「青春18切符」...「半田市散策の旅」




○ 2016.07.26. (高槻→米原→大垣→大府→武豊→半田<散策>→大府→大垣→米原→高槻)

「青春18きっぷ」の季節が到来したので、何処か良い所がないかと検討している時、情報番組で、吉本芸人「たむけん」が、素人の人を捕まえて、日帰り旅行に 連れて行く企画があり、愛知県半田市散策の日帰り旅行を放映していた。街並みが美しく、醸造業の蔵が立ち並ぶ光景に興味が湧き、半田市を訪れることにした。
下調べをすると見学したい施設の休館日、食事処の休日等を勘案して、7/26にする。しかし、天気予報では雨模様だが、小雨の様子なので実施する。

○行程(7/26)
高槻7:37→8:49米原9:17→9:53大垣9:56→10:47大府10:51→11:25武豊11:37→11:44半田 (散策) 半田15:38→16:04大府16:12→17:01大垣17:09→ 17:44米原17:48→18:57高槻 ===> 418.0km・6800円

何時ものように5時30分頃に起き、朝食を済ませ、7時過ぎに曇り空の中、出発する。高槻発8時04分発の列車でも間に合うが、米原駅の乗換時間が3分のため、 一つ前の列車に乗る。京都までは立つが、京都からは座ることができ、緑の絨毯に敷き詰められた近江米の伸びて来た苗を望みながら進む。

武豊行列車

武豊駅舎

米原駅で大垣行に余裕で乗れ、3分間の乗換時間の方も乗れたが、座れない方も居られる。一人では良いが、妻と同伴の時は、余裕が必要かと。大垣乗換えも 問題なく、初めて大府で降り、武豊(たけとよ)線に乗換える。
武豊線は所謂「盲腸路線」で、終着駅から戻らざるを得ない路線となっている。
二両編成・ワンマン列車で、半田駅を通り越して終着の武豊駅まで進み、「盲腸路線」を踏破する。武豊駅舎を写し、半田駅に戻る。行き来 できるのは「青春きっぷ」の特権だ。
半田駅で、市内観光マップを手に入れ、レトロな雰囲気の駅舎に郷愁を感じながら、小雨の中、昼食場所に考えていた「魚太郎・蔵のまち」に向かう。
半田市街の道幅は広く、ゆったりとし、立派な「ミツカン酢本社」が建っている。愛用しているポン酢の本社がここにあるとは知らなかった。運河の手前に 建つ「魚太郎・蔵のまち」は有名な店のようで、待っている人もおり、満席だ。
「おばんざい食べ放題+お好みのメイン料理」(1580円)を頼み、メイン料理は、「日替わり定食」は売り切れていたので、「お刺身定食」と「海鮮丼」を選択する。 小鉢に「おばんざい」を取り、ビールで乾杯し、地元の魚をで彩られた刺身・海鮮丼をいただく。新鮮で美味しい!!
「おばんざい」も堪能し、コーヒーに加えて、ミツカン酢製造の「黒酢ざくろミックス」のジュースをいただき、大満足する。美味しかったので、「黒酢ざくろミックス」のジュースを 買い求め、散策を始める。

半田駅

魚太郎・蔵のまち

満足した昼食 お刺身定食 海鮮丼


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

小雨の中、運河沿いの「ミツカンミュージアム」に向かう。見学もできるが、夏休みで小学生の見学者が多く、入場出来なかったのは残念だ。「Myポン酢」を造れるそうで、 ポン酢のラベルに個人の写真が貼られるそうだ。売店を見学するだけで退散する。
広い道路を隔てて、「ミツカン酢」の本社が建っている。造り酒屋だったミツカンの初代中野又左衛門は、文化元年(1804)に分家独立して、酒粕を利用した 粕酢造りに挑み、粕酢を江戸の握り寿司活用したことが起源だそうだ。
日頃愛用している「ミツカンポン酢」のルーツを知り、立派な本社ビルを眺め、改めて半田市の醸造の繁栄を実感する。

半田の運河

ミツカンミュージアム

ミツカン酢本社


市内観光マップに従って運河沿いの静かな道を進む。運河の両サイドには、酒蔵や酢の蔵が立ち並ぶ風情豊かな小道だ。運河の防波堤に立つ街灯も趣があり、 江戸時代から栄えた半田の街を象徴しているようだ。
運河沿いに、当時の海運業・醸造業で栄えた旧中 家の庭園「半六庭園」が開けている。落ち着いた庭園には東屋もあり、女性グループが雨宿りを兼ねて お喋りに興じている。静かな庭園を見廻して、当時の栄華を感じる。「半六庭園」の横の小道は、「国盛・酒の文化館」の蔵に接していて、黒壁の蔵沿いに 小雨の中、風情を感じながら進む。

