○ 「西国街道No2」見聞録(高槻〜西宮神社)・(距離 34.6km(今回)/ 61.7km(累計))

  1.高槻〜西宮神社・(34.6km) 2012.01.10 7:15〜17:20 曇り


西国・山陽道全行程.Map

「高槻〜西宮神社・行程MAP」

地図の再生ボタン()を押すと
見聞ルートに沿って歩行出来ます。
クリックすると拡大します。(街道歩き旅.com HPより借用)

新春早々、新たなる旧街道歩きを始めた。1/5に京都・三条大橋から地元・高槻までの「西国街道」をスタートし、今回はその続きの道を 「西宮神社」まで歩き、「西国街道」から「山陽道」へつなげたい。

満月

JR高槻駅

今日は「十日戎」で「西宮神社」恒例の福男を選ぶ行事が早朝に行われていたのをテレビで見た。熱気溢れる正門から本殿までの競争に 思わず手に汗をする。その「西宮神社」への紀行にふさわしい日程だと自己満足する。
7時前に家を出て線路沿いを進むと満月に近い月がぼんやりと見える。1ケ月前にはこの月をチュニジアの砂漠の中でラクダに乗って 見たことを思い出しながらにJR高槻駅に到着し、7時15分に第2回目の紀行に出発する。
少し、肌寒く、通勤客が駅に向かうのに逆らって、駅前から「上宮天満宮」の大きな石の鳥居を見て、その手前を左に入る。 いつも通る一方通行の道をを逆走するのは初めてだ。広い道を 渡り、旧街道に入ると「うだつ」のある旧家建っている。この道は初めてなので、こんな旧家があったのだと。
突き当たりは枡形になっていて、その角に祠が祀られ「芥川仇討の辻」の案内板が立っている。賎ヶ岳七本槍の一人加藤嘉明の曾孫14歳の 助三郎がこの辻で親の仇討をしたととのことだが、案内板も知らなかった。如何に地元を知らなかったかと反省する。 少し進んだ角に「芥川一里塚跡」の碑と祠が祀られている。

芥川一里塚跡 説明

西国街道は、8世紀の山陽道の後身にあたり、約8.1kmにわたり市域を東西に貫いています。京から大宰府に通じ、淀川とともに三島地域の 政治・経済に大きな影響を及ぼしました。現在の道筋は、14世紀ごろに固定化したとみられ、三好長慶や高山右近、さらには織田信長、 豊臣秀吉らが駆け抜けた道です。
江戸時代には脇街道として「山崎通(やまざきみち)」と呼ばれ、京都・山崎と西宮間を結んで西国大名の参勤などに利用され、 同時に京坂間の交通路として重要な役割を果たしました。
街道沿いには、一里塚が設けられ宿場が整えられていました。一里塚とは、1里ごとに街道の両脇に塚を築き、エノキを植えて、 街道の路程の目印としたものです。市域では梶原と芥川にありましたが、現在は旧芥川宿東口の東側だけに残り、 府の史跡に指定されています。 (高槻市HPより)

前回の「梶原一里塚跡」から一里とは少し短い気がするが、一里塚跡が 残っているのは嬉しい。この辺りが「旧芥川宿」で、宿場町として賑わっていたのであろう。 一里塚を右折すると古い家が並んでいる。旧街道の風情を残す建物がこの高槻市内のど真ん中に残っているのに驚きながら、西に向かう。

上宮天満宮の鳥居

芥川仇討の辻 説明

古い家並み


画像をクリックすると拡大します(以下の画像も同様)

旧街道の雰囲気を感じながら進むと「教宗寺」が建ち、その境内に入ると「石槽」が置かれ、説明文によれば、底に水抜孔があるので、 石風呂ではないかと。
芥川への上り坂を進むと右手に「地蔵堂」が祀られ横には「愛宕山献燈」が立っている。愛宕山信仰の常夜燈がこの辺りは多いのだ。 少し進んだ左手には「金比羅大権現・常夜燈」が立つ。こんな所から讃岐の金比羅山の常夜燈が立っているのだ。
芥川手前左手にも「橋詰地蔵尊」と高槻の山手にある神峰山寺への道標が立っている。「芥川宿」には地蔵堂が多く、各地への 道標・常夜燈が多く設置されているのに驚く。

