○ 「中山道No13」見聞録(寝覚ノ床〜福島宿)・(距離 11.5km/ 260.2km/ 272.8km)
13−1.寝覚ノ床〜(37)福島宿・(11.5km) 2009.12:10 11:15〜15:00 晴れ時々曇り
夏に「中山道」紀行をしてから数か月経過し、少し忘れかけている状態なので、冬の「青春18きっぷ」の発売を待ちかねたように、 発売初日に実行することにした。 昨年の冬は紀行しなかったので、冬の「中山道」は初めてだが、まだ雪も降っていないので道中は安心だ。天気予報も 関西は雨になりそうだが、木曽は晴れ時々曇りなので、実施するのに問題はなさそうだ。 2番電車でも良いが、名古屋で余裕を持たすために始発電車で出発することにし、4時30分に家を出る。まだ真っ暗で外気は冷たい。 5時発の始発は「18キッパー」の姿も見られず、ガラガラの状態で京都へ。米原行も空いている。ウトウトしながら米原に到着する頃に 空が明るくなった。冬至に近付いて夜明けが遅いため、いつも写真を写している近江平野も真っ暗で写せなかった。
平日は名古屋までの直通列車なので、ゆっくりと過ごせる。朝日を浴び出した伊吹山の雄姿を写した後、ぐっすりと眠り、 目覚めると電車は通勤客で満員の状態だ。前回は土曜日のため大垣乗換えで、ウトウトする間もなく睡眠不足で、暑さに参ってしまった のを思い出す。 名古屋に到着し、余裕を持ってホームの蕎麦屋に入り、メニューをみると「きしめん」が主流で蕎麦・うどんは脇に置かれている。 「月見きしめん」を注文して、お腹を満たす。出汁は関西風の薄い色で美味しかった。うどん文化・きしめん文化そして東に 行くに連れ蕎麦文化と変わって行くのだ。 中央本線の8時31分発中津川行快速も空いていて、今日の行程を再確認した後、ウトウトと揺れに任せる。9時44分に中津川に到着し、 10時10分発の松本行に乗換え、車窓から今までに通った行程を確認しながら、当時の光景を思い出す。 木曽川の流れ、国道19号線に並行して進み、11時02分に上松駅に到着する。
「熊野古道・伊勢路」紀行時も熊野市に到着したのが、 12時を過ぎていたので、まだ大丈夫だと納得させる。 上松は「木曽檜の里」と呼ばれる程の木曽檜の産地だと。 駅前からタクシーで前回暑さと熱中症気味でリタイアした「寝覚ノ床」まで戻る。 前回は「上松(あげまつ)宿」まで歩き、この駅から帰宅する予定だったが、後2kmなのにリタイアしてしまったのだ。 前回、蕎麦を食べた「越前屋」の横の坂道を上り、「寝覚立場」の茶屋本陣で最近まで民宿を営んでいた「たせや」に戻り、前回の 最終場所から「中山道」紀行を出発する。(11:15') 天気予報では晴れだったが、薄曇りの暖かい気候の中、国道から離れた静かな道を東に進む。 道脇に「二十三所観世音」碑が立ち、旧街道の雰囲気が漂う。誰にも会わない道を進むと 国道19号線がトンネルに入る所の上を緩やかに上って行く。中沢橋を渡り進むと古い「庚申塔」碑が立ち、少し進んだ所に上松の 鎮守の神様と云われる「諏訪神社の鳥居」が迎えてくれる。本殿までは行かずにそのまま歩行を続ける。 「尾張藩・上松材木役所跡」の碑が立つ所はさすが「木曽檜の里・上松」だと。少し歩いた丈なのに暑くなり、ジャンパーを脱ぎ セーター姿で歩む。
右手の丘の上に「上松小学校」が現れる。静かな環境の中で、レンガ造りの校舎が建ち素敵な学校だ。その校門の横に「藤村文学碑」が 静かに立っている。『山は静かにして性をやしない、水は動いて情をなぐさむ』と刻まれていると。
広い道をを左折すると「上松駅」に至るが直進し、しばらく進んだ角が枡形になっており、右折して旧街道に入る。 緩い坂の角に 「本町一里塚跡」の碑が立っている。「京へ65里、江戸より72里」と中間地点に近付いたことが分かる。 説明文を読んでいると、東から同好の士が来られ挨拶する。大阪・生野の方で江戸から歩いておられるそうだ。大阪の人と会えるとは 思ってもいなかったと交歓する。やはり、同じ思いを持つ方と出会うのは嬉しいものだ。頑張りましょうとお別れする。
帰宅して、先達の紀行記でそれらしき建物を確認した次第だ。 上松町は「本町一里塚跡」等の説明文はしっかりしていたのだが、この辺りに説明板があればもっと良かったのに残念だ。 写真を撮っていたので、「本陣跡」「脇本陣跡」らしき家を確認できたが、それ以外に街道筋で気付いたのは可愛い石像だ。 「夫婦道祖神と水速女命」と刻まれた石塔が立っている。貴族の衣装を着た夫婦は可愛い。横の水速女命(みずはやめのみこと)は 水の女神だそうで、今までに出会ったことはないと思う。 静かな落ち着いた道を進むと右側の奥に「玉林院」が建っているので、寄り道する。境内には立派な「山門鐘楼」が火災を免れて 堂々と建っている。「上松宿」在郷の人々が協力して完成させた鐘楼だそうだ。 再び旧街道を進むと数度の火災で宿の大半を失った中で、奇跡的に残った「上町の街並み」に出会う。静かな街並みが下り坂に 沿って立ち並び、「上松宿」の風情を残している。