運河沿いの道

半六庭園

黒壁の蔵の道


「国盛・酒の文化館」の見学に訪れる。10名位の見学者に混じって、酒造りの蔵の中を案内される。醸造の仕組みから製造方法まで、昔の製法と 現在の装置を対比しながら、熱心に説明していただく。「国盛酒造」の創業者は「ミツカン酢」の創業者の弟だそうで、半田の街にとっては、 素晴らしい兄弟が醸造業に携わったのだと感心する。
見学の最後には、恒例の試飲コーナーがあり、大吟醸等々を自分で注いで飲ませてもらえる。なかなか美味しいお酒で、一番気に入った「半田郷」の 4合瓶を購入する。帰宅して、先程買い求めた「黒酢ざくろミックス」と「半田郷」の記念撮影をしておく。半田の醸造業を起こした兄弟の酢と酒を 懐かしむ次第だ。

国盛・酒の文化館 入口の杉玉

国盛の一斗樽

黒酢ざくろミックスと半田郷


観光マップに従って「半田赤レンガ建物」に向かう。この街の観光案内の良い所は、目的地までカラー舗装された道を進めば良いようになってるのだ。広い道・ 狭い小道もあるが、クリーム色の舗装道路を縫って進めば間違いないのは嬉しい。
道を渡る所で舗装道路は切れるが、横断した所からクリーム色が始まり、安心して路地の中まで進める。

半田春の山車祭り (半田市観光協会より借用)

その路地の一角に「紺屋海道」の案内板を発見する。 地元の有名な童話作家「新美南吉」も歩いた道と記されている。名前は知らなかったが「ごんきつね」の童話は読んだことがある作家だと分かった。
「紺屋海道」の謂れは、昔この辺りには、船の帆を染める染物屋がたくさんあり、多くの人が行き交い賑やかな通りだったと。
「紺屋海道」筋には、春の半田山車祭りに参加する「山車の保管蔵」もあり、賑やかそうな雰囲気が感じられる。帰宅して、観光協会のHPを見ると、その華麗で 荘厳な祭り模様に驚く。さすが、江戸時代からの伝統行事だ。その先には、古びた民家も残っており、 半田の街の歴史を感じながら進む。

クリーム色の舗装道路

紺屋海道

古びた民家


国道247号線を歩道橋で渡ると「半田赤レンガ建物」の独特のレンガ造りの重厚な建物が現われる。

半田赤レンガ建物全景

「半田赤レンガ建物」は明治31年(1898年)にカブトビールの製造工場として誕生し、明治時代に建てられたレンガ建造物としては日本で 五本の指に入る規模を誇り、ビール工場の遺構は現存数が極めて少ないため、その意味でも貴重な建造物です。
その設計者は、明治建築界の三巨匠の一人、妻木頼黄で、 横浜赤レンガ倉庫や日本橋(装飾部)なども彼の設計によるものです。
カブトビールは、ドイツの醸造技術を導入し、日本のビール黎明期に大手ビールメーカー(サッポロ・アサヒ・キリン・エビス)に果敢に挑戦し、地方都市半田の ビールとして誕生した。しかし、明治33年にビールに酒税が課せら、さらに日露戦争後の景気後退により、ビル業界も再編が始まり、カブトビールは 最終的には大日本麦酒(株)合併しました。その後太平洋戦争により工場は閉鎖され、大日本麦酒株式会社はサッポロビール株式会社とアサヒビール株式会社に 分離していくのです。(半田赤レンガ建物HPより抜粋)
建物の内部も当時の面影を残し、重厚なものだ。見学会もあったが、パスして当時の雰囲気を味わい退出する。
半田市は、地理を活かした海運業・醸造業の街で発展したことを実感する。

歩道橋からの半田赤レンガ建物

半田赤レンガ建物

半田赤レンガ建物の内部


小雨が降る中を駅に戻る。同じ道を通らないで、違った道を進んでいると半田商工会議所の前に「半田町道路元標」の小さな碑を見付け、旧街道歩きの習性で 思わずパチリと写す。

半田町道路元標

半田駅跨線橋

駅まで戻り、改札口を抜けて跨線橋でホームに向かう途中、跨線橋の上で案内板を見付ける。「開駅明治19年3月(1886) この跨線橋は、明治43年11月に完成JRでは 最古のはしです」と示されている。JR最古の跨線橋がこんな所にあったのかと不思議に思いながら橋を渡る。
15時38分発の列車で大府に向かう。
ガラガラの列車で、知多半島の光景を眺めるが、半島の真ん中を走っているので、海が見えないのは残念だ。その中に、 ウトウトと眠ってしまい、大府で起こされる。
時間があれば、「熱田神宮」や「醒ヶ井の梅花藻」を見物しようと考えていたが、雨模様なので止めて、東海道本線に 乗換えて大垣まで進む。
大垣から米原で乗り換え、高槻まで直行し、駅前のデパートで食材を買い求め、20時前に帰宅する。小雨の中の散策で、少し物足りなかったが、翌日から続く 猛暑日の陽射しに比べると良かったと思う次第だった。
情報番組で得た情報で訪れた半田市。その歴史も知り、素敵な街並みを楽しみ、料理・お酒を賞味できた有意義な「青洲18きっぷ」の旅に満足する。 今日の歩行歩数は、13100歩だった。

「半田市散策の旅」の旅「紀行スライド」

残っている3枚の切符をどのように活用するかを考えるのも楽しみだ。






    
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