教宗寺 石槽

地蔵堂と愛宕山献燈

橋詰地蔵尊 金比羅大権現・常夜燈


北摂の山々を望みながら芥川橋ると左手に「地蔵堂」と「常夜燈」が立つ。川の両側に地蔵堂が祀られているのだ。本当に多い。
芥川のからのり道を進むと立派な「長屋門の旧家」が旧街道であることを示している。少し進むんだ道角に「三基の道標」が立つ。 普通の碑と小さな石の碑で道標とは気付かない位だ。
旧街道の右手奥に「今城塚(いましろづか)古墳」がある。継体天皇の陵墓であると云われ、ここから家形埴輪等が出土され、「今城塚古代 歴史館」に展示されている。これに因んで、高槻市のマスコット・キャラクター「はにたん」が誕生したと。(「はにたん」の映像を入れようと考えたが、 市への申請必要なのでパス)

長屋門の旧家

三基の道標

今城塚古墳


旧街道は二股に分かれていて迷ったが左に向かう。正解だった。藍野大学の横を通って、「西国街道」の案内板を見て進むと視野が広がり 左に大きな空き地がある「雲見坂」と呼ばれる坂を下る。
「太田神社」の常夜燈を見て、一方通行の道には白壁に虫籠窓、黒板塀や長屋門のある旧家の立派な家並みが続く。

雲見坂

太田神社の常夜燈

旧家の立派な家並み 白壁の家


少し進むと立派な「地蔵堂」とたくさんの「地蔵群」や「太田橋」と書かれた石柱が立っている。近くの「西国街道」案内板の 「五街道其他分間見取延絵図によると、京から西国への道は、伏見から分かれて、山崎・芥川・郡山・瀬川・昆陽・西宮の各宿を経て 中国道に続くまでを山崎通・「西国街道」と書かれている。「西国街道」のルートや「山陽道」の名称・行程も諸説があるらしい。
安威川に架かる太田橋の横の歩道専用の太田橋を渡って、名神高速の高架下をくぐり、旧街道は続く。「古い道標」を確認して進むと 「阿為神社御旅所」が建っている。

地蔵堂

地蔵群 西国街道・案内

阿為神社御旅所


広い道を横断して旧街道を進むと「法華寺」が建つ。狭い道には長屋門の家等、旧家も建っていて趣きのある道に満足しながら進むと たくさんの地蔵尊が祀られている「鶴亀地蔵尊」で、顔が白く塗られている。
旧街道は茨木川に至り、その手前に「白井河原の合戦場跡」の案内板がある。合戦の名前も知らなかったが、茨木・伊丹と池田が 戦ったのだと。今の市町村が当時争っていたのには知らなかった。案内板の横にたくさんの地蔵尊があり、顔がやはり白く塗られている。
茨木川を渡り、河原で一息入れる。(8:50)

法華寺 長屋門の家

鶴亀地蔵尊

白井河原の合戦場跡 説明



「西国街道@」の「紀行スライドショー」

時々車で走る亀岡街道との交差点を渡った右角に「大きな道標」がある。神戸まで11里、姫路まで23里だと。まだまだ先は遠いことを認識する。 道標の横には「中川清秀由緒地」の碑も立っている。

郡山宿・本陣跡 説明

狭い旧街道沿いには古い家も残り、国道171号線と交わる手前には「西国街道」の道標も立っている。
国道を渡り、石畳が美しく敷かれた 道を進むと「郡山宿」の本陣跡「椿の本陣」の立派な屋敷が建つ。享保3年(1718)火災にあったが、建て直されて 江戸時代の本陣のほぼ原形をとどめている建物として、国指定史跡となっている。
浅野内匠頭も宿泊し、宿場の面影を残す郡山宿本陣。参勤交代の往時のにぎわいが感じられる江戸の世界へご案内いたします。
西国街道は、京都と西国を結ぶ重要な道であり、江戸時代には西国の大名が参勤交代の時によく利用しました。 京都から西宮までの街道沿いには、山崎・芥川・郡山・瀬川・昆陽の五つの宿場があり、郡山宿本陣は、そのまん中にある宿駅として、 重要な役割を果たしてきました。
また御成門のそばにあった椿の木が、毎年五色の花を咲かせたことから、「椿の本陣」とよばれ、 人々に親しまれています。(茨木市HPより)

