○ 「東高野街道No2」見聞録 

1.野崎〜古市
 2004.05.03 06:50〜13:40 晴れ時々曇り

前回に引き続き「東高野街道」にトライする。天気予報では夕方から雨模様とのことなので出発を 早め、5時過ぎに家を出て大阪・京橋で乗り換えて野崎着6:50。
「野崎観音」は丁度「野崎参り」のお祭りの期間で、参道には開店前の出店がびっしりと並んでいる。 昼間から夜は賑やかだろうと想像しながら、R170を越えて「野崎観音」の入口まで上り、スタートする。

国道から一筋山側の旧道は車も少なく、朝の散歩をする方と挨拶を交わしながら進む。所々に古い 「道しるべ」が立ち古道の面影を残している。「一里松跡」を過ぎる頃から「生駒山」のアンテナが はっきりと見えるようになった。

JR野崎駅

道しるべ

一里松跡


道沿いの喫茶店が開店していたので、モーニングサービスで一息入れる。(7:40) 出発してしばらくまださわやかな 朝の空気を楽しみながら歩き、「石切神社」の石碑と常夜灯を左折して神社に向かう。小学生の頃、 来たことはあるが記憶には残っておらず、開店準備の参道商店街を通り「鳥居」に至る。(8;10)
境内は20数人の方々が「お百度参り」で列をなして参拝されておりびっくり。「本殿」に参拝し「山門から 旧街道に戻る。

石切神社・鳥居

石切神社・本殿

石切神社・山門


近鉄東大阪線の高架手前に「石切藤地蔵」が花が終わった藤の新緑に包まれて祀られている。高架をくぐり 南下すると「枚岡神社鳥居」があるが、本殿には参拝せず歩を進める。半分地中に埋まった「道しるべ」や 「弘法大師祠」を見て、R170と合流し、瓢箪山の商店街を通り近鉄奈良線瓢箪山駅に到着する。(8:45)
駅前の案内板を見るが「東高野街道」のことは何も無く、商店街を進むと「稲荷神社」の鳥居があるが 本殿はパス。

石切藤地蔵 説明→

枚岡神社・鳥居 説明→

稲荷神社・鳥居 一里塚跡説明→


昨年秋、生駒へハイキングした時に下って来た道を通り過ぎ、「一里塚跡」「縄手遺跡」の標識や 「小楠公」碑を見ながら淡々と進む。「玉祖神社鳥居」を過ぎる頃から「信貴山」が近くに望まれ ケーブルの線路も識別できる。垣内の「一里塚跡」を過ぎ、四つ角に茅葺の旧家が立ち、その前に 「高野街道」と刻まれた「道しるべ」が「恩智神社・鳥居」と共に立っている。(10:30)

玉祖神社・鳥居 説明→

一里塚跡

高野街道・道しるべ 説明→


「恩智神社」の境内のきつい「石段」を上り、「本殿」に参拝する。境内には「お宮参り」をする ご家族が4組居られ、写真撮影に忙しい。境内で一服し、暑くなって来たのでTシャツ一枚になる。 天気は曇りから晴れになり、陽射しがきつい。

恩智神社・鳥居

恩智神社・石段

恩智神社・本殿 説明→


単調な旧道を車を避けながら歩くのは余りおもしろくなく危険だ。山並みを見られるのが安らぎだが 暑くなり・・・。「シュミイ地蔵」を過ぎ、近鉄大阪線安堂駅とJR関西線の高架を越えると大和川だ。 河原ではテントを張りバーベキューをやる家族や釣り人が連休を楽しんでいる。(11:35)
堤防を少し下り、この辺りではきれいな大和川の「新大和橋」を渡っていると鯉釣りの中学生に 大きな鯉がかかったが、途中でバラ してしまった。橋の上から「大きかったぞ」と云うと「逃げた魚は大きい・・・」と。二上山を見ながら 川を渡る。

シュミイ地蔵 説明→

新大和橋

新大和橋から二上山展望


川を渡って藤井寺市に入った堤防には「大和川付替えの碑」が立ち、堤防を下り、近鉄道明寺線の 高架をくぐる。この辺りから、サイトで調べていた道明寺付近の街道ウォーキングをガイドに進む。 これがなければ狭い集落の道は分からなかったと感謝する。
「大山咋(おおやまくい)神社」の樹齢数百年の楠を後に集落を進み、奈良時代の国府跡「国府(こふ) 遺跡」を眺め、うねうねと歩くと「国府八幡宮」の鳥居に至る。

