曲がり坂の細い上り坂

広くなった草道 道標

農業用倉庫


少し細くなった地道・草道を上って行く。

大沢田坂の草道

視界が開けてくる

その中に、茂みが深くなり、地道はぬかるんでいたりで、注意深く進まなくてはならなくなる。
この辺りが、案内板にあった「大沢田坂」だようだと思いながら進む。やがて、頂上付近に出たようで、右側の見晴らしが良くなるが、山が連なっている 景観しか望めない。
少し先、旧街道の脇に「石碑」が立っているが、「○行○」と文字を読むことはできない。何か意味があるのだろう。
この辺りで、大失敗を犯す。宮城県と岩手県の県境があり、立札が立っているはずだが、それを見落としたようだ。この山の下を東北新幹線が通っており、 県境を確認すべきと思っていたのだが、藪が深くなって隠れていたのか、無くなったのか!?
草道の草が深くなってきた。刈り取った草も伸びて来たのだろう。更に上ると農道とのT字路に当たり、「水源かん養保安林」の標識や看板が林立 している。ここで、県境を越えて岩手県に入ったのだと確認できたが、戻ることをしなかったのは、今になって後悔する次第だ。

街道脇の石碑

藪深くなった草道

T字路の看板群


本来の県境を確認できなかったが、岩手県に入ったことは事実なので、遠くまで来たものだと感激する。
考えると、本来の県境付近から藪が多く、旧街道は宮城県・栗原市側に比べて、整備されていないように思える。T字路の農道を左に進む。草道は。 藪に覆われたり、少し広くなったりと変化に富んでいるが、歩き難い。
少し進んだ右の木立の間に池が見えてきた。地図に載っている細長い池のようなので、安心して進む。更に進むと道幅も広くなり、右側の視界が 開けてきた。広くなった草道を楽しむ。静かだ。

細い旧街道

右側の池 視界が広がる

草道


次のポイントが大切だと思いながら進む。先達の方の紀行記によると、小さな池の右側に旧街道が復元されているらしく、宿のご主人からもらった地図にも、 通行できるように示されている。
しかし、藪漕きをしなければならない位の小道で、池の存在も確認できない。本当に、この道で良いのかと不安になる位だ。藪の中を進んでいると 右に池が見えたので、行き過ぎたと思い、戻って右への道を探すが、藪に覆われて見付けられない。仕方がないので、諦めて進んてきた道に戻る。
細い地道は、緩やかな下り坂となり、残念な気持ちで下って行く。藪の中に、道があるはずなのに・・・・と。
更に下ると少しの間石畳の旧街道となり、やがて、前方に民家の屋根が見えてきた。峠越えは近いと思いながら、一気に坂を下ると「ミチノク一関」の 社屋が建ち、「肘曲がり坂」を越え、宮城県から岩手県に到達したことを実感する。
下り切った石の上で、満足感と反省の入り混じった気持ちで、一息入れる。(9:55-10:05)

広くなった草道

石畳の道 下り坂

ミチノク一関の社屋


今回の紀行で期待していた栗原市の復元された旧街道の地道・草道を体感し、県境越えの「肘曲がり坂」も多少の後悔もあるが、無事踏破し、岩手県に 入ったのは嬉しいことだ。一息入れた後、岩手県の旧街道に踏み入れる。
旧国道4号線の舗装道路は、平坦で歩き易いが、やはり地道・草道の方が良いと思いながら進む。少し先左に「三八五貨物」の建物があり、右側に 山の方向への道が通じている。先程、池かから右への道が、藪が多くて分からなかったが、ここに通じているようだ。
宮城県でも見たが、衆議院選挙の広報掲示板があり、小沢一郎のポスターが貼ってある。