「中山道」を歩いていても本陣跡が残っている所は少ない。立派な建物を外から眺めて、古き時代を偲ぶ。

大きな道標 説明

石畳の道

椿の本陣の碑


気持ちの良い石畳の道を進むが、誰とも会うことがない。両側には落ち着いた街並みが続くので、昔の街道を歩いている感じで、 雰囲気を楽しみながら西に向かう。 宿川原西会場の前に勝尾寺への道標が立つ。箕面の滝の近くにある勝尾寺への道標があるのだ。少し進むと鍛冶屋橋で勝尾寺川を渡る。 鍛冶屋橋の新しい欄干に大名行列の可愛い絵が刻まれている。ホッとする瞬間だ。少し先の「春日神社の常夜燈」を見て進む。

石畳の道

勝尾寺への道標

鍛冶屋橋の可愛い絵


少し進むと「道祖神社」が祀られ、近くに「ぼろ塚」たるものがあるとのことなので、細い道をは行ったりと探すが分からず、近所の人に 尋ねるが知らないので諦める。 視界が開けてモノレールの豊川駅に到着したので、駅で用を足し一息入れる。(9:50)
モノレールの高架下を抜けて旧街道を進むと「春日神社御旅所」があり、近くに「楠水龍王宮」の祠が祀られている。前には「伊勢神宮常夜燈」や 「左 京ふしみ道」と記された道標が立つ。
旧街道筋には古い立派な家並みが続き、「金比羅常夜燈」も立っている。この辺りは神社や祠が多く立派な家が多いのに驚いていると 「勝尾寺の大鳥居」が迎えてくれる。「箕面墓地公園」の横を進むと国道171号線の西宿交叉点に合流する。

楠水龍王宮 春日神社御旅所

古い立派な家並み 金比羅常夜燈

勝尾寺の大鳥居 説明


前回の紀行も含め、もっと国道歩きが多いと思っていたが、国道沿いに旧街道が通っているので、気持ち良く歩けるのは嬉しい。新御堂の 広い道を抜けてR171を歩き、萱野4丁目交叉点から左の旧街道に進む。
古い家から道に伸びている桜の木には少し開いていて、そろそろ春の息吹を初めて感じる。それにしても開花が早い。 新しい家が立ち並ぶ住宅街を進むと立派な旧家が建っている。これが「萱野三平旧邸」だ。

萱野三平旧邸 説明

西国街道沿いに萱野三平が自害したと伝えられる長屋門と土塀の一部が、萱野家と地元の人々の努力により伝え残されています。
三平の父重利が代官の推挙により播州赤穂の浅野家に仕官しました。 ところが元禄14年(1701)江戸城松之廊下で浅野内匠頭の刃傷事件があり、厳しい幕府の処分を受けました。
赤穂事件後、三平は大石内蔵助を中心とした仇討ちの同士に加わり、、三平を推挙した大嶋氏へ迷惑がかかることを心配した父が仇討ちに 反対し、三平は同士との板挟みに苦しみました。 そして、討ち入り前の元禄15年(1702)1月14日同士の目的達成を念じつつ自宅長屋門の一室で自害し、27年の生涯を閉じました。 (箕面市HPより)

先程の「郡山本陣」にも浅野内匠頭が宿泊していたことが記されていたが、ここでもその逸話があり、「西国街道」の位置付けの重要さが 理解出来る。赤穂浪士もこの道を江戸に向かったのだと。
少し進むと「柴村の高札場跡」の案内板が立っている。萱野地区の西国街道沿いには一里塚があったことも推測されていると。古い家並みを 進むと牧落の交叉点に出て、再び国道と合流する。 少し進むと再び旧街道に入るので、ここで昼食にしようと昼食場所を探すが、牛丼店しか見当たらないので、少し早いが昼食にする。 (11:20-45)