大和川付替えの碑 説明→

大山咋(おおやまくい)神社 説明→

国府八幡宮


八幡宮の前の「東高野街道」を進むと長尾街道と交差し、近鉄の踏み切りを渡り「道明寺」に到着。 落着いた境内で一服する。菅原道真の号「道明」を寺の名前にしたそうだ。平安時代の十一面観音が 本尊で国宝だが見ることは出来なかった。
すぐそばの「道明寺天満宮」に参拝する。大きな境内には「お宮参り」の方が3組居られ、今日は日が 良いのだ・・・。(12:30)

道明寺・本堂 説明→

道明寺・山門 説明→

道明寺天満宮 説明→


天満宮から「旧土師寺・五重塔礎石跡」を通り、小道を入ると「西之宮神社」がある。境内の 「木げん樹」で作る数珠は功徳があるとか。小道の古い街並みを進むと、小さな「弘法大師腰掛石」 の祠がある。 お堂の中には大きな石が祀られ、弘法大師が高野山との往復に通ったことが偲ばれる。

旧土師寺・五重塔礎石跡

西之宮神社 説明→

弘法大師腰掛石


西名阪高速道路の高架下を過ぎ、街道から少し外れた所にある岩見重太郎の名で有名な「薄田隼人」の墓に 参拝し、「東高野街道」に戻る。
ここからは羽曳野市になり石畳の街道が行政の心意気を感じさせる。 この石畳に導かれるように進むと道角に新旧の「道しるべ」が立ち、「誉田(こんだ)八幡宮」の 白壁に沿って進む。
「誉田八幡宮」は欽明天皇の命で応神陵古墳の上に設けられた日本最古の八幡宮とか。又、この辺りは 大阪夏の陣の古戦場の遺跡もある。

薄田隼人の墓 説明→

誉田八幡宮・鳥居 古戦場説明→

誉田八幡宮・本殿 説明→


石畳を進むと「いせみち」「大峯道」と刻まれた「道しるべ」や「案内板」を見ながら進む。近鉄の踏切を渡ると 「古市代官所跡」の案内板がこの辺りが天領だったことを示している。百済の学者、王仁(わに)を祀る 「西琳寺」を過ぎると竹之内街道と交差し、大きな「大和路・道しるべ」を見て「日本武尊(やまとたけるのみこと)」 と「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」を祀る古市の氏神である「白鳥神社」に至る。

案内板 説明→

西琳寺 説明→

白鳥神社・本殿


神社の裏側が近鉄古市駅で13時40分になっていたので、昼食場所を探すと「大将」があり、定食とビールで乾杯!! 店のマスターと野崎から歩いて来たと話すとビックリしておられた。
近鉄で阿部野橋に出て、環状線で大阪経由で帰る。
ここで大変なことになった。東海道線でガイドブックを見ようとリュックを開けると無い。「中辺路」を 歩いている時、本を持って歩くと汗と雨でボロボロになったので、100均で透明の手提げケースを見つけ、 そこにガイドブック等入れると透明なので外からも見ることが出来、愛用していた。
そのケースごと無い。「大将」で忘れたと思い帰って・・・・

今回の紀行は飯盛山・生駒山・信貴山の山裾を北河内から中河内への歩行だった。「山の根の道」とも 呼ばれているそうだ。古代の大阪平野はまだ泥田状態で、この山沿いの道が高野山とのルートだった のであろう。
国道筋の歩行で単調だった。しかし、大和川を渡ってからの古市は一変して歴史が一杯の街だった。 良いサイトを見つけることが出来、スムースに進むことが出来た。感謝!!
「東高野街道」も2/3を進むことが出来、次は河内長野まで進み、「高野街道」で先に進むこととする。

HPを作成しようとしたが、ガイドブック、メモが無くなっているので困った。帰宅後すぐに「王将」の 所在地を調べ電話するが無いとのこと。近鉄にも問い合わすがダメ。
今回、ディジカメと記憶に頼って作成したので、勘違いもあるかも。又、時刻メモが無いので途中の 時間が分からない。
ガイドブックやメモは仕方ないが、今までの「朱印帳」を無くしたのは残念。これからの警鐘としよう。

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3日間不在していたので、HPの作成を中断していた。帰宅すると電話があり、透明手提げケースが見つかった。 「王将」の女将さんからの電話で、何度も連絡いただいたそうだ。当日、電話したと話すと「王将」は 「京都・王将」と「大阪・王将」があるそうで、小生は「京都・大将」の方に電話したので無いとのことだった。
「大阪・王将」の女将さんが「朱印帳」に書いていた住所・氏名から調べて、電話していただいたとのこと。 次回、古市からスタートするのでそれまで保管してもらうことにし、一安心。ありがとうございました!!









    
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