肋石・兜石(男)・兜石(女)・背骨石

鬼石

この辺りが選挙区なのだと思いながら進むと、旧国道の反対側・ 茶色の屋根がある家の手前の広場に黒い岩があるのを発見。国道を渡って側に行くと、4個の「肋(あばら)石」「兜石(男)」「兜石(女)」「背骨石」 の石が立っている。
その昔、坂上田村麻呂将軍が蝦夷征伐に行った時、この地で退治した「大武丸」という首領の死骸をここに埋めたとのことだ。
旧国道に戻り、少し先左の田圃の中に大きな石が見える。これも「鬼石」と云って、田村麻呂が鬼退治した死骸を埋めた跡だと云われている。 蝦夷とか坂上田村麻呂の名前が出てきて、奥州も奥深く来たことを認識する。
旧国道を進み、的場踏切で東北本線を渡り、線路沿いに進むと左の空き地に「明治天皇小次遺趾」碑が立っている。静かで緩やかな坂道をアップ・ダウンする 右に東北本線・東北新幹線の線路が望め、一関が近付いたことを認識する。
その先、東北本線の高架下を抜けて左折して進む。この辺りの旧街道は分断されているようだ。
少し進むと左の東北本線との間に「豊吉の墓」が祀られ、案内板が立っている。
天明5年(1785)、盗賊「豊吉」がこの一関で処刑され、その遺体は一関藩医らの手で解剖されました。 長い間、医学界の謎とされてきた人体の内臓の実体検証を目的としたこの解剖は、大成功を収めます。
解剖の後、豊吉の遺体は手厚く葬られ、その場所には建碑の由来として人体解剖の業績を刻文した石碑を兼ねた墓石が建てられ、 これが現在に伝わる人体解剖記念碑「豊吉之墓」です。 「豊吉之墓」は、当時の一関藩における医学(蘭学)の浸透を伝えると同時に、日本医学界における解剖の歴史をも伝える記念碑といえます。 (一関市HPより)

豊吉がどんな罪を犯したか知らないが、死して名を残した人のひとりなのだと。
珍しい史跡を観た後、左の東北本線の歩行者専用ガードを抜けて、坂を上ると「瑞川寺」が建ち、その前から旧街道は復活しているようだ。高台への 長い階段の下で、一息入れる。(10:55-11:00)

明治天皇小次遺趾の碑 静かな旧街道

豊吉の墓

瑞川寺


「瑞川寺」の前から旧街道が続いているようで、少し先の南小学校の校庭を横切って、旧国道に合流していたようだ。 旧国道を進むと左に「大慈山祥雲寺表参道入口」の案内板が立っているので、坂を上って行く。
「祥雲寺」に上る石段の左横に、大きな「日本の道百選 奥の細道」と記された木柱が立っている。芭蕉が、この旧街道を通ったのであろう道なのだ。 また、石段の右には、道標を兼ねた「地蔵尊」が祀られ、「右岩ヶ崎 左仙臺」と刻まれている。この地蔵は、 この少し先の迫街道との追分にあったのが移設されと。
石段を上り、一関藩主田村氏を祀る本堂に参拝する。境内は広く、藩主田村家の墓や史跡があるようだが、パスして石段を降り、 「祥雲寺]の前を通る「松尾芭蕉行脚の道」を進む。

奥の細道の木柱

祥雲寺 本堂

道標の地蔵尊


「松尾芭蕉行脚の道」を進むと右に「迫(はさま)街道との追分石」が立っている。「従是 右ハはさま 左ハせんだい 道」と刻まれ、 横には、「庚申塔」も祀られている。
旧街道は、その先で旧国道に合流する、少し先右に「願成寺」が建ち、その先左の丘には「八幡神社」が鎮座している。新大町の交叉点から左奥に 「釣山」が見える。ここに「一関城」が建っていたのだと。

迫街道との追分 追分石と庚申塔

願成寺

釣山・一関城跡


一関駅前交叉点に来た。本来の予定では、このまま直進して「一関宿」を見学した後、平泉に向かい、「中尊寺」見物は次回に廻して、温泉に入った後、 バスで仙台に戻る計画だった。昨日の予定変更で、今回は一関までとするため、交叉点を右折して、一関駅に向かうことにする。
一関駅に向かうと「建部清庵(たけべせいあん)碑」「おくのほそ道芭蕉の辻」碑「日本の道百選おくのほそ道」碑が並んで立っている。一関は、芭蕉が 二泊したらしいので、「芭蕉の辻」等、芭蕉関連が観光名所となっているようだ。
駅前に「大槻三賢人像」が立っている。大槻玄沢は杉田玄白・前野良沢の教えを受けた蘭学の先駆者、大槻磐渓は大槻玄沢の二男で儒学者 、大槻文彦は大槻磐渓の三男で国語学者だと。大槻家三代は学者だったことを知る。
丁度、昼時となったので、ここで昼食を食べた後、列車orバスで仙台に戻ることにし、今回の紀行はここで終了とする。(12:00)