さあ、ここからの進み方が問題で、前日・車中と考えていた。 ガイドブックの正規のルートは木曽川の左岸を通って「木曽の桟(かけはし)跡」 に向かうが、 このルートは「平成の木曽の桟」とも云われる「中山道」紀行者の難所だと。 先達が歩行には気を付けろと忠告されていた。何故か! ここからは国道19号線を進むのだが、200m程は歩道がない道で、トラックがビュンビュン飛ばす横を歩かねばならないのだ。 一方、前回「上松観光協会」で入手して案内地図によれば、危険なので対岸の自然歩道を通るようにと忠告されていた。 「熊野古道」紀行時も、国道歩きでは苦労した。歩道のない国道では、トラックの通過する風圧で帽子を吹き飛ばされたこともあり、 国道歩きは大嫌いで避けれることが出来れば、避けたいと思っていた。
しばらくは車も通らない道を進むが、国道19号線がトンネルから出て来た所から、R19に合流する。 JRの高架下を抜けた辺りから歩道はなくなり、車がフルスピードで走る横を帽子を脱いで、進む。車が来ない間に写真を写すが、傍まで 来た時には写すことは出来ない状態だ。 やっとのことで、木曽川沿いに歩道が設けられているのを確認して、車が通らない間に急いで渡り、一安心する次第だ。 さすが、先達が「平成の木曽の桟」と云われた危険地帯だった。 木曽川の流れを眺めながら、余裕を持って進む。国道歩きは好きではないが、歩道があると安心だ。川風を浴びながら進むと前方に 赤い鉄橋が見えてくる。あの鉄橋辺りが「木曽の桟跡」だと歩を速める。
木曽の桟は、改修以前の姿が難所として知れ渡ったことから数々の古歌に詠まれており、建立された句碑も残っています。 「浪と見る雲を分けてぞ漕ぎ渡る 木曽の桟底も見えねば」 西 行 「桟や いのちをからむ 蔦かづら」 松尾芭蕉 (上松観光協会HPより) 歩きながら「木曽の桟跡」を眺めようとするが分からない。赤い鉄橋まで来て、その橋を渡る橋の上から国道の下に立派な石組が 設けられているのが見られる。 これが「木曽の桟跡」なのだ。少し淀んだ川面に「木曽の桟跡」が映っているのが印象的だ。
橋を渡った所に温泉があり、昼食も出来そうなので、 昼時で少し空腹にもなってきたため訪れるが人気がなくパスする。 もう一度橋の上から、この石組の前には木組の「木曽の桟」がかけられていたのだと想像する。木組の桟を設けるのも大変だろうと 想像する。 これに比べれば今まで歩いて来た「平成の木曽の桟」の危険度は大したことはないと思った次第だ。 古人は「中山道」を命がけで歩いたのだろうと。 「寝覚ノ床〜福島宿@」の「紀行スライドショー」 橋を渡り、国道の歩道を木曽川に沿って進む、しばらく国道を進むと右側に分かれる小道が現れるので国道から旧道に入ると すぐに「沓掛一里塚碑」が立つ。「京へ66里、江戸より71里」と段々と中間地点に近付いている。 坂を上ったJRの線路脇の丘の上に「沓掛観音堂」の祠が静かに建っている。観音堂の周辺には「馬頭観音」が祀られ、頭の欠けた 観音像もあるほど古いものだ。 説明文を読むとなかなか面白い逸話が載っている。木曽義仲と名馬の逸話は木曽義仲の名馬への愛情を感じさせるもので、 「馬頭観音」がたくさん祀られた理由が分かる。 ここで一息入れ、持参したクラッカー・饅頭を昼食代わりに食べる。(12:50-13:00)
R中央本線の横の地道を進む。やはり国道や舗装道路に比べると地道は歩き易いし気分も良い。しかし、その区間は短く、坂を下って 再び国道に合流する。
少し国道を歩き、再び旧道に入り、JRの高架下を抜けて坂道を上って行く。 木曽川・国道・JRを見下ろす旧道を進む。視界が開け気分爽快だ。青空がなくなって、曇り空になって来たのは残念だが、解放感ある 光景は疲れを忘れさせる。 この辺りから「木曽御嶽山」が望めるとのことで目を凝らせて曇り空の山間を探すと雪を頂く山肌を見つけるが、頂上までは 見られず、カメラでは写らない。青空であれば・・・と残念至極だ。 旧道は両側に檜が生い茂った森の中を進むと石段があり、丘の上には「御嶽山遥拝所」の大きな石の鳥居が立っている。説明文によれば 御嶽山の遥拝所は東西南北4ケ所あり、ここは南からの遥拝所だと。ここからは御嶽山は見えず、遥拝は出来ない。何故、こん場所に 設けられたのだろうか?と。 坂道を下って進むと珍しいものに遭遇する。まだ雪は降っていないが、積雪時の対応のため除雪車がスタンバイしている。さすが、雪国・ 信州だ。JRの高架下を抜けて再び国道に合流する。