桜の開花

柴村の高札場跡

古い街並み



「西国街道A」の「紀行スライドショー」

少し早目の昼食を終え、国道171号線を渡って少し進んだ歩道橋の所から右に進むのが旧街道だ。
旧街道を進むと「牧落の旧札場と道標」の案内板と道標が立っている。「西国街道」と「箕面・大坂道」の交わる四ツ辻だと。
「八幡宮」の鳥居を見て進むと阪急箕面線の踏切を渡り、楠の大木を眺めて進むと商店街となり、左に桜井駅が見える。
学生時代、友人がこの辺りに下宿していたが、風景が変わっていて全く分からない。桜井駅を過ぎると再び静かな旧街道が続く。

牧落の旧札場と道標 説明

阪急箕面線の踏切

静かな旧街道


旧街道沿いの「浄国寺」を見て、「瀬川・半町本陣跡」を探す。箕面自動車教習所の横に「瀬川・半町立会駅所と本陣跡」の案内板があり、 この辺りに本陣があったようだが、その面影は残っていない。
少し進むと初詣の幟が立った「瀬川神社」が建っている。藤原氏の祖神である天児屋根命(アメノコヤネノミコト)を祀るので、正式には 「天児屋根命神社」と云う。静かな境内に入るが、誰も参拝していない。
旧街道はR171のバイパスの高架下、阪急の踏切を渡り、R171に出て、少し進んだ所から右手の旧街道に入ると左に「春日弁財天社」の 祠が祀られている。

瀬川・半町立会駅所と本陣跡 説明

天児屋根命神社

春日弁財天社


旧街道は石橋阪大下交叉点に出る。学生時代、通った交叉点が「西国街道」だったことを当時は全く知らずにいた。昨年春も同窓会で 石橋駅集合で、ここを通り、坂道を上って久し振りにキャンバスを訪れたことを思い出しながら、交叉点を渡り、R176を少し大坂に向かい 右側に折れて進む。
白壁の塀がある街並みを進むと「西国街道の案内地図」が掲示されている。新しい地図があるのは初めてで、ありがたく確認する。 少し進むと地蔵橋と「辻の地蔵」が祀られている。
阪急宝塚線の踏切の手前に古い道標が立ち、横には「石橋村高札場跡」の案内板が立っている。

白壁の街並み 地図

辻の地蔵

石橋村高札場跡 説明


旧街道は大きな道路に当たり、渡った左に「亀之森住吉神社」が建ち、幼稚園に沿って西に向かうと古い趣きのある旧家が建ち、 旧街道の雰囲気が残っている。
近くに「西国街道」の案内地図があり、現在地を確認して進むと中国自動車道の高架が目の前を遮る。その手前に 「十二神社」が建ち、高架下の地下道を抜けて行く。

亀之森住吉神社

古い趣きのある旧家

十二神社 地下道


地下道を2つ抜け、情緒ある町並みを進むと北今在家広場があり、その先の「受楽寺」境内には「桂春團治の碑」が立っている。落語の題材とも なっている池田に記念として祀られたようだ。
新開橋交差点で歩道橋を渡って国道171号線と合流する。もう直ぐ猪名川だと進むと軍行橋の手前に「浄源寺」があり境内には、 桐とムクの木が寄生する銀杏の木がそびえている。
道を隔てて旧家が2軒連なっている。伊丹市景観形成建造物に指定されている入江家と中村家だと。猪名川を軍行橋で渡る。橋の上で 伊丹空港からの飛行機の離陸を待ちながら一息入れる。(13:35)