駅前通りの碑 おくのほそ道芭蕉の辻碑

JR一関駅

大槻三賢人像


有壁の宿屋で弁当をいただいたが、歩いている間もジャンパーを 脱ぐ必要がない位の気温の上、弁当を食べる場所もないので、食堂で昼食とする。(弁当のおにぎりは、帰宅して焼き飯でいただいた)
駅前の食堂で、アジ・カキフライ定食を頼み、ビールで三日間の紀行に対して乾杯する。

昼食

小牛田行列車

外気は冷たいが、ビールは美味しい。色々なことがあった今回の紀行だったが、 「奥州街道」で初めてとも云える地道・草道を堪能できたのは嬉しい限りだ。次回以降も期待できるだろうと。
仙台までのルートを考える。JR東北本線かバスかだが、初めての列車で戻ることにする。
12時44分発の小牛田行に乗り、田園風景の車窓を楽しむ。「奥州街道」からは離れているので、紀行したルートは観ることができない。小牛田で乗り換え 仙台に向かう。東北本線の鈍行に乗ったのは初めてで、松島・塩釜駅を通過するのに驚いた。内陸部を走ると思っていたのが、海が見えてきたのだ。
14時23分に仙台に到着し、以前訪れた銭湯「駒の湯」にバスで向かう。開湯直後の銭湯は、数人しかおらず、ゆっくりと足腰を伸ばして癒す。身体が 冷たくなっていたので、気持ちの良い湯だった。
バスで仙台駅に戻り、何時もの居酒屋「たけ政」に向かうと主人も女将さんも覚えてくれていて、ビールで乾杯。前回は、ホヤを食べたが、今は無く、 昨年のこの時期にサンマの塩焼きを頼んだ人が、サンマを串に刺して焼くの見ていたので、サンマを頼むが、今年のサンマは店に出すような大きなものがないと。
良いシシャモがあるとのことで、注文すると、何と串を刺して焼くのだ。串に刺したシシャモをパチリと。
きのこの天婦羅も頼み、清酒を飲みながらいろいろと話す。旧街道が復元され、地道・草道が整備されていて満足したことを話すと地元人としても 嬉しいと喜んでくれた。良い店だ。今日の歩行歩数は、29600歩だった。

駒の湯

シシャモ シシャモの串刺し

きのこの天婦羅


20時発の深夜バスは満員だ。今まで、2人席を独占していたが、何故か満席で、窮屈だが、通路側で良かった。出発して直ぐに眠り、途中4ケ所の 休憩所で腰を伸ばして、定刻通り、7時40分に京都駅に到着し、軽く朝食を食べて帰宅する。風呂に入り、三日間の疲れを癒す。

「奥州街道・松前道」も岩手県に突入した。当初の計画は、腰痛のため、短縮せざるを得なかったが、快適な歩行を楽しむことができた。 栗原市の行政と地元の方の熱意によって、旧街道が復元され、見事な地道・草道になっていたのには驚き、大喜びした次第だ。
鹿児島からここまでの行程で、三本の指に入る旧街道だと感じ入った努力の賜だ。もう一度、感謝・感謝だ。
今回は二泊とも、旅籠の趣きを残す旅館で、ご主人から「奥州街道・松前道」の事柄や地図を教えていただいた。地元と密着した心意気が嬉しく 思った次第だ。
来春には、岩手県を北上する予定だ。今回のような旧街道を期待したい。ただ、腰痛でのダウンには、気を付けなければと、計画は慎重に立案したい。。


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