歩道はあるが、車の往来が激しい国道をしばらく進む。
JRはこの山の下をトンネルで通過しているのだ。しばらく進むと前方にトンネルの入口が見えて来る。 このトンネルは明治43年中央線開通時に作られたトンネルだそうで、現在は別のルートになり、旧街道のルートとして引き継がれている。 本来の「旧中山道」はこの山を迂回するように設けられていたそうだ。 旧JRのトンネルを抜けるのは廃道探索などであるが、こんな機会が訪れると思っていなかった。 トンネル内は照明があるものの薄暗く、 時々水滴が落ちてくるが、あの懐かしい煤煙の臭いはない。 約200m位のトンネルを抜けると頭上に国道19号線が走っている。 その下を抜けて進むと道脇に「道祖神」が祀られている。 この辺りは木曽川からの標高が高く、下に木曽川の流れとダムが望まれる。木曽福島は「谷底の町」と云われる兆しが見える感じだ。 旧国道に合流し、少し進んだ日産自動車販売所の横の細道から旧道に入る。坂道を上る途中に「二十三夜碑」が立ち、 その先に「塩渕一里塚碑」が「江戸より70里、京へ67里」と示している。中間地点までカウントダウンだ。
落ち着いた「塩渕の集落」には、中山道を馬の背に塩を載せて運んでいたところ、その馬が木曽川の渕に転落して塩をまいて 停まった所から塩渕の地名が付いたとの逸話があるそうだ。 これから進む「塩尻宿」辺りは「塩の道」と云われる日本海から太平洋に抜ける道があるらしいので、山国には塩に関連する 話が多くなるのだろうか? 細い道を上って行くと段々と高度が高くなり、木曽福島の町が下に見えて来る。本当に「谷底の町」なのを実感する。上り 切った所がJR木曽福島駅で、立派な駅舎が迎えてくれる。(14:40)
計画では、ここまででもう少し時間がかかるのではと考えていたが、この時間では次の「宮ノ越宿」まで7kmは行けないので、「福島宿」を 下見して行こうと考えた。
木曽川沿いに並ぶのは「崖屋造り」の家々。川にせり出したように家が立ち並びます。これは、床を張り出すことで木曽谷のような 狭い土地を有効に使おうという、先人達の暮らしの知恵から生まれた光景です。近くには木曽川親水公園があり、川のすぐそばまで 下りて家並みを見られるようになっています。足湯もあるので、ゆっくりとくつろぎながら木曽川のせせらぎを感じてみてください。 (信州LiveonHPより) 狭い土地を有効活用する知恵は感じられるが、家の中から木曽川を覗き込んだ気分はどうだろうかと。 「崖屋造り」の家々の前を通るが、表から見ると普通の民家・商家と変わらない。 広場がありそこには足湯が設けられているが、 木の蓋で覆われている。蓋を開けて入って良いのか分からないのでパスする。 木曽福島で食事(夕食)をしておかないと乗換え途中では出来ない。その時間と列車の時刻を計るともう少し余裕があるので、駆け足で 「福島関所跡」の見学に向かう。 木曽川沿いの道を進み、「福島関所跡」に行き、写真を撮って急いで駅に戻る。細部の見学は次回に譲ることにする。 駅前の食堂に入り、列車の時刻までビールで乾杯し、珍しい地元の茸(名前忘れた)や珍味を肴に芋焼酎で体を温める。ご主人にお薦めの 食事はと尋ねるとソースカツ丼とのことで、久し振りにソース味のカツ丼を食べ、駅に急ぐ。
「寝覚ノ床〜福島宿A」の「紀行スライドショー」 15時49分発の中津川行は学生で混んではいたが、座ることが出来、気持ち良く今日歩いた道を見ながら戻る。追い越す特急の遅れで 中津川到着は遅れたが、快速に乗換え、ウトウトとしながら金山へ。遅れのため、東海道本線の予定列車には乗れず、大垣乗換えで 米原へ。接続時間が長くなり、高槻に到着したのは22時前となった。今回の歩行歩数は24600歩と往復時間がかかったので、実質の 紀行時間は短かった。 冬の「青春18きっぷ」発売と同時に実施した「中山道」紀行も13回目となったが、まだ中間地点に到達していない。次回はその 江戸と京都の中間地点に到達し、「宮ノ越宿」までは行けるだろう。雪の積もった「中山道」を経験するのも悪くはないと思う所だ。 さあ、年内に実行出来るか・・・!? (工事中)
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