受楽寺 春團治の碑

浄源寺 銀杏の木

猪名川手前の旧家 猪名川



「西国街道B」の「紀行スライドショー」

軍行橋を渡って、猪名川の堤防を下って行く。大きな工場の角を右に進み、JR福知山線の踏切を渡って進むと小さな広場があり、 「多田神社道標」が立ち、その奥には「辻の碑(いしぶみ)」が祀られている。碑には「従東寺拾里」と刻まれている。東寺から10里・40km 歩いて来たのだと行程を振り返る。道角の古い「多田神社道標」も立ち、この細道が多田街道だったようだ。
坂道を上って行くと「伊丹坂」の標識が立ち、途中から「和泉式部の墓」という標識にに従って、左の坂の上に行くと、祠に入った 五輪塔が祀られている。「熊野古道・中辺路」の「伏拝王子跡」にも「和泉式部供養塔」があり、「中山道」の「御嵩宿」と「細久手宿」の 間にも「和泉式部廟所」があったことを思い出す。
旧街道に戻る途中に「北向き地蔵尊」が祀られている。

辻の碑(いしぶみ) 碑拡大

和泉式部の墓 説明

北向き地蔵尊


街道筋に今回の紀行で初めて見る木製の「常夜燈」が店の前に飾られている。「中山道」等では良く見られるものだが、「西国街道」では 初めてだった。少し進んだ所に「大鹿交流センター」があり、昔の絵図と道標が立っている。
広い道の「有馬道」を渡って、自衛隊の駐屯地の横を進むと、左手に立派な長屋門の旧家が建ち、「千僧天神社」 の鳥居が迎えてくれる。

木製の常夜燈

長屋門の旧家

千僧天神社


昆陽の町名が出て来たので、「昆陽宿」が近いと思い、左右に注意して進む。稲野小学校の校門前に「西国街道の案内碑と道標」が立ち 横には「能因法師の歌碑」も立つ。「能因法師の歌碑」は高槻にもあったことを思い出し、昔の歌人・俳人は全国を紀行したのだと。
広い道を渡った角に「道路元標」がひっそりと立っている。少し進んだ長勢児童遊園の園地内に「長勢橋」の碑が立っている。1864年の 蛤御門の変で敗走した長州勢がここで踏み止まって戦った場所だと。
この辺りに「本陣跡」があるとのことだが、分からず、少し先の公園の中に「旧西国街道」の地図と昆陽村の由来を書いた案内板を見つける。

西国街道の案内碑 歌碑と道標

長勢橋の碑

公園の案内板


「西国街道」案内板を確認して、再び国道171号線を進むことになる。国道を渡り「西天神社」の鳥居を見て、少し寄り道して近くにある 「昆陽寺」に参拝する。国道筋に立派な山門が建ち、静かな境内で一息入れる。(15:00) R171をもう一度渡って、細い旧街道に入り、進むと閼伽井(あかい)公園があり、その中に「閼伽井」と云われる仏様に供える水が湧いたと 思われる井戸が残っている。

西国街道案内板 説明

昆陽寺 説明

閼伽井(あかい)公園 閼伽井


旧街道は再びR171に合流し、右手に立派な「師直塚」が立っている。高師直の名前は直ぐには思い出せなかったが、説明文を読み、楠正成と 戦ったことを思い出した。南北朝時代の史跡が「西国街道」にはたくさん残っているのだと。
西昆陽の交叉点から国道は左に曲がって武庫川を渡るが、旧街道は真っ直ぐに堤に向かって進む。事前に、武庫川を渡る「髭の渡し」が あると学習していたので、堤防上り、探すがそれらしき史跡は見当たらず、車の往来が激しいので河原に降りる。この河原には「コスモス畑」が 地元の方で育成されており、秋には見事な花を咲かせるのを数年前に見学に来た。今は枯れているが、楽しみな場所だ。
河原でも「髭の渡し」を探すが分からず、諦めて一息入れる。(15:30)
河原に座っていると少し寒いが、甲山・六甲連峰が眺められ、遠くまで歩いたと自己満足しながら寝っ転がる。渡しがないので、新幹線の 高架下を抜けて、甲武橋を渡って西宮市に向かう。

師直塚 説明

コスモス畑

甲武橋



「西国街道C」の「紀行スライドショー」

甲武橋を渡っていると冬の夕陽が眩しく感じる。これから西に向かうと西日対策をしないと大変だと思いながら、武庫川を渡り、堤の上を 上流に向かって進むと報徳学園のグラウンドで野球部やラグビー部が練習している。
「髭の渡し」の対岸と思われる坂道を降りると「一里山」の説明板が立ち、この近くに「一里塚」があったことを示している。ここからの 旧街道は複雑に入り組んでいるが、新幹線の高架下を抜け、「西国街道(1)」「西国街道(2)」の案内板が所々に立ち、 「旧西国街道」の道路標識に従って進んで行く。
ごちゃごちゃした道を進むと下大市西町の交差点に道標が二基立っている。近くにある「門戸厄神」の道標だ。「西国街道(3)」の案内板も 立ち、地元の方の「西国街道」保存の意識が感じられる。
旧街道は阪急今津線の門戸厄神駅のよこの踏切を渡り、川沿いに西宮中央運動公園に向かう。道は複雑だが、体育館と思われる建物を 目当てに進むと無事到達出来た。

一里山町 説明

旧西国街道の道路標識

門戸厄神の道標


夕陽

西宮中央運動公園の前でR171を渡る。丁度、夕陽が沈む前の大きな日の光にゴールが近いことを思いながら、広い道を 阪急神戸線のガードを抜け、JR山陽本線を抜け、国道2号線を渡り、阪神電車の高架を抜ける。
薄暗くなり、史跡を追うのも難しくなると共に「十日戎」の露店が賑やかに開かれているので、足は自然に、露店の方向に進み、店の内容や 福笹を持った参拝後の人を確認して、「西宮神社」に向かう。「十日戎」の時に「西宮神宮」に訪れるのは初めてで、今朝の福男選びの 競争の余韻が残る熱気だ。

西宮神社

福の神「えびす様」の総本社として、全国から遍く崇敬を集めている西宮神社は、銘酒の産地として名高い灘五郷の一つである西宮市の 中央に鎮座し、その地名の由来ともなっています。
御創建の年代は明らかではありませんが、平安時代には「えびす」の名が見えるほか、鎌倉時代には、既に 十日えびすの祭典を厳粛に行われていました。
室町時代になると七福神信仰によってえびす様が福の神の代表となり、桃山時代には豊臣秀頼、江戸時代には四代将軍徳川家綱により 社殿の御造営がなされました。
現今では一月十日を中心に九日からの三日間は「十日えびす」として名高く全国から三日間で百万人を超す参拝者で賑わいます。 (西宮えびすHPより)

人波に揉まれながら、表門から入場する。
今朝の6時にこの門から、たくさんの人が福男を目指して、本殿まで駆け抜けたのだ。
参拝者が 多く、境内の露店を見ながら本殿に向かうと、本殿の前に長い行列があり、何かと最終列の看板を見ると「奉納・鮪」にお賽銭を貼り付ける ための列なのが分かる。パスして 本殿に今日の無事に感謝し、これからの「山陽道」の安全を願って礼拝する。
「奉納・鮪」が見られたので、覗き込むと鮪の体にたくさんのお賽銭が貼られている。千円札やドル札も貼られ、福を願っているのだ。
お札を求め、「十日戎」の雰囲気を満喫した満足感一杯で、混雑した境内から駅に向かう。(17:45)

福笹売り

西宮神社・表門 境内の賑わい

奉納・鮪 本殿



「西国街道5」の「紀行スライドショー」

JR西宮駅前で、昔、高槻にあった居酒屋チェーンの店を発見し、懐かしく乾杯する。
高槻から西宮までとは、地元の人間として土地勘もあるので、よく歩いたと感嘆する。足は少し疲れたが、完歩出来、嬉しい限りだ。 次回は、「伊勢本街道」を一緒に歩いた友人と大阪・「里程元標跡」からここ「西宮神社」までの「中国街道」で結び、「伊勢神宮」 から「山陽道」と接続させたい。
今回の歩行は34.6km、63000歩だった。






    
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